史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

小牛田

2010-09-04 19:05:05 | 宮城県
(満徳寺)
 息子が石巻線の始発に乗るというので、早朝五時に古川のホテルをチェックアウトして、小牛田(こごた)駅に向かった。
 この日のターゲットである青森県八戸方面にそのまま向かう手もあったが、せっかくなので小牛田駅に近い満徳寺を訪ねることにした。満徳寺は、現在の住所表記でいうと、大崎市松山という地域に属するが、かつて松山は小さいながら仙台藩の支藩であった。仙台藩領はいくつもの支藩に分かれていた。松山は、茂庭氏の城下で、戊辰戦争に際して、本藩に従って松山でも一隊を編成して参加している。


満徳寺


戊辰戦役招魂之碑

 満徳寺境内には、明治二十三年(1890)建立の松山隊の出兵を記念した戊辰戦役招魂之碑がある。

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一関

2010-09-04 18:35:36 | 岩手県
(一ノ関駅)
 JR一ノ関駅(息子によれば、地名は一関であるが、JRの駅名は一ノ関と表記されているらしい)を出ると、三人の胸像が一つの台座に乗っているという、全国的にも珍しい像がある。「大槻三賢人の像」である。三賢人とは、大槻玄沢、大槻磐渓、大槻文彦の三人のことである。


大槻磐渓胸像

 大槻磐渓は、享和元年(1801)に江戸で生まれた。父は大槻玄沢。幕府の昌平黌に十年学んだあと、畿内、長崎を周遊し、高島秋帆、頼山陽らと親交を結んだ。天保十三年(1842)に仙台藩侍講。ペリー来航時には開国論を主張して、老中阿部正弘に書簡を送って、ロシアとの国交の必要を説いた。文久二年(1862)、仙台藩藩校養賢堂の学頭副役に就任した。磐渓は攘夷の不可能を主張し、仙台藩佐幕派但木土佐らを理論的に支援した。慶応四年(1867)、慶喜追放反対の建白書を起草。仙台藩降伏後は、入獄を命じられたが、その後赦され東京に住んだ。明治十一年(1878)、七十八歳にて死去。


大槻玄沢胸像

 大槻玄沢は一関藩出身の蘭学者。一関藩医大槻玄梁の子として宝暦七年(1757)に生まれた。号は磐水。杉田玄白、前野良沢という二人の師から一字ずつもらって玄沢と称した。安永七年(1778)に江戸に遊学し、杉田玄白、前野良沢に師事した。天明五年(1785)には長崎に留学。その後、本藩である仙台藩の藩医に推挙され、江戸詰めとなる。この頃、私塾芝蘭堂を開き、多くの人材を育てた。生涯に三百を超える訳術書を著した。文政十年(1827)死去。玄沢以降、大槻家からは磐渓、文彦(国語学者)など、著名な学者を輩出した。

(祥雲寺)


祥雲寺

 祥雲寺は、仙台藩ニ代伊達忠宗側室房姫が開基で、初め房姫の命により、その子供であり、田村家中興初代田村宗良が、当初岩沼に大慈寺として開創した。ニ代田村建顕のとき一関に所替えとなり、大慈山祥雲寺と改められた。一関藩主田村家の菩提寺である。


田村崇顕公之墓

 田村崇顕(たかあき)は、一関藩第十一代藩主。慶応四年(1868)、戊辰戦争の責任を取る形で、前藩主田村邦栄が隠居させられたため、急遽藩主の座を継いだ。版籍奉還後は藩知事にも就いた。大正十一年(1922)、東京にて死去。


戊辰戦役生還者姓名碑


戦死舊一関藩士碑

 祥雲寺の山門を少し下がった駐車場にいくつか石碑が並んでいる。うち二つが戊辰戦争に関するものである。

 一関藩は、本藩仙台藩とともに奥羽越列藩同盟に参加し、秋田での戦争にも派兵したが、仙台藩が降伏すると軍を引き返し、藩主邦栄は祥雲寺に謹慎した。のちに三千石を減じられ、藩主は隠居という処分を受けた。

(龍澤寺)


龍澤寺

 JR山ノ目駅の傍にある龍澤寺は、文治二年(1186)に建立されたという古刹である。火災や水害に遭いたびたび場所を変え、現在地に移ったのは天和二年(1682)のことという。龍澤寺の駐車場には黒御影石の大きな「大槻玄沢顕彰碑」が建てられている。


正四位大槻玄澤先生顕彰碑

 岩手、青森の史跡を訪ねた今回の旅はここまでである。この四日間で撮影した写真は二百枚ほどで、昨年、会津若松を旅したときの六百枚には遠く及ばない。その代わりこの間の走行距離は二千六百㎞を超えた。振り返ると、ずっとハンドルを握っていたような気がする。帰路、東北自動車道では激しい渋滞が発生していることが報じられていたので、仙台から常磐自動車道経由で帰ることにした。五時に一関を出発して、大きな渋滞に遭うことなく、深夜一時過ぎには自宅に帰り着くことができた。さすがに疲れたのだろう。途中から息子は助手席でずっと寝ていた。

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弘前

2010-09-03 22:15:14 | 青森県
(弘前城)


弘前城

 弘前城は、津軽を統一した津軽為信によって計画され、二代藩主津軽信枚によって慶長十六年(1611)に完成された城である。築城当時、五層の天守閣が設けられたというが、築城から十六年経ったとき、落雷により焼失した。文化七年(1810)、本丸にあった辰巳櫓を解体して、現在の三層の天守閣が建造された。全国に城跡は多いが、江戸時代の建造物を現在まで伝えている城郭はそれほど多くない。弘前城は東北地方では唯一の江戸時代から現存している天守となっている。


菊池九郎先生碑

 弘前城の一角に菊池九郎を顕彰する石碑が建てられている。菊池九郎は、弘前藩士。早くに父を失い、賢母のもと育てられた。藩学稽古館を経て、書院番、小姓を務め、幕末には奥羽各藩の間を奔走した。東京、鹿児島に留学後、帰郷して東奥義塾創設に尽力した。のち郡長、県会議員を経て、明治二十二年(1889)、初代弘前市長に選ばれた。翌年には衆議院議員、明治三十年(1897)山形県知事の後、再び懇請されて弘前市長となった。昭和元年(1926)、一月一日、年八十で没。


弘前城追手門

 弘前藩(通称 津軽藩)は、現在の青森県西部を領地とする外様藩である。戦乱が東北に及ぶと盛岡藩等と同調して当初奥羽越列藩同盟に参加したが、早々に離脱して新政府軍に加担した。この功により、藩主津軽承昭に賞典禄一万石が与えられたが、その後、弘前市民と盛岡市民は犬猿の仲になったとか…。

(弘前市立観光館)


稽古館跡地

 弘前城の南側、現在市立観光館のある場所にかつて稽古館があった。稽古館は、寛政八年(1796)津軽藩九代藩主寧親のとき開かれた藩校である。


旧東奥義塾外人教師館

 東奥義塾は、藩校稽古館を母体として、明治五年(1872)に菊池九郎(初代弘前市長)らによって創立された私立学校である。新時代を担う人材を育成するため、英学主体の教育を実施し、宣教師が次々と着任して教師を務めた。昭和六十二年(1987)まで東奥義塾高校として現弘前市立観光館の場所に存続していたが、このとき校舎は移転して建物は弘前市に寄贈された。この建物は明治三十三年(1900)に焼失した初代の外人教師館に代わって再建されたものである。

(青森地方裁判所)
 青森地方裁判所の前の石碑は、明治十四年(1881)の東北巡幸の際、明治天皇が弘前を訪れたことを記念したものである。


明治天皇御臨幸之所

(養生幼稚園)
 嘉永五年(1852)、宮部鼎蔵とともに東北遊歴に出た吉田松陰は、三月一日、弘前に入り津軽藩士伊東広之進(号は梅軒)を訪い、国事や津軽藩の軍事、海防について意見を交わした。当時の建物と部屋が松陰室と名づけられ大切に保存されている。


松陰室

 松陰室の内部見学には事前予約が必要。残念ながら今回予約はしていなかったので、外観の写真のみである。

(伝統的建造物群保存地区)


伊東家

 弘前城北側に伝統的建造物群保存地区と呼ばれるエリアがある。関東でいえば埼玉県川越、四国では愛媛県の内子、或いは山口県の萩のようにタイムスリップを楽しめる空間かと期待したが、伝統的建造物と呼べるような家屋は数軒しか残っておらず、やや期待外れであった。

(薬王院)


薬王院

 箱館戦争終結後、降伏した新選組隊士は青森に護送され、斬時滞留したのち、明治二年(1869)六月九日から約一ヶ月半にわたり、弘前の薬王院に収容された。その後、青森の蓮華寺、さらに十月には再び箱館の弁天台場へ戻された。弁天台場での謹慎生活は明治三年(1870)四月まで続いた。

(宗徳寺)


宗徳寺

 弘前市西茂森一帯は、弘前藩の政策で市内の寺院が集められた寺町となっている。その一角に所在する宗徳寺は、かつて耕春院と称していた。箱館戦争後、新選組の安富才助は一時この寺に収容された。
 安富才助は、足守藩(現岡山県)の出身といわれ、元治元年(1864)の江戸における隊士募集に応じて新選組に加入している。安富才助は隊の事務方として次第に重用されるようになった。鳥羽伏見の戦争以降、隊の経費の出納や負傷した隊士の治療費、更には小荷駄方として物資の輸送手配まで激務に追われた。一時近藤勇の助命のために江戸に向かった土方に代わって新選組を率いて会津に入った。箱館政府では、土方の補佐役である陸軍奉行添役に就いている。箱館政権が降伏すると、安富才助はほかの新選組隊士とは別に耕春院に監禁され、その年の夏には東京へ護送されている。東京でも厳重に身柄を拘束され、年末には出身藩である足守に送られた。安富才助がほかの新選組隊士とは別の取り扱いを受けた背景には、箱館政府の要職にあったということが重視されたのだろう。

(法立寺)


法立寺

 箱館で降伏した旧幕軍兵は、明治二年(1869)六月、青森を経て弘前に送られ、法立寺、本行寺、耕春院など、市内の七ヶ寺に預けられた。

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黒石

2010-09-03 21:44:22 | 青森県
(感随寺)
 黒石市の感随寺には、推定樹齢三百年というサルスベリの大木がある。本堂前で美しいピンク色の花を咲かせている。


感随寺

 感随寺も、やはり箱館府知事清水谷公考が本営を置いている。

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青森 浪岡

2010-09-03 21:41:23 | 青森県
(玄徳寺)


玄徳寺

 青森市浪岡の玄徳寺は、清水谷公考(箱館府知事)が陣を置いた。門前にはそのことを記念した石碑が建てられているが、あまりに達筆で、「戊辰戦乱」のあと何と書いてあるのか読み取れない。

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青森

2010-09-03 21:37:25 | 青森県
(正覚寺)
 東北史跡旅行の最終日、盛岡市内のホテルを早朝出発し、一路青森を目指した。途中、激しい雨に襲われたが、幸いにして青森に入ったときには雨は上がった。

 青森市は、現在では県庁の所在する県都となったが、弘前藩の商港として発展した町である。明治四年(1871)に弘前県が誕生したとき、大参事に就任した野田豁通の建言により県庁所在地になったという。近代以降は高速道路や国道が集中し、青函連絡船の発着する交通の要衝として発展を遂げた。

 青森市内の正覚寺には大正六年(1917)、戊辰戦争五十年慰霊祭がこの寺で催された際に建立された戊辰殉難会津藩士五十年祭記念碑が残されている。


正覚寺


戊辰殉難会津藩士五十年祭記念碑

(蓮華寺)


蓮華寺

 蓮華寺には、徳川光圀が愛用し、藤田東湖が拝領したという茶釜が伝わる。藤田東湖から交友のあった蓮華寺住職角田尭現に贈られたものという。
 箱函戦争降伏後、新選組隊士たちは青森、弘前と収容先を変え、明治二年(1869)数カ月を蓮華寺で過ごした。

(蓮心寺)


蓮心寺

 箱館で降伏した榎本軍に属した新選組隊士や額兵隊星恂太郎らは蓮心寺で謹慎させられている。

(明誓寺)


明誓寺

 箱館一本木関門における土方歳三の死をもって、大方の新選組史は幕を閉じるが、実は新選組はその後も存続していた。土方の死後、相馬主計が最後の新選組隊長に就いた。その時点で新選組隊士は九十二名を数えたという。その二日後、榎本軍は降伏。新選組は箱館称名寺に預けられた後、明治二年(1869)五月二十二日、青森に送られ油川の明誓寺に収容された。

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八戸

2010-09-03 20:28:05 | 青森県
(三八城公園)
 八戸城跡は、現在三八城(みやぎ)公園となっている。城跡と呼べるような遺構はほとんど残っていない。唯一の遺構として、公園入り口の向かい側にある南部会館(旧南部子爵邸)に角御殿表門が移築されている。

 八戸藩は、奥羽越列藩同盟に加わる一方で、新政府軍にも協力的態度を示すなど、日和見的かつ優柔不断であった。藩主南部信順は、島津家の出身であり、この縁のためか、同盟に加わったにも関わらず、戦後減封処分を免れた。


八戸城跡


八戸城趾碑

 八戸城址碑。題字は子爵南部利克(としなり)。昭和三年(1928)、三八城公園の開設と、三八城神社の改築を記念して建てられた。

(南部会館)


八戸城角御殿表門

 南部会館前に数少ない八戸城の遺構が残されている。この門が建てられたのは、寛政九年(1797)のことで、その後、嘉永四年(1851)、明治四十二年(1909)に修理された棟札がある。昭和五十五年(1980)創建当時の形に復元された。

(明治天皇八戸行在所舊阯)


明治天皇八戸行在所舊阯

 明治十四年(1881)、明治天皇が八戸を訪れた際に宿泊したことを記念した石碑である。この碑が聖蹟と指定されたため、この石碑を避けるかっこうで道路が作られロータリー状となっている。

(館鼻公園)


館鼻公園グレットタワーみなと(展望塔)からの眺め


蒲生家之墓

 八戸港を見下ろす館鼻公園内の墓地を入ったところに、会津藩士蒲生誠一郎の墓がある。蒲生誠一郎の妻は、会津戦争で戦死した中野竹子の妹、中野優子である。墓石裏側には斗南藩士蒲生誠一郎の行年の傍らに「ゆう子 昭和六年四月十四日歿 行年七十九歳」と記されている。
 夫蒲生誠一郎は、維新前山浦鉄四郎といって一時期会津藩から新選組に派遣されていた。会津籠城戦に参加して降伏した後、斗南に移住。明治十二年(1879)に三十六歳で亡くなっている。


忠魂之碑

 館鼻公園にも忠魂碑があって、やはり奥保鞏の書である。

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七戸

2010-09-03 20:11:44 | 青森県
(七戸城跡)
 七戸城の歴史は南北朝時代まで遡るといわれるが、江戸時代には盛岡藩の直轄となり、城内に代官所が置かれた。七戸藩(盛岡新田藩)は、本藩に従って戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟して新政府に抵抗したため、明治二年(1869)、前藩主信民は強制隠居させられ、南部信方が家督を継いだ。


史蹟 七戸城阯

(青岸寺)


青岸寺 山門

 青岸寺の山門は、七戸城本丸城門を移築したものである。当寺の山門は、二層の楼門で上層には梵鐘を吊り、門の両脇には袖門があり仁王像が置かれていた。大正末期、腐朽が著しく上層部と袖門を取り去り現在の形に整えられた。


招戦没諸士之魂碑

 青岸寺境内の招戦没諸士之魂碑は、大正六年(1917)に戊辰戦争五十年祭に際して旧会津藩士の手によって建立されたものである。


小野政之助墓

 小野政之助は津軽藩士である。墓碑によれば、小野政之助は野辺地の戦争で銃創を負い南部藩兵に捕らわれたが、首を刎ねることを請うた。南部藩兵はその勇に感じ入り、医者を遣わして治療させたが、その甲斐なく没したという。

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十和田

2010-09-03 20:02:56 | 青森県
(澄月寺)


澄月寺

 十和田の中心地にある澄月寺境内には、明治二十三年(1880)、戊辰戦死者三十三回忌に際して、当地の会津会員が相図って建立した招戦没諸士之魂碑がある。このとき旧藩主松平容保は次の歌を下賜した。

 今もなほしたう心はかわらねど
 はたとせあまり世は過ぎにけり


招戦没諸士之魂碑

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五戸

2010-09-03 19:57:46 | 青森県
(高雲寺)


高雲寺


英烈寺殿信雄良節居士
明鏡院殿萬室貞壽大姉
霊光院武嶽義鏡禅童子

 会津藩士内藤介右衛門の墓。諱は信節。会津藩家老の家に生まれた。元治元年(1864)若年寄に進み、慶応二年(1866)には家老となった。会津戦争では三の丸にあって家老梶原平馬(介右衛門の実弟)らと藩政を預かった。若松開城にあたっては、藩を代表して式に列席した。明治元年(1868)十月、藩主松平容保と嫡子喜徳に従って上京し、萱野権兵衛らと久留米藩有馬慶頼の屋敷に幽閉された。明治三年(1870)五月、処分が解かれ、斗南に移住し五戸にて開拓や漢学教授によって生計を立てた。明治三十二年(1899)、六十歳にて死去。


涼雲院貞閑良英居士
量壽院徳室貞範大姉
曹源院範岳儒翁居士(倉沢平治衛門の法名)
涼源院操月妙白大姉

 倉沢平治衛門の墓である。会津藩士で維新前は右兵衛と称していた。戊辰戦争後に斗南に移り、斗南藩小参事を務めたこともあった。五戸町中ノ沢で私塾中ノ沢塾を開き、多くの人材を養成した。明治三十三年(1900)没。七十六歳。


諏訪伊助妻(左)
元会津藩士(右)

 高雲寺墓地には、ほかにも無名の会津藩士の墓がある。

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