史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

汐入

2022年12月24日 | 神奈川県

(汐入駅前)

 

御幸橋

 

 京急汐入駅前の御幸橋跡に四本の親柱が残されている。横須賀駅から鎮守府へ向かう際、明治天皇は馬車で水路に架かる橋を渡った。この橋は、いつしか御幸橋と呼ばれるようになった。かつては木製の橋だったが、大正四年(1915)に改装された。その当時の四本の親柱である。

 

(どぶ板通り)

 

明治天皇横須賀行在所入口

 

 京急本線汐入駅から米国海軍ベースまでの道を「どぶ板通り」と呼ぶ。鮮やかな色の英語の看板が並び、まるで異国の雰囲気である。

 国道16号線沿い、横須賀幼稚園に入る階段に至る入口に「明治天皇横須賀行在所入口」と記された石碑が建っている。

 

(横須賀幼稚園)

 

明治天皇横須賀行在所阯

 

聖蹟

 

 横須賀幼稚園前の園庭には「聖蹟」碑と「明治天皇横須賀行在所阯」碑が並んで建てられている。

 聖蹟碑は、明治天皇が横須賀行幸の際、宿泊、休憩をとった建物の跡地(横須賀(向山)行在所跡)を示すものである。

 

(諏訪公園)

 

明治天皇御駐蹕

 

 幼稚園前の園庭の先の階段を上っていくと諏訪公園と名付けられた公園があり、そこに明治天皇御駐蹕碑がある。明治天皇が当地に宿泊したのは、明治四年(1871)、六年(1873)、八年(1875)の三回。題字は、東郷平八郎。

 

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川崎 Ⅲ

2022年12月03日 | 神奈川県

(カレッジJDS)

 川崎の駅前で自転車を借りて川崎駅周辺を探訪した。

 

内侍御奉安所跡

 

 川崎駅近くの京急大師線沿いに内侍御奉安所跡と記された石碑が建てられている。内侍奉安所とは、神鏡を奉安するための場所で、かつて女官(内侍)が奉仕したことから、そのように名付けられた。

 明治元年(1868)十月十二日、明治天皇は京都から東京に行幸の際、田中本陣で昼食をとった後、休息して高齢者や善行者に褒美を下した。この時の一行は総数七千八百人という大行列であった。この時、内侍所は、田中本陣の隣、紀伊国屋平兵衛宅に設けられた。

 

(六郷大橋南詰)

 

明治天皇六郷渡御碑

 

 多摩川に架かる六郷大橋の南詰に明治天皇六郷渡御碑がある。当時、多摩川には橋が架けられていなかったため、対岸まで二十三艘の船を並べて船上に板を敷いて渡御を仰いだ。その時の様子が石碑側面にレリーフになって再現されている。

 

武州六郷舩渡圖

 

六郷の渡し付近

 

(幸町)

 

明治天皇御幸之蹟

 

 川崎市幸区幸町、明治天皇が渡橋した地点に「明治天皇御幸之蹟」碑が建てられている。台座には「渡橋記念之碑」と記されている。題字は有馬良橘。

 

(御幸公園)

 

明治天皇臨幸御観梅跡

 

 御幸公園は小向梅林跡にできた公園で、この地の梅林は、江戸時代の初め(寛文年間)に植えられたのが最初である。明治初年の多摩川の氾濫でその三分の二以上を失った。明治十三年(1880)、成島柳北がここを探勝し、「小向観梅の記」という一文を起こし広く紹介したことから、一躍梅の名所として知られることになった。明治十七年(1884)三月十九日、明治天皇が観梅のために行幸した。川崎市では、令和六年(2024)の市制百年に向けて明治天皇ゆかりの梅林の復元に取り組んでいる。

 明治天皇臨幸御観梅跡碑は総理大臣、侍従長を歴任した鈴木貫太郎。

 

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箱根 環翠楼

2022年06月11日 | 神奈川県

(塔ノ沢温泉 環翠楼)

 環翠楼は、慶長十九年(1614)に湯治場として開業したという長い歴史を持つ旅館である。当時は「元湯」という名称であった。

 

環翠楼(伊藤博文書)

 

 この旅館が「環翠楼」と名付けられたのは、明治二十三年(1890)、伊藤博文が登楼した際のことである。玄関左手に伊藤博文の手による「環翠楼」の書が掲げられている。

 

不憂不惑不懼(犬養毅書)

 

環翠楼(長三洲書)

 

勝驪山

 

 環翠楼の由来となったのは、伊藤博文が当時の楼主に与えた漢詩が出典となっている。

 

 勝驪山下翠雲隅 環翠楼頭翠色開

 来倚翠欄旦呼酒 翠巒影落掌中杯

 

 明治二十四年(1891)には、ロシア皇太子ニコライが斬り付けられる大津事件が発生したが、その一報を伊藤博文は環翠楼での宴の最中に受け取ったという。

 

凾山才一楼(渡辺千秋書)

 

皇女和宮様(静寛院宮様)遺品

 

静寛院宮五十年忌辰記念碑

 

静寛院宮に奉る歌の碑

 

 中庭には静寛院宮五十年忌辰記念碑と静寛院宮に奉る歌の碑がある。五十年忌辰記念碑は、大正十五年(1926)の建碑。阪谷芳郎の撰文、増上寺大僧正道重信教の篆額。

 歌碑には、勝海舟の歌が刻まれている。

 

 月影のかゝるはしとも 

 しらすしてよをいとやすく

 ゆく人やたれ

明治丁丑のとし晩秋応乞 勝安芳書

 

早川

 

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箱根 Ⅵ

2022年06月11日 | 神奈川県

(エクシブ箱根離宮)

 

明治天皇駐蹕記念之碑

 

 宮ノ下地区のエクシブ箱根離宮の前に明治天皇駐蹕記念之碑がある。この場所は、明治六年(1873)、行幸の際行在所となった奈良屋旅館の跡地である。

 

(芦ノ湯)

 芦ノ湯温泉の「きのくにや旅館」の向かい側に明治大帝御駐輦之所碑がある。明治天皇が当地に滞在したのは、明治六年(1873)のことである。

 

明治大帝御駐輦之所

 

(大涌谷)

 

大涌谷

 

 かつて「地獄谷」「大地獄」と呼ばれていたが、明治六年(1873)八月五日の明治天皇、昭憲皇太后の訪問を前に、「陛下を地獄にお連れするわけにいかない」という理由から「大涌谷」と改称された。

 大涌谷といえば、黒たまごが有名。五個で五百円。

 

(松坂屋旅館)

 元箱根の松坂屋旅館の前の駐車場に明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾碑がある。滞在したのは明治六年(1873)八月二十日のことである。

 

明治天皇 昭憲皇太后御駐輦之趾

 

(箱根神社つづき)

 

箱根神社 平和の鳥居

 

明治天皇御製

 

 わが国は神のすゑなり神祭る

 昔の手ぶり忘るなよゆめ

 

明治天皇 昭憲皇太后御野立跡

 

 芦ノ湖を臨む神社通り沿いに大鳥居付近に明治天皇 昭憲皇太后御野立跡碑がある。やはり明治六年(1873)八月二十日の行幸を記念したもので、明治天皇は当地にて漁業を高覧したという。

 

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鴨宮 Ⅱ

2022年06月11日 | 神奈川県

(上輩寺)

 

上輩寺

 

 小田原駅東口駐輪場でレンタサイクルを調達し、東へ二十分以上走って、酒匂川を越えて三つ目の信号手前に上輩寺がある。寺族の墓地に戯作者柳水亭種清の墓がある。

 

當山三十四世 桂光院箕阿上人堂山和尚

(柳水亭種清の墓)

 

 柳水亭種清は、文政四年(1821)の生まれ。本名は桜沢堂山。六、七歳のとき越後に行き、その地で両親を失った。近所の寺に救われ、のち遊行上人に伴われて江戸浅草日輪寺の小僧となった。役僧時代、常盤津の女師匠が原因で寺を追われたという。黙阿弥の門に入り、総晋輔という名で狂言の作をしていたが、のち柳下亭種員の門下となり、柳水亭種清と名乗って合巻の著作に励んだ。安政末には日輪寺に赦され、明治二十年(1887)頃から相模国酒匂上輩寺の住職として晩年を過ごした。「児雷也豪傑譚」「白縫譚」など、幕末長編合巻のひきつぎ仕事をしたほか、芝居脚本を合巻化した作品が多数。非常な健筆家で、東京を去ってのちも長編史談数編、明治合巻数編、詩集などの著述がある。明治四十年(1907)、年八十七で没。

 

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小田原 Ⅷ

2022年06月11日 | 神奈川県

(小田原城つづき)

 

明治天皇行幸所

 

明治天皇駐輦趾

 

 学橋西詰に明治天皇駐輦碑と行在所碑がある。当地は足柄県庁跡で、明治六年(1873)、明治天皇が滞在した。

 

(明治天皇行幸行在所)

 小田原市内国道1号線沿いに明治天皇ゆかりの石碑が二つある。一つは「明治天皇本町行在所跡」と刻まれた石碑で、明治十一年(1878)東海北陸両道巡幸の際、明治天皇が当地に宿泊したことを記念したものである。

 

明治天皇聖蹟

 

 本町行在所跡から少し東に行くと、「明治天皇宮ノ前行在所跡」の石碑がある。明治天皇は、それまで御所の奥深くに鎮座していた江戸期の天皇とは違って、各所に行幸する天皇であった。小田原の旧本陣清水金左衛門邸には明治元年(1868)以降、五回も宿泊したという記録が残っている。

 

明治天皇小田原行在所址

 

(御幸の浜)

 御幸の浜は、明治六年(1873)、明治天皇と昭憲皇太后が滞在した場所である。

 

御幸の浜

 

台場跡

 

明治天皇臨幸記念碑

 江戸時代の台場跡に石碑が横たわっている。陸軍大将荒木貞夫の筆により「明治天皇臨幸記念碑」という文字が刻まれているはずだが、文字面が下向きになっている。

 

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秦野

2022年06月11日 | 神奈川県

(本町小学校)

 

贈従五位安居院庄七翁碑

 

 本町小学校の正門西側に安居院庄七の顕彰碑が建てられている。安居院庄七は、相模国大住郡蓑毛村(現・秦野市)に生まれ、長じて安居院家の養子となり、のちに報徳社を設立して二宮尊徳の教えを広め実践した人物。この石碑の書は、遠州七人衆と称された岡田佐平治の孫にあたる岡田良平(貴族院議員、枢密院顧問、大日本報徳社社長)による。

 

(出雲大社相模分祠)

 

出雲大社相模分祠

 

 出雲大社相模分祠は、明治二十一年(1888)に、島根県御鎮座の出雲大社第八十代国造千家尊福公に請願して、当地累代の神職であり、「秦野煙草の祖」と仰がれる草山貞胤翁が、出雲の大神の御分霊をこの地に鎮祭申し上げ、大国主大神の御神徳を関東地方に広めるための要処としたのを創まりとする。

 

分院創立者 初代分院長

草山貞胤先生

 

草山貞胤翁顕彰碑

 

 草山貞胤は、文政六年(1823)、当所氏神の社家草山和泉の世継ぎに生まれた。安政五年(1858)、十九社の神社を兼務した。嘉永五年(1852)より煙草栽培を研究し、温床の開発、育苗、早期収穫、密植多収、木枯等各種乾燥法、水車機械刻等技術革新を進め、全国より耕作指導を依頼された。貞胤は耕作指導員を多數養成して全国に派遣。我が国の煙草栽培技術革新に大きく貢献した。明治二十一年(1888)、出雲相模分院を創立し、のちに報徳二宮神社創立発起人として努力し、その初代神職となった。

 

御嶽神社

 

草山先生彰徳碑

 

 御嶽神社に隣接して草山家があるが、その庭先に草山貞胤の彰徳碑が建てられている。大正九年(1920)十月の建碑。

 

(浄圓寺)

 浄圓寺の墓地入口付近に草山家の墓域があって、その中に草山貞胤の墓がある。

 

浄圓寺

 

報徳二宮神社祠官兼少教正

草山貞胤千規矩八量大人之墓

 

 草山貞胤は、明治三十八年(1905)、八十三歳で帰幽。

 

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東戸塚

2022年03月19日 | 神奈川県

(萩原代官所跡)

 

萩原代官所跡

 

 東戸塚駅からバスで十五分ほど揺られて、境木地蔵尊バス停で下車する。南に二百メートルほど行った先に萩原家がある。

 萩原家は代々旗本杉浦氏の代官職として、この地に屋敷を構えた。旗本杉浦氏は、茅ヶ崎市小和田・菱沼、平塚市四ノ宮、寒川町宮山、横浜市平戸を所領としていた。幕末から明治初年の当主萩原太郎は、嘉永四年(1851)直心影流の免許皆伝を得、この地に道場を開いた。道場には多くの剣客が訪れ、萩原家所蔵の「剣客名」には「安政五年(1858)八月、天然理心流近藤勇」の名が確認できる。慶應二年(1866)九月までの入門者総計が二百二十五名に達した。現在の保土ヶ谷区、戸塚区、鎌倉市から三浦市にかけて、出稽古を行っていた。

 

剣道師範萩原君碑

 

 少し離れた場所に萩原君碑が建てられている。明治四十五年(1912)の建立。当時の神奈川県知事周布公平(長州藩の周布政之助の子)による篆額。

 

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保土ヶ谷 Ⅲ

2022年03月12日 | 神奈川県

(大仙寺)

 保土ヶ谷駅近くにある大山寺は、保土ヶ谷宿の本陣名主役を務めた軽部清兵衛家の墓地がある。

 

大仙寺

 

軽部家之墓

 

清心院恭愍悦甫居士位(十代 軽部清兵衛の墓)

 

 十代清兵衛は、寛政五年(1793)の生まれ、諱は悦甫。十歳で父と死別し、直ちに清兵衛を襲名した。世職の本陣・名主役を勤め、問屋役はいとこの泉専助が後見役となって七ヵ年代理を務めた。幼年期、東輝庵の物先に手習を、宿内の藤木四郎兵衛に算術を習った。安政六年(1859)、横浜が開港されると、宿内の職務のほか、横浜町の総年寄を命じられ、初期横浜の発展に尽力した。歩合銀制度をこしらえ、町の財政の基礎をつくった。文久元年(1861)、病身により総年寄を退き、十一代清兵衛悦選(墓石によると悦巽)が跡を継いだ。慶應元年(1865)、年七十三で没。

 

謹成院殿肇譽悦巽居士

(十一代 軽部清兵衛の墓)

 

問屋場跡

 

 問屋場跡、高札場跡は、現JR保土ヶ谷駅近くを走る旧東海道にある。

 

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根岸共同墓地

2022年03月12日 | 神奈川県

(根岸共同墓地)

 桜木町駅で根岸共同墓地前を通る路線バスの乗り場を探して右往左往してしまった。三十分近く駅周辺を歩き回ってやっと乗り場に行き着いた。久保山墓地ほどではないが、根岸共同墓地もかなり広い。ここから当てがあるわけではないが、まず石川徳右衛門の墓を探す。

 

積善院仁山壽榮徳翁居士(石川徳右衛門の墓)

 

 石川徳右衛門は文化二年(1805)の生まれ。家は累世横浜村の名主で、代々徳右衛門を襲名している。安政元年(1854)、ペリーの再渡来に際しては、横浜村の名主として、村内の治安の維持、あるいは幕吏との交渉、応接所の設営、また警衛のため派遣された藩兵の糧食、住居などを請け負った。安政六年(1859)、横浜が開港場となると、命じられて横浜町の総年寄となって町政に参与した。明治十八年(1885)、家督を譲り、明治二十二年(1889)、年八十五歳で没した。

 

寿徳院殿孝山静道大居士(木村利右衛門の墓)

 

 木村利右衛門は、天保五年(1834)の生まれ。上総国望陀郡の豪農松崎儀兵衛の四男。養子として木村家を継ぎ、明治四年(1871)、横浜に移って仲屋横浜店を開き、繊維品を商った。明治十三年(1880)、横浜正金銀行の創立とともに取締役に就き、その後も横浜共同電燈会社、横浜電線製造会社の社長を務めた。大正八年(1919)、年八十五歳で没。

 

 根岸共同墓地には明治に貿易商として活躍した茂木惣兵衛の墓もあるはずだが、探しきれなかった。次回の課題である。

 

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