創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

創価学会を斬る-62

2021-02-28 09:38:39 | Weblog

      --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.196)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする 
10 公明党の目指す政治体制は何か
 ◆ 「完全中立」という虚像 
 ◆ 政党政治をなんとみているか   (~以上、前掲 P.266~)
◆ 低迷するイギリス経済を範にするのか
 さらに経済体制でも、「イギスリの混合経済型」を充実、発展させたものを考えているが、いうまでもなくイギリス経済はいまやかっての面影はなく、むしろ西ドイツ、日本に脅威すら感じている状態である。公明党は、こうしたイギリス経済を範にするというのか、イギリス経済体制の吸収をはかり、それに北欧の福祉政策を加味したりして、これらの変型ともいうべき第三の経済体制を確立しょうとしているが、これとてもかって政策盗用として民社研あたりから文句をいわれたように、他国の経済体制に毛をはやそうとするチャチな発想といえなくもない。

 公明党らしい言い方は「大衆福祉」とか「福祉経済」ということだが、たとえば「私有財産制については『絶対不可侵』とも考えず、また『全廃』を意図するものでもない。『原則として』生産手段の私的所有は差しつかえないと考えるものである。しかし『私有には義務がともなうべきである』」(公明党政策局『福祉経済への道』)といったアアでもない、コウでもない式の折衷にすぎないもののよせ集めが「福祉経済体制」なのである。
 それをさも新鮮なようにいってるだけである。それは大企業の役割りを一方で認めながら、他方では大企業と中小企業の共栄をはかるなどといったり、社会福祉や分配の平等化を主張したりしているようなところにも現われており、資本主義と社会主義にケチをつけながら、あちこちのよさそうなところをつまみぐいしているだけのことともいえよう。
 池田会長はこの「福祉経済体制」を「形態的には、たとえばイギリスの混合経済をさらに充実し、発展せしめたもの」(西島・前掲書)といっているが、公明党のかかげているものは「混合」ではなくよせ集めのキリハリ細工のような「混濁経済」といえるだろう。

 ともあれ、公明党の考え方の一つにイギリス至上主義的な流れがある。さきにみた議会政治に対する考え方にしろ、イギリスを絶対化し、そこにあるものはなんでもいいんだとして、これを混合的に導人しようとしている。経済についても、ある程度まではそういえるであろう。
 もっとも、率直にいって公明党には経済をやれる人間がいないようであるから、それもまたムリからぬことかもしれない。しかしそれにしても現在の低迷するイギリス経済を掘り出してみたところで、果たしてわが国が範とするものがあるかどうか、これに対し彼等はなんと答えるのか、そうしたことを曖昧にしておいて、ただ福祉経済体制だけ標榜して、それで公明党のいうような総花的政策が実現できるとでもいうのであろうか。

 それにしても思い出すのは、かっての江田ビジョンである。江田ビジョンなるものは、生活水準はアメリカ、社会福祉はソ連、議会政治はイギリス、憲法は日本の平和憲法でというものであり、私はこれを四色アイスクリームと称したことがあるが、公明党にもまさにこうした甘さと粉飾がある。
 要するにユートピアの対象の一つをイギリスに求め、そこにあるものはなんでもいいものとしてこれをとり入れる。そのためには現在、イギリス経済が斜陽にあろうが、その背景がどうあろうが、いっこうに気にしないという非現実性がある。実に甘い幻想をいだいているといわざるをえないということである。

◆ 実現できる政策を説け
 これまでみてきたように公明党の政治姿勢は、現体制に、かたちのうえでは挑戦し、あたかも変革者になろうとする態度にみえるが、これはその保守的体質をべールにつつむための一種のジェスチヤーとみられなくもない。つまり現代日本の現象面については、とかくの批判をあびせているが、その本質、たとえば自由に対する考え方、自由に対する価値観といったものがあまり表面にでてきていない。このことに、この政党を考えるうえに注目してよい最も重要なポイントがある。いやしくも建前のうえでは公党でありながら、こうした人間本来の根源的欲求ともいうべき“自由”に対する理念あるいは倫理感、評価といったものを表面にあまり出してきていないということは、この政党の評価そのものにもつながってこよう。自由に対する理念がでてこないのは妥協を許さない日蓮正宗の教義を金科玉条とする政党の当然の帰結であり、したがつて公明党は自由に挑戦し、自由を否定しようとすらするのである。

 ともあれ、公明党は創価学会という単一宗教に基盤をおいた宗教政党であり、今後も、その本質は変わらないであろう。
 宗教政党は、元来、保守的体質をもちながらも理想主義的な傾向を強くもつものであるといわれている。
 また、宗教政党である以上ヒューマニズムを標榜するのは当然であり、平和主義に徹するのもこれまた至極当然といわねばならない。
 ただ、公明党で注意しなければならないのは、現世利益への執着が強いことから、仮に公明党が多数を制した場合--私は絶対にないと思うし、またあってはならないと考えるが--どう変化するかということである。
 この点については、第二部のところでも若干ふれておいたが、考えられることは、政権に近づくことによっていっそう権勢欲をあらわにすることだろうということである。また、彼等の状況即応の理論からみても、理想主義がいつ現実主義に早変わりするか、絶対平和主義がいつ好戦主義に豹変するかわからないということである。

 公明党には常に不確定な要素がつきまとっており、池田会長がどんなに立派な卓説を並べよとも、それを額面どおり受け取りかねるのである。
 公明党の政策は書かれている限りでは、いうなれば書生の書いた模範的論文とでもいえる。
 しかも、そこには心情倫理が常に優位先行している。それは一見理想主義、平和主義の方向にあるようにみえる。しかし、その言動はハッタリが強く、人を戸惑わすだけの右顧左べん型あるいは臆病な八方美人型にすぎないものである。実現性はきわめて乏しいといえよう。
     ----------(つづく)---------270 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-61

2021-02-27 08:45:38 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.196)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする 
10 公明党の目指す政治体制は何か
 ◆ 「完全中立」という虚像  
 ◆ 政党政治をなんとみているか-1 (~以上、前掲 P.262~)
◆ 政党政治をなんとみているか-2
 まことに優等生の模範答案のように、ソツがない。おそらく池田会長が日本の小学校や中学校の教科書、あるいは月並みな議会政治、民主政治論をある程度読んで、そういうところからイギリス型の議会政治を、江田ビジョンではないけれども金科玉条のごとく考えたのであろう。日本の議会政治、政党政治をイギリス型にさえすれぱ、それが模範的なものであるという考え方がそのままでている一種の模範答案であるということがいえるわけである。

 今日の日本の議会政治、政党政治を、イギリス議会政治と比べた場合、たしかに一八世紀型のそれと全く同じであることは、タイムズの記者の日本批評の一つの表現であり、かなり前に私自身も引用したことがあるが、イギリスの議会政治にしても、いまやかなり異なった観点から検討しなければならない段階にきているのである。
 私はイギリスを数回訪問した経験があるが、かって7つの海を支配し、世界の覇者として、世界中に植民地をもち、そして植民地の富を集めて裕々とやっていたいわゆる大英帝国時の議会政治、政党政治のルールをもって、今後も議会民主政治、政党政治のルールとして金科玉条のごとくいえるかどうか、それ以上のものは果たしてないのかどうか、多くの疑問が残らざるをえないということである。
 現に、最近のイギリスの議会政治はちっともうまくいっておらず、二大政党といってもどれだけの機能をあげているのか、多くの疑問がある。斜陽化したイギリスの社会体制、経済体制を、現在の二大政党制が果たして起死回生しうるかどうか、二大政党がそれだけの指導性を発揮できるかどうか、という点についても多くの疑問がある。

 ただ、池田会長の指摘をまつまでもなく、現在の日本政治は私がかって『保守独裁論』のなかでも書いたように自民党の一党独裁政治、保守独裁体制であるということは厳然たる事実である。二大政党といっても名ばかりであり、三分の一の壁を破れない日本社会党に象徴されるように、日本の野党の力足らずということが、保守独裁をむしろ逆の意味で支えているという側面をもっていることも事実である。
 その意味においては、日本の政治における自民党一党独裁型をどのようにして打破してゆくかということがーつの大きな問題点であろう。一党独裁型が続いているということから、自民党の病理もでてきており、非生産的な無能力をさらけだすということにもなるのである。しかし、そうした自民党も理念への欲求だけは一人前で、やれ「新らしい保守主義」とか、あるいは「進歩的保守主義」「新保守主義の哲学」「秩序ある進歩」などを標榜するけれども、そういうものを裏打ちするだけの内容をもっていない政党であることは事実であり、自民党は「政権担当株式会社」であるという表現を私がとったのも、その意味においてである。
 こうした理念欲求の過剰と不断の欲求不満は、現在の自民党の一つの“精神病理”ともなっており、上は総裁から下は陣笠代議士にいたるまで、主観的にはなんらかの“安心立命”の境地を求めてやまないという零落した精神状況になっている。また絶対多数をもちながら、政治行動についても自信を欠いているのである。しかし、自民党をしてこのようにさせた一つの原因は社会党等の野党にあるといえるだろう。

 では公明党が政権をとったなら、一党独裁を打破し、三大政党並立型となって民主政治がうまくいくのかどうか、ここに多くの問題があるといわなければならない。公明党はイギリス議会政治を範とするというだけであって、公明党が加われば、そういうイギリス型の議会政党政治になるのかならないのか。公明党は弁解がましく一党独裁の意思はないというようなことをいっているにすぎない。公明党はいったいどういうような政党政治を目指しているのか、二大政党の一郭を占めるのか、それとも保守対革新というような形の一郭になるのか、自民党が政権の座をおりれば、野党連合ができることになるのか、こうした問題についてはほとんど答えていないのである。

 イギリス議会政治をあたかもモデルのようにして、政党政治観を展開しているということ自体が、私にいわせれば、創価学会・公明党の一種の政党政治観のベールにすぎず、それは仮面であって腹で考えているものとはぜんぜん違うということを示すものなのだ。他国をモデルにして、それで済ますということこそが表裏あいことなることを示す典型なのである。
 かってのナチスも一党独裁になるまでは、合法的手段を日常的に展開し、党勢拡大をはかり、過半数をうるやたちまちにして実質的に一党独裁体制を布いたわけであるが、それまでの過程においては「わが党は独裁制をとる」と標榜したことはなかった。
 たとえ「独裁」を考えており、本質的に独裁制を内包する政党といえども、それを声を大にして叫ぶバカはいないのである。
 そういう意味において、公明党がイギリス型議会政治を標榜するのみで、将来それをどういう形態にもっていこうとしているのか、未来をどう展開していこうとするのか、そういう点を明確にしていないだけに多くの疑問が残るのである。

 こういうナチ型の一党独裁は、現在の自民党独裁とは格が違うとみなければならない。自民党についてはそれほど弁護できないが、それにしてもこれだけ政権を担当しながら、政権のファッショ的独裁的固定化をはかろうとしているとはいえない。したがって自民党をファシズム勢力だとはいえないのである。しかしこれにかわってでてくる公明党の政党政治というものは、勢力が伸長した場合、現在の自民党の保守独裁以上に公明党独裁政権にならないですむか、問題であろう。たんなる池田会長の片々たる社交辞令的表現で信じるわけにはいかないのである。
 なぜかというならば、私がこれまで再三強調してきたように、日蓮正宗の性格、創価学会を背後にもつ公明党の性格、宗教政党としての持異性等々は、世界どこを見まわしても議会制民主政治をとっている政党のなかでは存在しない政治勢力だからである。
 こうした政党が、いくらイギリス議会政治をいってみても、一種の創価学会的“お経”にすぎないといわれても仕方ないのではなかろうか。そういう疑念が依然として残るのである。
     ----------(つづく)---------266

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-60

2021-02-27 08:34:25 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.196)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする 
10 公明党の目指す政治体制は何か
 ◆ 「完全中立」という虚像  (~以上、前掲 P.260~)
◆ 政党政治をなんとみているか-1
  公明党は結党後まだ五年そこそこであるとはいうものの、政治理念とか、特に政党政治に対する基本的なものの考え方については、発表されたものをいろいろ検討してみるが、どうもはっきりしないというのがぬぐいきれない印象なのである。
 ただ、おぼろげながら、池田会長の次のような言葉の中から、おおよその狙いとするところはつかむことができる。すなわち、一九六七年一月六日、東京・九段の日本武道館で行なわれた臨時大幹部会の席上で述べられた次のような政党政治に対する考え方である。

 「…公明党がめざす政党政治のありかたは、どうなるのかということについて、ふれておきたい。現在の日本の政党政治とイギリス等にみる政党政治を比較すると、型こそ似ているが、根底において異なる点がたくさんある。それは保守党と労働党の二大政党が対立し合っているが、保守党が行き詰まれぱ、労働党が代わって政権をとる。労働党が行き詰まると、保守党がつぎの選挙で勝利を収めるというように、絶えず政権の交代が行なわれている。
 第二次世界大戦に対し、イギリスを国難から救った、かの有名なチャーチルといえども、大宰相といえども、戦後の荒廃からの復興において、適切でないと国民から判断されると、アトリーの労働党に政権を譲っている。また、譲らねばならなくなっている。だがその後、保守党は社会福祉の強化など新政策を取り入れて、それを国民に訴え、政権を奪回している。

 これら政権交代の底流にあるものは、イギリス国民の鋭い政治感覚である。しかるに、わが国においては、いまだ、封建的な因習による、無気力と利己心と無関心におおわれて、国民の間に建全な政治意識が育っていない。このことは、残念ながら見のがすことのできない欠陥であるといえよう。
 ゆえに、わが国では、自民党はなんの理念がなくとも、いかなる不祥事件を起こそうとも、安閑として政権の座にすわりつづけていくことができる。これでは先進国とはいえず、まさしく“十八世紀の政治”といわれてもやむをえない。私は全学会員一人一人が、仏法哲学をもった庶民であり、政治、社会に疑惑をもった庶民であり、指導者となって、日本の民衆を無気力と無関心から、目ざめさせる大啓蒙運動を展開していっていただきたいと思う。

 相違点の第二は、イギリス等の二大政党は、内政問題でどんなに対立しておろうとも、こと外交問題になると、つねに国の利益と名誉を守るために、結束しているという点である。残念ながら、わが国の自民、社会の二大政党には、この国民的利益、国民的合意というべき基礎がない。巨視観をもった政治家がいない。あまりにも神経質であり、ずる過ぎる。彼らの判断の基隼は、目先きの党利党略であり、さらに私利私欲であって、そのためには、日本の国を売ることすらも辞さないように思われてならない。

 われわれの目ざすものは、かのイギリスの議会政治の姿を、日本国に適合させていく、その国民政治意識の啓発である。それにささえられて、明朗な議会政洽、そして国民合意に立った、真の攻党政治を実現したいと思うものである。その第一段階として、私は現在の実質的には一党独裁のごとき二大政党制を打ち波り、公明党が進出することによって、三大政党制となることが必要であると考えている。そうなれば、保守、革新の行き過ぎも、まず是正することができると思う。(赤文字・引用者)(西島久『公明党』による) 
        ----------(つづく)---------262

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-59

2021-02-26 09:57:29 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.196)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする 
10 公明党の目指す政治体制は何か
 ◆ 「完全中立」という虚像-1  (~以上、前掲 P.256~)
◆ 「完全中立」という虚像-2
 傍点の部分からも察せられるように国連中心の普遍的な集団安全保障体制の確立をねらいながら、その第一歩として「完全中立」を考えたというようなかたちになっている。つまり、安保解消-完全中立-国連中心の普遍的な集団安全保障体制の確立、といぅ政治路線を志向しているわけである。
 そして「完全中立」政策は、いかなる戦争の当事者ともならず、いかなる紛争のどちらにも加担せず、いかなる軍事同盟にも加盟しないで、常に諸国と等距離の立場を堅持するということのようである。

   では、具体的にはどんな政策をとるのか。それは以下のように要約される。
 ① 中立政策を貫く意思の堅持=戦争及びこれに類する武力的紛争への不介入、不援助。
   一切の膨張主義政策の排除。軍事同盟への不参加、さしあたっては、日米安保体制の
  段階的解消。
 ② 関係諸国に対する配慮=他国に日本を脅威と感ぜしめないこと。他国に日本攻撃の口実を
  与えないこと。 他国に日本攻撃の不利益性を公知せしめること。
 ③ 中立政策実現のための保障=アジア・太平洋不可侵、不干渉の国際環境の樹立。
  日中国交正常化。 国連アジア本部を東京に設置す る等のほか、国連の改組強化
  を促進する。完全中立実現のときには、 近隣諸国を脅威しない程度の、必要最少限の
  自衛能力の保持はやむをえない。

 ミソともいえるところは、武装中立論の支持者も増えているためか、「完全中立」のために必要な最少限の自衛力を認めている点である。この主張からすれば、公明党は「憲法改悪」に反対なのだから、現憲法下でも自衛力を認めるということになろう。これは現在の自衛隊もまた認めるということにつながる。
 公明党の憲法解釈と自衛構想は矛盾していないか、その点は矢野書記長自身が苦慮しているところだ。

 次に「完全中立」はこれだけで可能だろうかといぅ問題がある。現在の国際環境はまことに厳しく、残念ながら平和は武力のバランスのうえに保たれていることは事実である。この中において、共産圏を除いて世界第二位の国民総生産をもつわが国が、そういう力関係の中にガッチリと組み込まれ、安保体制を通じてその一翼をになわされていることもまた冷厳なる現実といわなければならない。
 中立を強く押していけば、このバランスを崩すということになる。わが国の中立は固定した現在の勢力バランスをバラバラにする危険もまた十分もっているといわなければならない。また、日本が中立政策をとった場合、これまでの対米関係はいったいどうなるのであろうか。社会党、共産党の中立論は中ソへの傾斜となり、結果においてアメリカを敵にまわすことになるかもしれないが、公明党の中立論にしても、政治力学の具体的発展形態としては、ほとんどそれと同じことになるであろう。それをむしろ望んでいるのであろうか、そういう疑念が残るわけである。

 中立は、一片の中立通告や声明で保たれるものではない。むしろ国際的にはいま以上の厳しいさまざまな要求を強いられるであろう。これに耐えうるだけの施策と覚悟が公明党に果たしてあるのか。もし、ムード中立に便乗した「完全中立」というなら、これほど危険なものはない。
 ただいたずらに国際社会を攪乱するのみならず、わが国を破滅に導かないとも限らないからである。
 もちろん、苦難にみつるとも誇りある自国の進路を見いだそうとするのは、政治家たるものの使命であり、それを自党の政策の中におり込むのは当然としても、これまでの公明党の動きからして、そこには一抹の不安が残るということである。

 すなわち、公明党は、これまで自社両党の激しい政治的対立の中にあって、これの橋渡し、あるいはキャスティング・ボートを握ることによって、自党の政策をいくらかでもおり込もうと奔走してきた。弱小な第三勢力の戦術としてはこれまた当然であろうが、そうした功利性と政策の一貫性とはなかなか両立しがたいものなのだ。そのために政治理念を政策と行動に移すにあたり、重大な目標がかえって忘れられていくという皮肉なこともありうるのだ。
 そういう点において、公明党のもつさまざまな政策のなかでも、特にこの「完全中立」政策及びその言葉自体がもつ曖昧性は、公明党のあらゆる内外政策の基調にある曖昧性を典型的なかたちで代表しており、政権を担当して現実の国際政治に直面すれば、重大な目標がすっとんでしまう可能性もあるのだ。

 もっとも、「南無妙法蓮華経」政党であり、一種の宗教政党であるのだから、言葉と理想は高くかかげることに越したことはないというのかもしれない。またそれが実行できるかどうか、実行できる政治体制とはどのようなものかといった問題については、それほど責任ある回答をする必要がないと考えているのかもしれない。
 いずれにしてもこのような曖昧なかたちでしか発想できないこと、地球民族主義という言葉自体がそもそも示すような曖昧さ、それが公明党の中身の空虚さをこの上なく示しているように思われる。ただ大衆的次元にピントを合わせて「完全中立」「等距離中立」といった初歩的幾何学でいうような表現に逃げこんでいるに過ぎない、ともいえる。
     ----------(つづく)---------259

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創価学会を斬る-58

2021-02-25 05:52:56 | Weblog

   --いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
 創価学会・公明党による言論出版妨害事件を風化させてはならない
     (本文中の色文字・下線・太線=兼ブログ主編)


   <この日本をどうする 2> --言論出版妨害事件--
 創価学会を斬る 藤原弘達 著 日新報道出版部 昭和44年(1969年)
     --目次は第2回目に掲載--
    ------(P.196)---(以下、本文)-------

第三部 展望--その危険なる未来
 6 創価学会はどこまで伸びるか
 7 党勢拡大へのためのさまざまなる新組織
 8 強引きわまる公明党選挙作戦
 9 公明党の政治的主張を裸にする (~以上、前掲 P.251~)
10  公明党の目指す政治体制は何か
◆ 「完全中立」という虚像-1
 公明党の「安保」「沖縄」政策で示されたものを実現するためには、「完全中立」を目指さなければならないとし、公明党は国連による普遍的な安全保障体制が確立されるまでの中期的目標である「完全中立」の構想によって、さまざまの自党の外交上の諸政策を正当化している。
 たしかに戦後の日本国民の半数ほどは、次に掲げる世論調査にみられるように、中立支持ないし中立志向型を示していることは事実である。

 〔「毎日新聞」一九六八年一一月二五日朝刊〕
「日本の国を守るためにはどうしたらよいと思いますか」
  自銜隊と日米安保条約でよい  ---------------------- 三〇%

  自衛力を充実した中立がよい ---------------------- 三一%
  軍備を持たない中立がよい  ---------------------- 二五%
  ソ連や中国の側にたってこれと友好同盟条約を結ベばよい ---------  三%
  その他,無回答 ---------------------------- 一一%

 〔「読売新聞」一九六八年四月二二日朝刊(第二回調査結果〕〕
「日本の防衛政策について、いろいろある方法のうち、あなたはどれが一番よいと思いますか」
  日米安保条約で米軍に常時駐留してもらい、一方では自銜隊の整備につとめる--- 八%
  いざというときだけアメリカ軍にきてもらうように安保条約を改定し、国民の合意に
  よって自衛隊を再編成する ------------------------ 一五%
  当分は安保条約によるが、この条約はだんだん解消する。これにかわって国連の
  安全保障機能を強化していく ---------------------- 三三%
  安保条約を破棄、自衛隊を解散して、平和中立改策をとる。自衛権は保有する- 一三%
  無防備中立を宣言して、アメリカ、ソ連、中国と不可侵条約を結ぶ ?  ------ 九%
  その他 --------------------------------- 一%
  わからない、無回答 -------------------------- 二一%

 〔「読売新聞」一九六九年一月一日朝刊〕
「日本の安全を守るためには、どの方法が最もよいと思いますか」
  軍備にたよらず外交に重点 --------------------- 二八・六%
  日米安全保障体制を維持する -------------------- 一六・〇%
  軍備を強化する --------------------------  六・九%
  国連または地域集団安保体制 -------------------- 一七・七%
  その他 ------------------------------  一・三%
  わからない・無答 ------------------------- 二九・四%

 〔「朝日新聞」一九六九年一月五日朝刊〕
「日米安保条約は、一九七〇年に、十年の一応の期限がきて、そのあとは、日本がやめようといえば、その一年後にやめられる状態になります。あなたは、この条約を今後どうするのが一番よいと思いますか」
  十年延長、米軍に頼る -------------------------- 四%
  いつでもやめられる形で米軍に頼る ------------------- 一五%
  必要な時だけ米軍に来てもらうように改定 ---------------- 一三%
  機会をみてやめる方向へ ------------------------ 四二%
  やめる -------------------------------- 一二%
  その他・答えない---------------------------- 一四%
「日本の国を守るためには『アメリカに頼った方がよい』という意見と、『中立の立場を守った方がよい』という意見があります。あなたはどちらの意見に賛成ですか」
  アメリカに頼る ---------------------------- 二四%
  その他・答えない --------------------------- 一八%

 この傾向は、世界最初の原爆被災国、敗戦国民という国民感情として当然であり、大国のエゴイズムによる戦争に巻きこまれたくないというそれなりの姿勢をもっていることも否定できないところである。こういう傾向そのものに、公明党はある程度ペースを合わせているということはいえる。
 では彼等はどういう「完全中立」を目指しているのか、それは社会党のいう非武装中立といったいどういうところが違うのか、またそういう中立を支える国際的背景なるものはいったいなになのか、また、そういう中立を維持できる政治体制はどういうものであるのか。そこに問題はしぼられなければならない。
 いちおうは軍事的等距離中立といっているが、日本の安全保障については、戦後、国民が抱き続けてきた中立という妙な心理的カリスマ性にそのままに同調しているにすぎないともいえるだろう。

 ともかく「完全中立」という言葉自体が公明党からでてきたのは、第五十七臨時国会の衆議院代表質問(一九六七年一二月八日)において、竹入委員長がはじめて使ってからのことであり、それ以来「完全中立」という言葉は公明党の外交路線となった観さえある。むろん遠くは結党宣言のなかにも伏線としては存在しているものである。それをちよっと引用してみると--

           結 党 宣 言
 今や混沌たる世界情勢は、一段と緊迫の度を加えるにいたった。一方、国内情勢は依然として低迷をつづけ、国民不在の無責任政治がくりかえされている。このままに放置せんか、日本は激しい東西対立の犠牲となることを、深く憂うるものである。
 日本出世の大聖哲、日蓮大聖人、立正安国論にいわく「所詮天下奉平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し」と。
 この仏法の絶対平和思想、即ち、王仏冥合の大理念のみが、世界を戦争の恐怖から救いうる唯一の道なりと、われわれは強く確信する。
 ここにわれわれは、公明党の結党を内外に宣言するものである。
 公明党は、王仏冥合、仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、議会制民主政治の基礎を確立し、深く大衆に根をおろして、大衆福祉実現をはかるものである。
 しこうして、ひろく世界民族主義の立ち場から、世界に恒久的平和機構を確立することを、最大の目標として、勇敢にたたかうことを、国民の前に堅く誓うものである。
 右、宣言する
  昭和三十九年十一月十七日 公明党
                                (赤文字・下線=引用者)
     ----------(つづく)---------256

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする