史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

釜石 Ⅱ

2022年12月10日 | 岩手県

(大石港)

 

伊能忠敬海上引縄測量之碑

 

 釜石市の大石港に向かう頃から雨脚が強くなった。傘をさしてもびしょ濡れになるほどであった。写真を撮ったら直ぐに車内に戻ったが、その僅かな時間で前身シャワーを浴びたようになってしまった。

 伊能忠敬は享和元年(1801)、伊豆から東北にかけて海岸線を測量した。同年九月二十四日には唐丹(とうに)に至り、北緯三十九度十二分と測量した。

 大石港の碑は、忠敬の引き縄測量二百年を記念して平成十三年(2001)に建てられたものである。

 

(権現神社)

 

測量の碑 星座石 遺愛の碑

 

 伊能忠敬が享和元年(1801)に唐丹町の緯度を測定した十三年後の文化十一年(1814)、地元の天文学者葛西昌丕(まさひろ)は、忠敬の事績を讃えるため、測量の碑を建立し、星座石を作成した。星座石には、三十九度十二分という度数と、十二次の星座名が交互に刻まれている。

 

測量の碑・星座石遺愛碑

 

測量の碑・星座石遺愛碑

 

 葛西昌丕は地球が微動するという西洋の学説を知り、その地球の動きを実測するための基点にこの石を置いた。測量の碑には、「所謂地球微動なるもの有らざらん乎」と刻んだ。

 

 雨は恨みでもあるかのように強烈となり、すっかり気力を削がれた私は、もともとこの先宮城県下の史跡を訪ねる計画であったが、全て諦めて仙台市内のホテルに直行した。

 

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田野畑 Ⅱ

2022年12月10日 | 岩手県

(田野畑民族資料館)

 田野畑民族資料館の敷地内に「三閉伊一揆の像」が建てられている。腰を下ろしているのが佐々木弥五兵衛(やごべい)、南方の空を眺めてたたずんでいるのが畠山太助(たすけ)である。

 三閉伊一揆というのは、弘化四年(1847)に佐々木弥五兵衛が指導したものと、嘉永六年(1853)の畠山太助の指導した二度にわたる一揆をいう。盛岡藩では近世において全国でもっとも多く百姓一揆が発生した。明治二年(1869)に至るまで実に百三十二回の一揆が数えられる。とりわけ十九世紀に発生した二度の三閉伊一揆は大規模なものであった。この時期、九戸郡、下閉伊郡地方では産鉄、魚油、魚粕が商品化されつつあったが、これに目をつけた盛岡藩では、弘化四年(1847)、大阪の豪商を蔵元として水産物を安く買い上げる専売制を導入した。さらに総額五万二千両という巨額の御用金が賦課された。中でも三閉伊通(野田通、宮古通、大槌通)への賦課が他の地方と比べて格段に大きかった。

 こうした圧政に対して、藩政改革を求め、農民の生活を安定させようという動きが起こった。佐々木弥五兵衛の指導のもとに蹶起した農民一万二千は、遠野城下になだれこみ、新税の撤回をはじめとする二十六ヶ条の要求を提出した。藩は全面的に要求を認め一揆は鎮静化したが、その途端、次々と公約を破棄し、再び増税・新税の徴発を強行した。佐々木弥五兵衛は、再度一揆を企てたが、嘉永元年(1848)、捕らえられ獄中にて没した。

 嘉永六年(1853)、佐々木弥五兵衛の遺志を継いだ畠山太助、三浦命助を指導者とした一揆が起こった。同年五月、田野畑村にて「小〇(こまる)」の幟旗を目印に、鉄砲、槍を携えて、野田、宮古、大槌を経て釜石に集結した。一揆勢は総勢一万六千余りに達したという。そのうち八千が仙台藩唐丹村へ集団で越境し、藩主の更迭や三閉伊通の幕領化または仙台藩領化を主張し、藩政改革を求めた。

 一揆の代表者は、百数十日に及ぶ交渉の末、盛岡藩に四十九ヶ条の要求のほとんどを認めさせた。盛岡藩では専横を極めた要人の更迭を決め、藩主南部利済(としただ)は、江戸にて謹慎を命じられ、一揆はようやく終息した。

 なお三浦命助は、安政四年(1857)、越境逃散の罪で捕らえられ、元治元年(1864)、獄中にて没した。

 

田野畑民族資料館

 

一揆の像

 

 筋骨隆々たる農民の像である。この時代、粗食を強いられた武士層は総じて痩せて貧弱だったのに対し、肉体労働に耐えた農民層は総じてがっしりした体格だったといわれる。

 

(田野畑共葬墓地)

 

正岳法憐居士(畠山多助の墓)

 

 一揆の像から二百メートルほど東の田野畑共葬墓地に畠山太助の墓がある。

 

(畠山太助生家跡)

 畠山太助の生家跡の場所が分からなかったので、田野畑民俗資料館で確認した。受付の女性が場所を丁寧に教えてくれたので、迷わず行き着くことができた。民族資料館からおよそ一キロメートル北に行ったところである。

 

三閉百姓一揆指導者

田野畑(畠山)太助生家跡

 

われ万民のために死なん

 

畠山太助生家跡

 

 畠山太助の生家跡である。生家は昭和四十七年(1972)までこの場所に残っていた。屋号を「下脇」といった。太助の父多次郎も天保七年(1836)の岩泉へ押し寄せた一揆で代表を務めた五人のうちの一人であった。弘化四年(1847)の一揆でも先導的な立場で参加した。太助は喜蔵とともに嘉永六年(1853)、三閉伊一揆の御大将であった。仙台藩領内で代表四十五人が交渉に行き詰まり動揺した際には、「衆民のため死ぬることは元より覚悟のことなれば、今更命惜しみ申すべきや」といって、彼らの動揺を鎮め一揆を成功に導いた。生家入口の石碑は、当時の当主であった畠山昭男氏が建立したものである。

 

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普代

2022年12月10日 | 岩手県

(黒崎)

 

伊能忠敬測量記念碑

 

 伊能忠敬一行は、享和元年(1801)十一月十日、黒崎に到着し、井戸の計測を行った。当日の日記には「此夜晴 天側量」と記録されている。

 

 三陸道(三陸沿岸道路)は、仙台と八戸までの全長約三百六十キロメートルを結ぶ自動車道路である。東日本大震災の復興事業の一環として事業化され、令和三年(2021)十二月に全線が開通した。これにより岩手県普代村へのアクセスは随分と改善することになった。

 朝からの雨は、普代村に着いた頃に本降りとなり、黒崎周辺は深い霧に覆われた。国民宿舎くろさき荘の北側に北緯40度を示すシンボルタワーがあって、人が近づくと地球儀が回り出すという仕掛けになっている。本来、展望台からは太平洋の絶景を見下ろすことができたはずだが、周囲は真っ白であった。

 先ほどのシンボルタワーの近くに黒崎砲台跡が復元されている。

 

黒崎砲台跡

 

 その先に黒崎砲台跡がある。

 

黒崎砲台跡

 

 南部藩ではこの場所に台場を築き、黒崎御台場と称した。幕末の南部家文書「御分国海辺全図」によると、領内の太平洋沿岸沿いと津軽海峡、そして内海睦湾側に至る広い沿岸要所に遠見番所十カ所以上と砲台場三十三ヶ所以上を配置したとしている。

 黒崎台場には、土塁をめぐらし、砲台場、火薬庫、詰所を配置して、打ち方と手伝人六名を常置させていた。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、幕軍に属した南部藩は北航してくる官軍艦船をこの場所から狙い撃ったという。

 

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宮古 Ⅱ

2022年12月10日 | 岩手県

(華厳院)

 宮古市花原(けばら)市の華厳院の山門脇に楢山佐渡の顕彰碑が建てられている。明治三十四年(1901)の建碑。

楢山佐渡は天保二年(1831)の生まれ。隆吉は楢山佐渡の諱。盛岡藩重臣の出自で、世々家老の職にあった。家老として、またしばしば執政として重きをなした。当時、盛岡藩では利義を擁立した東次郎の革新派と、利剛についた楢山佐渡との二派に別れて対立抗争し、これが維新の政局に重大な影響を及ぼした。

 

華厳院

 

隆吉楢山君碑(楢山佐渡顕彰碑)

 

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盛岡 Ⅲ

2022年12月10日 | 岩手県

(盛岡駅)

 

Inazo Nitobe

 

 盛岡駅を下りて東口に出ると、新渡戸稲造の胸像がある。新渡戸稲造生誕百五十年を記念して、台湾から贈られたものある。

 明治二十八年(1895)、下関条約により清国から割譲され台湾は日本が統治することになった。新渡戸稲造は明治三十四年(1901)に台湾総督府技師に就任、台湾の産業を発展させるため「糖業改良意見書」を提出した。この意見書により、台湾の砂糖産業は大きく飛躍したとされる。

 

(聖寿禅寺つづき)

 

横川省三墓

 

 横川省三は、慶応元年(1865)四月、南部藩士三田村勝衛の二男として、盛岡上米内に生まれた。初め勇治と称し、青年期に山田を姓としたが、のち和賀郡十二鏑村(現・東和町)の横川家に入籍し、名も省三と改めた。明治十七年(1884)、上京して自由民権運動に加わったが、次いで東京朝日新聞に入社。郡司大尉の千島探検に特派員として、日清戦争には従軍記者として参加し、その取材報道に縦横の筆を振るった。明治二十九年(1896)、社を辞して渡米。暫く移民事業に携わったが、東亜の風雲急を告げるに及び、意を決して満蒙に入り、日露戦争が勃発すると、沖禎介等同志とともに、ロシア軍の後方攪乱を企て、嫰江(のんこう)大鉄橋を爆破しようとして捕らえられ、ハルピンにて銃殺の刑に処された。享年四十。

 

(本誓寺つづき)

 

 元々水曜日から秋田、その日のうちに仙台に移って一泊二日の出張に一日休みを加えて、金曜日は終日岩手県下の史跡を巡る計画であったが、仕事があまりに忙しくて出張どころではなくなってしまった。しかし、ベトナム赴任が目の前に迫り、この機を逃すと盛岡、仙台を旅するのは、最低でも四年は辛抱することになる。木曜日の休暇はキャンセルせず、水曜日の夜、東京駅を出る夜行バスで盛岡を目指した。東京駅を夜の十時過ぎに出発すると、朝五時半くらいに盛岡駅に到着する。さすがにこの時間、鉄道も路線バスも動いていない。当初レンタサイクルで市内を回る予定をしていたが、バスを降りてみると小雨が降っており自転車利用の計画はあっさりと放棄せざるを得なくなった。結局、朝から市内那須川、北山の寺町を歩いて訪ねることになった。最初の訪問地は、前回畠山太助の墓を探しきれなかった本誓寺である。

 

釋 祐洞(畠山太助の墓)

 

 畠山太助は、嘉永六年(1853)、閉伊郡地方の農漁民等一万数千人が結集した三閉伊一揆の中心的な指導者として活躍し、この壮大な闘いを勝利に導いた人物である。維新後、明治六年(1873)の地租改正反対一揆に連座し、取り調べ中の同年五月二十七日朝、止宿していた盛岡油町の牛方宿、河内屋権兵衛(平野家)宅の厩で抗議の自殺を遂げた。享年五十八。

 本誓寺の顕彰碑は、昭和六十三年(1988)五月、畠山太助顕彰会の手によって建立されたものである。

 

墓石の傍らに立つ畠山太助顕彰碑

 

 衆民のため死ぬるのは 元より覚悟のことなれば 今更命惜しみ申すべきや

三閉伊一揆指導者田野畑村

畠山太助ここに眠る

 

(法華寺つづき)

 

板垣草蔭墓(佐々木直作の墓)

 

 二度目の訪問で、佐々木直作の墓を発見することができた。墓石には板垣草蔭という維新後の名前が刻まれている。

 

(大慈寺つづき)

 

「圓通」

 

 原敬は西園寺内閣で内務大臣を務め、立憲政友会では西園寺の後を継いで第三代総裁に就任した。西園寺公望とは深い縁で結ばれている。原敬の菩提寺大慈寺が再建される際、本堂に西園寺公望筆の「圓通」(えんづう)の書が本堂に架けられた。境内には鎌倉に建てられた原敬の別荘腰越荘が移築されたが、本堂内には「腰越荘」の書も残されている。

 

(七十七銀行盛岡支店)

 

原敬別邸遺跡

 

 「大通り」というのは盛岡市の中心部を貫く目抜き通りである。京都でいえば四条通り、鹿児島でいえば天文館に相当する。

 大通り3丁目の七十七銀行のあった場所にかつて原敬別邸介寿荘があった。

 原敬は明治四十二年(1909)、当地に別邸介寿荘を設け、毎年帰省して郷党の知友と語ることを楽しみとした。

 

圓通神社

 

 昭和五十五年(1980)、この地にホテルを建設するにあたり、原家別邸にあった氏神の一部が出土したことから有志により復元が図られた。

 

 

 

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一関 Ⅱ

2022年04月09日 | 岩手県

(二夜庵跡)

 

漂泊の詩人松尾芭蕉 二夜庵跡

 

明治天皇行在所

 

 松尾芭蕉が一関、平泉を訪れた際、泊まったのが磐井橋付近にあった金森邸と伝えられる。ここに二泊したことから「二夜庵」と呼ばれている。明治天皇も東北巡幸の際、当地で停泊したことから記念碑が建てられている。

 

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平泉

2022年04月09日 | 岩手県

(中尊寺)

 有名な中尊寺は、寺伝によれば、嘉祥三年(1850)、円仁が創建された弘台寿院に始まったという。木立に囲まれた広大な境内は、全域が国特別史跡に指定されている。

 奥六郡(岩手県の北上川中流域)と山北三郡(秋田県の横手周辺)の支配者となった藤原清衡じゃ、豊田館(現・奥州市江刺区)から平泉に拠点を移した。この地は、白河関と外浜(青森県津軽半島)のちょうど中間点にあたり、陸奥の中心地で奥羽全域に号令しようという清衡の意思が現れたものといわれる。中尊寺の寺号については(諸説あるが)奥羽の中心地に因んで命名されたという。

 

中尊寺本堂

 

 最盛期には四十余りの寺塔、三百を超える禅坊は立ち並んでいたとされる。しかし、奥州藤原氏滅亡とともに衰微し、建武四年(1337)の火災で金色堂と経蔵を除き山内の堂宇は焼失した。その後、江戸時代に仙台藩の保護によって復興し、現在に至っている。

 

中尊寺金色堂

 

 金色堂は覆堂という建物の内部にある。堂内には三つの須弥壇があり。清衡、基衡、秀衡の三代に柩が納められている。金色堂は阿弥陀堂であると同時に藤原三代の遺体を祀る霊廟でもある。

 

金色堂覆堂

 

 金色堂を出て小高い丘の上に旧覆堂がある。鎌倉幕府によって金色堂の修復が行われ、覆堂が建てられたと考えられてきたが、近年の調査では、金色堂建立後五十年ほどで簡素な覆屋根がかけられ、増改築を経て室町時代中期に現在の形になったとみられる。昭和三十八年(1963)、新覆堂の建築に伴い、現在地に移築された。

 

阿弥陀堂

 

 中尊寺第一駐車場に車を停めて、月見坂と呼ばれる参道を進む。弁慶堂、薬師堂、本堂、大日堂、鐘楼、阿弥陀堂、弁財天堂が次々と現れる。

 嘉永五年(1852)、東北の旅に出た吉田松陰と宮部鼎蔵は、三月十四日、中尊寺を詣でた。松陰は「道を離れて山に入ること五六町、十八の坊あり、杉樹蓊蘙(おうえい)し頗る幽邃(ゆうすい)の致あり。」と日記に残した。この後、一関に出て宿をとっている。

 

大日堂

 

大日如来

 

お守り

 

小松宮殿下御休憩 御舊蹟

 

 東物見台に小松宮彰仁親王がここで休憩をとったことを記念した石碑が建てられている。石碑によれば、明治三十四年(1901)十月四日のことらしい。

 

(白山神社)

 

白山神社

 

明治天皇天覧所

 

 中尊寺のさらに奥に白山神社が鎮座している。白山神社も千年の歴史を紡いできたが、嘉永二年(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永六年(1853)、当時の伊達藩主伊達慶邦から再建奉納されたものである。白山神社の能舞は、天正十九年(1591)、時の関白豊臣秀次と伊達政宗が当社参拝の折、観覧に供し、以来綿々と受け継がれ今日に至っている。明治九年(1876)秋、明治天皇が御東巡の際、白山神社に御臨幸され、古式および能舞を天覧した。能舞台の前にそのことを記念した石碑が建てられている。

 

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前沢

2022年04月09日 | 岩手県

(佐藤屋旅館)

 

佐藤屋旅館

 

明治天皇前澤行在所

 

 奥州市前沢の旧街道沿いにたつ佐藤屋旅館は、明治天皇の行在所にもなった老舗である。

 

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胆沢

2022年04月09日 | 岩手県

(札堂観音堂)

 奥州市胆沢小山斉藤の斉藤霊園の前に札堂観音堂という小さな祠が建てられている。

 

札堂観音堂

 

戊辰戦死者之碑

 

 戊辰戦死者之碑は、明治二十七年(1894)の建立。裏面には仙台藩佐々備中家臣三名の名前と「慶應四年八月二十七日 相馬笹町戦死」と刻まれている。

 

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水沢 Ⅱ

2022年04月09日 | 岩手県

(水沢公園つづき)

 

弔魂碑

 

 戊辰戦争に出陣して戦死した水沢藩士十七名の弔魂碑である。仙台藩の一門である水沢藩は白河の役に出陣したが、石切山などで敗れ、星内蔵太隊長以下十七名の死者を出した。留守氏(水沢伊達家)二十八代景福(かげやす)公のとき、明治二十七年(1894)にこの碑が建てられた。篆額は伊達宗基。栗本鋤雲の撰文。金井之恭の書。

 

後藤新平像

 

 水沢公園には後藤新平の像が二つある。もう一つの像は、ボーイスカウト姿である。

 後藤新平は、日本ボーイスカウトの初代総長となった。この銅像は、大熊氏広の作で、明治四十四年(1911)の建立。太平洋戦争の際に供出され、その後昭和四十六年(1971)に、東北三県(青森、岩手、秋田)ライオンズクラブ年次総会の記念事業として旧台座の上に日本ボーイスカウト初代総長の銅像が再建された。

 

斉藤實銅像(朝倉文夫作)

 

 斎藤實の銅像は、没後二年が経過した昭和十三年(1938)に建設されたが、昭和十九年(1944)に供出された。昭和三十八年(1963)、斎藤實子爵銅像復元会が全国募金により復元した。

 

(増長寺)

 

増長寺

 

 星家の墓は建て替えられて新しい墓石になっているが、傍らの墓誌で「慶応戊年六月十二日 星蔵人太 三十六歳」と名前を確認することができる。

 星内蔵太は、一番座召出。小隊長。水沢搦手丁住。慶應四年(1868)六月十二日、白河石切山にて戦死。三十六歳。

 

星家之墓(星内蔵太の墓)

 

(佐倉河 宿)

 

戊辰役記念碑(右)

戊辰役戦死者之碑(左)

 

 右手の戊辰役記念碑は、斎藤實の篆額。佐野宿から出陣した三十名の記念碑。大正六年(1917)の建立。そのうち佐藤雄治(三十一歳)、小野傳右衛門(三十一歳)、千葉弥左衛門(三十六歳)の三名が戦死した。左手の戊辰役戦死者之碑は、その三名を悼んで平成五年(1993)に建立されたものである。

 

(後藤寿庵の館跡・寿庵廟)

 

寿庵廟

 

白川戦歿者招魂碑

 

 福原農村公園と名付けられているが、この場所は、江戸時代初期、伊達政宗の家臣であったキリシタン武士後藤寿庵が居所とした館跡である。中ほどには天主堂があったとされる。

 寿庵は、慶長十六年(1611)から元和十年(1624)まで、当時見分けの地と称されていたこの地を治めた千二百石の領主であった。先端土木の技術者でもあった寿庵は、胆沢川から水を引き、荒れ野であった胆沢扇状地を開拓して、有数の穀倉地帯といわれる基礎を築いた。このことから胆沢平野開拓の祖とも称され、博愛の精神で仁政を敷いた名領主といわれる。昭和六年(1931)、地元農民が私財を投じて寿庵顕彰のシンボルとなる寿庵廟を建立した。

 寿庵廟の傍らに白川戦歿招魂碑が置かれている。水沢福原出身の戦死者二人(菊地卯兵衛と後藤善之丞)の招魂碑である。両名とも慶應四年(1868)六月十二日、白河石切山にて戦死。

 

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