史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末バトル・ロワイヤル 天誅と新選組」 野口武彦著 新潮新書

2009年02月20日 | 書評
 もともと週刊誌に連載されたものを新書化したもので、そのせいかタイトルはセンセーショナルである。しかし内容は至って真面目。著者は「幕末の天誅テロは疑いもなく政治的に有効であった」という。幕末期には多くの血が流された。これら暗殺事件が当時の政局に与えた影響を敢えて言えば、反対派つまり佐幕派を震え上がらせたことくらいであろう。私にはあまり有効だったとは思えないのである。結局、血が血を呼ぶ争いとなったことは、現代の報復テロの応酬と何ら変わりが無い。歴史は繰り返す。
大きな歴史の流れを考えると、如何にも無駄な殺人が多い。歴史の、というと大仰かも知れないが、当時の政局を動かすほどのテロがあったとすれば、桜田門外の変くらいのもので、あとから振り返ればほとんどのテロ行為は単なる殺人と変わりが無い。著者も言っているように「古来どの国でも、テロリストが単独で政治権力を奪取した例はない」のである。つまりテロリストは結局、歴史の勝者にはなれない。世のテロリストも、その事実を肝に銘じるべきであろう。

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岩槻

2009年02月19日 | 埼玉県
 有名な大岡越前守忠相の一族、大岡忠光が岩槻に入封したのが宝暦六年(1756)のことである。大岡忠光は、八代将軍吉宗の嫡男家重の小姓となって廩米三百俵を賜ったのを皮きりに、次々に加増を受け家重が将軍に就くと同時に小姓組番頭に就任した。その後も加増を受けて上総勝浦にて一万石の大名に列し、次いで宝暦六年(1756)、側用人に就任して、岩槻二万石の城主となった。忠光の目覚ましい出世は、家重の不明瞭な言語をただ一人理解し得たためと言われる。岩槻藩では、江戸期前半、高力、青山、阿部、板倉、戸田、松平、小笠原、永井と目まぐるしく藩主が交代した。その後、大岡忠光以降、八代に渡って大岡氏が支配し、明治を迎えた。幕末の藩主は、大岡忠貫(ただつら)。幕府への忠誠篤くペリー来航時の沿岸警備や天狗党の乱鎮圧にも出兵した。和宮下向に際しては道中警護を命じられた。佐幕色の強い藩であったが、鳥羽伏見で幕府軍が大敗すると、いち早く恭順を決定し、東海道総督の指揮下に入って賊徒鎮圧に従事した。


白鶴城址碑


岩槻城址公園

 岩槻城は、元荒川を外堀として、湿地に半島状に突き出した台地の上に本丸、二ノ丸、三ノ丸といった主要部分が置かれていた。岩槻城には石垣は造られず、土を掘って堀をつくり、土を盛り上げて土塁が築かれた。現在、城址は岩槻公園として市民に開放されている。すべり台やブランコから、野球場、テニスコートまで備えた公園を見渡す限り、ほとんど城郭がそこにあったことを連想させてくれるものは見当たらない。唯一、白鶴城址碑が建てられた一角だけは、土塁や空掘が樹木に覆われ、かつての雰囲気を感じることができる。


岩槻城城門(黒門)


岩槻城裏門

 岩槻城の遺構として、城門と裏門が移築されている。城門(黒門)は、廃藩置県に伴う岩槻城廃止により撤去されたが、その後、県庁や県知事公舎の正門などに転用された。裏門の方は、城内のどこにあったか正確な位置は特定できていない。長らく民間に払い下げられていたが、昭和五十五年(1980)に市に寄贈され、この地に移築された。

(時の鐘)


時の鐘

 岩槻の「時の鐘」は、寛文十一年(1671)に鋳造され、享保五年(1720)に改鋳されている。朝夕、三回音色を響かせていたというが、江戸時代後期には一日十二回撞かれていた。

(遷喬館)


遷喬館

 時の鐘から遷喬館に至る一帯は、裏小路と呼ばれ、かつて武家屋敷が軒を連ねていた。今はその面影はないが、辛うじて藩校遷喬館は昔の姿を留めている。


遷喬館内部

 遷喬館は、寛政十一年(1799)に儒者児玉南柯が開いた私塾を、文政三年(1820)当時の藩主大岡忠固が南柯の功績を称えて藩校とした。埼玉県内に残る唯一の藩校である。明治二年(1869)に廃校となった。
 現在の遷喬館は、昭和、平成の二回にわたって改修、解体復元工事を経て開校当初の姿を取り戻している。邸内は広々として、気持の良い空間である。

(浄安寺)


浄安寺

 浄安寺には、児玉南柯の墓がある。
 児玉南柯は甲府の出身で、十一歳のとき岩槻藩士児玉親繁の養子となった。十六歳で藩主大岡忠喜の御中小姓となり、二十五歳で昌平黌に入学した。のちに岩槻に戻って遷喬館を創設し、子弟の教育に努めた。南柯の名は藩外にも知られ、「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」と謳われた。文政十三年(1830)、八十五歳で永眠。


児玉南柯の墓(左)

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八王子 Ⅱ

2009年02月14日 | 東京都
(大塚観音)


大塚観音(清鏡寺)

 八王子の帝京大学の前に建つ清鏡寺は、通称大塚観音(御手観音)と呼ばれる。本堂の前に元新撰組隊士斎藤一諾斎の顕彰碑が建てられている。維新後、一諾斎は近郷の教育に専心した。博学多識にして雄弁だったという。彼の門下からは何人もの民権家が世に出た。碑は、子弟たちが発起人となって明治十四年(1881)に建立したものである。


斎藤弌諾君碑

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船橋

2009年02月11日 | 千葉県
(浄勝寺)


浄勝寺

 船橋市役所周辺の繁華街の中に寺町があり、その中でもっとも広い境内を持つのが浄勝寺である。墓地に入ったところに石柵に囲まれた尾州磅礴隊士の墓がある。尾張藩の三名の合葬墓である。慶応四年(1868)八月、彼らは所用で船橋の旅館に宿泊していたところを浪士に襲われて死亡した。尾張藩磅礴隊は、総勢百七十四名からなる草莽隊(義勇軍)で、戊辰戦争では征東大総督有栖川宮熾仁親王の護衛に当たっていた。三人を襲った浪士の正体も行方も分からぬままであるが、官軍に恨みを持つ徳川方脱走兵の集団であろう。


尾州藩 磅礴隊士の墓

(馬込安立庵)


歡應喜道居士(佐土原藩常吉の墓)

 この一年、市川船橋における戊辰戦争戦跡を追ってきたが、どうしても正確な場所がつかめない史蹟があった。そこで船橋市中央図書館まで出かけて、郷土の歴史コーナーで調べてみることにした。船橋市にも「船橋市史研究」という郷土史家による優れた資料集がある。その3号と5号に山川正作氏が戊辰戦争の戦死者の墓を詳しく紹介している記事を発見した。私がこれまで取材したほかにも、船橋市旭町共同墓地の脱走方兵士の墓、同宮本五丁目の東光寺徳川方三兵士の墓、中山法華経寺脱走方鈴木音次郎の墓などが紹介されている。図書館で住宅地図を借りて、旭町共同墓地の位置を確認した上で、早速現地を訪問した。旭町共同墓地は決して大きな墓地ではない。無名兵士の墓を求めて、この狭い墓地を五回くらい歩き回ったが、遂に発見できなかった。ついでにいえば、東光寺の脱走方の墓も、これまで二回東光寺墓地を探し回ったが、未だに見つけられない。山川正作氏の記事は今から二十年以上前に書かれたもので、その後無縁墓は撤去された可能性もある。だとすれば非常に残念と言わざるを得ない。これは行政の怠慢あるいは失策であろう。
 東武野田線馬込沢駅から木下街道を東に進むと、街道沿いに小さな墓地がある。墓地といっても墓石は三つしかない。これが安立庵墓地である。既に安立庵は廃寺となっている。このままではこの墓も朽ちて消え失せてしまうのではないかと心配してしまう。
 墓の主は佐土原藩の常吉である。姓も持たない常吉は、官軍の軍役に借り出された小者だったのかもしれない。この辺りの路傍に息絶えていたのを埋葬したものという。

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品川駅

2009年02月08日 | 東京都
(品川駅)


明治五年五月七日 品川駅創業記念碑
品川横浜間鉄道開通

 鉄道マニアの息子に付き合って朝から晩まで電車に乗ってきた。東京都区内の各駅にスタンプが設置されていることに気が付いている人は多いと思うが、あれを全部集めようと思い立つのは、やはり鉄道マニアだけだろう。息子は大張りきりであったが、山手線の駅で一つ一つ下車してスタンプを押していくのは、どちらかというと退屈な作業である。
 品川駅を降りて西側に出たところで、品川駅創業記念碑を発見した。我が国で最初に鉄道が開通したのは、明治五年(1872)九月、新橋-横浜間と言われているが、実はその四か月前に品川-横浜間が一足先に開通し、仮操業が始められていた。石碑の裏側に刻まれた当時の時刻表によれば、午前と午後の二往復。片道の所要時間は約三十五分だったようである。
 今では、誰もが鉄道の開通は新橋-横浜が最初だと思い込んでいるが、実は品川の方が先だぞ!と、この碑は訴えているのである。

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「幕臣たちの明治維新」 安藤優一郎著 講談社現代新書

2009年02月07日 | 書評
 この本は、敗者である幕臣の立場から明治維新を描いた作品である。著者は、「明治維新という変革の時代を、敗者として生きなければならなかった徳川家家臣つまり幕臣たちが、どのように生き続け、何を感じ、明治という時代をどう見ていたかを明らかにしていく。彼らが残した記録類に滲み出ている生き様を見ていけば、今まで歴史教科書に記述されることのなかった明治維新の一断面が浮かび上がってくるはすだ」と、この本の狙いを明確にしている。
 戊辰戦争後の静岡への移住、沼津兵学校の開設、牧の原での茶畑の開墾までは、比較的よく知られた事実であろう。
士族授産のためにウサギの飼育が奨励され、あっという間に東京の町にウサギが溢れたという。しかし繁殖させたウサギをどうするか(例えば食用にするのか、皮を売るのか)明確な見通しが政府の方にも無かったため、ウサギは捨てられてしまうほかはなかったとか。
 西南戦争が起きると、旧幕臣は新政府憎しのあまり、かつて幕府を倒した張本人である西郷隆盛の熱心な支持者になったという。
 しかし明治も二十年も過ぎる頃には、政府も安定して来る。大日本帝国憲法が発布された明治二十二年(1889)に、東京開市三百年祭という一大イベントが開かれたが、中心となった旧幕臣たちは反政府運動的な色合いを消し、東京市や新政府の支援を得ながら運営を進めた。その後も江戸会、同方会、旧交会などといった旧幕臣たちの組織が全国に次々と結成されたが、もはや反政府運動組織ではあり得なかった。世代が移るにつれ当然のことながら次第に参加者も減っていき、第二次大戦前後には事実上、活動は歴史の闇に消えていったという。ところが昭和五十年代になって旧幕臣の子孫による柳営会が発足した。柳営会は、徳川宗家が日光で行われる例大祭に参列するのに御供している。この行事は現代まで続いているそうである。幕臣の歴史は、まだ終わっていない…のかもしれない。

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「榎本武揚」 安部公房著 中公文庫

2009年02月07日 | 書評
 「砂の女」や「壁」「箱男」で知られる安部公房が榎本武揚を題材にした長篇小説である。前衛的な作風で知られる安部公房が、榎本武揚という実在の人物を題材にした異色の作品と言えるであろう。高校時代、演劇青年であった私は、安部作品を読んではみたものの、何だか非常に難解であった。それでも安部作品を手にしているだけで、いっぱしの文学青年になったような気がしたものである。
 言うまでもなく安部公房は、歴史作家ではない。しかし、この作品を読むと、戊辰戦争から箱館戦争に至るまでの歴史を、かなり詳しく、しかも正確に把握していることに驚く。作品の中で「この《顛末記》が、かなりの信ずべき事実にもとづいた記録である」と書かれているとおり、戊辰戦争から五稜郭の戦争に至るまでの史実については、ほとんど歪めることなく描いているのである。
 榎本武揚は五稜郭に至るまでの戦争が全て負けることを目的とした戦争であったとあっさり認める。確かに、上野で激戦が交わされている最中にも榎本艦隊は一切旧幕軍に支援をしていないし、奥羽諸藩が新政府軍に抵抗しているときも、仙台湾、宮古湾に集結しておきながら、為すことなくそこを立ち去っている。箱館における戦闘でも、不運だけでは片付けられない拙劣な戦い振りであった。榎本と大鳥圭介が組んだ八百長戦争だったという主張も、あながち荒唐無稽な話とも言い切れない。
 この小説は、職務に忠実な余り義理の弟の命を奪ってしまった元憲兵という旅館の主人を登場させ、時代における忠誠、正義とは何かを読者に問う作品となっている。この小説に登場する榎本武揚を、裏切り者、変節漢、転向者と罵倒するのは簡単であるが、本当にそれで良いのか。自分には答えが見いだせなかった。

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太宰府

2009年02月07日 | 福岡県
(太宰府天満宮)


太宰府天満宮

 太宰府天満宮を訪問したのは、四十年以上前のことである。当時、幼稚園児であった私は両親に連れられて何回かここを訪れた。かすかな記憶によれば、随分と広い境内が広がっていたはずである。久しぶりの天満宮は何だか小さくなったような印象を受けた。


延寿王院

 西鉄の太宰府駅を降りて、左右に土産物屋が並ぶ参道を進む。その突き当りにあるのが西高辻家(延寿王院)である。ここに慶応元年(1865)二月から王政復古までの約三年間、五人の公卿(三条実美、東久世通禧、三条西季知、壬生基修、四条隆謌)が身を寄せていた。この間、西郷隆盛、高杉晋作、坂本龍馬ら多くの勤王の志士が去来した。


五卿遺蹟

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桜山神社

2009年02月07日 | 熊本県
(桜山神社)
 熊本大学の前の国道を東に百メートルほど歩くと、桜山神社に出会う。相変わらず雨は強く、少し歩いただけで靴の中まで浸水してしまった。桜山神社には維新の動乱および神風連の乱に斃れた志士が祀られている。


桜山神社


神風連資料館

 雨の中をわざわざここまで来たというのに、境内にある神風連資料館は、よりによって休館日であった。

 神社の入口に、宮部鼎蔵の歌碑がある。鼎蔵が京都に赴く前に子供たちを前に尊王愛国の決意を詠んだものである。

いざ子供 馬に鞍おけ九重の 御はしの桜 散らぬそのまに


宮部鼎蔵の歌碑


桜山神社墓地

 墓地には、まず神風連の乱で命を落とした敬神党太田黒伴雄、加屋霽堅以下百二十三名の墓が整然とならんでいる。奥には百二十三士の碑。その左右には太田黒伴雄と加屋霽堅の墓が置かれている。


百二十三士の碑

 神風連が決起したのは、明治九年(1876)十月二十四日深更。敬神党の百七十余名は、熊本鎮台などを襲撃し、鎮台司令長官種田政明、県令安岡良亮らを斬殺した。一旦は兵営を制圧した敬神党に対し、児玉源太郎らが鎮台兵の体制を立て直して反攻に出る。首領太田黒伴雄は重傷を負って付近の民家で自刃。ほかの者も退却し、多くが捕縛され、もしくは自刃した。


林桜園墓 誠忠碑(中央右)

 墓地の奥には、肥後勤王党の志士たちの墓が集められている。中央に林桜園の墓。その右には林桜園門下の宮部鼎蔵を中心として同志を結集した肥後勤王党を記念した誠忠碑が建てられている。肥後勤王党は、長州とともに政局を主導していたが、文久三年(1863)の八一八の政変以降、池田屋事件で宮部鼎蔵を失い、蛤御門の変でも大半が討ち死に、或いは天王山で自刃した。以後、目立った活躍は見られなくなった。

 同じ墓地に河上彦斎の仮墓もある。河上彦斎も、藩校時習館に学び、やがて林桜園の教えを奉じるようになる。文久二年(1862)細川護美に従って上京し、天下の志士と交わった。元治元年(1864)佐久間象山を斬殺したことでも知られる。その後、藩獄に幽閉されたが、王政復古の大赦によって出獄した。明治三年(1870)には鶴崎有終館館長となるも、再び新政府の忌避に触れて投獄され、明治四年(1871)市ヶ谷監獄にて刑死した。行年三十八。


河上彦斎の仮墓

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熊本 高橋公園~くまもと阪神

2009年02月07日 | 熊本県
(高橋公園)
 今般、出張で実に久方ぶりに熊本市内を訪ねる機会を得た。駅前のホテルにチェックインすると、まず朝食に時間を確認する。七時からというのを交渉して、六時五十分から朝食を取れるようにしてもらった。というのに、目が覚めたのはちょうど七時。慌てて飛び起き、十分で身支度を済ませ、十分で朝食を終え、ホテルを出た。
 外は生憎の大雨であった。このところ晴天が続いていたのに、この土砂降りには天を呪った。市電で市役所前に移動し、早速高橋公園を訪ねた。高橋公園には、横井小楠と小楠にゆかりの深い四人の像が建っている。


横井小楠と維新群像

 中央が横井小楠。左から坂本龍馬、勝海舟、松平春嶽、細川護久の像である。
 横井小楠は、文化六年(1809)に熊本坪井町に生まれ、八歳のときから藩校時習館に学んだ。文章の研究や字句の穿鑿に傾倒する時習館学校党に反発して、長岡監物、元田永孚らと実践を重んじる実学党を結成した。当初は水戸学に心酔していたが、攘夷論に疑問をもち始め、開国論に転じている。安政五年以降、越前福井藩に招かれ、殖産貿易による積極的富国論を実行に移して藩政改革を指導した。維新後、新政府に招かれて上京し、新政府参与となったが、明治二年(1869)一月、退庁の途上、京都寺町通りで刺客の凶刃に倒れた。享年六十一。

 小楠の思想は、多くの人に影響を与えた。細川護久は、文久三年(1863)弟護美とともに藩主名代として上京し、国事に奔走した。七卿落ちに際しては幕府に対して長州宥免を乞うている。明治元年(1868)朝廷に召されて新政府の議定に任じられた。同年三月には護美とともに参与に就任した。明治三年(1870)家督を譲り受け、熊本藩の藩政改革に乗り出した。このとき小楠門下の竹崎律次郎、徳富一敬(蘇峰・蘆花の父)、嘉悦氏房(嘉悦学園の創始者)、安場保和らとともに実学党的改革に尽力し、進歩的政策に取り組んだ。明治四年(1871)廃藩置県により藩知事を辞めた護久は、細川家当主として華族となり、貴族院議員などを歴任した。明治二十六年(1893)、年五十五で没。


谷干城像

 高橋公園には、西南戦争で五十二日間の籠城戦に耐えた熊本鎮台司令長官谷干城の銅像がある。この銅像は、昭和十二年(1937)、西南戦争六十周年を記念して建てられたもので、戦時中の金属供出でいったん失われたが、昭和四十四年(1969)明治百年を記念して再建された。

 本当は熊本城を散策する予定であったが、雨はますます激しさを増し、コートもカバンもびしょ濡れになったので、早めに切り上げることにした。

(くまもと阪神)


元田永孚先生誕生地碑

 この日、熊本市内に着いたのは、夜十時に近かったが、このままホテルに入って寝てしまうのはもったいない。空港からのバスを一つ手前の交通センターで下車して、くまもと阪神百貨店の南壁にはめ込まれている「元田永孚先生誕生地碑」を訪ねた。
 元田永孚は、「明治第一の功臣」と称される。ドナルド・キーンの「明治天皇」(新潮文庫)にも元田永孚はしばしば登場するが、私利私欲を持たず、誠実な姿勢に感銘を受けた。明治天皇の信任が厚かったのも頷ける。
 永孚は、横井小楠とともに実学党の結成に参加した。以後、熊本藩を維新の方向に向かわせるよう力を尽くしている。明治四年(1871)宮内省に出仕し、その後二十余年明治天皇の君側にあって儒学を講じた。明治十九(1886)年、宮中顧問官、明治二十一年(1888)、枢密院顧問官となる。儒教主義による国民教化に尽力し、明治二十三年(1890)の教育勅語の草案を作成した。明治二十四年(1891)年七十四歳にて死去。

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