史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

羽生

2010年03月21日 | 埼玉県
(清水卯三郎生誕の地)


清水卯三郎生誕の地

 羽生市の商店街の中ほどに「清水卯三郎生誕の地」がある。当地は、卯三郎の実家である造り酒屋の跡である。
 清水卯三郎は、文政十年(1829)に、清水弥右衛門誓一の三男としてこの地に生まれた。母は、根岸友山の妹、お貞。二十一歳のとき上京し、文久三年(1863)の薩英戦争では通訳として薩摩とイギリス間の交渉に奔走した。また、慶応三年(1867)に開かれたパリ万国博覧会では、商人出身としては唯一人使節団に参加した。帰国後は、浅草に瑞穂屋商店を開き、西洋物品の輸入業を営んだ。明治八年(1875)、日本では初めてアメリカより歯科器材を輸入し、関連する医書を翻訳出版するなど、我が国の近代歯科医学の発展に寄与した。

(羽生市商工会)


清水卯三郎像

 商店街の中にある羽生市商工会の前に、平成十九年(2007)に清水卯三郎の功績を顕彰するため胸像が建てられた。

(正光寺)
 かつて清水卯三郎の墓を探して、千歳烏山の乗満寺の墓地を日暮れまで歩き回ったことがあるが、平成十年(1998)に清水家の菩提寺である羽生の正光寺に改葬されていた。今回羽生を訪問して、ようやく清水卯三郎の墓と対面できた。


正光寺


志みづ うさぶろう の はか

 清水卯三郎は、国民への知識の普及を図るために、漢字を廃し全面的に平仮名書きによる表記をすべきと主張する「かな書き論者」であった。珍しいかな書きの墓碑は、卯三郎本人による自筆である。


墓史


清水家墓地

 正光寺の広い墓地内に、卯三郎の実家清水家の墓地がある。卯三郎の祖父、清水誓信は利根川氾濫後の復旧や備前堀の改修といった地域の治水事業など、酒造業で成した財を惜しげなく社会事業に注いだ。天保三年(1832)に五十五歳で病没。墓碑は、子の誓一(卯三郎の父)が天保五年(1834)に建てたものである。


本譽仁誓信士 操譽貞照信女
(清水誓信の墓)

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加須

2010年03月21日 | 埼玉県
(小田熊太郎生地)


小田熊太郎生地

 小田熊太郎は、天保十四年(1843)北埼玉郡常泉村(現・加須市常泉)の名主福島久兵衛の長男として生まれた。父久兵衛は、学問を好み、東條一堂に師事し、同門の桃井可堂(儀八)とも親しかった。文久三年(1863)父が病没し家督を継いだ熊太郎は、父の感化を受け尊攘活動に身を投じることになった。桃井可堂は、密かに同志を募り赤城山麓に挙兵し、横浜の異人街を焼き打ちする計画を立てた。熊太郎も、他日生家に累が及ばぬよう姓を「小田」と改め、書簡や詩稿などを全て焼き払い、家を去った。しかし、計画は頓挫し、桃井可堂は川越藩に自訴して、翌年食を断って獄中に死んだ。
 熊太郎は水戸に走り、元治元年(1864)の天狗党の挙兵に参加した。熊太郎は藤田小四郎の軍に属し、下妻の戦闘では幕軍本陣多宝院の襲撃などに抜群の活躍があったという。天狗党の反乱は、水戸藩内の内訌の様相を呈してきたため、熊太郎らは分離して素志である横浜襲撃に向かったが、宍戸八幡台(現・友部町)付近で包囲され囚われの身となった。熊太郎は、水戸吉田原で斬首のうえ梟首された。ときに二十二歳であった。


贈正五位小田熊太郎生地

 小田熊太郎の遺骸は、実弟の手によって常泉の地に改葬され、小田霊社として祀られることになった。


小田霊社

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鴻巣

2010年03月21日 | 埼玉県
(安龍寺)


安龍寺

 常見一郎は、足立郡安養寺村(現・鴻巣市安養寺)の名主の分家の出身で、神道無念流の剣を修めた。文久三年(1863)、幕府が徴募した浪士組に参加し上洛したがその後の動向は不明。安龍寺の常見家の墓域に建てられた常見一郎の墓には、明治二年(1869)八月二日に死去したと記されている。


大豪剣雄居士(常見一郎の墓)

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熊谷

2010年03月21日 | 埼玉県
(根岸家長屋門)


根岸家長屋門

 根岸家は、江戸中期以降、代々冑山村、箕輪村の名主を務め、八十町歩以上の土地を有する豪農であった。偉容を誇る長屋門は、江戸後期の建築と推定されている。

 根岸友山は、文化六年(1809)、根岸家の長男として生まれ、儒学を山本北山、寺門静軒に、剣術を千葉周作に学び、北辰一刀流に長じた。自邸内に振武所を設けて武術を教え、三餘堂では寺門静軒、安藤野雁らの学者を招いて郷党の勉学に資した。文久三年(1863)幕府の浪士組に応募し上洛したが、ほどなく江戸に戻って新徴組に参加した。その後は郷土の治水や青年の育成に尽くした。明治二十三年(1890)年八十二で没。


熊谷市史跡 三餘堂跡

 長屋門を入って左手が三餘堂跡地である。残念ながら建物などは残っていない。

(冑山共同墓地)


根岸友山翁 室澤子刀自 合葬墓


根岸武香君 内直子刀自 合葬墓

 根岸武香(たけか)は、天保十年(1839)、根岸友山の二男に生まれた。安藤野雁に国学、寺門静軒に漢学を学び、また千葉周作の門に入り剣道を修業した。維新の時は、父とともに京都で国事に奔走した。明治後は弾正台巡察属、埼玉県八等属、のちに埼玉県会議長を務めた。明治二十七年(1894)貴族院議員に勅撰された。その一方で考古学者として吉見百穴の発掘保存に努めた。明治三十五年(1902)六十四歳で死去。


寺門静軒先生之墓

 寺門静軒は、寛政八年(1796)、江戸に生まれた。幼くして両親を失い、苦学して儒学を修めた。自ら塾を開き水戸家への仕官を志望したが果たせず、「江戸繁盛記」が幕府の忌諱に触れて江戸払いの処分を受けた。以後、毛武(新潟)や妻沼(現熊谷市)など各所を転々としたが、死の一年前に旧知の根岸友山に招かれ、三餘堂で易経を講じた。慶応四年(1868)、根岸家で没した。七十三歳。死の十九年前に自ら墓誌を書くなど、奇行と美行、超風脱俗の諸要素の混在した通人であり、変人であったという。

(吉見神社)


吉見神社


須長家

 文久三年(1863)、幕府の徴募した浪士組に、この地域から参加した中に根岸友山とともに徳永大和という人物がいる。徳永大和は、相上村の吉見大神宮の神官と合わせて高本村の高城神社の神主も兼職していた。当時、根岸家の所有地の管理を友山から委託されたともいわれる。浪士組は在京わずか二十日にして江戸に帰還したが、徳永大和は間もなく脱退して郷里に戻った。慶応二年(1866)六月、米価の値下げと高利の引き下げを求めて、一揆が蜂起して冑山の根岸家や相上の須長家を襲ったが、徳永大和は根岸友山と協力して一揆を鎮静化した。維新後は、神葬祭運動に奔走し、大宮氷川神社の神官に転じたという。

(高城神社)


高城神社


高城神社殿再建記念碑

 高城神社の境内にある再建の碑には、「明治中期に社掌徳永豊洲氏ありしが、大宮氷川神社神職に転じてその後、宮崎信量氏その職を継ぎ…」とある。豊洲は徳永大和の号である。

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「幕末維新埼玉人物列伝」 小高旭之著 さきたま出版会

2010年03月17日 | 書評
幕末維新期に活躍した埼玉出身の四十七人を列伝形式で紹介する一冊。現在の埼玉県域は、川越藩、岩槻藩、忍藩など、中程度の規模の藩が割拠し、言わばモザイク状であった。その結果、この地域から実に多種多様な人物が輩出されることになった。渋澤栄一や尾高新五郎(藍香)、渋澤平九郎、渋澤成一郎らは比較的名前が売れている方だろう。彰義隊を援助した覚王院義観、新選組の前身である浪士組にも参加した根岸友山、高野長英を匿った高野隆仙、清河八郎の同志西川練造、出流山に浪士を糾合した竹内啓…ここら辺りまでは聞いたことがある名前であるが、他はこの本で初めて知ったような次第である。埼玉県は、薩長土肥のように維新を主導したわけではないが、この本を読むと大事な役回りを果たしたことが理解できる。この本のように、各都道府県別に維新人物列伝集ができたら、きっと面白い読み物になると思うのだが…。
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大月

2010年03月15日 | 山梨県
(全福寺)


全福寺

 全福寺の住職斎藤秀全は、近藤勇と同郷という縁もあって、甲陽鎮撫隊を寺に迎え入れ宿を提供した。官軍との衝突を憂慮した幕府は、大月の井上八郎を鎮撫使に任じた。井上は説得に努めたが、強硬派は説得に応じず脱走した。井上は直ちに追討し、山中湖付近で合戦となった。井上は首謀者十余名を斬り伏せたが、同じく徳川家に忠誠を誓う者に対し同情に耐えず、彼らの耳を削いで全福寺に持ち帰った。秀全は耳塚を建立して懇ろに葬ったという。昭和六十二年(1987)この地に耳塚観音が建てられた。


耳塚観音

(山本周五郎生誕の地)


山本周五郎生誕之地碑

小説「樅の木は残った」で有名な山本周五郎の生家跡である。山本周五郎が生まれたのは明治三十六年(1903)。

(花咲宿)


星野家住宅
明治天皇花咲小休所址 本陣

 星野家は、代々名主をつとめる家柄で、下花咲の本陣だけでなく、養蚕、織物、酒造、金融など手広くてがけていた。邸内には、明治十三年(1880)の明治天皇の行幸の際に使われた部屋が当時のまま残されている。

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甲州

2010年03月15日 | 山梨県
(駒飼宿)


史跡 駒飼本陣跡

 慶応四年(1868)三月四日、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は駒飼宿に到着。ここで甲府城が既に東山道軍の手に落ちていたことを知った。近藤はこの地で軍議を開き、同月六日官軍と戦火を交わすが、圧倒的な兵力の差は如何ともし難く潰走した。


明治天皇御小休所址

 甲州街道沿いには、かつての雰囲気を残す宿場町が点在している。現在の国道20号線がほぼ甲州街道と重なっているが、場所によっては国道から離れることになる。そういった道の方が、昔の街道の風情が残っている。
 駒飼宿も旧甲州街道にあった宿場町である。本陣跡には、明治天皇御小休所址碑が建っているが、初狩や花咲、猿橋にも明治天皇が行幸したときの記念碑がある。


史跡 甲州道中 脇本陣跡

 明治天皇は、明治九年(1876)の東北・北海道巡幸を皮切りに、以後毎年のように日本全国を巡幸した。明治十三年(1880)には甲州、東山道方面に巡幸した。甲州街道には、各所に記念碑が残っている。

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山梨

2010年03月15日 | 山梨県
(塔の山霊園)


結城無二三之墓

 差出磯大嶽神社のある塔の山の頂上付近は、霊園になっている。その一番高い場所に、元新選組結城無二三の墓がある。
 結城無二三は、弘化二年(1844)甲斐国山梨郡一町田中村に生まれた。最初は医学を志して江戸に出たが、その後砲術を学び幕府の講武所に入った。まもなく新選組に加入したというが、不思議なことに伝えられる新選組の名簿には、いずれも無二三の名前はない。慶応四年(1868)近藤勇率いる甲陽鎮撫隊に加わり西進したが、三月六日の柏尾の戦いで敗れた。戦後、甲府で牧羊経営に乗り出したが失敗。キリスト教に入信し、牧師として東京、浜松、山梨で布教活動に専念した。大正元年(1912)六十八歳で没。

 今、結城無二三の長男、結城禮一郎の「旧幕新選組の結城無二三」(中公文庫)を読み始めたところである。息子が語る波乱に満ちた生涯が、とても興味深い。読み終えたところで、別途感想を述べたい。

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「徳川家が見た幕末維新」 徳川宗英著 文春新書

2010年03月14日 | 書評
著者徳川宗英氏は、田安徳川家十一代当主で、徳川家は勿論、皇室とも縁戚関係にあり、先祖には島津忠義や岩倉具視がいるという凄い“血統”の持ち主である。
歴史の叙述の部分はやや退屈であったが、特別な血を有しているが故の裏話は、とても面白い。著者が学習院時代、禁門の変で責任を負って自害した益田右衛門之介と国司信濃の子孫と同級だった。そのためかどうか、学校の国史(日本史)の授業になると、幕末維新の話はうやむやのうちに終わってしまい、黒船来航から明治政府発足に話がとんでしまったという。
 エピローグで明かされるエピソードも徳川家の内側にいた人ならではの秘話である。大正初年、めまぐるしく政権交代が繰り返された。公家の西園寺から、長州の桂太郎へ、さらに薩摩の山本権兵衛へと引き継がれた。大正三年(1914)シーメンス事件で山本内閣が総辞職すると、元老会議で次期首相に徳川家達(徳川宗家十六代)に白羽の矢が立ったのである。徳川家では同族会議が開かれ、田安家や紀州徳川家の当主も会議に参加した。結論は「辞退」となったが、もしこのとき総理大臣就任を受けていれば
「大政奉還以来、半世紀ぶりの政権奪回」
となったはずである。まさか、そのまま総理大臣が征夷大将軍を拝命することはあるまいが、ひょっとしたらその後の歴史も変わったかもしれない。

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高円寺 Ⅱ

2010年03月02日 | 東京都
(東円寺)


東円寺


十三塚之碑

 上野戦争のあと、この地にまで逃れてきた彰義隊士数名が、村人との間で悶着を起こしたため、村人たちは半鐘を鳴らして人を集め、多人数で梯子伏せにしたという。大正十年(1921)、この地でリンゴ箱一杯分の遺骨が発見されたのを機に、犠牲となった隊士のために、東円寺境内に十三塚之碑が建立された。

(長延寺)


長延寺

 長延寺には、幕臣杉浦梅潭、国学者鈴木重胤らの墓がある。


杉浦家之(杉浦梅潭)墓

 杉浦梅潭は幕臣。諱は誠。壮年時代は剣を好んだ。大橋訥庵に文学、横山湖山、大沼枕山に詩を学ぶ。文久三年(1863)には将軍家茂の上洛に従って上京。慶応二年(1866)箱館奉行に任じられ、慶応三年(1867)には勘定奉行を兼ねた。明治後は外務省、開拓判官などを歴任したが、明治十年(1877)職を辞し、以来東京に住んで吟詠を楽しんだ。明治三十三年(1900)七十五歳にて病没。墓は新しく建て替えられているが、側面に杉浦梅潭(誠)が合葬されていることが記されている。

 鈴木重胤の生家は淡路国津名郡仁井村の庄屋で、代々国学を修めた。平田篤胤の門下に列したが、安政初年、学説について平田銕胤(篤胤の女婿)と反目し、安政五年(1858)、遂に絶交破門された。江戸に出て日本橋村松町のち向島小梅村に移住していたが、文久三年(1863)自宅を刺客に襲われ重傷を負って死亡した。五十二歳であった。幕吏或いは平田派の仕業ともいわれるが、真相は今も不明のままである。


鈴木重胤 配 二宮氏 墓

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