創価学会・公明党が日本を亡ぼす

  政教一体で憲法(20条・89条)違反だ!-打首獄門・所払い(=解散)せよ!

池田大作と原島家-49

2015-11-09 08:25:59 | Weblog

◎ 池田大作と原島家 池田大作を会長にした原島宏治とその家族 原島昭 2014/3
    池田大作の創価学会乗っ取り作戦…<人間の科学新社 1800¥>…より
       ----------改頁----------225--本文

三、無節操な学会の反撃
●原島家へ、池田の最後の訪問
 さて、話を昭和五十四年九月下旬に戻します。突然、当時杉並区にあった私の家に、池田名誉会長が訪問するとの知らせを受け、母も私の家内も名誉なことと喜びました。
 ただ、家内はその月の八日に次女を出産してまだ半月しかたっていなかったので、体調不良を訴えていました。家内の出産の件は、嵩を通して出産直後に池田に報告してありました。それ故、私は当惑すると共に、池田の気持ちに焦りが生じている、と思いました。
 嵩が内部告発の決意を私に打ち明けた後、翌五十四年の五月には、池田は会長を辞任し、名誉会長になりましたが、嵩は、この変化が池田による創価学会・公明党に対する独裁的支配の本当の終わりになるか否かを見定めようとしていました。ところが、池田は「これからは会長を退いて、一切、組織や人事のことについてタッチしない。いわゆる『院政』ということも絶対にいたしません」(四月二十六日・池田が「総講頭辞任」を申し出た時の、日達上人とのお約束)という誓約も初めから少しも守る気はなく、ことにその年の七月に日達上人が御遷化されてからは、「院政」を敷いて完全に元の独裁体制に戻ってしまいました。
 こうなつては内部告発に立ち上がらざるを得ません。一方、池田も嵩の心の変化に気付いたのでしょう、一つは私たちの歓心を買うため、もう一つは(これは私の推測ですが)、原島家に「変化」が起きているなら、それを察知するために、「功労者宅訪問」を口実として、杉並区にあった私の家を訪れたのです。
 内部告発の件は、他人はもとより親族の誰にも秘密にしていたため、母も家内も、そして集まった私共の親族も、心を込めて池田を接待しましたので、池田は十分満足した様子で帰っていきました。その帰り際に、池田を中心に、私の母、私、妹、弟が並んで写真を撮り、その写真は聖教新聞にも掲載されましたが、その中に嵩は入っていません。嵩は「僕はいいから」と言つて脇に避けてしまったからです。
 池田に間近で会えて、親族はみな喜んでいましたが、私の家内は例外でした。池田は私たちと会話を始めると、御仏前なのに、すぐに片肘を付いてゴロンと横になつてしまい、誰かがあわてて来客用の枕を池田に差し出しました。家内は、「なんて行儀の悪い人だろう」と思ったそうです。しかも、出産後まだ日が浅いのに接待の準備で無理をしたため、家内は体調を崩し、しばらく昼間も寝たり起きたりの生活が続きました。

●学会機密文書の役割
 学会の大量の機密文書をコピーして自宅に持ち帰つたと、後日、嵩から聞かされた私は、嵩に、なぜそのようなものを持ち出したのか、と聞いたことがあります。嵩はこう答えました。
「池田先生は自らが嘘をつくこと、他人との約束を破ることに何の罪悪感もない。『嘘も百遍言えば本当になる』と広言し、事実、言論・出版妨害事件から、御宗門や猊下とのお約束まで、次々と前言を翻し、約束を踏みにじってきた。だから誰の眼にも、虚偽と真実をはっきりと見分けることができる、そのための絶対の証拠が、創価学会と対決する場合には必要なのだ」
と。
 たしかに、『破滅』にも、学会がらみのさまざまな不祥事の元凶、あるいは不祥事の拡大の責任を、山崎正友と「共犯者」の原島嵩に押し付ける構図が見て取れます。
 昭和四十五年に現実に起こった共産党の「宮本議長宅電話盗聴事件」についても、初め秋谷副会長は、学会ぐるみの盗聴そのものを、正体不明の人物の発言や憶測によるもの、と否定していました。しかし学会機密文書の存在が明らかになり、それにより数々の学会組織ぐるみの盗聴事件が暴かれて、裁判が始まると学会側もすベてを否定しきれなくなり、「電話の盗聴に北条理事長は関与しておらず、山崎の独断専行によるもの」との主張を繰り返すようになったそうです。
 吉良陽一著『創価学会=七つの大罪』には、「山崎と原島が創価学会幹部との紛争のなかで同会の機密文書を大量に持ち出していたため、否定したくとも否定できない状態に追いつめられていたことも確かである」と述べられています。
 この盗聴事件を、池田会長があらかじめ承知していたかどうかですが、池田が盗聴実行犯の広野輝夫(学会学生部幹部)を通して、盗聴器を製作した松本篤(学会学生部員)らに「君たちの事を『人間革命』に書いてあげるよ」と伝えたといいます。ただし、広野を間に置いた松本の証言(間接証言)であったため、池田会長の事件への関与を証明するものとはなりませんでした(吉良陽一著、前掲書)。そしてこの裁判の判決は、「北条の承認と資金提供のもとに」、山崎たち数人のグループが、宮本宅電話盗聴を計画.実行した、というものでした。
 共産党の方では、犯行から10年後(昭和五十五年)に学会を造反した山崎氏が告白するまで、盗聴が誰の仕業かわからないままでいました。したがって昭和四十九年から五十年にかけて、池田会長は何も知らぬふうを装いながら、創共協定を結んだことになります。
  ----------------改頁------228-つづく--

 

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