ニッコウの旅のブログ
旅行の写真集
散歩の写真集

               
                    




「会津・サクラ巡り」NO2
翌日「花見山公園」、二本松藩十万七百石の藩主、丹羽家歴代の菩提寺として建立された
「大隣寺」、二本松城跡(霞ヶ城)二本松少年隊の像が有り、当時を忍ぶお城でした。
白河より移封された丹羽光重公は10年の歳月をかけて築城したものです。戊辰戦争により
落城、昭和57年に箕輪門が復元され、苔むした石垣に見事な庭園美にいにしえの昔が
偲ばれます。




































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「会津・サクラ巡り」NO1
4月中旬に、福島は「会津の桜めぐり」をしてきました。京都からは「サンダーバード」で、
金沢から北陸新幹線「はくたか」「上越妙高」へ、ここからバスの旅です。
NHKの大河ドラマ「八重の桜」のオープニングに 出てくる桜の木で有名な、10本の幹からなる
樹齢650年の「石部桜」を観光し当日は、裏磐梯レイクリゾートに宿泊しました。
























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「エストニア共和国」
バルト三国の一つ、エストニア共和国へ「歌と踊りの祭典」に行って来ました。
エストニアは、ヨーロッパ北東部の共和制国家で、EUそしてNATOの加盟国、通貨はユ
ーロ、人口は134万人、首都はタリンです。フィンランド、ロシアと共に、フィンランド
湾に面するバルト三国の一つです。「歌う革命」は、1987年から1991年にかけて発生した、
バルト三国の独立を目的とする一連の出来事の総称です。「歌と踊りの祭典」はエストニア
にとって、またエストニア人にとって昔から続く大切な伝統です。 第1回「歌の祭典」は
1869年に、「踊りの祭典」は1934年に開催されました。現在「歌と踊りの祭典」は5年に
一度開催されています。1988年に開催された祭典では、ソ連統治下の中、禁じられていた
エストニアの民族音楽をエストニア語で合唱しました。それが国民の機運を高め、エスト
ニアを独立へと導き、1991年8月20日独立を達成。流血なしに独立を達成したこのイベ
ントは、「歌う革命」とも呼ばれています。2003年には、この伝統ある「歌と踊りの祭典」
がユネスコの無形文化遺産に登録されました。
パレードの日は、はあいにくの雨降りでしたが、皆さん元気に行進していました。



























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「日光東照宮から東京は椿山荘へ」
「ホテル椿山荘東京」江戸時代、ホテル椿山荘東京の周辺(東京都西北部目白台)は南北朝の頃から
椿が自生する景勝の地で「つばきやま」と呼ばれていました。 明治に入り、軍人・政治家であった
山縣有朋が、明治11年(1878年)私財を投じて「つばきやま」を購入し庭園、邸宅を作り「椿山荘」
と命名しました。 大正7年には、当時関西財界で主導的地位を占めていた「藤田平太郎男爵」が、
名園をありのまま残したいと言う山縣有朋の意志を受け継ぎましたが、昭和20年の空襲で、山縣の
記念館や一千坪の大邸宅、樹木の大半が殆ど灰燼に帰してしまい、昭和23年(1948年)に椿山荘は
藤田興業の創業者となった小川栄一が、一万有余の樹木を移植し名園椿山荘の復興に着手し昭和27年
11月11日ガーデンレストランとして「椿山荘」オープンし平成 4年(1992年)には 椿山荘敷地内
に「フォーシーズンズホテル椿山荘 東京」がオープンし平成 25年(2013年)「ホテル椿山荘東京」
となり現在に至っています。
翌日は、新橋から「ゆりかごめ」に乗り、お台場の「フジTV」を見学し、新装になった東京駅に戻り
新幹線で帰宅しました。



































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「日光東照宮観光」
日光東照宮は栃木県日光市に所在する神社で、江戸幕府初代将軍・徳川家康を神格化した東照大権現
を祀る神社です。正式名称は地名等を冠称しない「東照宮」であるが、他の東照宮との区別のために
「日光東照宮」と呼ばれることが多い。元和2年4月17日(1616年)家康は駿府(現在の静岡)で
死去しました。遺命によって遺骸はただちに、駿河国の久能山に葬られたが翌元和3年(1617年)
下野国日光に改葬された。家康が日光に祀られることになったのは、家康本人の遺言からで、家康は
遺言中に「遺体は久能山に納め一周忌が過ぎたならば日光山に小さな堂を建て勧請し神として祀る事
そして「八州の鎮守となろう」と述べている。家康が目指した「八州の鎮守」とは日本全土の平和の
守り神でもある。明治元年(1869年)の神仏分離により日光は神社の東照宮・二荒山神社、寺院の
輪王寺の二社一寺の形式に分立しました。
尚、金谷ホテルの前にある板垣退助の銅像は戊辰戦争の際、日光廊に立てこもった幕府軍大鳥圭介
らと対峙した官軍の将板垣は、二社一寺のある日光を戦火にさらすことを避け、無血開城に成功した、
その遺徳を讃え昭和4年に銅像が建立されましたが、第二次大戦時に金属供出され現在、金谷ホテル
の前にある銅像は昭和42年に再建されたものです。

















































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「ホテルから華厳の滝へ」
中禅寺金谷ホテルからの帰り道、中禅寺湖や華厳の滝を観光しました。華厳の滝は、中禅寺湖からの
地表を流れる唯一の流出口大谷川にある滝で、落差97mの滝を一気に流れ落ちる様は壮観で日本三
名瀑の一つにも数えられています。「いろは坂」の名称は、第一いろは坂と第二いろは坂の二つの坂に
存在する48のカーブをいろは48音に例えたのが由来です。馬返から中禅寺湖への登り方向を第二
いろは坂と言い「い」から「ね」迄の20のカーブがあり、中禅寺湖から馬返への下り方向を第一
いろは坂と言い「な」から「ん」までの28のカーブがあります。第二いろは坂は馬返から明智平
迄が上り方向に、第一いろは坂は全線が下り方向にそれぞれ一方通行になっているので車で行かれる
方はご注意下さい。 いろは坂を下って日光東照宮へ。











































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