史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

石狩

2015年12月12日 | 北海道
(浜益)
 浜益区川下の荘内(庄内)藩陣屋跡である。安政六年(1859)、幕府は蝦夷地を奥州六藩に分け与え、その警備を命じた。庄内藩はハママシケを含む日本海に面する西海岸一帯(留萌・苫前・天塩など)四十里に及び地域を拝領した。万延元年(1860)家老松平舎人を総奉行として現地調査を行い、意見書を提出した。この調査をもとに、二代目総奉行酒井玄蕃が赴任し、警備・開拓の本陣をこの地に置いた。奉行所を始め、寺、神社、長屋などが建設され、集落が形成された。一行は永住計画に基づき、各種の職人や農民も集めた。資材、人員の運搬のために渡航用の弁財船も建造され、往復した。この時、黄金川からこの場所までの水路を設けたが、その費用に千両を要したため「千両堀」と称されたという。現在もその遺構が残っているそうである。慶応四年(1868)、戊辰戦争が勃発したため、庄内藩士は急遽引き上げることになり、七年に及ぶ年月と莫大な費用をかけた庄内藩の蝦夷地拝領の警備、開拓は幕を閉じた。


ハママシケ荘内藩陣屋跡

 荘内藩陣屋跡は、訪ねる人もほとんどいないためか、手入れが全くされていない状況であった。陣屋の門らしきものは復元されているが、一歩中に入ると雑草が生い茂り、とても史跡とは思えない状況であった。

(厚田神社)


厚田神社


直心館之碑

 厚田神社の鳥居前に直心館之碑が立つ。元新選組隊士の永倉新八が厚田まで来て、直心館道場で剣道を教えたという。

(厚田公園)


厚田公園

 厚田公園の向い側の海岸線沿いにはあいロード夕日の丘観光案内所がある。想像するしかないが、ここから眺める日本海に沈む夕日はとてもロマンティックであろう。


子母澤寛文学碑

 厚田公園にある子母澤寛文学碑には、子母澤寛の「厚田日記」の冒頭の一文が刻まれている。

――― 箱館戦争の敗残者
江戸の侍が
蝦夷石狩の
厚田の村に
ひっそりと暮らしていた


厚田資料館

厚田公園内の厚田資料館は、厚田出身の佐藤松太郎(漁家、実業家)、子母澤寛、戸田城聖(創価学会第二代会長)、吉葉山潤之輔(第四十三代横綱)らを顕彰する施設である。
子母澤寛の祖父、梅谷十次郎は御家人で、彰義隊に参加して、さらに箱館戦争でも敗れて捕虜となった。戦後、釈放されると札幌に移って開墾に従事したが成功せず、石狩の厚田に移り住んだという。厚田では網元として漁場を持ち、旅館と料理屋を兼ねた店を経営した。子母澤寛も厚田に生れたが、実母とは早くに死に別れ、この祖父に溺愛されて育ったといわれる。のちに新聞記者のかたわら、旧幕臣の聞き書きをまとめ、「新選組三部作」などを世に問うた。

(弁天歴史公園)


弁天歴史公園

 石狩は、石狩川の河口にできた町で、江戸時代初期には、石狩川のサケ漁などの漁場が設置され、アイヌ民族の生産場として重要な地位を占めていた。幕末には箱館奉行の出張所に当たる石狩役所が置かれ、蝦夷地開発の拠点の一つとされた。明治以降は南の札幌から北方の厚田、浜益への連絡道が町内を走り、渡し船や船宿などで栄えた。元禄七年(1694)創建という弁天社の隣に歴史公園が開かれている。ここの先人たちの碑に荒井金助の肖像が描かれている。


先人たちの碑
左は荒井金助像

(八幡神社)


八幡神社


燈籠石

 八幡神社境内には木戸孝允筆の燈籠石がある。右に「文武一徳」、左には「肇域四方」とある。「文武は元来分かつことができない。併せて四方の国境を確定しなければならない」という意。ロシアの南下政策を意識した言である。

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当別 Ⅱ

2015年12月12日 | 北海道
(東浦墓地)


従六位伊達邦直之墓

 東浦墓地に、伊達邦直、吾妻謙主従の墓がある。この墓地も非常に広い。管理事務所の前に彼らの墓があるので、それを目指して行けば、見つけやすい。

 伊達邦直は、仙台藩一門岩出山一万六千石の領主。戊辰戦争後の明治二年(1869)、新政府に北海道開拓の議があるのを聞き、同族の伊達邦成とともに請願し、石狩国札幌、空知弐郡の支配を命じられた。明治三年(1870)、旧臣を従えて開拓に着手し、爾来刻苦相援け経営すること二十余年。開拓千町歩、移民三千余に達した。明治十四年(1881)には准陸軍少尉に任じられ、開拓使七等属を兼任、明治天天皇の北海道行幸の際には、札幌行在所にて謁見を賜った。明治二十四年(1891)没。


伊達家の墓

 吾妻謙は、弘化元年(1844)、岩出山領主伊達邦直の家臣の家に生まれ、藩校養賢堂に学んで才能を賞された。維新後、邦直は北海道開拓を請い、石狩の札幌、空知に移住した。謙はその事実上の指導者として明治三年(1870)以降二百余戸を当別に移住させ、経費の調達と開拓に辛酸をなめたが、ついに開拓の模範村を築いた。明治十一年(1878)、開拓長官黒田清隆に意見を具申し、属吏となった。その後も戸長を歴任し、農産の発展に貢献した。明治十四年(1881)、北海道行幸に際し賞せられ、のち邦直の正五位につぐ贈位(従五位)を受けた。明治二十二年(1889)、四十六歳にて没。吾妻謙の死を聞いた邦直は落胆し、その日の日記に「三時三十分吾妻謙死す、悲観す」と記した。


吾妻謙墓

 吾妻謙は、本庄睦男の小説「石狩川」の主人公阿賀妻謙のモデルである。

(本庄睦男文学碑)


本庄睦男文学碑

 平成二十六年(2014)、石狩川を望む地に建立された本庄睦男文学碑である。本庄睦男が小説「石狩川」の執筆を始めたのは、昭和十三年(1938)であったが、翌昭和十四年(1939)には病が悪化し逝去した。

(本庄睦男生誕地)


本庄睦男生誕之地

 文学碑の場所から自動車で五分くらい行ったROYCE(ロイズ)の太美工場前の一角に本庄睦男生誕地碑が置かれている。ロイズというのは、札幌に本社を置く、チョコレートや洋菓子の会社である。

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月形 Ⅱ

2015年12月12日 | 北海道
 昨年の春以来、一年半振りの月形である。例によって月形樺戸博物館を訪れたのは開館時間前だったので、拝見は適わず。博物館のそばに月形潔の胸像と顕彰碑が並べて置かれており、その写真を撮って次の史跡へ急いだ。
 月形潔は、弘化三年(1846)、月形健の長男に生まれた。月形健は、福岡藩の勤王の志士月形洗蔵の弟。幕末、福岡藩で勤王党が弾圧されたとき、月形潔も一族とともに拘束・投獄された。維新後、新政府に出仕した。北海道における集治監候補地調査を命じられ、石狩川上流のシベツブト(現・月形町)を選定し、明治十四年(1881)この地に樺戸集治監が建設され、初代典獄(署長)に任命された。村人は月形潔の功績を称え、同地を月形村と命名することを提案した。極寒の地における激務が祟った月形は、肺を患って辞任。郷里の福岡で静養したが、明治二十七年(1894)、四十八歳で他界した。


月形潔胸像


月形潔君之碑

 この顕彰碑はもともと北漸寺境内にあったが、それを移設したものである。

(円山公園)


北海道開拓八代典獄紀念之碑

 円山公園に、初代典獄月形潔以下歴代の樺戸集治監の典獄の名前を刻した記念碑がある。

(北漸寺)


北漸寺

 北漸寺は、明治十八年(1885)、典獄月形潔が建立した寺である。寺宝として、熊坂長庵作「弁天図」を保有している。

(篠津囚人墓地)


樺戸典獄死亡者之碑

 明治十四年(1881)、樺戸集治監が設けられ、明治三十六年(1903)、樺戸監獄と改称され、大正八年(1919)に廃監となるまでの三十九年間、多いときには千三百名前後の囚人が服役したといわれる。厳冬期にも道路開削の外役に出され、斃死した者も数知れなかった。まさに官が作ったこの世の地獄であった。廃監までに病気、事故などで死んでいった囚人の数は千四十六名で、そのうち肉親にひきとられなかった千二十二名は、通称監獄墓場といわれる篠津霊園に眠っている。収容された囚人には、明治初年の自由民権運動での国事犯を始め重罪人が多く、中には強盗常習犯の「五寸釘寅吉」こと西川寅吉や藤田贋札事件の主犯として投獄された熊坂長庵などがいる。


囚人墓地

 正面に戒名を刻んだ墓石が整然と並ぶ様に圧倒される。


樺川堂宝山跡昌居士之墓

 熊坂長庵の墓は、ほかの囚人の墓から少し離れた場所にある。この墓誌は、愛川町の龍福寺の住職の手により建立されたものである。
 熊坂長庵は、弘化元年(1844)、愛甲郡中津村十七番地(現・愛川町)に生まれた。明治六年(1873)、中津村の救弊館(現・愛川町立中津小学校)の初代館長となった。明治十年頃に起こった藤田組贋札事件は、様々な思惑も絡み不透明なまま終結するが、明治十五年(1882)、熊坂長庵は紙幣贋造の罪により神奈川重罪裁判所より無期徒刑の宣告を受けた。長庵は直ちに大審院に上訴したが棄却され、明治十七年(1884)三月、樺戸集治監に収監された。獄中にあって得意の絵画に専念し、幾多の名作を残した。明治十九年(1886)四月、樺戸集治監にて死去。

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浦臼

2015年12月12日 | 北海道
(札的墓地)


坂本家の墓

 坂本龍馬の養嗣子坂本直(龍馬の長姉千鶴の長男高松太郎)の妻留(とめ)と二男坂本直衛の墓である。彼らは、明治三十二年(1899)に高知から出て、当時浦臼にいた坂本直寛のもとに身を寄せている。


聖園創祖 前代議士武市安哉之墓

 坂本留・直衛の墓の横に、同じく高知出身の自由民権運動家の武市安哉(たけちあんさい)の墓がある。武市安哉は元代議士で、明治二十六年(1893)七月、理想農村の建設を目指して、札的に入植し、開拓に身を捧げた。当地で聖園教会を開いたことでも知られる。


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旭川

2015年12月12日 | 北海道
前日、陸別における車中泊で睡眠不足に陥ったので、この日は旭川の健康ランドで横になることにした。三千円ほど払うと、浴衣やバスタオルなどを貸してもらえる上に、リラックスルームで一晩を過ごすことができる。
リクライニング可能な椅子が並べられたリラックスルームでは、午後十時前にして早くもここで一夜を明かそうという人達が大勢集まっていたが、何とか一席を確保して、眠りにつくことができた。その時点で既に周囲を圧倒するほどの鼾を発するオッサンがいた。私の経験上、大イビキをかく人(即ち周囲に迷惑をかける人)ほど眠りにつくのが早い。
幸いにして、私の隣席は空いていたので当初は静かであった。ところが、いつの間にか隣の席に大イビキを発するオッサンが現れ、その轟音で目が覚めてしまった。一回目が覚めてしまうと再び眠るのは至難の業である。そのままリラックスルームを抜け出し、朝風呂を浴びると、まだ人影の少ない旭川の街に出た。旭川における第一目的地は永山神社である。

(永山神社)


永山神社

 旭川市の永山地区は、その地名のとおり、永山武四郎が開いた土地である。永山神社の創建は明治二十五年(1892)。祭神は天照大神と大国主神で、永山武四郎を配祀している。


永山武四郎像

 永山武四郎は、天保八年(1837)、薩摩藩士の四男に生まれた。聡明な性格で信頼を集め、明治五年(1872)、開拓使出仕となり、屯田兵制度ができると、北方の警備と開拓を進め、上川地方の重要性に着目して開拓の基礎を築いた。明治二十二年(1889)、屯田兵司令官、第二代北海道長官に就き、明治二十三年(1890)開拓の中心地に姓をとって永山村が誕生した。明治二十九年(1896)、初代第七師団長に就任して、北海道の発展に貢献した。明治三十七年(1904)、逝去。


永山屯田百年記念碑

(常盤公園)


常盤公園

 常盤公園は、旭川市で最も古い公園で、美術館や公会堂、図書館、文学資料館などの施設を備え、大きな池や広場を有している。園内には永山武四郎像(北村西望作)や岩村通俊像がある。


永山武四郎像

 永山神社の永山武四郎像は勇ましい軍服姿であるが、常盤公園のものは平服である。


岩村通俊像


岩村通俊歌碑

 常盤公園内の上川神社に岩村通俊像と歌碑が並んで建てられている。岩村通俊は、明治十八年(1885)、上川地方を視察し、近文山から国見を行い、政府に上川開拓の意見書を提出した。翌年、北海道庁が置かれるとその初代長官に就任し、上川道路の開削に着手したほか、農作試験所の設置、上川原野の殖民地選定事業など、今日の旭川の基礎をつくるのに貢献した。明治二十一年(1888)、元老院議官として転出し、その後、農商務大臣、宮中顧問官、貴族院議員、御料局長などを務めた。大正五年(1915)、東京にて没した。

 世の中に 涼しきものは 上川の
 雪の上に照る 夏の夜の月
通俊

(上川神社)


上川神社

 上川神社には、北海道開拓に功労のあった鍋島直正(初代開拓使長官)、黒田清隆(第三代開拓長官)、永山武四郎(屯田兵本部長、第二代北海道庁長官)、岩村通俊(初代北海道庁長官)がともに配祀の神として祀られている。


上川離宮宣達書碑

 上川開発に必要な移民を受け入れるためには、本州以南の人々を上川移住に駆立てる何かがなければならないとして、初代北海道庁長官岩村通俊や二代長官永山武四郎らが設置を画策したものである。明治二十二年(1889)には内閣総理大臣より離宮設置の指示が道庁にあり、さっそく測量調査の上、現在上川神社のある神楽岡を離宮予定地に選定した。しかしながら、札幌などからの反対もあって、実現は見なかった。上川離宮宣達書碑は、内閣総理大臣山県有朋から時の道庁長官永山武四郎に宛てた達しの文面を刻んだものである。

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白糠

2015年12月04日 | 北海道
(白糠公民館)


史蹟 白糠運上屋跡

 江戸時代初期、松前藩は場所請負制度を創設し、各地に商場(あきないば)を設け、のちにこれを商人(場所請負人)に請け負わせ、運上屋の設置を義務付けた。運上屋は場所の行政的・経済的施設として拠点となる位置におかれ、番屋、旅宿所、産物蔵、馬屋等が整備され、交易等を通じて現地住民の生活に寄与するところが非常に大きかった。白糠運上屋もその一つで、初めはパシュクル西方のモセウシ(現・音別町)に在ったが、波が高く船掛りの不便もあって、後にこの付近に移設された。

(厳島神社)


厳島神社

白糠も八王子千人同心が開拓した街である。幕府に蝦夷地開拓を出願して承認を得た原半左衛門(胤敦)らは、寛政十二年(1800)、勇払(現・苫小牧市)と白糠の二か所に分かれて上陸した。勇払と白糠は、いずれも太平洋側と日本海側もしくはオホーツク側とを結ぶ要所とされており、その警護と開拓を任されたのである。半左衛門は白糠へ、弟の新介は勇払に移住した。このとき勇払と白糠に移住した八王子千人同心は百三十二名。そのうち三十二名が現地で命を落とした。白糠での死者は十七名にのぼった。やはり想像を絶する厳しい自然環境と、当初目論んでいた自給自足体制が調わず食糧不足に陥ったことによる犠牲者であった。現地の開拓は困難を極め、結局八王子千人同心により蝦夷地開拓は約四年で幕を下したが、この功により半左衛門は、箱館奉行調役に任じられた。厳島神社の鳥居前には、原半左衛門ゆかりの地と記した石碑が立つ。


原半左衛門縁の地

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根室

2015年12月04日 | 北海道
(西浜墓地)


梶原平馬の墓

今回の旅、というか、私の史跡訪問の旅において、現時点で国内最東の史跡が根室である。釧路から距離にして百三十キロ離れており、今回訪問するかどうか迷ったが、なかなかここまで来る機会もないし、天気も良いし、時間もあるし…ということで片道二時間、往復四時間をかけて根室を訪問した。
釧路と根室の間は、ほとんど信号もない一本道であった。ストレスを感じることなく、根室に到着した。
北海道の墓地・霊園はどこもスケールが大きい。西浜墓地もその例外ではない。広い墓地を歩き回ること半時間。ようやく墓地の北東の一画に梶原平馬の墓を発見した。大黒屋平大夫とともにロシアに漂流し、ようやく帰国が叶ったものの、根室の地で没した小市(こいち)の慰霊碑がある。その周辺に梶原平馬らの会津藩士の墓などが集められている。

梶原平馬は、会津藩の幕末の家老で、戊辰戦争や戦後の会津藩の復興に尽した人である。明治維新以降の彼の消息はながらく不明であったが、昭和六十三年(1988)にこの地で墓が発見された。根室女子小学校の校長であった妻・水野貞に従って根室に移り、明治二十二年(1889)にこの地で没したことが判明している。根室の地でどのように過ごしたかは詳らかではないが、失意の日を送っていたのではないか。


旧会津藩士篠田氏之墓


小市慰霊碑


湯地定堅の墓

この六角形をした特徴的な墓石は、湯地定基の五男、湯地定堅のものである。湯地定基は、明治十五年(1882)から同十九年(1886)の間、根室県令としてこの地に着任したが、この地で生まれた定堅を生後四ヶ月で失っている。なお遺骨は昭和三十二年(1957)、定基の孫が故郷に持ち帰ったため、根室には墓石のみが残されることになった。


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釧路

2015年12月04日 | 北海道
(鳥取百年館)
 北海道は維新後開拓された大地である。各市町村に開拓の歴史がある。その歴史を全て追うのはとても煩雑である。釧路の東に広がる鳥取という地名は、まさに鳥取藩士が開拓に関わったことに由来する。


釧路鳥取城

 釧路鳥取城は、本家本元の鳥取城を模して復元されたもの。期せずして本家本元を訪ねる前にこちらを先に見ることになってしまった。建物内は、鳥取百年館となっており、開拓者の遺品や池田家に伝わる資料など千六百点が展示されている。幕末の当主、池田慶徳(よしのり)は、水戸の斉昭の五男であり、十五代将軍慶喜とは異母兄弟となる。その関係で鳥取百年館には、斉昭や慶喜の書が展示されている。(入場無料)


鳥取百年館の展示

 鳥取県士族百五戸がこの地に移住したのは、明治十七~十八年(1884~1885)のことで、村会の総意のもと、明治二十四年(1891)、鳥取神社が創建された。報恩祠堂には、明治天皇、鳥取藩歴代藩主影像、鳥取県士族移住者百五戸の名簿が納められている。


鳥取神社


鳥取開村記念碑

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阿寒

2015年12月04日 | 北海道
(阿寒湖)
 特別天然記念物まりもで有名な阿寒湖は、釧路市の一部である。この日は天気もよく、湖面の青も一際美しかった。
 時間が許せばしばらく湖畔でぼんやりしたいところだが、私にはまだ回らなければならない史跡が山ほどあったので、先を急いだ。


阿寒湖

(前田公園)


前田正名翁像

 阿寒湖周辺が国立公園として認定され、道東を代表する観光地として知られるに至った背景には、前田正名の存在を忘れるわけにいかない。
 前田正名の胸像を探して街の中を走ったが、なかなか発見できない。交番で聞いてみようと自動車を停めると、ちょうどそこにお巡りさんが現れた。前田正名の像を探していることを伝えると
「そこです」
と、教えてくれた。ちょうど交番の目の前に前田公園があり、その中心に前田正名像がある。

(前田一歩園)
 前田一歩園は、阿寒湖を愛した前田正名が晩年開いた牧場が起源である。
 前田正名は、明治二年(1869)にフランスに留学し、八年後に帰国。その後は、大蔵、内務、農商務省の要職を歴任し、全国の実業界の振興にも貢献した。前田正名の座右の銘「物ごと万事に一歩が大切」から、自ら手掛けた事業を一歩園と名付けた。阿寒前田一歩園もその一つで、明治三十九年(1906)、国有未開地の払下げを受けて牧場を開いた。阿寒の地に立った正名は湖畔の景観に深い感銘を受け、「この山は、伐る山から観る山にすべきである」と語ったと伝えられる。


前田一歩園財団


松浦武四郎碑

 蝦夷地を複数にわたって全道を隈なく歩き、北海道の名付け親となった松浦武四郎の漢詩碑が一歩園の前の遊歩道にある。

水面風収夕照間 小舟欅棹沿崖還
忽落銀峯千仭影 是吾昨日所攀山

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陸別

2015年12月04日 | 北海道
(オーロラタウン93りくべつ)
今回の北海道史跡旅行の最大の目的は、関寛斎終焉の地である陸別を訪問することにあった。
野球大会の翌日は、壮瞥、伊達、室蘭、白老、鵡川を走破し、日没を迎えて道東道をひたすら東に向った。この高速道路は街灯が少なく、自動車のヘッドライトだけが頼みという「暗い」道である。
陸別に到着したのは夜の八時半過ぎであった。この日は道の駅「オーロラタウン93りくべつ」の駐車場で夜を明かす。このためにわざわざ寝袋と携帯用の枕を東京から持参し、レンタカーも荷台の広いものを調達したのである。
結論からいうと、ほとんど一睡もできなかった。理由の第一は自動車の荷台は結構堅いことである。寝袋があるとはいえ、痛くて目が覚めてしまう。さらに陸別は日本一寒い場所として知られる。九月中旬でも朝は十度前後まで冷え込み、これも寝袋では凌ぎ切れない寒さであった。夜が明けて車外を見渡すと、朝靄がたちこめていた。


関寛斎資料館

 例によって、日没後に到着して、早朝行動を開始したため、道の駅に併設されている「関寛斎資料館」は拝観することはできなかった。


関寛斎翁像

 道の駅の前に公園があって、そこに関寛斎の像が置かれている。身をよじって苦悶しているようにも見えるし、老人がエネルギーを振り絞って前に進もうとしているようにも見える。不思議な像である。

 関寛斎像の傍らに、平成二十四年(2012)、寛斎の没後百年を記念して建てられた司馬遼太郎の石碑がある。司馬遼太郎先生の直筆が刻まれている。

――― 陸別は、すばらしい都邑(まち)と田園です。寛斎の志の存するところ、ひとびとが不退の心で拓いたところ、一木一草に、聖書的な伝説の滲みついたところです。
 森に、川に、畑に、それらのすべてが息づいています。
司馬遼太郎


司馬遼太郎文学碑

 関寛斎像の周りには、寛斎が生前詠んだ詩などが石に刻まれたものが建てられている。陸別の街には至るところに寛斎ゆかりの史跡が残されており、今も寛斎が陸別の人から敬愛を集めていることが伝わってくる。


花さく郷碑

 関寛斎は、文政十三年(1830)、上総東中(現・千葉県東金市)の農家に生まれた。養父は儒家の関俊輔(号は素壽)。このとき養父から受けた薫陶が、寛斎の人格形成に大きな影響を与えたといわれる。長じて佐倉順天堂に入り、佐藤泰然に蘭医学を学んだ。二十六歳の時、銚子で開業したが、豪商濱口梧陵の支援により長崎に遊学し、オランダ人医師ポンペに医学を学んだ。その後、徳島藩の典医となる。戊辰戦争では官軍の奥羽出張病院長として出征した。戦後、徳島に戻って、町医者として貴賤の別なく治療に当たり、「関大明神」と慕われた。明治三十五年(1902)、七十二歳のとき、突然陸別の開拓に乗り出し、広大な関牧場を開いた。大正元年(1912)、服毒自殺。


関寛斎詩碑

(正見寺)


正見寺


関寛翁之碑

 正見寺本殿前の関寛翁之碑の側面には、関寛斎の辞世が刻まれる。

 諸ともに 契りし事も半ばにて
 斗満の里に 消ゆるこの身は

(青龍山)


関神社跡

青龍山はユクエピラチャシと呼ばれるアイヌの遺蹟であるが、関寛斎の遺徳を偲んでここに関神社が開かれた。現在は神社跡しかないが、関寛翁碑や招魂碑、関寛斎入植百年碑などが点在している。
 関寛斎は、大正元年(1912)十月、八十二歳で服毒自殺する。寛斎は開拓した農地を小作人に解放する意思を持っていたが、家族に強く反対されたためといわれる。また、同じころ、長男の子(つまり孫)から財産分与の訴訟を受けたり、明治天皇の死などが重なり、心労と苦悩の末に自死を選んだものと考えられる。
それにしても凄まじき人生。東金の誕生の地から、佐倉、長崎、徳島と寛斎ゆかりの地を巡ってきたが、陸別の濃密さは格別であった。また、機会があれば訪れたいと思わせる土地である。


関寛翁碑


拓魂

 和人がこの地に入植したのは、寛斎の息又一が明治三十四年(1901)国有地三百万坪を借り受けたのが第一歩である。その翌年、寛斎が開拓への情熱をもってこの地に鍬を下した。開基六十年を記念して、この開拓記念碑が建立された。


関寛斎歌碑

 寛斎は多くの歌を残している。その中から斗満の未来を期待した自筆短歌を撰び、この詩碑を建立した。

 いざ立てよ 野は花さかり 今よりは
 実のむすぶべき 時は来にけり
八十二老白里

(関農場跡地)


関農場跡地


関寛翁 関あい姫 埋葬の地

 関農場跡を臨む小高い丘の中腹に、遺骨を埋葬されたと推定される土饅頭が見つかった。この地を関寛斎夫妻の埋葬の地として、平成十八年(2006)十月、関寛翁顕彰会により石造りのプレートが設置された。プレートには寛斎の辞世が刻まれている。

我が身をば 焼くな埋むな そのままに
 斗満の原乃草木肥せよ

 この小さな石造りのプレート以外、関寛斎の墓と呼べるものは存在していない。いかにも金銭や名誉に無頓着な寛斎らしい。

(斗満駅逓所跡)


斗満駅逓所跡

 明治三十五年(1902)六月、関寛斎の四男又一によって私設の斗満駅逓所が開設された。七十二歳の寛斎が北海道開拓を志し、斗満の地に足を踏み入れたのがこの年の八月のことで、駅逓所は寛斎の住まいにもなった。明治四十三年(1910)、網走線が開通した二日後、文豪徳富蘆花が妻とともに陸別を訪れている。蘆花はその著「みみずのたはごと」で、以下のとおり描写している。

――― 翁が今住んで居る家は、明治三十九年に出来た官設の駅逓で、四十坪程の質素な木造、立派ではないが建て離しの納屋、浴室、窖室(あなぐら)もあり、裏に鶏を飼い、水も掘井戸、山から引いたのと二通りもあって、贅沢もないが不自由もない住居だ。

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