孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世で完全意識になるのは無理でも、その完全と不完全の両面を知ることで「続き」が残っています。

2010年11月11日 | Weblog
私がまだ想念・霊魂の世界に関わっていた頃(約8年前)のことですが、娘から渡された完全真理を説く山田耕栄さんの講演会ビデオやカセットテープ(2000-2003年)を何度か繰り返し聞いていた当時のことですが・・・その娘が言うには「良い悪いで判断しない完全意識に到達しそうな有能な人が6人ほどいると、耕栄さんが話していた」と聞いた時、私は「人間だから完全意識に成ることは多分無理だろう」と娘に言いましたが、(後日談では)やはり無理だったようですし、脱落して離れていった人もいたようです。

その初期の講演会では「良い悪いで判断しなければ完全になる」が主流だったのが、その後の講演会テープでは「良い悪いで判断しても、それに気付けばそれでいい」と説明するようになり、更にその後のテープでは「良い悪いで判断しても、それに執着しなければ忘れることになるから」と話すようになりました。

(そこで私見ですが)耕栄さんもどうやら「自力」で完全意識(即身成仏)になることは無理があると気付いたのか(自力達成をあきらめたのか)、それとも必然からか(摩訶不思議な奇跡現象が起こる)宇宙エネルギーの「ファバラ・シール」が初登場しました。
と言うことは完全意識に導くために「他力(ファバラエネルギー)」を使わなければならなくなったのか、それとも講演会は常連ばかりで新人が増えないし耕栄さん著書出版本も殆どが常連の購入で伸び悩んでいることからして、ファバラ効果に関心を示した一般の人を真理に呼び込むためなのか(一人でも多くの人を導く為なのか)、いずれにしろ次々とファバラ製品が販売されるようになりました。

そのファバラシールが販売されだしたとき、娘に「完全真理さえあればいいのに、何でファバラを出すの、一歩間違えば薬事法違反や誇大広告の公正取引法違反でつぶされる事になるかも」と心配して言ったのですが、それがまさか脱税容疑(無罪が確定したようですが)で逮捕される事になるとは思ってもいませんでした。
・・・薬事法やインチキ・詐欺でも取り調べられたと思いますが、効果結果が出ているだけに起訴できなかったと思います・・・

ここで本題に移りますが、生まれながにして持っている自分さえ良ければの個人意識、良い悪いで判断する不完全意識、比較競争して差を付けたがる差別意識や特別意識を完全に無くすることはやはり無理だったのです。

ところが、それでも人間・意識体に課せられた使命役割にも続きがあって・・・人間として生きている時に完全意識になれなくても(即身成仏できなくても)「不完全意識を味わい知った者が完全真理の実践で、その完全意識の重要性・大切さを悟ることになる」役目・使命が残っているのです。

すなわち、神と言われる次元界・天界で実在している神と言われる命(意識体・生命体)は神意識・完全な愛意識を持っていますが、人間のような良い悪いで判断する不完全意識は元から持っていませんから、その不完全な世界・次元をまったく知らないのです。
だから(完全しか知らないから)その完全さの「ありがたさ」もまったくわかっていません。

例えば、天国で生まれればその天国のありがたさを知りません、だから一度地獄を味わえばその天国のありがたさが身にしみて理解できるように、また幸(表)と不幸(裏)の差のある思いを味わうことから、表の幸福な思い(至福)のありがたさを知る事になります。
すなわち「不完全」を知ることからして・・・元から実在で備わっている「完全」のありがたさを身を持って自覚することになるのです。

だから完全真理の実践によって完全意識になることが出来なくても、その実践課程で不完全な裏側(闇意識)と平等・自由・調和のある完全な表側(愛・神の光意識)の両方を深く学び知る事になれば、その不完全と完全の両方・裏表を自覚悟った人間・意識体(命・霊)が宇宙始まって以来初めて誕生することになるのです。

それだからこそ・・・完全真理が「この世で始めてで最後となる」・・・真理と言われるのです。
しかも完全真理は良い悪いが無い真理ですから、比較競争差別したり、否定反発・拒否排除したり束縛制限支配したり押し付け強要することもありませんし、害を及ぼす悪敵・不信感から守ること無ければ闘うことにもなりませんから、(実践すれば)いつも穏やかな平常心で心安らかな至福を味わえます。
・・・しかし特別が無いだけに、特別な自己満足や特別な刺激に満ちることはありません。

ところで人間であるからには楽して衣食住を十分味わいたいし、名・権・財を持ちたがるし、喜怒哀楽もあれば生老病死を気にするように、また伝統風習道徳を守りたいときも破りたいときもあるし、恋人夫婦家族家庭の良いときも悪いときもあるし、純愛に憧れたり夢破れたり、結婚するが不倫や離婚もするし、趣味嗜好娯楽や刺激を追及したいし自由勝手呑気気ままにも暮らしたいし、やりたいこともやりたくないことも多いし、とにかく自分の都合ばかりが多くて、その不平不満と自己満足の繰り返しで生きています。
すなわち山あり谷ありの喜怒哀楽の繰り返しで生きているのですから苦悩が多く心が休まることは少ないでしょう。

それでもやがて「死が」目前になると、いま生きていることの「ありがたさ」に気付きます。
しかしその死を不安し恐れたり、生き延びることに執着していたり、過去の思いに強い執着があったりすれば、それらに意識が支配されますから、いま生きていることの喜び感謝の穏やかな心を持てませんから、やはり安らかに成仏することは出来ません。
・・・だから4次元の霊界で止まる事になり、やがて時が来れば(使命役割を再び実践するために)宇宙の仕組みで人間に生まれ変わることも出来ていましたが、その4次元が無くなり次の5次元(比較競争差別の無い次元)に移行するようですから、今の3次元意識・個人意識のままであれば(一足飛び出来ませんから)5次元に行くことも出来ずに終わり、3次元意識(闇意識)そのままの闇・次元で漂うことになり、二度と人間・意識体に転生することはありません。

だから不完全意識しか知らないままに差のある特別な生き方を続けるのか、または死に至るまで完全真理の実践を続けてお伽話の「エデンの園」のようなところで平然と生き続けることを望むのか、その白黒の選択が間直に迫っているのです。

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