② 江戸時代の薩摩藩支配
ⅰ 基礎知識
<ウィキペデア:琉球王国 2017.2.17>より
・「薩摩による琉球侵攻
16世紀後半、豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢を命じたが、明の冊封国であったため国王は一旦拒否した。
しかし、実際に文禄・慶長の役で日本が朝鮮半島に攻め込んだ時には、琉球は日本軍に食料を提供し、日本軍の兵站の一部を担った。
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩の島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発し、3月8日には当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。
島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗したが敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、江戸上りで江戸幕府に使節を派遣した。
その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。
琉球が支配を始めてから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。
・「琉球処分 1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄とした・・・」 ~次次回に調査報告~
ⅱ 実物コピー 1/2
※各社の概要(キーポイント)はほぼ同じだが、詳しさがかなりちがうので全社掲載する。
【育鵬社】
【自由社】
【東京書籍】
【帝国書院】
~次回、実物コピーのつづき、②のまとめ~
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