何事も小から始まり大になっていくのがこの世の仕組みです。
だから物事が小さなうちに気付き悟り修正することで大に至らずに終わります。
ところが大方が…そんな小さなことで…と気にしない人が多いようですが、そんな小さなことが次第に大きくなって自分を苦しめる・自縛して・墓穴を掘ることになっているのです。
その小さなことが不平不満なのです。
然るに…アリの穴から堤防が崩れるが如くに…諸悪の根源が不平不満から始まっていることに気付いていないのです。
ちなみに…私が自己拡大の真っ最中に見たドキュメンタリー報道ですが…命の大切さを学んでいることからして…皆が歩く農道や自分ちの畑の中のアリや昆虫を踏みつけないようにと…畑作業で歩く道筋に板を橋渡しにしている小さな国の貧しい民人がいました。
然るに小さなことにも気配りできる人たちなら・むやみやたらと敵視敵対して争うことにはなりません。
またそれだけに貧しい国での貧しい暮らしにもなっているのですが、その心根にはやさしさが十分あるはずです。
ところが命の大切さを学んでいながらにして・言うだけ聞くだけにして・平然と自然汚染や破壊を当たり前が如くに繰り返しているのが文明国家の私たちです。
ちなみに牛舎のパートをしているときに…牛を見せるために美人の若い母親に連れられた可愛い着せ替え人形が如くの幼い子がきたとき、その通り道を横切る小さなカニを見てその子供がカニを触りに行くかと思いや、何と意識的に踏みつける有り様を見たときはショックでした。
ちなみに山の中のあちこちに獣道があるのも、他の生命の草木や昆虫類の領域をやたらと荒らし踏みつけないための本能習性なのです。
またそれが獣たちが生きていける道筋だと本能的に自覚しているのです。
ちなみに私んちの敷地にワイヤーメッシュを張り巡らし、その中でヤギを放牧して雑草対策にしていた時もまったく同じでした。
何はともあれ・私たちは小さなことを意識しないでそれを見過ごしていることからしてそれが大となっているのです。
だからこのブログで微生物バイ菌が度々登場しています。
そして自然界の草木や犬猫畜生にも劣る人間意識とも書いています。
ちなみに今どきの若者や子供たちは…汚い・怖い・危険に近寄らないの3Kなる忌み嫌うのが当たり前になっていますが、それが己を自縛して墓穴を掘ることになるとは気付いていません。
だから3Kなる子供を育てた親にも必ずやその類が及びます。
然るに己がまいた種を己が刈り取らなければならない羽目になるのです。
しかし大方の人は…私は大丈夫とばかりに思っているようですが…それが空振りになる時が近づいているようです。
ちなみにこのブログで認知症なる言葉が度々出てくるようになったのも事実だけに大勢の人が巻き込まれることになるでしょう。
その認知症も…私は正しいとして守り続けて…結果的に逃げ場がなくなり、逃げることができなければ・すでに時遅しにして・己から破滅する・自傷行為・自殺などの自己破壊ややけくそになって暴れまくる・腹いせに人を巻き込み道ずれとする他者破壊にもなっていきます。
ところが人間には過去を忘れることができます。
ちなみに小さなことならすぐに忘れます。
然るに忘れることが習慣性にもなるのです。
然るにそれが認知症にもつながるわけです。
ところが私の場合は成り行き任せなことからして大きなこともなく、だから忘れても当たり前な小さなことばかりが記憶に残っています。
その全てを書き出せば分厚い本では足りないかもしれません。
ちなみに妻や子供や身近な人やご縁あった人たちとの思い出・記憶を話しあっても・つい最近のことさえも忘れられていて会話が進まないことも多々あります。
どうやら真面目さ真剣さにかけるところがあると記憶に残りにくいようです。
だから小さなことの記憶が消えて・忘れられない大きなことだけが記憶に残ることにもなります。
また大きなことばかり意識することからして小さなことが気にならなくなり、その分だけ小さな記憶が消えていくのかもしれません。
何はともあれ…欲や見栄からして築き上げて持っているものを守り続けるのもしんどいことです。
ということからして…潜在的な防衛本能・自己防衛のために…逃げるが勝ちの道を選ぶ人が増えているのかもしれません。
何はともあれ…特別な能力自力を持たない人ほど多くを持っていませんから・捨てることも多くありませんから、あとは見栄を捨てるだけです。
その見栄を捨てることができなければ当然ながら苦労することが続きます。
だから私に言わせれば…大したことができるわけでもない人同士がドングリの背比べをするのをやめにして…素朴謙虚にして生きていくほうが己のためになるしそれが人様のためにもなるとして書いています。
然るに持っている不要なもの・見栄を気軽に捨てることができるのか、それとも後生大事に持ち続けるのか、その選択でもって己の人生か決まったも同然になります。
然るに見栄が捨てられれば欲も捨てたようなものです。
だから不平不満にもなりません。
そして衣食住に恵まれた地上の天国を味わえるようにもなるのです。
だから物事が小さなうちに気付き悟り修正することで大に至らずに終わります。
ところが大方が…そんな小さなことで…と気にしない人が多いようですが、そんな小さなことが次第に大きくなって自分を苦しめる・自縛して・墓穴を掘ることになっているのです。
その小さなことが不平不満なのです。
然るに…アリの穴から堤防が崩れるが如くに…諸悪の根源が不平不満から始まっていることに気付いていないのです。
ちなみに…私が自己拡大の真っ最中に見たドキュメンタリー報道ですが…命の大切さを学んでいることからして…皆が歩く農道や自分ちの畑の中のアリや昆虫を踏みつけないようにと…畑作業で歩く道筋に板を橋渡しにしている小さな国の貧しい民人がいました。
然るに小さなことにも気配りできる人たちなら・むやみやたらと敵視敵対して争うことにはなりません。
またそれだけに貧しい国での貧しい暮らしにもなっているのですが、その心根にはやさしさが十分あるはずです。
ところが命の大切さを学んでいながらにして・言うだけ聞くだけにして・平然と自然汚染や破壊を当たり前が如くに繰り返しているのが文明国家の私たちです。
ちなみに牛舎のパートをしているときに…牛を見せるために美人の若い母親に連れられた可愛い着せ替え人形が如くの幼い子がきたとき、その通り道を横切る小さなカニを見てその子供がカニを触りに行くかと思いや、何と意識的に踏みつける有り様を見たときはショックでした。
ちなみに山の中のあちこちに獣道があるのも、他の生命の草木や昆虫類の領域をやたらと荒らし踏みつけないための本能習性なのです。
またそれが獣たちが生きていける道筋だと本能的に自覚しているのです。
ちなみに私んちの敷地にワイヤーメッシュを張り巡らし、その中でヤギを放牧して雑草対策にしていた時もまったく同じでした。
何はともあれ・私たちは小さなことを意識しないでそれを見過ごしていることからしてそれが大となっているのです。
だからこのブログで微生物バイ菌が度々登場しています。
そして自然界の草木や犬猫畜生にも劣る人間意識とも書いています。
ちなみに今どきの若者や子供たちは…汚い・怖い・危険に近寄らないの3Kなる忌み嫌うのが当たり前になっていますが、それが己を自縛して墓穴を掘ることになるとは気付いていません。
だから3Kなる子供を育てた親にも必ずやその類が及びます。
然るに己がまいた種を己が刈り取らなければならない羽目になるのです。
しかし大方の人は…私は大丈夫とばかりに思っているようですが…それが空振りになる時が近づいているようです。
ちなみにこのブログで認知症なる言葉が度々出てくるようになったのも事実だけに大勢の人が巻き込まれることになるでしょう。
その認知症も…私は正しいとして守り続けて…結果的に逃げ場がなくなり、逃げることができなければ・すでに時遅しにして・己から破滅する・自傷行為・自殺などの自己破壊ややけくそになって暴れまくる・腹いせに人を巻き込み道ずれとする他者破壊にもなっていきます。
ところが人間には過去を忘れることができます。
ちなみに小さなことならすぐに忘れます。
然るに忘れることが習慣性にもなるのです。
然るにそれが認知症にもつながるわけです。
ところが私の場合は成り行き任せなことからして大きなこともなく、だから忘れても当たり前な小さなことばかりが記憶に残っています。
その全てを書き出せば分厚い本では足りないかもしれません。
ちなみに妻や子供や身近な人やご縁あった人たちとの思い出・記憶を話しあっても・つい最近のことさえも忘れられていて会話が進まないことも多々あります。
どうやら真面目さ真剣さにかけるところがあると記憶に残りにくいようです。
だから小さなことの記憶が消えて・忘れられない大きなことだけが記憶に残ることにもなります。
また大きなことばかり意識することからして小さなことが気にならなくなり、その分だけ小さな記憶が消えていくのかもしれません。
何はともあれ…欲や見栄からして築き上げて持っているものを守り続けるのもしんどいことです。
ということからして…潜在的な防衛本能・自己防衛のために…逃げるが勝ちの道を選ぶ人が増えているのかもしれません。
何はともあれ…特別な能力自力を持たない人ほど多くを持っていませんから・捨てることも多くありませんから、あとは見栄を捨てるだけです。
その見栄を捨てることができなければ当然ながら苦労することが続きます。
だから私に言わせれば…大したことができるわけでもない人同士がドングリの背比べをするのをやめにして…素朴謙虚にして生きていくほうが己のためになるしそれが人様のためにもなるとして書いています。
然るに持っている不要なもの・見栄を気軽に捨てることができるのか、それとも後生大事に持ち続けるのか、その選択でもって己の人生か決まったも同然になります。
然るに見栄が捨てられれば欲も捨てたようなものです。
だから不平不満にもなりません。
そして衣食住に恵まれた地上の天国を味わえるようにもなるのです。