史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末遣外使節物語」 尾佐竹猛著 岩波文庫

2016年09月24日 | 書評
いまや古典の一つといってよい、尾佐竹猛氏の「幕末遣外使節物語」が岩波文庫より再刊された。本書は、少なくとも現代の眼から見れば学術論文という体裁ものではなく、尾佐竹猛氏が自分の興味の赴くまま、使節団の珍聞・奇談を集めたという色合いが強いが、それだけに面白い読み物となっている。最近では、幕末の遣米・遣欧使節団や岩倉使節団に関する研究や論文もさまざまな形で発表されているが、尾佐竹猛氏がこれを発表した昭和初年の段階ではほとんどまとまった形で見ることはできなかった。そういう意味では、現代に通じる遣外使節の研究の嚆矢となる文献と言って良い。実際に使節団に参加した人たちの残した日記や記録をもとに、遣外使節団の足跡を丹念に追っている。
万延元年(1860)の遣米使節については、副使村垣範正の日記から多く引用している。村垣日記について、司馬遼太郎先生は「明治という国家」で「多少の文才がありますが、その見聞録をみると、まったく創見というものがなく、ただアメリカは礼儀のない国だとばかり書いている」とこき下ろしているが、改めて読んでみると、確かに新しい文明への関心は乏しいものの、ユーモアもあって文章力が感じられる。議会を見学して魚市場のようだと評したり、歓迎のために掲出される日米の国旗を「節分のひいらぎの如し」と譬えたり、異装の東洋人の姿を一目みようと群れ集まった米国民の様子を「江戸の祭り」のようだと形容している。ハワイのカメハメハ大王との接見では、(一部で)有名な
御亭主はたすきがけなり、奥さんは大肌脱ぎて珍客に逢う
という歌を残している。カメハメハ大王夫妻の前で目を白黒させている使節の姿が想像できて、思わず笑ってしまう。
村垣は、アメリカ滞在中、男女が肌を寄せ合ってダンスを踊る様子を「下品」と切り捨て、州知事が案内も連れずに平民と同じ服装で現れたのを「礼を知らない」と受けとめた。公の場に夫人を同伴し、椅子が一つしかなければ夫人を座らせる。いわゆるレディーファースト(女尊男卑)の文化は、到底受け入れ難かったようである。一方で、使節が現れると従者が這いつくばって土下座する姿は、米国民には異様に映ったようで、その様子がスケッチされている。
村垣の日記には、異国の「下品」と「失礼」と「女尊男卑」への違和感が一貫して綴られている。若い世代の残した日記には、アメリカ文明に素直に圧倒される様子がにじみ出ているが、それと比べると頭が固い印象は免れないが、おそらくこれが長らく封建社会で育ったこの時代の日本の教養人の平均的な姿なのであろう。

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鋸南 Ⅱ

2016年09月23日 | 千葉県
(妙典寺)

 醍醐定緝の墓を求めて、再び鋸南町の妙典寺を訪ねた。


太壽院了義白勇居士
醍壽院義徳日相居士
醍醐新兵衛(定緝 徳太郎)の墓

 妙典寺は、醍醐山と号し、醍醐新兵衛家の菩提寺である。初代の定明は、田子の台妙典台にあって荒廃していた妙典寺を再興するため、自己所有地七百坪を寄進し、この地に移した。醍醐新兵衛家の墓は、墓地の少し高い場所で、墓地を見下ろすような場所に置かれている。
 幕末の当主で、八代新兵衛醍醐定緝(さだつぐ)は遠洋漁業に携わり、嘉永七年(1854)、箱館奉行から北方漁場調査の命を受け、村垣淡路守らに随行、北海道、樺太沖を査察し、捕鯨の好漁場を発見した。直ちに開漁すべきことを上申したが、幕府に方針変更のため翌年帰郷。その後、来房した藤川三渓の助言を得て、再び北海道進出を決意し、「洋式の捕鯨技術で遠洋漁場を開き、生産物輸出を図ることが国を富ます道である」と幕府に請願し、許可を取り付けた。万延元年(1860)、新造船で北へ向かったが、中途で病に倒れた。三十四歳。漁場開拓は函館府知事に引き継がれた。
 同じ墓に十代新兵衛徳太郎も合葬されている。
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館山 Ⅲ

2016年09月23日 | 千葉県
(横峰堂)


光徳院忠山道雄居士(山田官司墓)


山田家墓標

 山田官司は、庄内藩白井為右衛門組。明治元年(1868)九月十二日、羽前関川にて負傷。のち死亡。四十五歳。墓標は昭和四年(1929)に末裔の山田官次氏が建立したもので、そこには明治二年(1869)五月一日に死去したと記録されている。墓標によれば、高百石。新徴隊部長。庄内城下総恩寺に葬られたとある。

(慈恩院)


慈恩院


智徳院忠巌賢齋居士位(木下晦蔵の墓)

 木下晦蔵は明治二年(1869)五月十一日、箱館五稜郭附近で戦死。
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富津 Ⅳ

2016年09月23日 | 千葉県
(勝隆寺)


小谷金十郎碑と墓

 小谷金十郎、三浦蔵司とも佐倉藩士。小谷金十郎は士分。慶応四年(1868)五月十八日、上総佐貫にて戦死。三十八歳。三浦蔵司も同年同月日に戦死。二十四歳。


三浦蔵司の墓

(佐貫城跡)


本丸

 佐貫城を本丸まで歩いてみた。入口から入ると、三の丸、二の丸が順に現れる。いずれも雑草が生い茂っているが、往時の形状が比較的良く残されている。本丸の先には展望台が設けられているが、必ずしも展望は良好とはいえない。


(旧勝隆寺)
 花香谷の旧勝隆寺に初代佐貫藩主内藤家長や幕末の藩主阿部正身、正恒らの墓があるというので、花香谷を走り回って、何とか旧勝隆寺を探し当てた。


旧勝隆寺


阿部正身の墓


従五位阿部正恒之墓

 正確には墓地だけでなく、古い本堂の建物も残っているが、ほとんど無人駅の待合室みたいな状態である。
 阿部家が佐貫の地を治めるようになったのは、宝永七年(1710)、三河刈谷から二代正鎮が一万六千石で移封されて以来ということになる。
 八代阿部正身は、文政元年(1818)の生まれで、天保七年(1836)に家督を継いだ。従五位下駿河守に叙任され、馬場先門番、日光祭礼奉行、田安門番、和田倉門番を務めた。また、文政十三年(1842)には大坪山に砲台を築き、海防にも努めた。慶応四年(1868)七月十一日、謹慎中の花香谷円龍寺にて死去。
 九代正恒は、最期の佐貫藩主となった人。天保十年(1839)に生まれ、安政元年(1854)に家督を継いで以来、竹橋門番、大阪加番、中板橋勤番、日光祭礼奉行などを務めた。版籍奉還後、明治二年(1869)から明治四年(1871)まで佐貫藩知事を務めた。明治三十二年(1899)死去。

(妙勝寺)


妙勝寺


天狗党員の墓

 妙勝寺の本堂前に無造作に並べられた墓石は、天狗党の乱の後、佐貫藩に預けられ、処刑された四名の天狗党員の墓である。新井源八郎、村田理介、黒沢覚介、木村三保之介の四名。墓石は磨滅してほとんど文字が読み取れない。
 新井源八郎は、住谷信成の三男で、新井直忠の養子になった。七十五石。小姓頭取から郡奉行。元治元年(1864)、松平頼徳に従い下国、交戦。同年十月自訴。慶応元年(1865)四月三日、佐貫藩獄にて切腹。四十二歳であった。
 村田理介は、村田正容の長男。二百石。東、北郡奉行。元治元年(1864)六月、下総小金に屯集。同年八月、頼徳に従って那珂湊に拠る。十一月、下総銚子で捕らわれ、慶応元年(1865)四月、切腹。五十八歳。
 黒沢覚介は、那珂郡石神宿村の郷士。覚衛門の長男。横目格。弘化以来国事に奔走。元治元年(1864)、那珂湊に拠る。慶応四年(1865)四月三日、佐貫にて斬。四十七歳。
 木村三保之介(三穂介)は、茨城郡島田村の郷士。庄屋忠次衛門の長男。安政五年(1858)以来、国事に奔走、亡命。元治元年(12864)八月から転戦。十月、自首。慶応元年(1865)四月三日、上総佐貫で斬。五十五歳。

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久留里 Ⅱ

2016年09月23日 | 千葉県
(真勝寺)
 真勝寺は、天文九年(1504)、武田一族の勝真勝(すぐろ まさかつ)の開基。墓地には久留里藩最後の藩主黒田直養(なおなか)の墓がある。


真勝寺


黒田直養の墓

 黒田氏は、寛保二年(1742)、黒田直純が上野国沼田より三万石で入封したところから始まる。その頃の久留里城は何もない荒城で、幕府は直純に土木費用として五千両を与え、城を築くように命じた。城の普請は、寛保三年(1743)八月から始まり、延享二年(1745)五月に完成した以後、九代直養が明治維新を迎えるまで支配が続いた。


勇猛院須覺良悟信士(杉木良太郎の墓)

 本堂の裏に杉木良太郎の墓がある。慶応四年(1868)閏四月、官軍が久留里に進駐した際、一人で抵抗しようとし、これを制止した父良蔵に斬られたといわれる。

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木更津 Ⅱ

2016年09月23日 | 千葉県
(平等院)


平等院

 平等院の墓地には民謡「会津磐梯山」に歌われた小原庄助の墓がある。庄助は尾張藩春日部郡安加津村(現・瀬戸市赤津)に生まれた。父と死別後、油絞り職人となり諸国を渡り歩いた。最後に住み付いたのが、平等院門前にあった油問屋鈴木市郎右衛門方だったという。徳利にお猪口を被せた形の墓石に、酒を愛した庄助らしい辞世が刻まれている。

――― 世の中の酒は 諸白み八徳利 焼酎そばを 離れ枡舞ゐ(はなれますまい)


法雲法子位(小原庄助墓)

 小原庄助については、出自や実在について諸説あり、墓も数か所ある。


浅野作造源頼房墓

 本堂横に浅野作造の墓がある。浅野作造は徳川家に味方するため、自ら貫義隊を結成し、戦死したと伝えられる。

(東岸寺)
 東岸寺本堂前にも仁吞喜平治の墓がある。玉垣で囲まれたその墓は、官修墓地風である。


東岸寺


仁呑喜平治墓
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袖ヶ浦

2016年09月23日 | 千葉県
(地蔵堂前霊園墓地)


仁呑喜平治墓

 仁呑(にのみ)喜平治は前橋藩卒。上総木更津の農。慶応四年(1868)、上総望陀郡横田村にて戦死。五十三歳。
 地蔵堂前霊園墓地の喜平治の墓の周辺には雑草が生い茂り容易に墓に近づけないが、「義商喜平次之墓」と刻まれているようである。こちらの墓には胴体が、木更津の東岸寺の墓には首が葬られているという。
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長野 Ⅲ

2016年09月16日 | 長野県
(善光寺)


善光寺

 週末、思い立って長野まで往復した。新幹線で大宮から一時間。あっという間に長野駅に降り立つ。北に向かえば少しは暑さが和らぐかと期待していたが、内陸に位置する長野の夏は決して涼しくはない。この日は三十五度を越える猛暑日であった。
 善光寺を訪れたのは、多分高校の修学旅行以来である(ということは四十年近くも前ということである)。あの時と同じく、参道は多くの人で賑わっていた。
 本堂に入って内陣で本尊(一光三尊阿弥陀如来)にお参りすると、お戒壇めぐりに進むのがお決まりの順路である。お戒壇めぐりは、ご本尊の安置される瑠璃壇下の真っ暗な回廊を通り、手探りで「極楽の錠前」を探り当てるという、ゲーム感満載のイベントである。ここで錠前を探り当てることができれば、秘仏のご本尊と結縁ができ、極楽への道が約束されるという趣向である。今回、自分が極めて暗闇に弱いことを初めて認識する体験であった。片手で頭を抑え、へっぴり腰で暗闇を進んだものだから、当然ながら「極楽の錠前」を素通りしてしまった。背後で女性が「あった、あった!」とはしゃぐのが聞こえたが、今更引き返すわけにもいかず、へっぴり腰のまま、出口に向うことになった。どうやら極楽行きは難しくなった。


明治天皇長野行在所

 万延元年(1860)九月、信州松代に、師松陰の師である佐久間象山を訪ねた高杉晋作は、その二日後に善光寺を参拝している。
 ただ高杉晋作の印象には特に残らなかったようで、彼の「試撃行日譜」には
――― 途中善光寺に参る。日暮れ前に牟礼駅に宿をとる。
とあるだけである。

 拝観料を払って山門に登る。急な階段を上ると、今歩いてきた参道を見下ろすことができる。


善光寺 山門


善光寺 仁王門


日本忠霊殿

 本堂北西の三重の塔は、戊辰戦争から第二次世界大戦までの間の戦争で亡くなった二百四十万柱の霊を祀る日本忠霊殿である。建物内には善光寺史料館が併設されており、奉納絵馬や本堂等に安置されていた仏像などを見ることができる。


故参謀総長陸軍大将大勲位功二級有栖川熾仁親王尊霊 明治二十七八年役戦病死者
故近衛師団長陸軍大将功三級北白川能久親王尊霊 貮萬壹千四百貮拾四名 霊 供養塔

 日本忠霊殿と本堂の間に有栖川熾仁親王と北白川能久親王それに日清戦争における二万一千四百二十四名の戦死者の供養塔である。
有栖川熾仁親王は、明治二十八年(1895)一月、日清戦争のさ中、広島に大本営が遷されると、親王も広島に移って作戦に参加したが、そこで病を得て舞子の別荘で逝去した。
 北白川宮能久親王は、明治二十八年(1895)十月、近衛師団長として台湾島民の叛乱鎮圧のため出征したが、台南において病のため薨去した。

(秋葉神社)


秋葉神社

 長野駅で長野電鉄に乗って二つ目の駅が権堂(ごんどう)駅である。駅の目の前がイトーヨーカ堂で、その裏手に秋葉神社がある。
 秋葉神社の前の柳の木は「忠治柳」と名付けられている。長岡の百姓喜右衛門が、娘お福を五十両の前借金で、一年間山形屋に奉公に出した。山形屋の藤蔵は、手下を回して帰路に喜右衛門から五十両を奪い取った。権堂の宿でこれを聞いた国定忠治は、山形屋に乗り込んで五十両を取り戻してやった。その時、忠治は柳の小枝を投げて去った。藤蔵の女房おれんがそれを挿して育てたのが「忠治柳」というが、もちろん現在秋葉神社にある柳は何代目かのものである。


忠治柳

 秋葉神社の奥に四条霊社が鎮座する。明治三十九年(1906)の創建。料理の祖、四条流包丁道の祖、四条山蔭中納言藤原政朝を祭神とする。幕末の当主は四条隆謌である。四条霊社は、包丁・料理の神様として、全国に京都と長野二社しかない珍しい神社である。


四条霊社


国定忠治之墓

 国定忠治は、権堂の島田伊伝治のもとを度々訪れた。その縁で群馬県伊勢崎市の養寿寺の墓から分骨されてこの地にも墓が設けられた。

(島田屋跡)


やきとり次郎長

 島田伊伝治の島田屋跡は、この辺りのはずだが、何か石碑でも残っていれば分かりやすいのだが、それらしいものが見つけられない。ちょうどその辺りに「やきとり次郎長」という店があるが、せめて「忠治」というネーミングにしてくれれば、分かりやすいのだが…。
 その後、長野市ガイド協会を訪問して、場所を確認したが、そこにいた三名のガイドさん方は誰一人として島田屋そのものを御存知なかった。当方は長野市ガイド協会のホームページで調べたというのに…。

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靖国神社 遊就館 Ⅳ

2016年09月16日 | 東京都
(靖国神社)


能楽堂

 久しぶりに靖国神社を歩いた。最近、オジサンの必携アイテム万歩計を身に着け、一日一万歩を目標に歩いている。平日は一万歩がやっとであるが、週末史跡巡りをしていると、あっという間に二万歩を越えてしまう。靖国神社境内を歩き回っていると、情けないことに足にマメができてしまい、脚を引きずるように歩くことになった。
 拝殿前の能楽堂は、岩倉具視が華族に呼びかけて建てられたもので、かつては芝公園にあった。


金燈籠

 神門の横に一対の金属製の燈籠がある。これは西南戦争で犠牲となった警視隊を慰霊するために警視局から奉納されたものである。


鎮霊社

 拝殿の横に鎮霊社と元宮という二つの祠がある。小さくて目立たないためにほとんど訪れる人もいない。拝殿側からではなく、練兵館跡の横を通って行くが、金属製の柵に遮られて近づくことはできない。
 鎮霊社は、ペリー来航以来、本殿に祀られていない戦死者の霊が祭られている。ここには国内のみならず、諸外国の戦死者の霊も祀られている。


元宮

 鎮霊社の横の元宮は、津和野藩士が倒幕派同士を祀って京に建てた小祠である。これが靖国神社に奉納され、元宮と称されている。


石灯篭

 参道に並ぶ石灯篭は六十二基。そのうち六十基は西南戦争で戦死した政府側の戦没者に奉納されたものである。


大石燈籠

 大鳥居の横にある一対の大石燈籠は、西南戦争で亡くなった政府軍戦没者を慰霊するために別働第二旅団(山田顕義少将)が奉納したものである。


常陸丸殉難記念碑

 輸送船常陸丸は日露戦争で敵艦の攻撃を受けて沈没した。この時、大隊長山縣少佐以下一千有余名が波間に没したといわれる。この慰霊碑は、東郷平八郎の揮毫による。

(遊就館)


青銅八十封度陸用加農砲

 もう一つの青銅砲は、安政元年(1854)に湯島馬場大筒鋳立場にて鋳造され、品川台場に据え付けられていたものである。


鋼製三十封度船用加農砲

 遊就館から少し奥に行くともう一つ大砲が置かれている。こちらは鋼(スティール)製である。安政元年(1854)に伊豆下田で座礁したロシアのディアナ号の備砲である。幕府はプチャーチン以下の帰国のためにスクーナー船二隻を建造してロシアに贈った。この厚誼に謝するためにロシア政府から幕府に五十二門の大砲が贈られたが、そのうちの一門である。

(九段坂公園)


高燈籠

 和洋折衷の不思議なデザインの燈籠は、戊辰戦争の戦没者を慰霊するために建立されたものである。

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白山 Ⅳ

2016年09月16日 | 東京都
(高島秋帆寓居跡)
 白山一丁目の住宅街の中に高島秋帆寓居跡がある(文京区白山1‐23‐10)。民家の片隅に文京歴史研究会なる組織が設置した説明板がある。


高島秋帆寓居跡

 江戸に招かれた高島秋帆がこの地に居住したのは、天保十二年(1841)のことで、以降高島は徳丸ヶ原で洋式砲術の調練を行ったり、門人に高島流の砲術を伝授するなど、精力的に活動した。しかし、翌年、逮捕投獄され概ね十年間、岡部藩に幽囚されることになった。

(念速寺)
 念速寺には遊女美幾の墓がある(文京区白山2‐9‐12)。


念速寺

 美幾女(みき)は、駒込追分の彦四郎の娘といわれる。病重く、死を予期した美幾女は、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治二年(1869)八月十二日、三十四歳で没した。死後、直ちに解剖が行われたが、当時の社会通念、道徳観などからいって、自ら屍体を提供することは難しい時代であった。美幾女は特志解剖第一号として、我が国の医学研究の進展に大きな貢献をした。透明なアクリルのケースに覆われた墓石の裏には「我が国病屍解剖の始めその志を嘉賞する」と、解剖に当たった医学校教官の銘が刻まれている。


美幾女の墓

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