動物あるいは人間の行為は、皆さんが思っていらっしゃるように、目的を持って行われるものなのか? それとも拙稿が言うように、そうではないのか?
この問題は重要です。
拙稿の見解はこうです。
生物の身体は進化によって、効率的に生存繁殖するようにできあがっている。
植物の葉は太陽光線を効率よく吸収するように平均的太陽方向に垂直な方向に広がる。そのことを、「葉は日に当たることを目的として広がる」ということができる。花は蝶を誘い込んで花粉を運ばせることで繁殖する。そのことを「花は蝶を誘うことを目的として華麗な花弁をつける」ということができる。
動物の行動もまた、生存繁殖を効率よく行うように進化している。ライオンがシマウマの背中に飛びつくのは、進化により効率のよい栄養獲得のための行動が身体に作りこまれているからです。それを「ライオンは栄養獲得という目的を持ってシマウマを襲う」ということもできますが、そういう表現のほうが正しく自然を描写しているといえるのか?
さらに言えば、人間も生物ですから、効率よく生存繁殖の行動を行う。それを自動的に実行するように身体ができている。しかしそれを見て、人間は生存繁殖という目的を持って行動をしている、といえるのでしょうか?
動物の行動に目的を見る見方を人間の場合にも適用することで、私たちは、人間の行動にも目的があると思うのか? それとも、人間の行動には実際に目的があるから、私たちはそこから類推して、動物の行動にも目的があると思うのか? どちらが正しいのでしょうか?
拙稿の見解によれば、「あるものがある行為をするときは、そのものは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という擬人化による物事の見方が(言語以前に)人間の身体には備わっている。物事をこの見方で認知することにより、生物の変化、特に動物の行動を、効率よく、瞬時に認知できる。また人間の行為に関してこの見方を使うことは、人間社会において互いの行動を認知するのに非常に便利な方法となっています。
拙稿のこの見解によれば、人間の身体の仕組みとして作りこまれているこの認知構造は、その「あるもの」が人間であろうと、動物であろうと、無生物であろうと、同じようにその動きに目的を見て取る。
ちなみに、物を人に擬すという観点から擬人化という用語を使いましたが、拙稿の用法ではむしろ、人をも物に擬すという認知構造を指していうので、擬物化とでも呼ぶべき機能ですね。
つまり動物も無生物もどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という認知構造から、そのある物が人である場合も、当然、「ある者がある行為をするときは、その者は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」となるから、同じ言語構造で表現できることになります。
ただし、拙稿では変わった造語を避ける方針なので「擬物化」という造語は使いません。
さて、「ある物」がどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物の見方。こういうような認知構造が(拙稿の見解では)生まれつき、私たち人間の内部にある。このモデルを使って、物事を認知すれば、「XがYをする」という言語表現が自然にできてくる。逆に言えば、私たちが「XがYをする」という形式の言語表現を持っているということは、私たちの内部に右のような認知構造が生まれつき備わっているということを示している。
人体が感知する物事の種々の動きとその予測によって、それらが次の場面でどう変化し、どう動いていくかを予測する仕組みが、私たちの身体の内部にある。それは仲間と共有できる世界の予測機構です。だれもが、その動きを同じように予測できるとき、その動き方の予測が世界の物事を分節化する、と(拙稿の見解では)いえます。
この世界にはYという動きをするXというものがいる、と私たちが仲間と同じように感じとる。そのとき「XがYをする」という分節化が作られる。その分節化が言語を作っていく。そのとき、私たちはこの分節化を共有し、Xが次の場面でどう変化し、どう動いていくかの予測を共有する。逆に、言語は、私たちが共有する予測機構によって世界を分節化し、予測し、認知していく予測機構の共有様式だ、と見なすことができます。
私たち人間は(拙稿の見解では)物事の変化を観察し予測することで認知する。そのとき、その物事自身がその変化を予測してそれを目的として変化する,という見方を使って、私たちは見る。あらゆる物事はこのやりかたで認知できる、と私たちは、無意識のうちに思っている。こうして、あらゆる物事のあらゆる変化は目的を持つこととなる。その結果(拙稿の見解では)、人間も目的を持って行動する、と見て取れるようになります。
この認知の機構を人間どうしが互いに共有すれば、同じ(分節化による)世界を共有できる。そこから人類の言語が作られてきた。そうして作られた人類の言語は、世界のすべてを言い表せるかのように見えます。むしろ逆に、そうして共有できた分節化をもって世界のすべてだと感じるように、私たちの身体ができている、と(拙稿の見解では)言うべきでしょう。
ちなみに、言語の下敷きになっている現生人類のこのようなものの見方を人間以外の動物が持っているのかどうか、という問題に関しては、現代科学ではまったく解明できていません。チンパンジーやゴリラなどの類人猿に関してばかりでなく、言語習得以前の人間の幼児に関しても、事物の変化とその原因となる意識や意図、あるいは目的や動機との相互関係性を概念的に認知できているかどうかの科学的実証はできていません(二〇〇七年 マーク・ハウザー、デイヴィッド・バーナー、ティム・オドンネル『進化言語学 伝統的課題への新しい視点』)。