史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「廃藩置県」 勝田政治 角川文庫

2015年04月29日 | 書評
明治維新と呼ぶが、戊辰戦争における新政府軍の勝利をもって変革が一気に進んだわけでなく、ましてや明治と改元したことで維新政府が成立したわけでもなく、五箇条の御誓文が発せられたからといって日本全国が平定されたわけでもない。明治初年(特に明治四年まで)の一連の事件や政策が積み重なって、ようやく維新が成立したのである。「一連の事件や政策」のうち、最も革命的事件が明治四年(1871)の廃藩置県である。一夜にして封建的藩主が消滅したこの「事件」は、結果としてほとんど反乱や暴動が起きることなく、極めて平和裏のうちに遂行された。むしろ藩主や士族よりも、藩主が東京に移住することに危機感を覚えた農民らの一揆が多発したが、それも新政府の軍事力により程なく鎮静化した。ことの重大性の割に大きな混乱なく終わったことに、何よりも在住外国人が驚いたようである。彼らにしてみれば一幕のマジックを見る如くであった。
当時、福井藩校明新館にいたアメリカ人グリフィスは、次のとおり書き残している。
――― 封建制度が死んだのだ。階級制度が消えつつある。国内の平和と秩序は驚くほどだ。進歩はどこへ行っても合言葉だ。これが神のみわざでなくてなんだろう。(『明治日本体験記』)

廃藩置県に至るまでに、よく知られるように明治二年(1869)には版籍奉還が行われ、それまでの藩主は知藩事に任じられた。実質的には変わらないように見えるが、以来藩は藩主の所領ではなくなり、藩主も世襲ではなくなった。ここから一足飛びに廃藩置県が断行されたのではなく、版籍奉還以降、府藩県三治制が定着する。
府藩県三治制というのは、維新政府の直轄地で所司代や奉行が置かれていたところを府とし(主に徳川幕府の直轄地。例えば江戸府、箱館府、越後府、神奈川府、大阪府、京都府、長崎府など)、それ以外の直轄地は県となった。そして大名がいる藩はそれまでとおり大名が治めた。今も大阪と京都は大阪府、京都府と呼ばれ、他の県とは一線を画しているが、府藩県三治体制の名残である。考えてみれば大阪県、京都県でも何の不都合もない。
本書では、府藩県三治体制から廃藩置県が断行されるまでの間、様々な施策や議論が行われ、徐々に廃藩置県のコンセンサスが形成される様子を追う。しかし、実際にこの革命的政変を遂行するには、維新政府の主体である薩長土三藩が連携することが不可欠であった。明治三年(1870)十二月に、薩摩藩大参事となっていた西郷が中央政府に召喚され、土佐から板垣退助が上京することにより、ようやくその体制が整った。さらに西郷の建言により、三藩から御親兵が提供され、新政府の軍事力が強化された。廃藩置県という一大変革を実行するにはこのタイミングしかなかった。
廃藩置県を断行するに当たって、西郷隆盛の威望は絶大であった。西郷の存在抜きにこの変革の実行はあり得なかったであろう。それは西郷自身も自覚していただろうし、西郷が盾になることで、一切の反発を抑えこむことも可能となった。その結果、西郷は不平士族の圧力を一身に受けることになる。西南戦争に至る遠因が廃藩置県にもあったように思う。
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玉名 下

2015年04月29日 | 熊本県
(加治木隊殉死の地)


加治木隊殉死の地

 ペットショップJJを探して走り回っているうちに、「西南ノ役を偲ぶ会」と称する団体によって加治木隊殉死の地を書かれた札が建てられているのに出会った。住所でいうと玉名市下となる。


(ペットショップJJ)


神風連三烈士自刃之地

 今回、植木から玉東を経て、玉名さらには荒尾の宮崎兄弟の生家まで訪ねようという計画を立てていたが、実際には西南戦争の史跡を探し当てるのに時間を要し、玉東を出たときには日が傾きそうであった。最低でも安楽寺地区の松村大成・深蔵父子旧宅跡や松村大成の墓、神風連三烈士自刃碑は訪ねたいと思っていた。予め玉名市観光商工課に問い合わせ、住所を確認しておいたので、カーナビにそれをインプットすれば簡単に行き着けるはずであった。ところが、レンタカーのカーナビには当該住所が登録されておらず、近くまでは行けるものの、そこからは歩いて探し当てるしかなかった。
 近くで農作業をしていた老婆に
「松村大成旧宅跡を探しているのですが…」
と聞いたところ
「この近所には松村という家はない。」
と取り付く島もなかった。次回には必ず…。
 ペットショップJJの方は、当てもなく走り回っているうち、偶然コンビニの隣に発見した。玉名市観光商工課に教えていただいたとおり、ドックランに隣接して神風連三烈士自刃の地碑が建っていた。


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玉東 稲佐

2015年04月29日 | 熊本県
(乃木希典奮戦の地)

 二月二十二日、連帯旗を奪われた乃木希典率いる第十四連隊は、木葉まで後退した。木葉でも苦戦を強いられた乃木は、退却の途中、稲佐付近で薩軍に襲われ落馬した。この時、大橋伍長、摺沢少佐が身を挺して乃木を守り、九死に一生を得た乃木は辛うじて木葉川を渡って山田寺へ退避して隊を集結させた。


乃木第十四聯隊長奮戦阯

(熊野座神社)


熊野座神社


薩軍砲兵陣地

 高瀬の戦いに敗れた薩軍は、稲佐・木葉山に前線をしき、田原坂一帯に大要塞を築いた。木葉山の中腹にも砲台を築き、政府軍を迎え撃つが、三月三日の官軍第一次総攻撃で、本道正面より左翼に回りこまれ、包囲を突破された。薩軍は白木、境木方面へと退却することとなった。熊野座神社の本殿前に薩軍砲兵陣地と書かれた石碑がある。

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玉東 木葉

2015年04月23日 | 熊本県
(有栖川宮督戦の地)


征討総督有栖川宮御督戦阯

 明治十年(1877)二月二十七日、高瀬河畔の戦に敗れた薩軍は、山鹿・田原坂・吉次峠の戦線まで退いた。官軍は三月三日、稲佐・立岩の薩軍前線陣地を突破し、三月四日には田原坂への攻撃を開始した。同月二十日に至るまで田原坂陥落には十七日間を要した。当時、高瀬に宿陣していた征討総督有栖川宮熾仁親王は、しばしばこの高台を訪れ、戦況を視察したという。

(宇蘇浦官軍墓地)
 宇蘇浦官軍墓地には、田原坂および横平山攻防戦や木葉の戦いで戦場の露と消えた官軍将校二十五名、下士四十七名、兵卒二百四十九名、軍夫十三名と抜刀隊で知られる東京警視局巡査六十四名が葬られる。


宇蘇浦官軍墓地


明治十年之役官軍戦死者墳墓


陸軍少佐従六位吉松秀枝之墓

 吉松秀枝(ほつえ)は、土佐藩の出身。弘化二年(1845)、土佐城下に生まれた。維新前は速之助と称した。文久三年(1863)、藩兵として上洛。鳥羽伏見戦争に参加し、その後、今市、日光、会津を転戦した。会津戦争では捕えられた神保雪子に短刀を渡して自刃を助けたと伝わる。明治九年(1876)の神風連の乱では鎮台兵をまとめて鎮圧に功があった。二月二十二日、植木における戦闘で薩軍の猛撃を受けた吉松は乃木連隊長に援軍を要請した。度重なる援軍要請に、乃木は自ら伝令として吉松のもとを訪れ
「援兵の余裕などない。君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか。」
と言い放った。吉松は笑顔でこれに報いた。
「私は、ただ君の方に余力があるなら増援してもらいたいと思っただけである。ここは自分が守る。言っておくが、貴職は連隊長であり、大局を監督するのがその職務である。長くここに留まるべきではなかろう。」
恐らくこの時吉松は死を決したのであろう。決死隊二十余名を募って薩軍に対して銃剣突撃を敢行し、壮絶な戦死を遂げた。享年三十三。

(徳成寺)


徳成寺

 徳成寺にも官軍病院が置かれたため、やはり日本赤十字発祥の地を称している。
 西南戦争田原坂における激戦の時、官軍は三月中旬、木の葉の徳成寺、正念寺と境木の民家に包帯所を設け、戦傷者の治療に当たったが軍医の数が足らず、これを知った近在の三人の開業医(宗、田尻、安成)はその門弟を連れて軍医を助け、傷病兵の手当に従事した。この時、戦況視察に訪れていた元老院議官佐野常民と大給恒は、この様子を見て感激し、博愛社の結成を決意した。同年五月三日、征討総督有栖川宮熾仁親王に願い出て、即日許可された。博愛社はのちに日本赤十字社となった。


官軍病院阯


日赤発祥之地


「命水」於:西南之役

徳成寺には包帯を洗い、米を洗い、手当に欠かせないという意味で「命水」と呼ばれた井戸が残されている。

(高月官軍墓地)
 官軍墓地は熊本県内だけでも二十一ヵ所を数えるが、埋葬者九百八十、墓碑数九百七十を数える高月官軍墓地はその中でも最大規模のである。埋葬者の大半は、田原坂、吉次峠、二股および横平山の戦闘で戦死した大阪、東京、広島、名古屋および熊本鎮台兵もしくは近衛兵である。


高月官軍墓地


慰霊塔

慰霊塔は、玉東町出身の戦没者を慰霊するもので、西南戦争関係は一名。それ以外に日清・日露から第二次世界大戦の戦没者の名前が台座に刻まれている。


吉松少佐顕彰詩碑

 位田百川(よだひゃくせん)による吉松秀枝少佐を称える詩碑である。位田百川は、佐倉藩の公用人。維新後は文部省権少書記官などを務めた。詩文・書を能くし、また演劇のために種々画策、研究に努めた人である。明治四十二年(1909)七十七歳で没。
 吉松秀枝は、二月二十三日、木葉の戦いで壮烈な最期を遂げた。墓は宇蘇浦官軍墓地にある。

(櫻田惣四郎辞世詩碑)


櫻田惣四郎辞世詩碑

 桜田惣四郎は玉東町二股の森井宗善の子。十六歳の時熊本に出て、藩校時習館の居寮生となった。ついで幕府の学問所昌平黌に留学した。慶応三年(1867)、熊本の桜田東作の養子となり桜田姓となった。維新後、新政府の役人となったが、ほどなく帰国して熊本千反畑で塾を開いた。明治十年(1877)一月十五日、熊本県は惣四郎を高給で千葉中学校長に迎えようとしたが、池辺吉十郎、松浦新吉郎、佐々友房、古閑俊雄らと熊本隊を組織しその参謀となり、薩軍に投じた。この石碑は同二月、出陣に際しての辞世である。

 欲潔一身不覓栄
 豈何莫解究辞令
 甘心就死新城下
 枉得賊名孝子情

 三月、熊本隊は利あらずして吉次を敗退して、各地を転戦し、八月十七日、長井村(現・宮崎県)で降伏した。惣四郎は長崎に送られて裁判にかけられ斬罪に処された。享年五十。

(正念寺)


正念寺


官軍病院阯

 戦争で負傷した兵士を治療するために設けられた官軍の包帯所(病院)跡で、山門前に「官軍病院阯」と書かれた石碑が建っている。山門には西南戦争時の弾痕が残る。赤十字の前身、博愛社が置かれたため、境内に「博愛社発祥縁起の地」碑がある。


博愛社発祥の地


博愛 佐野常民書


西南の役官薩両軍菩提之碑

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玉東 二股

2015年04月23日 | 熊本県
(西南役官軍砲兵陣地阯)


西南役官軍砲兵陣地阯

 二股地区には、西南戦争時の官軍関係の史跡が残されている。
瓜生田官軍砲台跡は、田原坂砲撃の為に設置された野戦砲台跡である。上木葉の本営から毎日大砲が運び込まれていたという。近年の発掘調査で、大砲の轍の跡が確認されたという。

(西南役官軍本営出張所阯)


西南役官軍本営出張所阯

田原坂本道攻めに苦戦した政府軍は、三月七日仮本営(本営出張所)を二俣村に置いた。そして薩軍左翼が布陣する横平山方面に進撃を始めた。このころから薩軍は、弾薬欠乏の為か火力の勢いが衰えるようになった。しかし昼夜を問わない激しい抜刀攻撃が二俣の政府軍を苦しめたという。

(西南役官軍砲兵陣地趾)


西南役官軍砲兵陣地趾

官軍古閑砲台跡は、七本攻撃の為に政府軍が設置した野戦砲台跡である。地元では今でも「台場(だいば=砲台)」と呼ばれている。現在の果樹園となる以前から平らな土地で、政府軍砲兵が台場のために整地したものが、今もあまり変わらない形で残っていると考えられる。近年の発掘調査では、大砲の発火剤である摩擦管(まさつかん)が多く発見されており、砲台跡であったことを裏付けている。

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玉東 横平山

2015年04月23日 | 熊本県
(横平山)


慰霊碑

 横平山は、田原坂、吉次峠と並ぶ三大激戦地の一つであり、戦術的にも重要な地点であったことから、官薩両軍の激しい争奪戦が繰り広げられた。山頂付近になまなましく残る塹壕跡は激戦を物語っている。


西南役激戦跡


西南戦蹟塹壕阯

 横平山山頂まで道路が通じている。山頂には戦没者慰霊碑、西南役戦跡碑、塹壕阯碑があり、田原坂方面を見下ろすことができる。

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玉東 立岩

2015年04月23日 | 熊本県
(立岩砲台跡)


西南役薩軍砲兵陣地趾

 高瀬、寺田の戦いに敗れて退いた薩軍と熊本隊は二月二十七日より、立岩を前線として耳取山から半高山、吉次峠、三の岳に布陣した。三月三日の官軍総攻撃では、まずここ立岩が占領され、後に官軍攻撃の拠点となった。

 今回植木町から玉東町の西南戦争関連史跡を訪ねたのは、西南戦争遺蹟群連携活用保存会の戦跡マップを参考に史跡を探したが、「原倉西官軍砲台」と「薩軍三勇士の墓」はいくら探しても行き当らなかった。

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玉東 吉次峠

2015年04月23日 | 熊本県
(吉次峠)


半高山


半高山より田原坂方面を臨む


佐佐隊死守之處

 久しぶりに吉次峠、半高山を訪れた。二十年前の風景は思い出せないが、佐々友房詩碑のある公園や半高山頂上までの道が整備されていた。
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植木 豊岡

2015年04月23日 | 熊本県
(豊岡眼鏡橋)
 豊岡の眼鏡橋は、両脚の幅十一・五メートル、高さ四・四メートル。享和壬戌二年(1802)十月吉日という陰刻があり、年号のはっきりしている石造眼鏡橋では県下最古のものと言われる。


 官軍は田原坂本道の丘の右翼および左翼に向けて、この川沿いの旧道を通り、眼鏡橋を拠点に出撃していった。


眼鏡橋
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植木 菱形

2015年04月19日 | 熊本県
(河原立薩軍墓地)


薩軍戦歿者慰霊碑

 菱形小学校の裏手に河原立(こうらだち)薩軍墓地がある。
 明治十年(1877)三月二十日、早朝から昼夜に及ぶ激戦に敗れた薩軍は退いて、吉次、木留、萩迫、隈府を結ぶ戦線で頑強に抵抗し、官軍の熊本城への入城を四月十五日まで死守した。この墓地はその間、この地周辺で戦死した永峯八郎兵衛ほか十八名の合葬墓である。

コメント (2)
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