史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「仇討ちはいかに禁止されたか?」 濱田浩一郎著 星海社新書

2024年02月24日 | 書評

「仇討ちはいかに禁止されたか?」という書名につられて購入した。我が国において仇討ちが禁止されたのは、明治六年(1873)二月のいわゆる「仇討ち禁止令」とされる。本書では仇討ち禁止令が布告された経緯や、その後の一時復活した「復讐の律」などを解説したものかと思って取り寄せたが、ページを捲って分かったのは、明治四年(1871)二月の「高野の仇討ち」の経緯を追ったもので、本題である「仇討ちはいかに禁止されたか?」に触れた部分は、本書の十分の一にも満たない。タイトルの付け方に疑念は残ったものの、「高野の仇討ち」について、ここまで詳述した書籍に初めて出会ったので、それはそれでとても楽しく読み通すことができた。

私が「高野の仇討ち」の舞台となった高野山や赤穂市を訪れたのは、今から十二年も前のことで、当時、どの書籍を読んでこの仇討のことを知ったのか、今となってはよく覚えていない。本書「あとがき」によれば、「歴史書として刊行されるのは(私家版・非売品の書物を除いて)戦後においては、これが初めでだと思われる」としており、おそらく当時の私もこの仇討ちについて詳細な情報を持ち合わせないまま現地を取材していたのであろう。本書を読むともう一度赤穂市や高野山を歩いて見たいという欲望がふつふつとわいてくる。

筆者は「村上方、赤穂十三士方、どちらにも偏らず、できるだけ客観的にその歴史を叙述したい」と記述している。確かに筆者の立ち位置は一貫して中立的で、決してどちらかに肩入れした態度はとらない。読者としては安心感がある。

高野山における仇討ちは、その九年前の文久二年(1862)、赤穂藩で起こった文久事件が発端であった。赤穂藩の文久事件というのは、文久二年(1862)十二月九日の夜、赤穂藩の参政であり、儒学者村上真輔が面会に訪れた尊攘派五~六名により斬殺された事件をいう。その日の夜、国家老の森主税も二の丸城外で暗殺されている。さらに村上真輔の二男で藩の要職にあった河原駱之輔にも凶刃が迫り、追い詰められた駱之輔は福泉寺にて自刃する。

こうした藩内抗争の裏側には、国元の守旧派と江戸の革新派、尊攘派と佐幕派の対立があるのが常であるが、赤穂藩の場合は殺された村上真輔も勤王派であり、襲撃した西川升吉らは薩摩や長州、土佐とも交わりを持つ尊攘過激派であった。西川らの行動を義挙とする立場からは「赤穂志士」と称されるが、一方で村上方の証言では「無頼の徒」「不逞の徒」とまで酷評されている。少なくとも執政森主税は彼らの行動を快く思っていなかったようで、事件前に升吉らを捕らえて入牢させている。

西川升吉には、一度召捕られたことに対する恨みがあり、それが不平を募らせていく原因になった可能性も否定できない。筆者は「赤穂藩の下級武士たちが、同藩の要職にある主税と真輔を斬殺した理由は、これまで見てきた通りだが、筆者にはその理由が牽牛付会なものに思えてならない」としている。彼らの残した斬奸状によれば森主税は大任の職にありながら日夜、宴遊に耽り、驕奢増長していたという。しかし、筆者は「非難されるほどの遊興をしたとの証拠はない」としている。さらに村上真輔の殺害趣意書に至っては「主税の奢りを取り押さえることもなく、下々の苦しみを救う処置をしていない」ことが理由となっており、真輔自身の悪行は一つも挙げられていない。

村上真輔は藩の財政悪化を認識し、それを改善しようと建白を行っている。筆者は「頑迷固陋な保守派ではない」としているが、実直な能吏だったのだろう。その父を一方的に斬殺されたのだから、遺子遺族の怒りは想像に余りある。

明治四年(1871)一月、赤穂藩は村上一族に村上家の家督相続と加増、そして故村上真輔の無罪を伝達した。その際、真輔を殺害した下手人に対して、恨みを保持し仇を討つようなことのないように説くことも忘れなかった。その時点で真輔を殺害した下手人は六人(八木源左衛門、山本隆也、西川邦治(升吉実弟)、吉田宗平、田川運六、山下鋭三郎)まで減っていたが、彼らには赤穂藩主森家の紀州高野山釈迦文院にある廟所を守護せよとの沙汰があった。六人を高野山に追ったのは、村上一族による仇討ちを避ける意図があったのだろう。赤穂藩は、双方を引き離して大騒動に発展することを避けたのである。

しかし、村上の遺族は引き下がらなかった。むしろ六士が高野山に派遣されることは、彼らの復讐の実行を決定的にしたといって良い。結論から見れば、遺族が仇討ちに走る背景には、藩による不公平な判決があった。このことは元禄時代の赤穂藩の仇討ち(いわゆる「忠臣蔵」)にも共通して言えることである。仇討ちという行為は、同時に藩(あるいは公権力)への抗議も意味している。

本書のクライマックスは、仇討ちシーンである。本書の記述は、当事者の一人村上四郎(村上真輔四男)の残した「速記録」や事件後司法省臨時出張所による村上行蔵(同五男)の取調記録「口書」に拠っているが、誰が誰を斃したと詳細に乱戦の模様が記録されている。村上四郎は目から耳の下にかけて斬り付けられ、傷口が割れて肉がはみ出し、味方にも判別がつかないほど人相が変わっていたそうだ。そのため、あわや同士討ち寸前だったところを、目印としていた白襷に気が付き辛うじて討ち取られるのを逃れたと乱戦の現実を伝えている。助太刀として参加した水谷嘉三郎は、のちに「幾ら深傷を負っても急所でない限りは、容易に倒れるものではない」と証言しているが、実戦を経験した者だけが発言できるものであろう。

忠臣蔵の影にかくれて「高野山の仇討ち」は今日ほとんど忘れられた事件となっているが、当時は世間の話題になった。事件直後から仇討ちを伝える絵入り瓦版が複数出版され、明治時代には「高野の仇討絵葉書」が発行された。「赤穂藩士讐討略記」という小冊子が現場近くの観音茶屋で定価五銭で販売されていた。その後も絵馬に描かれたり、小説や芝居になったこともある。やはり日本人は仇討ちが大好きなのである。得てして小説や芝居で美化されがちであるが、仇討ちのリアルは、困難に満ちて、しかも最後は命を懸けた壮絶な斬り合いなのである。そのことを実感できる大変価値ある一冊である。

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