孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人の幸せが、自分の不幸・妬み嫉妬になる個人意識

2009年02月17日 | Weblog
山田耕栄さんの良い悪いを持たない完全真理を知るまでは、自分に都合が良い表と自分に都合が悪い裏のある「表と裏のある人生」が人間の生き方としてあたり前に思っていましたから、その通りの生き方をしていました。

人が喜ぶ奉仕をしている人は善人で人に害を及ぼしている人は悪人、その悪をこらしめる正義の味方をヒーローに思い、自分より上の人を見て劣等感を持ち、下の人を見ては優越感を持ち、我が子の一人が成績アップすれば(そのことだけを喜んでいればよいものを)もう一人の子供の成績が気になりだす欲があり、その成績が良いが運動能力が少し劣る子と、成績は悪いが運動に優れているとして比較評価していたり、我が子の運動能力より優れた選手をチームプレイでは喜ぶ反面、裏の心ではやきもち嫉妬していたり、ライバル選手が練習試合でミスをする事を裏心で思っていたりしました。

交通事故の被害者になれば少しでも自分が得をするように被害を誇張したがるが、反対に加害者側になると少しでも責任や賠償を少なくできるように言い訳正当化し、それでも被害者が文句を言えばその相手を憎たらしく思ったり蔑んだりしていました。

自分が失敗して金銭物質で損をしたりプライドが損なった時に、その汚点を早く忘れるために良い勉強になったと頭の中でプラスに置き換えたりするのも、自分の心を自分で騙して自分を偽っていることになっているとは気付いていませんでした。

妻が私に不平不満を言うのは、私が妻の思惑に従っていないからです。 すなわち妻の不満は、私が妻を裏切っていたことになるのです。 そんな身勝手な裏切り関係が恋愛や夫婦や家族関係にあるのです。 
その原因が自分さえ良かったらの個人意識であり、自分の思い通りにしたがる自己中心の思惑期待を持って生きているのが人間だからです。
すなわち、優しさ思いやりの感謝のアリガタイが無ければ、互いの身勝手な都合の良いくっ付き引っ付きの関係でつながっているだけになり、ありがたい心の絆でつながっている関係とはなりません。

イケ面や財産家や肩書きや技能能力に優れたものを持っている人と自分が親しくしているところを自慢して人にみせびらかしたがる優越感もあるが、その反面では自分がその人より劣るという劣等感を持っているだけではなくて、その人を裏心では羨み妬む嫉妬心を持っているから、自分の都合次第でいつでも離れたり裏切ることもできました。
すなわち、優越感があれば相反する劣等感を持っており、劣等感が強いほど優越感を欲しがる心が強いのです。 だから優れた名誉名声肩書きを持つ人は劣等感の裏返しであり、それらを得るための比較競争で人を見限り切り捨て裏切ってきた証しになります。 
だから人を信じている振りは上手にできるが、実際は肩書きの「力」を信じていても「人」を信じてはいないのです。 
ゆえに自分さえ良かったらの個人意識を持っている限り、自分に都合がよい関係同士のお付き合い結び付きがあっても、誰とも心の友、真の友人関係にはなれませんでした。

優越感と劣等感の表裏を持ち合わせ。 自己満足や自己主張や自己顕示の差を持ちたがる野心もあり。 その個人意識から、人の喜び幸せな様子を見て自分が何故か不幸に思えるときがあり。 それがすぎれば恨み妬み嫉妬や報復制裁仕返しの裏心にもなるのです。
そんな意識の中で生きることに至福はありません。

その至福を知った最近では、たとえ世の中がどうであれ、自分の身分や居場所環境がどうであれ、その自分の中に小さな至福があり、その至福を持った者同士が共に接し触れ合う関係で集まっていて、その中に束縛支配関係ではない個性を尊重しあう異性との交際関係や互いに無いものを共に補い合える関係があれば、それが未開の地であれ熱帯や極寒の地であれ孤島であれ僻地であれ、それで日々生きていければ十分ですね。
と言うのも、人間は姿や形や住む居場所が問題ではなくて、すべて「意識」で生きているのだから、他はどうであれ、至福の意識を持っていればそれだけで十分すぎるほど恵まれている生き方になるからです。
それを教えてくれているのが山田耕栄さんの完全真理であり、その実践と心身の健康を支えてくれているのがファバラ・エネルギーなのです。

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