哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(16)

2010-01-30 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

動物あるいは人間の行為は、皆さんが思っていらっしゃるように、目的を持って行われるものなのか? それとも拙稿が言うように、そうではないのか?

この問題は重要です。

拙稿の見解はこうです。

生物の身体は進化によって、効率的に生存繁殖するようにできあがっている。

植物の葉は太陽光線を効率よく吸収するように平均的太陽方向に垂直な方向に広がる。そのことを、「葉は日に当たることを目的として広がる」ということができる。花は蝶を誘い込んで花粉を運ばせることで繁殖する。そのことを「花は蝶を誘うことを目的として華麗な花弁をつける」ということができる。

動物の行動もまた、生存繁殖を効率よく行うように進化している。ライオンがシマウマの背中に飛びつくのは、進化により効率のよい栄養獲得のための行動が身体に作りこまれているからです。それを「ライオンは栄養獲得という目的を持ってシマウマを襲う」ということもできますが、そういう表現のほうが正しく自然を描写しているといえるのか? 

さらに言えば、人間も生物ですから、効率よく生存繁殖の行動を行う。それを自動的に実行するように身体ができている。しかしそれを見て、人間は生存繁殖という目的を持って行動をしている、といえるのでしょうか?

動物の行動に目的を見る見方を人間の場合にも適用することで、私たちは、人間の行動にも目的があると思うのか? それとも、人間の行動には実際に目的があるから、私たちはそこから類推して、動物の行動にも目的があると思うのか? どちらが正しいのでしょうか?

拙稿の見解によれば、「あるものがある行為をするときは、そのものは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という擬人化による物事の見方が(言語以前に)人間の身体には備わっている。物事をこの見方で認知することにより、生物の変化、特に動物の行動を、効率よく、瞬時に認知できる。また人間の行為に関してこの見方を使うことは、人間社会において互いの行動を認知するのに非常に便利な方法となっています。

拙稿のこの見解によれば、人間の身体の仕組みとして作りこまれているこの認知構造は、その「あるもの」が人間であろうと、動物であろうと、無生物であろうと、同じようにその動きに目的を見て取る。

ちなみに、物を人に擬すという観点から擬人化という用語を使いましたが、拙稿の用法ではむしろ、人をも物に擬すという認知構造を指していうので、擬物化とでも呼ぶべき機能ですね。

つまり動物も無生物もどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という認知構造から、そのある物が人である場合も、当然、「ある者がある行為をするときは、その者は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」となるから、同じ言語構造で表現できることになります。

ただし、拙稿では変わった造語を避ける方針なので「擬物化」という造語は使いません。

さて、「ある物」がどういう物であろうとも、「ある物がある行為をするときは、その物は、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物の見方。こういうような認知構造が(拙稿の見解では)生まれつき、私たち人間の内部にある。このモデルを使って、物事を認知すれば、「XがYをする」という言語表現が自然にできてくる。逆に言えば、私たちが「XがYをする」という形式の言語表現を持っているということは、私たちの内部に右のような認知構造が生まれつき備わっているということを示している。

人体が感知する物事の種々の動きとその予測によって、それらが次の場面でどう変化し、どう動いていくかを予測する仕組みが、私たちの身体の内部にある。それは仲間と共有できる世界の予測機構です。だれもが、その動きを同じように予測できるとき、その動き方の予測が世界の物事を分節化する、と(拙稿の見解では)いえます。

この世界にはYという動きをするXというものがいる、と私たちが仲間と同じように感じとる。そのとき「XがYをする」という分節化が作られる。その分節化が言語を作っていく。そのとき、私たちはこの分節化を共有し、Xが次の場面でどう変化し、どう動いていくかの予測を共有する。逆に、言語は、私たちが共有する予測機構によって世界を分節化し、予測し、認知していく予測機構の共有様式だ、と見なすことができます。

私たち人間は(拙稿の見解では)物事の変化を観察し予測することで認知する。そのとき、その物事自身がその変化を予測してそれを目的として変化する,という見方を使って、私たちは見る。あらゆる物事はこのやりかたで認知できる、と私たちは、無意識のうちに思っている。こうして、あらゆる物事のあらゆる変化は目的を持つこととなる。その結果(拙稿の見解では)、人間も目的を持って行動する、と見て取れるようになります。

この認知の機構を人間どうしが互いに共有すれば、同じ(分節化による)世界を共有できる。そこから人類の言語が作られてきた。そうして作られた人類の言語は、世界のすべてを言い表せるかのように見えます。むしろ逆に、そうして共有できた分節化をもって世界のすべてだと感じるように、私たちの身体ができている、と(拙稿の見解では)言うべきでしょう。

ちなみに、言語の下敷きになっている現生人類のこのようなものの見方を人間以外の動物が持っているのかどうか、という問題に関しては、現代科学ではまったく解明できていません。チンパンジーやゴリラなどの類人猿に関してばかりでなく、言語習得以前の人間の幼児に関しても、事物の変化とその原因となる意識や意図、あるいは目的や動機との相互関係性を概念的に認知できているかどうかの科学的実証はできていません(二〇〇七年 マーク・ハウザー、デイヴィッド・バーナー、ティム・オドンネル『進化言語学 伝統的課題への新しい視点』)。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(15)

2010-01-23 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

そうだとすれば、ライオンを観察している人が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で言う場合、それは事実を言っているのではなく、「ライオンがシマウマを襲うがごとく追跡しているように見える」という擬人化を使った比喩を言っている、ということになる。

しかしここで問題なのは、このような隠喩話法を使う場合、比喩を言っている場合も、直接の事実を言っている場合も、言葉としては同じ、ということです。「ライオンがシマウマを襲う」と言う人が、自分は実は「ライオンがシマウマを襲うがごとく追跡しているように見える」という比喩を言っているのだ、と自覚しているでしょうか?ふつう、していませんね。ただ単に、ライオンがシマウマを襲っているから「ライオンがシマウマを襲う」と言っているのだ、と思っているでしょう。

この点を、拙稿としては問題にしたい。比喩(メタファー)とは何か?つまり、たとえ比喩を語る場面であっても、話し手はいつのまにか事実を語っているつもりになっているし、聞き手もまた事実を聞いているという気になっている。これは、どういうことなのか、という問題です。

拙稿の立場としては、これは人類の言語の顕著な特性である、と認識します。こうして人類の言語は、比喩が比喩であることに気づかずに使われていく。あるいは、比喩は事実の一種である、という形で使われていく。実際、比喩のほうが事実よりも事実を表していたりする(一九八〇年 ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『生きる糧としての比喩』既出 〔邦訳:渡部昇一・楠瀬淳三・下谷和幸訳『レトリックと人生』大修館書店, 1986年〕)。「あらゆる行動は目的があるかのごとく見える」というアナロジー(直喩)が、単に、「あらゆる行動は目的がある」という事実の形式(隠喩)で表現される。

私たちの言語は(拙稿の見解では)、本来、比喩と事実を区別しない、ともいえる。比喩を使う文章表現を指して、それが比喩表現であるとする見方は、現代人の言語学者が考え付いた見方ではあるけれども、言語を発明した原始の人々は、もともと比喩と事実の区別はしていなかった、のではないでしょうか?

もしそうであるとすれば、「あらゆる行動は目的がある」という認知は、現代人からみて比喩であろうが事実であろうが、本来、人間の言葉としては、事実として語られる。つまりどんな場面でも「あらゆる行動は目的がある」という見方は普遍的な使われ方をしていることになります。これは人類の言語が持つ二項形式が(X,Y)、Xがある目的を持ってYをする、という形式であることに(拙稿の見解では)表れています。

こうして、XがYをする、という言語形式が作られる。つまり人類の言語においては、話し手は「Xを観察するとXが自分の運動の結果を予測してそれがYをする結果となることを意識した上でYをするかのごとく見える」と推定したときに「XがYをする」という言語表現をする。

こうして人類は、言語を使うとき、その下敷きとして働く運動シミュレーションのモデルとして、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の見方をするようになった。いや、正確に言えば(拙稿の見解では)、人類は、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の動きをシミュレーションモデルとして脳内に備えているから、その仕組みを利用してこのような言語構造を進化させた。

このモデルを使って、動物の動きを見ると、それは目的を持った意識的行動のように見えます。つまり、ある動物がある行為をするときは、その行為の結果を予測して、それを目的として、その行為をしているように見える。

私たちが人間を観察する場合、人間も動物の一種ですから、その動きは当然そう見える。つまり私たちが人間の動きを認知すると、その動きは目的を持った意識的行為であるかのように見える。これは、人間が動く原因はその人間の内部にある意識的意図が働く結果である、というモデルを私たちが、無意識のうちに、使っているからです。

意識的意図は、どの動物の中にもあって、その動物(あるいは人間)の動きの結果を予測してそれがもたらす状況の変化を評価し、好ましい結果をもたらすような動きを選択する、ように見える。この選択には感情が伴っていて、結果のよしあし、好き嫌いを判定している、ように見える。私たちは、こういうモデルで、動物や人間の行動を認知している。

拙稿の見解によれば、私たち人間は、動物の行動にこのような意識的意図、あるいは社会的な意図を見て取る。これは(拙稿の見解では)、動物などの動きに社会的な目的を見る見方から派生して、私たちは、人間の行動にも社会的な目的があると見ている、ということです。

しかし読者の皆さんの常識では逆でしょう。そもそも人間が目的を持って意識的に行動するものであるから、動物を擬人化することで、動物も人間と同じ仕組みで行動を決定していると見なせる。そうすることで、動物の行動を分かりやすく表現できる、ということでしょう。しかし本当に、人間は、動物を人間とは違うものと認めた上で、それを表現上のテクニックとして擬人化しているのか? むしろ、そうではなくて、動物も人間とまったく同じような心を持って動いている、と思っているのではありませんか?

たとえば、「ライオンは食料にしようという目的を持ってシマウマを襲う」という言い方にふつう違和感はありません。この場合、ライオンの意識的目的は、食料の獲得にある。ライオンは、食料を獲得できるとうれしいからシマウマを襲う。ライオンの気持ちがよく分かる、と皆さんは思いますね。

でも、本当にライオンは食料が欲しくてシマウマの背中に飛びつくのか?ライオンの身体の作りが、走っている自分の前を走るシマウマを見ると自動的にその背中に飛びつくようにできているから、ではないのか? このことを敷衍すれば、人間を含めてあらゆる動物はライオンと同じように、身体の作りがそうなっているからそう動くのではないのか?

もしそうだとすれば、私たちの行動は目的を持って意識的になされるのではなく、身体の作りがそう行動するようになっているからそう動くのだ、ということになる。そしてまさに、これが拙稿の見解です。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(14)

2010-01-16 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

ライオンがシマウマを襲う目的を聞いてくる質問に対して「シマウマの背中に飛び乗るためだ」という答えは適切な答えだとは言えない。なぜならば、私たちがふつう使う言葉遣いでは、「襲う」という行為は、相手の大事なものを奪うという目的を持つという社会的な意味合いを含んでいる。その意味合いに沿って、相手の何を奪おうとしているのかに答えなければ適切な答えとは言えませんね。だから、襲う目的を問われた場合、「シマウマの背中に飛び乗るためだ」というような物理的身体的な動きを述べるだけでは、答えになっていない。

「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問は、もともとからして、「殺して食べるためだ」というような答えを暗黙のうちに期待している質問です。その期待に沿って会話は進んでいくことになっている。

「殺して食べるためだ」というような、もし人間が人間に対して行ったとすればとても衝撃的な行為を、この二匹の動物がしていると見なすわけです。たしかにライオンのこの行為は人間が見て衝撃的な行為であるべきです。それでこそ、私たちだれもが関心を持つことになる。そうであれば、話し手がわざわざ話す価値があることになるし、聞き手もわざわざ聞く価値があることになる。この場合、「襲う」という言葉が表している行為が、話し手と聞き手が共通に興味を持つ行為であるからこそ、会話の話題になっている、ということです。

そもそも言語による会話は、話し手と聞き手が共感できること以外に意味を成り立たせることはできません。ケニヤの草原でライオンがシマウマを追っている場面を目撃した話し手が聞き手に何かを言うとしたら、話し手は無意識のうちに、二人が共感できる話題を話すでしょう。その話題は、人間どうしが共通に関心を持つこと、たとえば、奪ったり奪われたりすることなど、つまり、ふつうは社会的な(あるいは経済的な、あるいは人間関係に関する)ことです。私たち人間が、そういう社会的経済的なことや人間関係に関することに強く共通に関心を持つからです。

このことは、逆に言えば、人間の身体が生まれつき物事の変化をそう感じとるようにできているからだと(拙稿の見解では)思われます。奪ったり奪われたり、害を与えたり、利益を受けたり、物事のとらえ方として、(主体概念とその目的との関係の)そういう感覚を、身体で感じとるような仕組みが、人間に限らず、多くの群棲哺乳動物にはあると思われます。

社会集団を作る群棲動物の進化の過程で、そのような仕組みの身体を持つことが有利に働いたのでしょう。その身体の仕組みからきて、私たち人間では、目的概念が社会的な意味合いを多く持つようになったと(拙稿の見解では)考えられます。

社会的集団生活をする群棲動物は、社会的な状況(たとえば、仲間に好かれるとか、疎んじられるとか)を認知し、その状況を予測して、有利な行動を選択する能力を持つ必要があります。犬などを見ると、そういう能力が十分ありそうに見えますね。人間もそうでしょう。私たちは、仲間の中での自分をめぐる社会的状況の変化を予測し、求めるべき状況を目的として複雑な行動を組み立てる機能を持っている。人間の場合、この機能に利用されている機構が、(拙稿の見解では)人類特有の抽象的な目的認知機構です。

社会的状況を抽象的な目的概念として認知する。たとえば、仲間にどう思われるか、というところから目的概念が作られる。言語表現にすれば、「仲間に好かれたい」、「仲間に疎んじられたくない」「クールだと思われたい」「負け犬と思われたくない」などとなるでしょう。こういう社会的状況を予測し、それを実現する目的として行動を組み立てる。人間の場合、このような状況―行動の結果予測に、目的認知機構は使われます。

動物の場合はどうか? 人間以外の動物は、まず社会的状況をそれほど精緻に認知しない。人間のように複雑な社会を持つ動物はいない。それで抽象的な目的認知機構は必要としません。逆に言えば、人間は抽象的な目的概念を作り、それを認知する目的認知機構を身体に備えているから、(拙稿の見解では)このような複雑な社会を維持していられる。       

人間はそうして、人と人の間の社会的関係に変化をもたらすことを目的として行動している。しかしたとえば、シマウマの尻を追いかけているケニヤのライオンはシマウマとの社会的関係に何らかの変化をもたらそうとして行動しているのか?

実際、ライオンはシマウマの持っている大事なものを奪うという社会的な目的を持って行動しているのか? 「大事なものを奪う」というような抽象的な目的概念を持っているのか? まじめに考えれば、ライオンがそんな人間のような考えを持っているはずがないことは明らかですね。では、ライオンは何を考えて行動しているのか?

シマウマを追っているライオンの内部で何が起こっているか推測してみましょう。シマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションは活性化されているに違いないと思えますね。一方、「シマウマの持っている大事なものを奪いたい」とか、あるいは「シマウマの生命をこの世から抹殺したい」という考えがライオンの内部にあるでしょうか? 幼稚園児はそう思うかもしれない。しかし、動物をよく知っている大人は、ライオンの内部にそういう考えがあるはずがないことをよく知っています。

ライオンは、逃げるシマウマを追って走るという運動を実行することで、脳神経機構のシミュレーション読み出しシステムから自動的に引き出されてくる運動シミュレーションに沿って、無意識に運動を展開しているだけです。

ライオンの自動的な運動シークエンスは、次のように構成されているはずです。

シマウマを追う→シマウマの尻が目前に見えるまで追いつく→思いっきり飛びつく→背中に飛び乗る→頚動脈を噛み切る→倒れたシマウマを食べる。

ライオンの内部の神経機構では、矢印の直前に記述されている運動が矢印の直後に記述されている運動を自動的に引き起こすような連鎖メカニズムになっている。ライオンの身体は、矢印の方向へ自動的に運動シークエンスが進み、無意識のうちに身体が動いていくような機械的機構になっている。それだけでしょう。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(13)

2010-01-09 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

 

PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。拙稿はそう言いたい。

この見解を強く一般化すれば、(拙稿の見解では)Pがライオンである場合にかぎらず、すべての動物にこれは当てはまる。さらにPが保育園児である場合も幼稚園児である場合も、当てはまる。実は(拙稿の見解では)大人の人間である場合も当てはまると考えます。つまり、PがQを襲う、と言うとき、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にある。Pが人間であろうとなかろうと、この見解は敷衍できる。

しかも、何かが何かを襲う、という場合だけでなく、何かが何かをする場合、いつでもそうだといえる。

つまり、どんな場合でも、「XがYをする」というとき、(拙稿の見解では)XがYをする目的はXの中にはなくて、「XがYをする」という言葉を発する話し手の内部にある。

しかしながら、Xが大人の人間の場合にも、XがYをする目的がXの内部にはない、という拙稿の見解には納得できない読者は多いでしょう。たしかに私たちは、自分自身を含めて(大人の)人間はだれも、意識を持って行動する場合には目的を考えて行動している、ように見える。目的を達するために行動しているように見えます。赤ちゃんはともかく、大人の人間が手足を動かす場合、それはなんらかの目的を持って動かしているはずだ、と思えますね。

前章でも述べましたが、意識的行動は予測を伴う行動であるという顕著な特徴を持っています拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」

ある人が意識的に手足を動かして運動している場合、たとえば自転車をこいでいる場合、その人はその運動の結果を予測している。その予想は、たとえば、この道の左端の白線に沿ってこのまま進めば道なりに進み続けることができるだろう、とかです。その予測が運動目的イメージになっている。そのイメージは運動シミュレーションで作られている。そのイメージが自転車をこぐという行動の目的である、と言えなくもありません。

しかし問題は、この運動目的イメージが「その人はなぜ自転車をこいでいるのか?」という質問の答えになっていないことです。この質問に対する適切な答えは、たとえば「学校に行くためです」というようなものでしょう。「道なりに進み続けるためです」という答えは、ふつう、質問に答えたことにならない。

「その人は自転車をこいでいる」

「その人」をX、「自転車をこいでいる」をYとすると、「XはYをする」の形になっている。このとき、「その人は自転車をこいでいる」という言葉を言う人は、その人が自転車をこいでいる目的を知っている。その目的は、移動することです。どこかからどこかへ行こうとしている。どこからどこへか分かりませんが、移動しようとして自転車をこいでいることは分かります。そういう目的は知っているから「自転車をこいでいる」と言える。

この自転車をこいでいる人は移動していく先に何か用事があるのだろう、ということも分かる。その用事とは、学校に出席する、あるいは友達と会って遊ぶ、など社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)重要なことである場合がほとんどです。

つまり、ふつう私たちが言っている行動の目的は、「学校に行くためです」というような型どおりの社会的に(あるいは経済的に、あるいは人間関係にとって)意味のあるとらえ方をする。「道なりに進み続けるためです」というような、行動を構成する個々の身体的な運動の運動目的イメージとは違う。

ふつう私たちが言っている行動の目的という言葉は、意識的行動の結果もたらされると予測される状態の変化をいいます。その状態の変化は、その行動をする人にとって、重要な状態の望ましい変化である場合が多い。利益が得られるような変化、あるいはそれはしばしば、人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化です。たとえば、個人的、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化ですね。

そしてまた、その行動が意識的行動の結果でなければ、その結果もたらされるものは目的とはいえない。無意識の運動の結果もたらされるものは目的とはいえない。思わずあくびをした結果、友達に笑われてしまったとしても、あくびの目的が友達を笑わせるためだったとはいえない。

意識的行動は目的を予測して引き起こされる、といえる。

たとえばケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合、それが意識的行動であるための条件は、ライオンがその行動の結果何が起こるかを予測してすることです。ライオンは、シマウマを追いかけることによって、数秒後にはシマウマの背中に飛び乗ることを予測しているように思えますね。もしそうだとすれば、ライオンがシマウマを襲う目的は、シマウマの背中に飛び乗ることだ、といえる。

しかしここで注意しなければいけないことは、ライオンがシマウマの背中に飛び乗るという運動シミュレーションを使って運動目的イメージを持っているとしても、それはライオンを観察している人間が「ライオンがシマウマを襲う」という意味のことを日本語あるいはケニヤ語で言う場合に思っているライオンの行動の目的ではない、という点です。

私たち人間が目的というときは、ふつう動物が使っていると思われるような直接の身体的な運動目的イメージのことではない。むしろ、社会的な意味合いのある行動の結果を言っている。それは、人間にとって関心が深い、重要だと思えるような社会的状況の変化を予測させる結果です。人間関係の利益につながるような社会的な意味のある変化をもたらすであろう結果です。たとえば、個人的な、経済的な利益、あるいは政治的な利益につながるような変化を予測させる行動の結果をいう。

それは観察者に対して「ライオンはなぜシマウマを襲うのか?」という質問を発してみれば分かる。

ふつうの答えは「シマウマを殺して食べるためだ」とか「餌食にして食欲を満たすためだ」とか「シマウマの肉を消化して栄養を取るためだ」とかになるでしょう。ライオンとシマウマが二人の人間だったら、この話は、A君がB子を殺して食べるために襲う、という形になる。かなりスキャンダラスな人間関係を目的とした行為ですね。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(12)

2010-01-02 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たちが言葉で「XがYをする」というとき、Xが人の場合もあり、Xが動物の場合もある。人類の言語では、言葉で言えるもの(概念)は、何でもXになれる。では、Xが無生物の場合、たとえば台風が九州地方を襲う、という場面についてはどうでしょうか?

どういう運動目的イメージが、この場面で使われるのか? 気象衛星「ひまわり」の写真のような日本列島周辺の雲の動きをイメージするのでしょうか?

では、深刻な経済不況が中小企業を襲う、という場面はどうか?

この場面を表す運動目的イメージはあり得るでしょうか? 経済不況という何か巨大で真っ黒い化け物のようなイメージが無数の人間集団の上から覆いかぶさってくる、というような絵になりますかね。マンガ家はこういうものも絵に描きます。私たちは、こういうものもなんとなくイメージできる。そのイメージはだれのものとも同じようなものだという確信も持てます。人間はだれでも、このような運動目的イメージを持てます。

深刻な経済不況が中小企業を襲う場合、私たちは問題なくこの状況を理解できる。深刻な経済不況が中小企業を襲うとどうなるのか、中小企業のオーナーや働く人々にとって非常に困ったことになることはだれもが予測できる。私たちは、そういう予測を共有しています。

その予想される事態が、経済不況が中小企業を襲う(という比喩としての)目的です。経済不況は人間ではありませんから、中小企業を苦しめたいなどいう意図は持たないでしょう。しかし中小企業の苦しみに思いを寄せるとすれば、経済不況はその人たちを苦しめるために襲ってきた、害を与えるために来た、と思いたい気持ちが分かる。だから、「襲う」という比喩が使われるのです。そこを考えると、やはり、経済不況は中小企業を苦しめたいという目的を持ってそれらを襲う、と言ってよいことになる。

つまり、ケニヤの草原でライオンがシマウマを襲う場合も、台風が九州地方を襲う場合も、経済不況が中小企業を襲う場合も、「襲う」という言葉を使う人は、それがそれを襲う目的を知っている。XがYをする、という形で物事の認知をするとき、私たちはXがYをする目的をすでに知っている。

逆に言えば、台風が九州を襲う場合、気象現象である台風は自分が九州を襲う目的を知らない。この光景を観察している人間が台風の行為の目的を知っている、ということでしょう。

観察者が台風の行為の目的を知っているかのごとく、その行為を「台風が九州を襲う」と表現している。この場合、「襲う」という表現は比喩として使われている。台風のなす行為の目的は台風の内部にはなくて、その行為を遠くから観察している人間の内部にある。台風のその行為を、言葉で述べようとする人間の内部にある。台風の観察者は「台風が九州地方に襲いかかり、大災害をもたらした」と実況ニュースで述べる。あるいはブログに書く。つまり、拙稿の見解を使えば、「襲う」という行為は台風の内部にはなくて、それを観察し叙述する人間の内部にある。

XがYをするとき、そのことを「XがYをする」と言うのは、その話し手が、XがYをする、と思っているからです。

では、次にその台風が人間である場合はどうか? 幼稚園児の大風君が同じ年長組の九周君を襲う場合です。大風君が九周君の持っているボールを狙って襲いかかる。これを見ている先生は、「X月X日。プレイルームで、大風が九周に襲いかかり、大騒動をもたらした」と日誌に書くでしょう。先の例の台風の内部には襲いかかる目的がないのに、大風君の内部には襲いかかる目的があることになっている。

PがQを襲う場合、それを見ているRという観察者が「PがQを襲う」と言ったとすれば、拙稿の見解では、RはPがQを襲う目的を知っている。つまり、このとき、PがQを襲う目的は観察者Rの内部にある。

ここで(拙稿の見解では)、PがQを襲う目的はPの内部にあるというよりもむしろPの内部にではなくて観察者Rの内部にある、という点に注意してください。

PがQを襲う。

この言葉の構造を、すこし詳しく、調べて見ましょう。まずPが台風の場合などには、PがQを襲う目的はPの内部にはない。Pの内部にはなくて観察者Rの内部にだけある。Pが台風のような気象現象である場合は、だれもこの見解に納得するでしょう。

ではPがライオンのような動物である場合はどうか? 拙稿の見解では、この場合もライオンPの内部には人間である観察者Rが思っているような目的はない。ライオンは餌食を襲うときの運動目的イメージとして特定の形式の運動シミュレーションを体内に持っていることは明らかですが、それは人間の観察者Rが思っているような目的ではない。観察者の人間Rは、ライオンがシマウマを食べて食欲を満たそうとしてそれを襲う、と思っている。しかし拙稿の見解では、ライオンは食欲とか食べるとかいう概念は持っていません。

ライオンには食欲はあるかもしれないが、食欲という概念は持っていない。結果的に食べる運動はするでしょうが、食欲を満たすために食べるとか、栄養を取るために食べるとか、というような目的概念は持っていません。もちろん、栄養とか、食事とかランチとかいう概念も持っていません。

ライオンは、動物の生理として体内の血糖値が下がると餌食を襲う運動シミュレーションが活性化するような身体の仕組みになっているだけでしょう。ライオンは(拙稿の見解では)目的を持って行動しているわけではない。自動的に身体が動いてライオンの身体がなすべき仕事をこなしてしまうだけです。空気が重力と熱力学の法則にしたがって九州のほうへ渦巻いていく台風と同じことです。

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