史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「流罪の日本史」 渡邊大門著 ちくま新書

2018年09月29日 | 書評
別に私は流罪マニアというわけではないが、これまで伊豆七島の新島、伊豆大島、三宅島、八丈島に加えて、隠岐や佐渡といった古くから流罪の地とされている島を訪ねてきた。先日訪ねた奈良県吉野町も後醍醐天皇が吉野行宮を開いた場所として知られるが、これも流罪の地といえばその一つといえるだろう。
我が国において、今も昔も極刑は死刑である。流罪は死刑に次ぐ重刑であり、つまり死を一等減じて流罪が適用された。であれば、そう簡単に赦されて戻るということはあり得ないはずだが、案外、歴史上赦されて復帰したり、それでも二度目の流罪に処されたりといったケースも散見される。そうしてみると、必ずしも死刑に次ぐ重刑とも限らず、ちょっとお灸を据えるといった程度の流罪もあったようで、時々の為政者によりかなり恣意的に運用されていたということである。たとえば浄土宗を開いた法然や浄土真宗の親鸞なども、それぞれ讃岐と越後に流罪となっているが、比較的短期間で赦されている。
一方、先に挙げた後醍醐天皇の例にとどまらず、天皇が流罪になるケースも少なからず存在している。いかに時の権力者であっても天皇に死罪を告げるのは憚られるため、死刑に次ぐ重刑として流罪が適用されたようである。交通不便な時代、政治や文化の中心である都から離れるというのは、それだけで耐え難い苦痛であったのであろう。東京-大阪間程度であれば普通に日帰り出張ができてしまい、話がしたければいつでも携帯電話で会話ができ、ものを送れば数日で届くような時代になってしまうと、なかなか流罪の精神的苦痛は想像しにくいものである。ただし、いずれのケースも流罪地での生活は自由であった。伊豆に流された頼朝が挙兵できたのも、監視が緩やかだったからこそ可能だったのである。
公家は死罪にしないという不文律があったのも、本書で初めて知った。例外が西園寺公宗という人物で、後醍醐天皇の暗殺計画が露見し、建武二年(1335)、名和長年によって処刑された。公卿が死刑となったのは、平治の乱(1160)以来の出来事とされる。その後も公家の死刑というのは見当たらない。宝暦事件や明和事件といった幕府転覆未遂事件においても、関与した公家で死刑を宣告された者はいないし、安政の大獄で死刑となったのはいずれも武家や僧侶、儒者であり、公家は精々永蟄居・辞官・落飾止まりである。安政の大獄以降、公家の面々は幕府をひどく恐れている印象が強いが、原則として彼らが命を奪われることはなかったのである。こうしてみると、明治にはいって二卿事件で愛宕通旭、外山光輔が処刑されたのは、歴史的には相当な例外的事件であったことが分かる。
伊豆七島などが流罪の対象となったのは、比較的時代は新しく江戸時代に入ってからである。鉄道や高速道路は整備されないまでも、人の往き来が盛んになると、さすがに陸続きの場所に送っても刑としての意味が薄れてきたということであろう。流罪イコール島流しというイメージが定着したのは江戸期以降のことなのである。
八丈島流刑の第一号となったのが、関ケ原で敗軍の将となった宇喜多秀家である。戦後、秀家は逃れて薩摩藩領に潜伏したが、次第に島津が秀家を匿っているという噂が広がり、島津家もかばいきれなくなった。本来、豊臣政権で絶大な権力を有し、敢然と徳川に叛旗を翻した秀家は死刑になってもおかしくなかったが、縁戚である前田利長らの懇願により死を免れて八丈島に流されることになった。慶長十一年(1604)のこととされる。その後、秀家は明暦元年(1655)まで生きた。既に徳川幕府も四代家綱の治世になっていた。現代的感覚からすれば、秀家の子や子孫は秀家の流罪とは関係なく、いつでも本土に戻ってこられそうなものであるが、彼らの流罪が赦されたのは幕府倒壊後、何と明治時代に入ってからのことである。その刑期は実に二百五十年以上に及んだ。世界史的に見てもこれほど長期の刑に服した例はないのではなかろうか。ただし、孫やそれ以降の世代になってしまうと、刑としてそこにいるのか、単にそこで生活しているだけなのか、問われても答えられない状態ではあったであろう。実際、宇喜多一族の一部は、八丈島に戻って今もそこで生活を続けているのである。
海で隔てられた島には、気候風土だけでなく、歴史文化にも特有のものがある。本土では交通網の発展などにより、地方の独自性が希薄になりつつあるが、今も島には特殊性が息づいている。「ああ、また島に行きたい」とウズウズしてしまいました。

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「公家たちの幕末維新」 刑部芳則著 中公新書

2018年09月29日 | 書評
 ペリー来航以降、明治に至る歴史は、志士を始めとする武家を中心に描かれてきた。公家というと、「屈従を強いられ」「歴史のうねりに翻弄された脇役」として扱われ、「公家は添え物」であって、「優柔不断で頼りなく弱弱しい印象」として描かれることが多い。それは我々の抱いている公家のイメージに他ならない。
 本書は、公家の視点から明治維新史を描いてみようというものである。有名無名の公家たちが、権謀術数の限りを尽くし、強かにこの時代を生き抜いた。確かに本書を読むと、公家たちが弱弱しいだけの存在ではないことを理解することができる。といっても、時代をリードするくらいの力強い存在であったかと問われると、そこまで従来のイメージを覆すほどのインパクトはなかったかもしれない。
 三条実美というと、維新前は過激な攘夷主義で、そのため七卿落ちで長く京都を離れた。維新後は、新政府において長く太政大臣を務め、個性の強い元勲の調整役を果たした。個人的には、維新前の過激さと維新後のバランス感覚に、あまりに開きがあり、同一人物と思えないほどである。
 本書では維新前、三条がどうして過激な攘夷論を吐いたのかを解明してみせる。筆者によれば、「即今攘夷の流れに乗ることで自分たちの身を守ろうとした」とする。つまり、文久年間において攘夷を主張しないと、自分たちの命が危ないと本気で思っていたのであろう。そこで本意ではない「即今攘夷」を主張したのだという。非常に納得できる解説であった。
 本書を読むと、右往左往する公家の中にあって、岩倉具視という出色の人材だったということが分かる。和宮降嫁や王政復古のクーデターにしても、岩倉無くして実現しなかったかもしれない。その岩倉にして、維新後の日本の近代化は想像もつかない速さで進展した。「立憲制の必要性が現実になるにつれ、天皇や皇室の儀礼体系までもが西洋式となり、公家が重んじて来た文化や慣習がすべて失われてしまうのではないかという危機感」を抱くようになったという。
 さて、本書では多数の公家が登場する。馴染みのない読者は、混乱するに違いない。私なりに幕末の公家を分類してみたい。なお、攘夷開国・討幕佐幕の位置関係は、極めて主観的であり、相対的なものである。さらに特定の人物であっても、その思想は時代の推移とともに変化することを考え合わせると、本来年々その変化を見るべきものである。以上を踏まえて、飽くまで参考として御覧いただきたい。



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新深江

2018年09月21日 | 大阪府
(新深江)
 地下鉄新深江駅を降りて東に五~六百メートルほど進み、「焼肉スエヒロ」の角を北に折れる。真行寺という御寺の正門を通り過ぎて突き当たったところが、伊能忠敬測量隊が宿泊した庄屋五郎兵衛宅跡に当たる。


伊能忠敬測量隊一行宿泊地

 伊能忠敬一行は、文化六年(1809)、大和路測量に向け大阪に至り、深江村に宿泊した。夜には天体観測も行われた。伊能忠敬は当時六十四歳。同行した一隊は、坂部貞兵衛、柴山正弼(四国測量のみ同行)、下河辺与方(暦算を担当)、青木勝雄(絵画に堪能。沿道の描写を担当し、地図作成に貢献した)、植田丈助(内弟子として参加)ら。その後、河内(東大阪、八尾)、大和、伊勢を経由して江戸に帰着している。

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天王寺 Ⅲ

2018年09月21日 | 大阪府
(珊瑚寺)
 地下鉄四天王寺前夕陽ヶ丘駅周辺は、寺院が密集する寺町である。その中の一つ、珊瑚寺には、国学者黒沢翁満(おきなまろ)の墓がある。

 黒沢翁満の名は重礼、号は葎居。伊勢桑名藩の生まれ。本居宣長の門人となった。賀茂真淵に私淑して古学を学び、また和歌雅文に長けた。武州忍藩に仕え、大阪留守居役となった。著書に『葎居集』『言霊抄』等がある。安政六年(1859)、六十五歳にて没。


珊瑚寺


黒澤翁満墓


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玉造 Ⅱ

2018年09月21日 | 大阪府
(心眼寺)


心眼寺

 心眼寺は、かつて真田丸があったといわれる台地の一角に位置している。境内には真田丸の主である真田信繁(幸村)の墓がある。
 本堂の前には京都見廻組桂早之助、渡辺吉太郎の墓が置かれている。


真田左衛門佐豊臣信繁之墓


桂早之助墓(右)
渡邉吉三郎之墓

 桂早之助利義は、天保十二年(1841)四月、代々京都所司代組の同心を務める家に生まれた、京都在住の幕臣である。剣術は西岡是心流を修め、京都文武場の剣術世話心得を務めた。慶應三年(1867)二月、所司代組同心から京都見廻組に推挙され、七月には肝煎(小隊長クラス)に昇進した。
 渡辺吉太郎は、天保十四年(1843)に江戸で生まれた幕臣。直心影流を学び、神奈川奉行支配組同心となった。その後、元治元年(1864)には見廻組に推挙され、京都に移った。
 もう一人、高橋安次郎(享年二十七)もこの寺に葬られ、「宝樹院恩誉巍山孝道居士」という戒名を刻んだ墓石があったというが、現在墓は残されていない。
 慶應三年(1867)十一月十五日、京都河原町の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が殺害された。箱館戦争終結後、新政府に捕えられた元見廻組肝煎今井信郎の供述によると、見廻組与頭佐々木只三郎を指揮者とする数名が、近江屋を襲撃。その人員の中に桂早之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎の名前があった。彼らはいずれも鳥羽伏見の戦いに参戦した。桂早太郎は下鳥羽で左股に銃創を受け、正月四日に死亡している。遺体は戸板に乗せられて同僚らの手で大阪まで運ばれ、心眼寺に葬られた。享年二十八。渡辺吉太郎は、鳥羽から橋本に至る戦いの中で負傷し、同月五日に戦死して、この寺に葬られた。享年二十六。墓碑には「吉三郎」とあるが、「吉太郎」が正しい。高橋安次郎も五日に鳥羽淀橋において戦死した。

(清水谷高校)


清水谷高校

 清水谷高校は明治三十四年(1901)の創立。明治四十年(1907)、創立五周年を記念して同窓会館済美館が建てられた。当時の大村校長が、日本女子大学の成瀬仁蔵を通じて、西園寺公望に揮毫を依頼した。今も済美館に西園寺五十九歳の書が掲げられているらしいが、私が清水谷高校を訪れた時、夏休み中で正門はかたく閉じられていた。

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谷町四丁目 Ⅱ

2018年09月21日 | 大阪府
(大阪府庁内局)


大阪英語学校址
明治天皇聖蹟

 この場所に明治七年(1874)十月、大阪英語学校が設置された。起源は、明治二年(1869)、大阪天満に開設された大阪府立洋学校に遡る。この学校では、単に語学だけでなく、外国語による一般教科目の授業が行われ、広く西日本各地から生徒が集まった。大阪英語学校という名称は、明治十二年(1879)まで続いたが、その後次々と名称が変わり、明治二十二年(1889)には学校そのものが京都に移され、やがて京都高等学校(のちの京都大学)へと発展していった。
 この付近に高島鞆之助旧宅があった。周辺を歩いてみたが、それを表す石碑らしきものは発見できなかった。

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大阪城公園 Ⅲ

2018年09月21日 | 大阪府
(大阪城つづき)


号砲

 大阪城の入口に一つの青銅砲が置かれている。この青銅砲は、文久三年(1863)、幕府の命を受け、美作津山藩の鋳工百済清次郎らが製造し、大阪天保山砲台の備砲として据え付けられていたものである。明治三年(1870)以降、時刻を知らせる号砲として用いられ、始めは日に三度、明治七年(1874)からは正午のみ空砲が大阪市内に轟き渡った。火薬節約等の理由で大正十二~三年(1923~24)頃、廃止された。
 この青銅砲を見るために大阪城を再訪した。青銅砲は、大阪城の入口に置かれていて、入場料(六百円)を支払わないと見ることができない。せっかくだから天守閣にも登ってきたが、大勢の外国人観光客(そのほとんどは中国人もしくは台湾人である)がエレベータに並んでいたので、何ごとも並ぶのは嫌いな私は八階まで階段で上った。さすがに軽い筋肉痛になった。


京橋口定番屋敷跡

 京橋口には定番(じょうばん)屋敷があった。定番屋敷とは、幕府の要職の一つである、大阪定番に就任した大名のための屋敷(公邸)である。大阪定番は定員が二名で、そのうち京橋口定番は、京橋口の内側に屋敷をもち、京橋口の守衛のほか、玉造口定番とともに城に務める下級役人を統率し、大阪城代を補佐して西日本の支配にも関与した。敷地内には公務を行う表御殿、家族が暮らす奥御殿が建ち、家臣の詰める小屋などもあったが、いずれも明治維新の大火によって焼失し、跡地には軍の士官学校の施設が作られた。


南仕切門跡・太鼓楼跡


 二の丸と西と南の区域は石垣によって仕切られ、その通路にあたる場所にあったのが、南仕切門である。門の西側石垣の上には太鼓楼と呼ばれる二層の櫓があった。ともに徳川幕府による大阪城再築工事の最終段階にあたる寛永五年(1628)に創建されたと考えられる。いずれの建物も慶應四年(1868)の明治維新の大火によって焼失した。


大阪城炎上の図

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天満橋 Ⅴ

2018年09月21日 | 大阪府
(天満橋ニュースカイハイツ)


三橋楼

 三橋楼は、淀川にかかる難波橋、天神橋、天満橋の難波三大橋を見下ろす景勝地にあった料理旅館で、幕末には高級料理屋として知られた。
 明治八年(1875)一月八日には、この料亭で大久保利通と木戸孝允との間で十時間にわたる会談が行われた。この時点で両者合意には至らなかったが、これが三権分立と明治政府の立憲体制に向けての方針を決めた大阪会議(同年二月十一日開催)に向けて、最初の意見交換の場となった。
 明治十五年(1882)、三橋楼の敷地、建物は日本ハリストス正教会の所有となり、明治末年にはビザンチン様式の聖堂が建設された。昭和二十年(1945)の空襲で焼失し、吹田市に移転している。

(追手門学院)
 追手門学院は、その前身を大阪楷行社附属小学校といい、明治二十一年(1888)、薩摩出身の高島鞆之助が「国家有為の人材の育成」を目指して、大阪偕行社(陸軍将校の倶楽部)と在阪の財界人の支援を受けて設立された学校である。明治三十三年(1900)の小学校令、明治四十年(1907)の同令改正に対応して、小学校規則を変更し、私立小学校施行規則に即した学校教育を行った。この規則改正以降、将校倶楽部を母体としながら、軍人の子弟の占める割合は非常に少なくなった。大正四年(1915)当時の学報によれば、財界、法曹界、医学関係者子弟等が八割以上を占めるに至っている。終戦直後の昭和二十二年(1947)、大手前学園小学部、同中学部が設立され、同年十一月には追手門学院に改称された。
今年(平成三十年(2018))、創立三十年を迎えることになる。


追手門学院


大阪偕行社附属小学校跡地

 本当は、学校内にある高島鞆之助像の写真を撮りたかったのだが、警備員の厳しい目に退散を余儀なくされた。

(大阪市合同庁舎)


東町奉行所址

 大阪は幕府の直轄地であり、老中支配の大阪町奉行が、警察・司法・行政の任にあたった。東西に奉行所がおかれ、一か月交替で執務したといわれる。西町奉行所は、現在の本町マイドーム大阪周辺にあったとされる。

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梅田 Ⅱ

2018年09月21日 | 大阪府
(太融寺)
 今年(平成三十年(2018))の夏休みは、京都の実家を拠点に大阪、滋賀、福井、奈良そして京都市内の史跡を回る計画をたてた。初日は久しぶりに大阪である。真夏の太陽が容赦なく照りつけ、とても暑い日であった。ずっと帽子をかぶっていたが、帰宅したときには顔は真っ赤かに日焼けしていた。


太融寺


國會期成同盟発祥之地

 最初の訪問地は、東梅田の太融寺である。境内には淀殿の墓がある。寺の周囲はラブホテル街となっている。
 明治十三年(1880)、大阪で国会期成同盟結成大会が開かれ、国会開設の請願書と国民的運動の方向が決定された。この大会は、同年三月十五日、北久宝寺町喜多福亭で始まり、十九日、会場を太融寺に移し、四月八日まで白熱した議論が続けられ、その後の全国的な運動の発展に画期的な意義をもった。故にこの寺は国会期成同盟の発祥の地であり、自由民権運動の飛躍の場所として歴史に刻まれることになった。
 昭和六十年(1985)、自由民権百年を契機に太融寺境内に「国会期成同盟発祥之地」記念碑が建立された。

 国会期成同盟発祥之地の横に横綱玉の海の碑がある。玉の海は愛知県の出身とされているが、生まれは大阪市であった。その関係で太融寺境内に記念碑が建てられたのであろう。
 北の冨士のライバルとされ、大鵬引退後は「北玉時代」と呼ばれるが、虫垂炎により二十七歳という若さで急逝した。ムラっ気のある北の冨士と比べると安定感があった。玉の海が亡くなった時、私はまだ小学生であったが、あの時の衝撃は今も忘れられない。


第五十一代横綱 玉の海正洋之碑

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蔵前 Ⅳ

2018年09月14日 | 東京都
(鯉寺 龍寶寺)


龍寶寺

小見川藩主内田家の墓所を訪ねて、蔵前4‐36‐7の竜宝寺を訪ねた。この寺の近くには「川柳発祥の地」石碑があり、境内には、川柳の名前の由来となった柄井川柳の墓や石碑などが建てられている。墓地はさほど広くなく、十分もあれば一周できる。内田家の墓を見付けることができないまま撤収することになった。ちょうど寺の方と出会ったので、小見川藩主内田家の墓を探している旨を伝えると、
「近くにもう一つ龍寶寺があるので、そちらではないでしょうか。よく間違えられるんです。」
ということで、鯉寺龍寶寺への行き方を丁重に教えていただいた。ここから数百メートルほど北上した場所にある(台東区寿1‐21‐1)。こちらの寺は、本堂の前に鯉を供養するための鯉塚があり、鯉寺とも呼ばれている。
 墓地は、道を挟んで向い側にある。その一番奥に最後の藩主にして子爵家初代内田正学以下内田子爵家累代の墓があった。蔵前の竜宝寺で寺の方と出会わなければ、見つけられなかっただろう。偶然に感謝。


子爵内田家累代之墓
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