史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の知られざる巨人 江川英龍」 橋本敬之 角川SSC新書

2014年02月22日 | 書評
タイトルに「知られざる巨人」と謳っているが、少し幕末をかじった人であれば、この名を知らないことはないだろう。
江川家は源満仲を祖とする古い家系(大和源氏)で、英龍で三十六代目となる。江戸期には代々韮山代官を務めていた。英龍は、為政者として優れていたというだけでなく、蘭学や武術、書画、教育など多方面に異能を発揮した。英龍個人の才能もさることながら、代々積み重ねられた教養が、英龍の時代に開花したという側面もあるように思う。
英龍が代官に就任した時点では五万石の支配高であったが、ほどなく伊豆国のほか、駿河国駿東郡、相模国津久井郡、足柄上郡、愛甲、大住、高座、鎌倉郡、武蔵国多摩郡まで支配地となり七万八千石に、のちには武蔵国多摩郡の一部が加わり、合計十万二千石余の支配となった。大大名並といって良い。幕府からの絶大な信任が伺われる。
江川英龍の偉名を慕って、この時代を代表する多くの政治家や思想家、教育家、文人が英龍と交際を持った。少し名を挙げてみるだけでも、高島秋帆、川路聖謨、徳川斉昭、鍋島直正、藤田東湖、渡辺崋山、桂小五郎、品川弥二郎、金子健四郎、佐久間象山、斎藤弥九郎、大槻俊斎、伊東玄朴らがいる。錚々たる顔ぶれと言わざるを得ない。中でものちに幕末を代表する剣術道場主となった斎藤弥九郎に至っては、天保六年(1835)、韮山代官に就任した際に自分の家臣として召し抱えたという。天保八年(1837)、この頃、大塩平八郎の乱があったりして世情不安であったが、英龍は斎藤弥九郎一人を伴って、支配地であった甲州を偵察旅行した。このとき二人は刀売りに扮しており、その様子を描いた絵も残されている。
英龍の多忙さは想像を絶するものがあった。ヘダ号の建造、品川台場の建築、反射炉の築造、条約締結のための下田出張、農兵の訓練、韮山塾の経営等が重なり、江戸と伊豆を息つく暇もなく往来していた。忙しい中にあって、絵を描いたり、書をしたためたり、彫金を行ったりしていたというから、驚くほかない。筆者によれば「忙しいからこそ、これらに没頭することによって、仕事と生活のバランスをとっていたものと思われる。これがなかったら、英龍の仕事は残らなかったのではないだろうか」と言及されている。
英龍の絵を見ると、そのほとんどは植物や魚貝、鳥、虫、動物を題材にし、それも掛け軸にするような芸術的な絵ではなく、図鑑に載せるような観察図である。恐らく英龍は、息をするのも忘れるくらい筆写するという行為に没頭したのであろう。
人は自分の脳の一割も活用していないという。しかし、江川英龍の多芸多才ぶりを見ていると、例外的に脳をフル活用しているような超人が、世の中には存在していると思えてならない。
英龍は多忙を極める中、度重なる出府命令に応えるために、体調不良をおして江戸に出る。しかし、風邪をこじらせ肺炎を併発。繁忙の中での過労が彼の肉体を蝕んでいた。安政二年(1855)二月、惜しまれながら世を去った。享年五十五。


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「新選組全隊士録」 相川司 新紀元社 「新選組全隊士徹底ガイド」前田政記 河出文庫 

2014年02月22日 | 書評
私は決して新選組マニアというわけではないが、それでも全国の史跡を回っているうちに、数多の新選組隊士の墓を訪ね歩くことになった。新選組マニアよりマニア度は高いのではないかと自負している。
「新選組隊士の総数は何人だっただろうか」とふと疑問に思い、書店でこの二冊の本を買い求めることになった。
前田政記氏の「ガイド」は、隊士数四百二十四名を網羅する文庫本である。十年前に出版されたものであるが、今も出版され続けられていることからも、本書に対する世間の評価が伺い知れる。ただし、小さな書店ではなかなか見つけられないのが難点である。
相川司氏の「隊士録」の方は、辞書のような分厚い本である。山崎烝の「取調日記」など、最新の成果を反映したもので、収録隊士数は五百二十名に及ぶ。ただし、中には変名・別名もあるので、同一人物である可能性があるものも含まれており、五百二十という数字は最大値と理解しておいた方が良いだろう。この数は飽くまでも、在籍記録のある延べ人数である。京都時代の新選組は百五十人程度が最大規模だったと推定される。
両書を通読して、改めて新選組に関しては、市井の研究者の調査が細部にまで及んでいることを認識した。
それにしても、入隊時期不明、離脱時期も不明、消息不明という隊士の多いこと。記録としては名簿にある名前だけという人物も少なくないのである。
新選組といえば土方歳三が定めたという「局中法度」が有名である。隊を脱することは許さない、それでも脱隊した場合は切腹か暗殺かという、情け容赦ない印象が強い。総長を務めた山南敬助もこの掟に従って切腹している。ところが、「ガイド」や「隊士録」を眺めていると、案外離脱した隊士が多いことが目につく。特に鳥羽伏見以降は、出入り自由に近い緩さであるが、元治~慶応年間であっても離脱したと思われる隊士が意外と多い。「局中法度」も実はケースバイケースで都合よく運用された内規なのかもしれない。


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「正伝 岡田以蔵」 松岡司 戎光祥出版社

2014年02月22日 | 書評
高知県佐川町出身の史家松岡司(まもる)氏による岡田以蔵の本格的伝記である。岡田家の成り立ちや以蔵の出生についても、丹念に追っている。新聞の地方版に連載されたものらしいが、そのため一章ずつが読みやすい長さになっているのが有り難い。
岡田以蔵といえば「人斬り」であるが、その通称故に実態以上に天誅・暗殺に関わったように過大評価?されている。筆者は、文久三年(1863)の儒者池内大学の斬殺事件と、同年同月の賀川肇(千草有文の家来)への天誅について、「土佐人の関与は疑っても、その全てを以蔵に結びつけるのは無理がある」と冷静に分析している。
以蔵は、慶応元年(1865)閏五月十一日、打ち首獄門に処される。二十七歳の生涯であった。以蔵の罪状は以下の四件であった。
一、 足軽井上佐一郎の殺害
二、 本間精一郎の殺害
三、 京都町奉行所与力・同心の殺害
四、 文久三年(1863)における出奔
過酷な拷問により、以蔵は「目付に抗する力はなく、詰められては次々と白状」した。にも関わらず、罪状は以上の四件、特に暗殺事件については三件しか取り上げられていないことからも、何でも以蔵の仕業とするのは無理があるということであろう。


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岡崎 Ⅵ

2014年02月14日 | 京都府
(良正院)


良正院

 知恩院塔頭の一つ、良正院は文久三年(1863)の本圀寺事件の前夜、襲撃した因州藩士二十二名が集合したことで知られる。側用人黒部権之介ら四人を暗殺した藩士は、良正院に戻って処分を待った。この中の一人、奥田萬次郎は、惨殺された四名のうちの誰かと師弟関係にあったといわれ、自責の念から良正院「竹の間」で自刃した。


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大宮 Ⅲ

2014年02月14日 | 京都府
(妙恵会総墓所)
 右京区松原柿本町の妙恵会総墓所(右京区堀川通松原下る柿本町)には、歴史を感じる古い墓石が並ぶ。


良忠院義山堅剛居士(加藤十次郎墓)


因州早川卓之丞墓(中) 因州早川内藤井金蔵墓(左)

 文久三年(1863)八月十七日の本圀寺事件で斬殺された御側役早川卓之丞と大目付加藤十次郎、早川の従者藤井金蔵の墓である。加藤十次郎は襲撃の夜、非番であったが、翌朝強要されて切腹して果てたと伝えられる。


関口泰次郎之墓

 表面は剥落して、辛うじて姓名が読み取れる。関口泰次郎は水戸藩士。生野の変に参加したが、敗れて京都の水戸藩邸に帰って謹慎した。慶應元年(1865)十月、本圀寺にて病死。十八歳。


金子徳輝墓


金子健四郎墓

 金子健四郎は、文化十一年(1814)生まれ。神道無念流を修め、水戸藩に抱えられた。門下に伊藤甲子太郎がいる。酒席の争いから門人が殺害事件を起こしたため、水戸藩を辞した。元治元年(1864)死去。

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京北

2014年02月14日 | 京都府
 前日、吹雪といって良いような天気だったので、山国護国神社のある京北まで行けるものか、非常に心配であった。天気の方は打って変わって青空が広がった。
 京都の駅前でレンタカーを借りて、京北を目指す。バスで行くことも検討したが、本数が少ない。行き着くことはできても、市内に戻ってくるのがかなり遅くなってしまう。少々お金はかかるがレンタカーを使うことにした。自動車でざっと一時間である。父によれば、とても一時間では無理という話であったが、一週間ほど前に京北トンネルが開通し、僻遠の地、京北も少し便利になった。


京北

 京北まで来ると、前日の雪が残っていた。雪化粧した山々は、絵に描いたように美しかった。

(山国護国神社)


山国護国神社

 山国護国神社(右京区京北辻町清水谷10)は、山国隊が山国庄に凱旋した明治二年(1869)二月二十一日、直ちに伍長会が開かれ、戦病死した隊士の招魂場を設けることが議され、その三日後、辻村薬師山にて招魂祭が催された。山国隊は山国庄出身者八十三名で結成されたが、うち戦病死したのは次の七名である。

 仲西市太郎(江戸)
 高室重蔵 (江戸)
 田中浅太郎(安塚)
 高室治兵衛(江戸)
 田中伍右衛門(上野)
 北小路萬之助(京都)
 新井兼吾(安塚)

 安塚は宇都宮攻城戦では最も激戦となった場所である。山国隊は、この戦闘で三人の戦死者を出した。


山国隊戦病死者七名の墓


山国隊紀念碑

 山国隊紀念碑の撰文は、槇村正直によるもの。槇村正直は山口萩藩の出身。明治元年(1868)上京して、京都府に出仕。明治八年(1875)、副知事、明治十年(1877)に知事に就任した。諸産業の振興を図り、学校や図書館、病院の設立に尽力したほか、新文化の移入に積極的に努力した。明治十四年(1881)、元老院議官に転じ、その後行政裁判所長官などを歴任した。明治二十九年(1896)、六十三歳にて死去。


池田慶徳歌碑

 池田慶徳は、水戸の徳川斉昭の五男に生まれた。第十一代因州藩主池田慶栄が嗣子なくして急死したため、幕命を受けて後を継いだ。徳川慶喜は実弟であるが、戊辰戦争では西軍に加担し、山国隊とともに官軍に参加した因州軍は目覚ましい活躍を見せた。碑文には右の慶徳の歌が刻まれている。

大きみの 御たてとなりし ますらをの
いそしを 世々に たつる石ふみ

 その傍らに三角形をした原六郎の碑が置かれている。表面が磨滅して読み取れない。


原六郎(進藤俊三郎)碑

 原六郎は生野の変で敗れた後、因州に逃れ、戊辰戦争では河田左久馬の推挙で山国隊指令長となり、各地を転戦した。維新後は、実業界に転じ、銀行、鉄道(現・総武・東武鉄道)、帝国ホテル、電力、紡績など、我が国の経済界に大きな足跡を残した。昭和八年(1933)、九十二歳で死去。

 池田慶徳の歌碑、原六郎の碑の横には、隊長河田左久馬、司令長官原六郎以下、全山国隊士の霊標が整然と並べられている。


河田左久馬(左)、原六郎の霊標


山国隊士霊標

 中央の少し背の高い霊標は、藤野斎と辻啓太郎のもの。藤野斎は山国神社の神職で、山国隊を組織した人。辻啓太郎は山国隊伍長。戦後は京都府会議長や山国村長を務めた。


藤野斎(右)、辻啓太郎霊標


(山国神社)


山国神社

 藤野斎が山国神社の神職だったこともあり、山国隊が出陣前夜、この神社に集結した(右京区京北鳥居町宮ノ元1)。

(常照皇寺)


常照皇寺

 常照皇寺(右京区京北井戸字丸山14-6)は、春の枝垂れ桜と秋の紅葉で有名であるが、この時期訪れる人は少ない。足跡のない雪を踏んで石段を上ると、本堂に至る。受付は無人であったが、志納料を払ってそのまま拝観させていただいた。




天皇の位牌

 最前列中央は、昭和天皇のもの。右の奥には孝明天皇の位牌も並べられていた。



 「山国隊」(仲村研著 中公文庫)によれば、慶応二年(1866)、光厳法皇を開山とする常照皇寺は、開山五百年を迎えた。時の住持は魯山和尚といった。魯山和尚は、山国の皇室七ヵ村と旗本杉浦領五ヵ村の対立をたくみに利用して、五百年事業を達成しようとした。魯山和尚は、旗本領の富裕な農民からも借金をしたが、早期返済を求められ、窮した魯山和尚は皇室領と旗本領の村人を対立させることにより、まんまと危機を乗り切った。この結果、村には分裂と混乱がもたらされることになり、魯山和尚のもとには「新興成金」と呼ぶべき富裕層が結集することになった。
 これに対抗するため、名主層は官位拝任運動に走った。あたかも京では小御所会議が開かれ、王政復古の大号令が下った時期であった。彼らの運動は成功し、官位を獲得するに至ったが、鳥羽伏見の報が山国に伝わると、彼らが農兵隊を結成し、官軍に協力するのは自然な流れであった。

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大野

2014年02月08日 | 福井県
(越美北線)


越美北線越前大野駅

 越前大野は、小京都とも称される城下町である。大野城の東には、寺町が形成されている。幕末に活躍した蘭学者や箱館戦争に従軍して戦死した藩士の墓があるというので、楽しみにしていた。
 大野は福井県にあっても取り分け雪深い土地である。私が大野を訪れる数日前に降雪があったことは聞いていたが、福井市内に雪は残っておらず、大野も大したことはないだろうと高を括っていた。
 福井から越前大野まで越美北線で約一時間である。まるで『千と千尋の神隠し』の“かおなし”が乗ったような電車であった。
 大野が近づくにつれて雪が深くなる。駅を降りて、普通のビジネスシューズで歩くのは無謀だということを直ぐに実感することになった。特に人の立ち入っていない墓地は雪が厚く、とても目当ての墓を探して歩くことは不可能であった。今回は寺の門前まで行って位置を確認するにとどめ、お墓を見つけるのは次回のお楽しみということにした(次回がいつになるか分からないが…)。

(大野城)
 大野城は、亀山という標高二百四十九メートルの山の上に築かれている。現在、周囲は亀山公園として整備されている。山頂に至る道も雪で覆われており、冬季は、大野城は閉鎖されていると聞いたので、登頂は諦めた。大野の史跡探訪は雪の無い季節でないと何かと具合が悪い。


大野城

 戦国時代の武将金森長近がこの地に城郭を築いたのは、天正三年(1575)である。その後、城主は幾たびも交替したが、廃藩置県まで土井氏が八代にわたって藩主に就いた。
 幕末の藩主は土井利忠である。利忠は藩の財政再建に努めるとともに、人材(内山良休、良佐兄弟)の登用、藩校の開設、軍制の改革、蘭学の奨励などに着手し、名君といわれた。また、蝦夷地開拓にも情熱を燃やしたことでも知られる。 利忠は文久二年(1862)に隠居し、跡を三男利恒が継いだ。
 元治元年(1864)十二月の天狗党の乱では、国境に天狗党が現れ、大野藩ではその対応に苦慮した。天狗党が通過すると予想された村を焼き払った上で、天狗党に軍資金を提供することで軍事衝突を回避した。

(有終西小学校)


藩校明倫館趾

 現・有終西小学校は、弘化元年(1844)土井利忠が開いた藩校明倫館跡である。校舎前に「明倫」と刻まれた大きな石碑が建てられている。
 安政二年(1855)には適塾の塾頭経験者である伊藤慎蔵を招き、蘭学も教授することとなった。伊藤慎蔵の名を慕って、藩外からも生徒が集まったという。

(願成寺)


願成寺

 願成寺には箱館戦争の戦死者(広木次左衛門と和田実之助)を葬った墓があるというが、やはり雪のため一歩も進入できず。説明によれば、大野藩では箱館におよそ二百名を出兵し、うち十一人が戦死している。ほかの九名についても墓が残っているらしいので、是非再チャレンジしたい。

(善導寺)


善導寺

善導寺は、藩主土井氏の菩提寺である。土井氏の墓地は見えているのだが、積雪のために近づけず断念。またここには箱館戦争の犠牲者金子庫次郎の墓があるはずだが、こちらも発見に至らず。

(長興寺)


長興寺

 長興寺には、大野藩藩医中村岱佐の墓がある。中村岱佐は、安政三年(1856)の大野藩の蝦夷地開拓団に加わり、船医として大野丸に乗船した。帰藩後も種痘普及に尽力した。文久元年(1861)没。

(大宝寺)


大宝寺

 大宝寺には、蘭学者山崎譲の墓がある。山崎譲は、選ばれて大阪の適塾に入門し、帰藩後、大野藩蘭学館助教として藩の人材育成に努めた。元治元年(1864)没。

(妙典寺)


妙典寺

 妙典寺には蘭学者松村九山、松村矩明の墓がある。松村九山の墓のみ、比較的出入り口に近い場所にあったため、撮影することができた。
 松村矩明は、藩主の命により松村九山の養子となって跡を継いだ。伊藤慎蔵に蘭学、松本良順に洋医学を学んで、のちに大阪大学大教授となった。


松村九山墓

 松村九山は二十二歳のとき藩医となり、儒者としても藩内外に名を知られた。文政五年(1822)八十歳にて死去。

(光玖寺)


光玖寺


林雲渓墓

 林家は貞享五年(1688)より大野藩の藩医を務める家系である。林雲渓は弘化元年(1845)適塾に入門した。藩主の命を受けて、種痘の研究、普及に尽くして成果を挙げた。明治二年(1869)没。

(蓮光寺)


蓮光寺

蓮光寺には箱館戦争の戦死者、岡鍛、山本太三郎の墓がある。

(徳巌寺)


徳巌寺

徳巌寺には箱館戦争戦死者寺田竹次郎の墓があるはずだが、やはり雪のため墓に接近できず。

(最勝寺)


最勝寺

 徳巌寺向かいにある最勝寺は、大野市内でも最大級の本堂を有する浄土真宗の寺である。
 ここには大野藩医土田龍湾、箱館における戦死者村井競、河合富蔵の墓がある。

(光明寺)


光明寺

光明寺は、大野市犬山に所在し、市街から少し離れている。通常であれば歩いて行ける距離であるが、雪のため歩道は極めて歩きにくい。仕方なく車道側を歩くことになったが、当然すぐ脇を自動車が通過するので極めて危ない。リスクを冒して光明寺までたどり着いたものの、雪のため金子庫次郎と三宅友七郎(いずれも箱館戦争戦死者)の追悼碑は発見できなかった。

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丸岡

2014年02月08日 | 福井県
(丸岡城)
 バスの案内所で確認したところ、丸岡まで往復するのであれば、一日乗車券がお得という助言をいただいたので、それを購入することにした。丸岡までバスに揺られること四十分。この日は小雨に加えて、ときおり強い風が吹き、散策というにはなかなか厳しい天候であった。
 丸岡城は犬山城と並んで、現存する天守閣としては我が国最古のものと言われる。ただし、昭和二十三年(1948)の福井地震の際に倒壊しており、その後修復再建されて現在の姿となっている。


丸岡城

 丸岡藩は四代にわたって本多家が治め、その後有馬家が引き継いで幕末まで続いた。幕末の藩主有馬道純は、寺社奉行、奏者番、若年寄、老中など、幕府の要職を歴任した。


一筆啓上碑

 徳川家康の家臣、本多作左衛門重次が陣中から丸岡にいる妻に当てた手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」は、日本一短い手紙と言われ(多分、探せばほかにももっと短い手紙はあるような気がするけど…)、毎年この手紙に因んで丸岡文化財団が主催して「一筆啓上賞」が開かれている。


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鯖江

2014年02月08日 | 福井県
(萬慶寺)
 特急「しらさぎ」を途中下車して鯖江の街を探索した。中学から高校まで六年間を福井で過ごしたが、実は、今回訪ねた鯖江や丸岡、大野は行ったことがなかった。何故かというと、単に用事がなかったというだけである。
 鯖江の街は雨であった。雨に濡れながら、地図をにらみ、写真を撮るのはなかなか骨が折れる。気持ちが萎えそうになるのを辛うじて堪えて、一通り予定していた史跡を回ることができた。


萬慶寺

 幕末の鯖江藩主は間部詮勝である。井伊直弼の手先となって安政の大獄を実行した人物であり、吉田松陰が間部老中の暗殺を企てたことから、相当な悪役として名を残しているが、地元鯖江では名君として伝わる。天保年間には、幕府から下賜された築城費五千両を困窮する村々に貸与し、領民から感謝されている。
 萬慶寺は、間部家の菩提寺である。本堂には間部詮勝の描いた天井絵「風神・龍神・雷神」があることでも知られる。どうやら一般公開はされていないようで、実見することはできなかった。


龍神図

 「風神・龍神・雷神」図は、弘化三年(1846)に間部詮勝が描いたものである。詮勝は書画を好み、山水・花鳥・人物などを好んで描いたといわれる。この天井絵は縦四メートル、幅五メートルを超える大作である。

(西山公園)
 西山公園は、安政三年(1856)、間部詮勝が開いた嚮陽渓を前身とした公園である。


間部詮勝像

 間部詮勝は、文化元年(1804)、五代藩主間部詮熙の三男として鯖江に生れた。文化十一年(1814)十一歳で家督を相続し、当時は詮良と称した。早くから藩の財政改革に取り組み、藩士や領民の期待に応えた。文政元年(1818)、名を詮勝と改め、従五位下・下総守に叙任された。文政九年(1826)、幕府の奏者番に任じられると、以降目覚ましい累進を果たした。寺社奉行見習、同加役、大阪城代、京都所司代を経て、天保十一年(1840)には江戸城西の丸老中に就任。さらに安政五年(1858)には老中に任じられ、幕政の中枢を担った。維新後は松堂と号し、多くの書画を残している。明治十七年(1884)死去。


嚮陽渓碑

 間部詮勝は、当時御達山(おたてやま)と呼ばれていた丘陵に庭園を造成し、嚮陽渓(きょうようけい)と名付けた。領民とともに楽しみたいという趣旨で作られた庭園は、水戸の偕楽園と並んで我が国に二つのみである。


嚮陽渓碑(旧)

 嚮陽渓碑には、詮勝が造園当時に詠んだ詩歌が刻まれている。「嚮陽渓を開き、領民とともに春秋の自然に接し、ともに楽しむ」という大意いである。間部詮勝像の両側に二つの嚮陽渓碑が建立されているが、左手の古い碑は初代のもので、昭和四十五年(1970)、風化のため倒壊したため、翌年新しく建て替えられた。


嚮陽庭園

(鯖江陣屋跡)


鯖江陣屋跡

 享保五年(1720)、越後村上藩主間部詮言が転封を命じられたのが鯖江藩の成立である。当時の鯖江は、石高八百石、家数二十七軒、人口はわずかに二百人という寒村であった。藩士らは旧代官所を藩邸と定めて、そこから城下町の形成が始まったという。

(恵美写真館)


恵美写真館

 恵美写真館は、明治三十八年(1905)に建築された擬洋風建築である。私が訪れたとき、ちょうど写真館(洋館の隣で営業中)のご主人が雪吊りの作業中であった。私が写真を撮ろうとしていることに気づき、わざわざ道具を片づけてくださった。ご主人によれば、洋館の二階には古い撮影機材なども保存されているそうである。

(惜陰小学校)


済美の松

 JR鯖江駅近くの惜陰小学校(鯖江幼稚園を併設)の構内には、興味深い史跡が点在している。進徳館と名付けられた建物は、鯖江藩校進徳館に由来する。惜陰小学校は、学制発布を受けて進徳館の跡地に建てられたもので、明治三十三年(1900)に現在地に移転している。校門付近にある済美の松は、現在地に移転した際、皇太子殿下(のちの大正天皇)の婚儀と校舎新築を記念して植樹されたものである。


橋本景岳(左内)像

 同じく惜陰小学校には、橋本景岳像がある。


駐蹕之遺蹟碑

 校庭の片隅に、明治十一年(1878)の明治天皇巡幸を記念した大きな石碑がある。このとき明治天皇は、右大臣岩倉具視と参議兼大蔵卿大隈重信を帯同し、惜陰小学校で休憩をとった。岩倉具視は惜陰小学校の授業を参観し、優等生数名に金一封を下賜し、小学校にも二十五円を寄付している。



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福井 Ⅳ

2014年02月08日 | 福井県
(由利公正宅跡)
 今般、石川県小松市にある北陸先端技術大学院大学まで出張する機会を得た。大学を訪問するのは月曜日のことだったので、前日の日曜日、福井、鯖江、丸岡、大野の史跡を訪ねることにした。
 この日の夜は高校時代の友人、同窓生が十人ほど集まってくれて、プチ同窓会となった。中には卒業以来という級友もいて、昔話に花が咲いた。皆さん、今では会長だとか部長だとかそれぞれ立派な肩書を持つ重鎮となっているが、個人の人格は高校の時点で既にほぼ完成しており、年をとってもほとんど変わらないものだということを実感した。


由利公正宅跡

 前回の福井行(おそらく九年から十年前になろうか)で探しきれなかった。由利公正宅跡を探し当てた。てっきり毛矢町側になるものとばかり思い込んでいたが、幸橋の南側、道路を挟んで反対側に石碑が建てられていた。
 毛矢町側には、毛矢町の由来を記した石碑があり、そこにも由利公正がこの付近に居住する毛矢侍(けやさむらい)の一人だったことが記されている。


旧毛矢町

 由利公正宅跡の石碑の横には、坂本龍馬の歌碑が建立されている。
 文久三年(1863)五月、坂本龍馬は神戸海軍塾の資金調達のため、福井を訪れている。夜半、福井藩政治顧問横井小楠とともに由利公正(当時は三岡八郎)宅を訪い、両者は肝胆相照らす仲になったという。
 坂本龍馬は愉快極まって、次の歌を謡った。由利公正の手記によれば「その声調が頗る妙であった」という。


坂本龍馬の歌碑

君がため
捨つる命は惜しまねど
心にかかる国の行く末

(世直神社)
 世直(よなおり)神社は、松平春嶽の片腕として活躍した鈴木主税を祭神とした神社である。鈴木主税は善政を施したといわれ、彼を慕う地元の人たちによって建立されたものである。


世直神社

(乗国寺)
 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、乗国寺に福井藩士酒井孫四郎の墓があるようなので、乗国寺を訪ねてみた。しかし、墓どころか墓地すら見つけられず、成すことなく撤退することになった。


乗国寺

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