うえぽんの「たぬき鍋」

日々のつれづれ、野球ネタ、バカ話など、何でもありの闇鍋的世界?

楽しんじゃいけませんか?

2005-01-11 19:27:25 | 野球
野球小僧という雑誌の愛読者である。そこに毎回、ルポライターの岡邦行氏によるノンフィクションが連載されている。最新号のテーマは『2004年「男・村田」の365日』というもので、横浜ベイスターズ・村田修一内野手のことを取り上げていた。横浜ファンということもあり、興味深く読ませてもらったのだが、ちょっと気になるところがあった。

岡氏は、最近の若いアスリートは競技の前後に「楽しみます」とか「楽しみました」などと言うが、そういう言葉を口にする者を信用できないし好きになれない、たとえ思ったとしてもそんな軽々しい言葉を人前で口にすべきではない、と言う。村田もそれに同意し、プロ入りしてから楽しんで野球をしたことはないし、「楽しみます」とか「楽しみました」なんて言葉を言えるのはファンだけで、自分は日々もがきながら野球に取り組んでいる、と答えたのだ。

「これがイカンのだ」と思った。昨年何度か横浜の試合を見に行ったし、テレビの中継も見ていたが、打席に立つ村田は見るからに苦しそうで、打てそうなオーラがまるっきり出ていなかったし、事実、三振の山を築いていた。「何とかしなければ」という気持ちが強すぎて、スイングが硬くなっている。変化球は何とかファールでごまかすが、ストレートを投げられるとバットの振り出しが間に合わない。毎打席毎打席、これの繰り返しである。

昔読んだ本で、3000本安打を打った張本勲は、打席に立つ時の心持ちを「緊張感70%、余裕30%がちょうどいい」と語っていたような覚えがある。また、あるサイトでは「欲望60%、無欲40%がちょうどいい」と語ったと紹介されていた。いずれにせよ、ただがむしゃらに打ちたい打ちたいともがいているだけではダメなのだ。

「楽しむ」というのは、張本の言う「余裕」とか「無欲」の部分にあたるんじゃないかな、と思う。人間、特に根が勤勉な日本人は、結果を求められたら極限までに自分を追い込んでしまいがちである。ストイックなスポーツ選手ならなおさらのことだ。マラソンの円谷幸吉は、結果が出ない自分を責め続けた挙げ句に命を絶った。追い込みは必要だが、追い込みすぎて潰れてしまっては、元も子もない。
追い込みすぎそうになる自分にブレーキをかけ、プレッシャーに押し潰されそうになる心の中に、周囲を見渡す余裕を持つ。今、自分が持っている最大限の力を思い切ってぶつけてしまえば、後は野となれ山となれ。命取られるわけじゃなし、結果なんか欲しがらない。そういう気持ちを心の片隅に持つこと。そして、チャンスを与えてもらったことに感謝し、自己を大いに表現すること。すなわち「楽しむ」ということではないだろうか。決して軽々しい言葉だとは思わない。

大体、プロと呼ばれる人間が「もがき苦しんでいる」とか口走ったり、猛練習など表だって見せていることの方が、よっぽど格好悪いではないか。プロならば、たとえウソでもいいから「天才」であって欲しい。何でもさりげなく軽々とやってみせて欲しい。影での苦労など見たくないのだ。
私は、現役時代の落合博満が好きだった。理由は、練習しているようなそぶりをほとんど見せず、それでいて試合ではきっちり結果を出してきたからだ。あの一見やる気のなさそうな構え、独特の打撃フォームを思い出してもらいたい。あのフォームを完成させ、球史に残る強打者に上り詰めるまで、数え切れないほどの苦労があったであろうはずなのに、それを最後の最後までおくびにも出さなかった。そんな彼が好きだった。

私は村田が好きだ。大成して欲しい。だからこそ、あえて言う。村田、苦しいなんて死んでも言うな。そして、野球を大いに楽しめ。

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