--いま、なぜこの悪質な組織の欺瞞性を問題にするか--
(本文中の赤文字・下線=兼ブログ主編)
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(創価学会)
池田大作をブッた斬る 藤原弘達(日新報道)1988年(=昭和63年)
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◆ 「創価学会売ります、貸しもします」
私は創価学会・公明党に対して、毒舌言論の限界ギリギリまで悪罵を浴びせてきた。卑劣で、金権万能主義の成り上がり者的奢り、こんなものは池田大作の属性の一部にすぎない。学会・公明党もまた同じくらいに卑劣で、成り上がり者であり、ともかく「卑」にして「賤」なのだ。
ところが、創価学会を支えている無名会員たち、実は、これらの人々こそが、日蓮の弟子であり、信徒組織・創価学会のいわば主人公であろう。
私は、池田大作と学会・公明党を批判するのに、宗教改革者の立場をとってはいない。このごろの宗教および宗教家に対して私は、禁欲的で高潔な人格者を期待しょうとも思わないのである。
創価学会が池田大作の私利私欲の道具となったことに怒りを抱くが、人間が私利を求めて動くことのみを咎める気は、私にはない。
但し、池田大作も、創価学会も、私利の追求に極めて闇屋的であったことと、組織の中で人間を自立した人間としての誇りを麻痺させ、ついに奴隸のように隸従させるに至るその手口の卑劣さを弾劾するものである。
私利の追求を、信仰と政治の理想にスリかえた創価学会こそ、戦後社会体制にひそむ虚妄を最大限に貪り食った、まことにペテンのモンスターといわねばならない。
私の創価学会・公明党批判は、宗教論争に踏み込むのを避けて、あくまでも言論の自由、政治と宗教の分離という近代国家の大原則に立つことを原点としてきたものである。しかしまた私は、日蓮がもし現代に生きたとして、日蓮の立場からすれば、池田大作の在り方は最も非日蓮ということになるのではないかと考えるものである。
日蓮の教えを、それほどご都合主義で勝手にねじまげ、創価学会流にこねあげたということだ。元学会員の声を集めた『私はこうして創価学会をヤメた』(日新報道)にこんな記述がある。
「…学会に、人間同士が助け合い、励まし合い、生きていく仲間と一緒に仏の教えを求めたのです。ところが、学会は会員を狂った“教義”で組織し、会員たちが本当に求めたのとは違った道へ引きこんだのです。(中略)
公明党は学会員騙しから、国民全体--日本人騙しのたくらみを学会員にかつがせてきたのです。
私たち庶民のカンでは、公明党が、もう学会だけでは生き延びる望みのないのを知って焦っているのだ、と分かります。やがて学会員の公明党離れが始まっても、おかしくはないのです」
創価学会の運動が今後どのように拡がって行き、改革の実をあげることができるかは、私の論評する限りでない。ただ、少なくとも、最末端の会員たちから不満と怒りが爆発しない限り、学会組織が土台から揺らぐことはまだまだ当分はあるまいとみている。
「共和国に自由をうちたてるばあいにせよ、専制政治を確立しょうとするばあいにせよ、まず自分のおかれている情況をよく考えたうえで、仕事の困難さを判断しなければならない。なぜなら、奴隷としてあまんじて生きている人を解放しょうとすることは、自由を渇仰している人を奴隷の境遇に落とすのと同じくらいに困難で危険な仕事だからである」(会田雄次訳「マキァヴュリ」中央公論社)
創価学会・公明党が、造反者続出からやがて改革運動が組織されるかも知れない。私は学会・公明党が政教分離を果たしてそれぞれに再生することも、やはり難しいと思う。学会・公明党は政教一体化をもって、今日まで強引に押しきってきた。そして、今やそれが自縄自縛となって、まさに典型的な自滅の構図に入ったというほかない。
「ローマは燃えている。滅びるものをして滅ばしめよ」。私としては、はるかに対岸から燃える炎を眺めるのみである。さしもの繁栄を誇ったローマ帝国の最後と同様、創価学会・公明党が崩壊する日を、私はそんなふうなスタンスをとって冷然としてみているであろう。
その後、「創価学会売ります」「創価学会貸しもします」と、落首のように貼り紙が出るところまではなんとなく想像できるというものである。歴史の上での連想が重なって浮かんでくる。
「法王レオーネ十世の死の翌日、ローマの庶民が落首を張り出す場所となっている、バスクイーンの石像の胸に、こんなことを書いた紙切れが張りつけられていた。
『ローマ、貸します』」(塩野七生「神の代理人』中公文庫)
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