史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

白石 Ⅲ

2013-12-08 12:40:26 | 宮城県
(専念寺墓苑)


稱應院釋教念居士
久米部正親(猪野忠敬)墓

 浅田次郎の「一刀斎夢録」を読み終えた。いつもながら浅田次郎氏の想像力の豊かさに感心したが、登場する人物群はほとんど実在する新選組隊士である。その中の一人、久米部正親の墓が白石にあるというので、連休の一日、日帰りで白石、相馬まで往復してきた。八王子を深夜の三時に出発すると、白石には早朝に行き着くことができる。
 専念寺墓苑は、予想以上に広い敷地で、当てもなくここを歩いて久米部正親の墓を探し出すのは果てのない作業に思えた。一時間歩き回ってやっと見つけることができた。
 久米部正親は、大阪出身。元治元年(1864)に新選組に入隊したといわれる。戊辰戦争では、鳥羽伏見、甲州勝沼、会津と転戦し、銚子で降伏したという。維新後、名前を猪野忠敬と改め、明治四十三年(1910)、仙台にて病死。墓石には猪野忠敬という名前が刻まれている。

(傑山寺)
専念寺墓苑を歩いているうちに、傑山寺境内に出た。本堂前には片倉小十郎景綱の像がある。傑山寺は片倉小十郎家の菩提寺で、裏山の墓地には片倉家や松前家の墓がある。


傑山寺


傑山寺 片倉小十郎景綱公像


一陽院殿景徳放光大居士(片倉邦憲墓)

 片倉家墓地にある片倉子十郎家十二代目邦憲の墓である。片倉邦憲は、戊辰戦争の敗戦により代々受け継いできた知行と白石城を没収され、明治初年、家臣団を北海道に送ったが、自身は高齢のために仙台に留まった。


韜光謙堂居士(佐藤孝郷墓)

 佐藤孝郷は、片倉家の家老の家に生まれた。戊辰戦争後、授産のために白石の士族を引き連れて、咸臨丸で北海道へ渡航し、最月寒(現・札幌市白石区)に入植した。このとき咸臨丸は木古内町更木岬沖で破船沈没した。最月寒における開拓は困難を極めたが、佐藤孝郷は一団をまとめて士気を鼓舞し続け、今日の札幌市白石区の礎を築いた。明治七年(1874)には初代札幌区長に選ばれた。


寶珠院秋譽貞嶽爾原居士(熱海貞爾墓)

 熱海貞爾(あずみていじ)の墓は伝説の大関谷風の墓の近くにある。熱海貞爾は、星恂太郎率いる額兵隊の副長として箱館の榎本軍に身を投じた。戦後は新政府に出仕し、東京府土木理事部長などを歴任した。明治十七年(1884)、四十九歳にて死去。

 傑山寺の墓地を歩いているとき、携帯電話が鳴った。かねて病療養中であった同期のF君が息を引き取ったという。数日前に自宅に伺った際には、既に意識はなく呼びかけても返事はなかった。覚悟はしていたが、残念というほかはない。まだ五十代半ばであった。合掌。

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丸森

2013-07-06 11:57:21 | 宮城県
(旗巻古戦場跡)


旗巻古戦場之碑

 宮城県と福島県の県境に位置する旗巻峠は、その昔、源頼義、義家父子が軍を率いて、安倍貞任を討つためにこの地を通過しようとしたとき、森林が深くて通行を阻まれ、旗を巻いて通ったという言い伝えがある。時代が下って戦国時代、伊達政宗はこの地を藩境を定め、故事に因んで旗巻峠と名付けた。
 戊辰戦争では、駒ヶ嶺城が落城して以降、旗巻峠は北進する西軍を阻止する、仙台藩最後の拠点であった。慶應四年(1868)九月、細谷十大夫率いる仙台衝撃隊(鴉組)を含む仙台藩軍は、石田正親を隊長とし、参政鮎貝太郎平が指揮をとった。さらに庄内藩、米沢藩の応援を得て、兵千二百で守備していた。急峻な山を前に西軍は攻めあぐねていたが、椎の木方面から奇襲をかけ、一気に山上に迫った。東軍は後方を遮断される危険を感じ、旗巻峠は総崩れとなり、陣屋を焼いて退却した。態勢を立て直して反攻に出ようとしたところに、仙台藩の降伏を知らせる使者が到着し、当地における戦闘は終焉を迎えた。仙台藩にとって、この地が最後の戦場となったのである。


明治戊辰戦死者供養碑

 旗巻峠における戦闘での戦死者は、仙台藩四十六名、米沢庄内十五名。旗巻古戦場之碑は、明治三十三年(1900)、三十三回忌供養慰霊祭の折、当時参謀兼副隊長であった細谷十大夫の揮毫によるもの。


北砲台場跡

 旗巻峠古戦場は公園として整備され、陣屋跡、砲台跡などには看板が建てられている。陣屋跡から北砲台跡まで四百メートル。階段が通じており、あっという間に到達する。北砲台には、山下、亘理方面の海外防備に使用されていた旧式海岸砲(球形弾)を外して引き揚げ、俄かに配備した。


北砲台跡からの眺め

 山頂からは相馬市街を見下ろすことができる。


南砲台場跡

 陣屋跡に戻って、そこから南砲台場跡までは片道八百メートル。旧道から鬱蒼とした林を抜けると、少し広くなった空間があり、そこが南砲台跡である。


戦死塚
(仙台藩士の墓)

 一旦、公園入口まで戻り、そこから西へ六百メートルほど行くと、仙台藩士の墓がある。明治元年(1868)九月十日の戦死者(以下、十二名)を葬ったものである。

 吉田義六・渡辺庄造・松本嘉十郎・荷田沢五郎・半田安五郎・庄司伊右衛門・阿部保之助・石川栄三・高橋与右衛門・吉田孫三郎・佐藤是三郎・星村初三郎

(常照寺)


常照寺

 筆甫の常照寺に仙台藩が一時本陣を置いた。


戊辰戦場之碑

 筆甫で行われた戦闘により仙台藩十二名、西軍三名が戦死している。

(遊仙寺)


遊仙寺

 遊仙寺本堂裏の墓地には、小斎邑の領主であった佐藤家代々の墓がある。その一番奥にあるのが佐藤宮内の墓である。


佐藤宮内墓

 佐藤宮内恒信は、小斎邑領主。千石。戊辰戦争の際は、会津攻撃のため当初は藤田(福島県国見町)の守備につき、その後、会津藩が白河城を乗っ取る際には白河城の三の丸にあったが、根田に退き、須賀川に引揚げた。閏四月二十五日には福島を発し、白河口大隊長として出陣し白河に至り、白河口の戦いで奮戦。その後、数度の奪還戦にも奮戦。棚倉の危急には会津藩の小森一貫斎等と棚倉に向かい奮戦。中村藩が寝返ると、旗巻峠に出陣し奮戦した。明治八年(1875)没。五十五歳。

(真龍院)


真龍院


招魂碑

 戊辰戦争から大東亜戦争に至る、丸森出身の戦死者の招魂碑である。

(神明社)


神明社

 神明社境内には、大東亜戦争、戊辰戦争、日露戦争の慰霊碑が並んで建てられている。


戊辰戦死之碑

 戊辰戦死の碑は、明治二十七年(1894)の建立。

 今回の旅の最終日は、ホテルを取っていなかったので、神明社の近くに車を停めてここで夜を明かした。五月というのに意外なほど冷え込み、寝袋はあったものの、それでは寒さは凌げなかった。ほとんど一睡もしないまま夜明けを迎えた。
 まだ完全に日が上がったわけではなかったが、活動を開始。神明社の境内は、まだ薄暗かった。


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山元

2013-07-06 11:38:13 | 宮城県
(金泉寺)


金泉寺

 山元町高瀬の金泉寺には菊池美作、荒庄三郎の墓がある。


菊池美作・荒庄三郎碑

 荒庄三郎は、亘理郡高瀬の人。慶應四年(1868)七月二十八日、磐城熊川にて戦死。二十三歳。


菊池美作墓

 菊池美作は、亘理郡高瀬の人。慶應四年(1868)七月二十六日(墓碑銘によると二十八日)、磐城熊川にて戦死。三十四歳。

(徳本寺)


徳本寺


碩寛院殿竹堂翠雨大居士
碩貞院殿竹窓香雨大姉
(大條孫三郎墓)

 徳本寺には広大な墓地がある。その広い墓地ではなく、現在裏山を削り取る工事が行われている、その一角に亘理郡坂本邑主伊達氏の墓がある。
 大篠孫三郎は、維新後本姓である伊達氏を名乗り、伊達宗亮と称した。仙台藩勤王派であり、仙台藩に抗戦を求める榎本武揚、土方歳三との談判に臨み、交渉は決裂した。大正十三年(1924)八十七歳にて没。

(山元町歴史民俗資料館)


山元町歴史民俗資料館


戊辰之義人之碑

 山元町歴史民俗資料館の前に「戊辰之義人之碑」という碑が置かれている。この石碑は、平成四年(1992)に建立されたものである。
 ここで義人とされているのは、山下村の百姓彦左衛門と長左衛門の二人である。慶應四年(1868)八月十一日、伊達領駒ヶ嶺館が落城寸前に陥ると、亘理館主伊達邦成は講和を請うため、彦左衛門と長左衛門の二人を降伏の使者として相馬の西軍に送った。二人は、笠野八重垣神社で水盃を交わし、義兄弟の契りを結んだ。相馬に向かう途中、二人は間諜として囚われた。西軍は真偽を確かめるため、彦左衛門を人質として、長左衛門を帰村させた。約束期限に戻らねば、彦左衛門は刎首されることになっていたが、この約束期限寸前に家老を伴って戻り、彦左衛門は九死に一生を得た。この結果、亘理は戦火から免れることができた。伊達家はこの挙に対し、紋章入りの羽織と金百五十両を下賜し、名字帯刀を許したという。


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角田

2013-07-06 11:25:56 | 宮城県
(長泉寺)


長泉寺

 長泉寺の門前に戊辰戦死之碑が建っている。角田領主・石川邦光家中の戦死者二十三名の慰霊碑である。


戊辰戦死之碑

 この日は、角田に至ったところで日没を迎えた。残念ながら長泉寺の墓地を歩く時間は殘されていなかった。

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亘理

2013-07-06 11:22:08 | 宮城県
(大畑墓地)


佐伯新之丞墓

 「幕末維新全殉難者名鑑」によれば、佐伯新之丞は、亘理郡大畑の人。伊達藤五郎邦成の家来。慶應四年(1868)八月十六日、磐城駒ヶ峰にて戦死。
 佐伯家墓標によれば、法名は「忠源了義信士」、死亡日は同年八月二十三日となっている。

(亘理神社)
 石高二万三千石の亘理は、他藩でいえば「支藩」ということになるが、仙台藩では「藩」という呼び方はせず、亘理領である。さらに仙台藩には「城」と呼ばれるのは、仙台城と白石城しかなく、ほかは「要害」と称される。亘理要害もその一つである。幕末の亘理領主は、伊達藤五郎邦成。慶応四年(1868)四月、出陣の命を受けた伊達藤五郎は出陣式を挙げて七カ宿街道湯の口まで進出したところで、奥羽越列藩同盟結成の報を受けた。驚愕した藤五郎は、伊達家に対して反省を求める建白書を送った。のちには熊本細川藩との間で終戦工作を行うなどしたことが、戦後亘理藩士が大挙して北海道に移住した背景にある。明治初年に移住した亘理藩士は、領主藤五郎以下約二千七百人という。現・伊達市の起源である。


亘理神社

 亘理神社は、旧亘理要害(御館=おだて)の本丸跡に立地している。明治維新まで本丸跡には二十棟以上の建物があったというが、維新後全ての建物は取り壊され、資料も残っていないため今となっては詳細不明である。
 この場所で、戊辰戦争時、仙台藩の降伏の調印式が行われた。


戊辰戦役碑

 仙台藩亘理領の戦死者三十三名の慰霊碑である。明治三十三年(1900)、戊辰戦争当時の亘理領主伊達藤五郎邦成の嗣子男爵伊達基が建立したものである。


戊辰殉難五十年祭紀念碑


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大河原

2013-07-06 11:13:17 | 宮城県
(最勝院)


最勝院


浅草宇一郎墓

 大河原町の最勝院には浅草宇一郎の墓がある。浅草宇一郎は、文政元年(1818)、大河原村に生まれた。のちに福島に移って目明しとなった。戊辰戦争では、仙台藩による世良修蔵捕縛処刑に協力した。明治二十三年(1890)、七十五歳で死去。


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柴田

2013-07-06 11:08:34 | 宮城県
(大光寺)


大光寺

 大光寺は、十五世紀半ばに起源をもつという古刹で、柴田家の菩提寺である。その中に柴田中務の墓がある。


解脱院鋒安常担居士
(柴田中務墓)

柴田中務は、戊辰役大隊長として磐城口に戦い、明治元年(1868)十月、家来小松亀之進が占領軍の広島藩兵を殺した責により切腹した。


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岩沼

2013-07-06 09:38:56 | 宮城県
(竹駒神社)
 岩沼は交通の要衝であり、戊辰戦争時には奥羽鎮撫総督府が置かれ、九条道孝は岩沼要害に滞在した。


竹駒神社

岩沼市の竹駒神社は、日本三大稲荷の一つという。ところが、インターネットで「三大稲荷」を検索すると諸説あるようで、「伏見稲荷・豊川稲荷・笠間稲荷」を挙げるのが一般的のようである。さらに佐賀県の祐徳稲荷や岡山県の最上稲荷としている説もあるが、どういうわけだか竹駒神社を挙げているHPは少ない。さらに調べると、三大稲荷を自称している神社は全国に九つもあるようで、こうなると「どれでも良いか」という気になってくる。当事者にとっては深刻な問題かもしれないが。
竹駒神社は広い境内を持つ神社で、仙台額兵隊が一時期ここを屯所としていた。

(鵜ヶ崎神社)


鵜ヶ崎神社


戊辰役戦死弔魂之碑

 岩沼領から出陣して戦死した二名(大宮重左衛門と三浦曽右衛門)の弔魂碑である。両名とも白河口における戦闘での犠牲者である。


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栗原

2013-07-06 09:28:48 | 宮城県
(千葉周作生誕の地)


千葉周作生誕の地

 今回の旅行では、連日日の昇る前、早朝四時半に起床し、日の出の時間には第一目的地に行き着くような過酷な日程であったが、さすがに体力的に厳しいものがあった。遂に三日目の朝は寝坊してしまい、気が付いたら外はすっかり明るくなっていた。ホテルは仙台市内の繁華街の中にあった。ベッドの中で「やっぱり都会は夜通し騒がしいな」と感心していたが、何のことは無い。窓から外を見ると、往来は通勤の人や車が行き交っていた。慌てて飛び起きて、朝食も取らずに栗原市花山方面に向かった。

 花山は剣豪千葉周作の出身地として知られる。実は、千葉周作生誕地と称する場所は、陸前高田にもある。どちらが正解というのは断言できないが、司馬遼太郎先生は小説「北斗の人」で、千葉周作の父、千葉幸右衛門の出身地を栗原の花山とし、その父が陸前気仙郷にいたころに娶った娘に周作を産ませたとしている。

(孤雲屋敷)


孤雲屋敷

 孤雲屋敷(旧佐藤家住宅)は、花山村草木沢小田に所在した住宅を移築したもので、七代目当主重太郎(号を孤雲と称す)は、千葉周作の剣士としての天分を見抜いた人物として知られる。このエピソードは、司馬遼太郎先生の小説「北斗の人」にも紹介されている。孤雲居士は、この住居で隠遁生活を送っていたが、趣味、学問に長け、人徳も厚く、多くの人と交わりがあったと言われる。その中の一人に周作の父、千葉幸右衛門がいたというわけである。現在、孤雲屋敷は一般に公開され、千葉周作に関する資料の展示などを行っているが、寝坊したとはいえ、私がここに行き着いたのは朝八時過ぎであり、孤雲屋敷の開館時間前であった。

(城国寺)


城国寺

 孤雲屋敷から数百メートルという場所に城国寺がある。
 城国寺は、伊達藩川口宿老遠藤玄信が寛永年間にこの地に移転再興したという古刹で、以来遠藤家の菩提寺となっている。墓地の一段高くなった場所に遠藤家の墓地がある。


贈四位遠藤允信公墓
(遠藤文七郎墓)

 幕末の遠藤家当主は十一代遠藤文七郎允信(さねのぶ)。天保七年(1836)生まれ。十九歳で父元良に代わって奉行となった。仙台藩の勤王派で、性格は酷烈といわれた。藩論を勤王に導こうとして佐幕派の但木土佐と対立し、文久三年(1863)政争に敗れて閉門を命じられた。維新後は奉行に復して戊辰戦争後の処理に当たった。侍詔院下局に勤め、次いで仙台藩権大参事となった。のちに神職に転じ、氷川、都々古別、平野、塩竃各神社の宮司を務めた。明治三十二年(1899)没。六十四歳。

(金剛寺)


金剛寺

 金剛寺には梁川家代々の墓地があり、その中に羽前金山で壮烈な戦死を遂げた梁川播磨の墓がある。


梁川一家戦死英霊之碑

 本堂向かって左手にある梁川一家戦死英霊之碑である。


梁川頼親墓

 梁川播磨は、栗原郡鴬沢邑主。三百石。慶應四年(1868)、七番大隊長として出陣。七月十一日、羽前金山で傷。軍監五十嵐岱助と刺し違えて死。三十七歳。


氏家新太夫墓


長沼丹宮吉直墓

 梁川播磨の墓に向き合うように、氏家新太夫と長沼民弥という二人の家臣の墓が置かれている。両名とも梁川播磨と同じ七月十一日の羽前金山における戦闘で戦死。ともに二十七歳であった。

(瑞満寺)


瑞満寺

 瑞満寺には、姉歯武之進とその家臣の墓がある。


仙台藩軍監
烈士 姉歯武之進顕彰碑

 姉歯武之進は、世良修蔵暗殺に関わった仙台藩士。剣に優れていたという。戊辰戦争では、五番大隊瀬上隊の軍監兼小隊長として出陣。慶應四年(1868)閏四月二十九日白河城中ノ丸で戦死。二十五歳。この顕彰碑は、戊辰戦争から百二十年目の戊辰年であった昭和六十三年(1988)に建立された。


姉歯武之進平景澄墓(中央)および
その家臣(右:義勇孝忠清信士 左:義真忠鑑清信士)の墓

 右が日下勇、左は千葉松治の墓。いずれも姉歯武之進の家臣。慶應四年(1868)五月一日、白河にて戦死。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。

(柳徳寺)


柳徳寺

 柳徳寺の墓地の一角に先覚者の墓が集められており、その中に戊辰戦争で戦死した佐藤百助の墓がある。


佐藤百助藤原艮勝之墓

 佐藤百助は、坂本大炊の家来。慶應四年(1868)五月一日、白河で戦死。


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登米

2013-07-06 09:00:56 | 宮城県
(昌学寺)


昌学寺山門

 昌学寺は、弘治元年(1555)の開山。山門(鐘楼門)と観音堂は寛政年間の建造である。


仁雄院忠参蘆洲居士
(芦名靱負墓)

 境内には伊達家一族の芦名氏の墓所があり、幕末の当主芦名靱負の墓がある。
 芦名靱負は、天保十年(1839)登米郡石越村に生まれた。父は佐渡盛長。諱は盛景。小姓頭から若年寄兼大番頭、藩校養賢堂御用掛等の要職を歴任し、参政にのぼった。戊辰戦争では左備指揮掛となり、額兵隊を総督した。越後、会津に転戦、戦後箱館に走った額兵隊統率の責を問われて明治二年(1869)六月、家跡没収のうえ永揚屋入りを命じられた。明治五年(1872)正月、許されて、のち西南戦争にも出征。その後は伊達家の家扶となった。詩画を得意とした。明治二十九年(1896)東京芝邸にて没。年五十八。

(佐沼城跡)


佐沼城跡

 佐沼城は別名鹿ヶ城とも呼ばれ、平安末期から歴史に登場する古い城である。伊達氏が仙台を治めるようになって以降、湯目氏(のち津田と改姓)、その後亘理氏が移り幕末まで続いた。


弔魂碑

 現在、佐沼城跡は史跡公園となっているが、その一角に佐沼領から出兵した戦死者の弔魂碑が建立されている。明治七年(1874)の建立。

(香林寺)


香林寺


戊辰役戦没者之塔

 香林寺は、旧豊里町唯一の寺院で、豊里町のほぼ全戸が檀家と言われ、裏山が開かれて広い墓地が造成されている。境内に戊辰役戦没者之塔が建てられている。これは登米隊、松山隊の戦死者四十名の慰霊碑である。建立は昭和四十五年(1970)。

(福田寺)


福田寺


弾忠潔儀居士(池田亀太郎墓)

 福田寺に池田亀太郎の墓がある。池田亀太郎は、銃士。慶應四年(1868)五月一日、白河で戦死。

(登米神社)


登米神社


登米招魂碑

 登米神社境内に登米領戦死者の招魂碑が建てられている。

(本覚寺)


本覚寺

 本覚寺には仙台藩士米谷吉郎右衛門の墓がある。
 米谷吉郎右衛門は、藩老伊達筑前家来。戊辰戦争では中隊頭として活躍した。明治二年(1869)、旧幕兵隠匿の疑いで捕えられ、五月三日斬に処された。四十六歳。


米谷貫通先生墓
(米谷吉郎右衛門墓)

(冷松寺)


冷松寺

 冷松寺には、仙台藩米谷領戦死者の招魂碑が建立されている。旧米谷領主高泉兼之によって明治十三年(1880)に建立されたものである。


招魂之碑


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