哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ、なぜと問うのか(2)

2012-08-25 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

私たちがある物事を理解したい場合、どうするか? 

物事の原因と目的を知ろうとします。世の中の物事が起こるには原因と目的があるはずです。原因と目的がある結果、世の中の物事はこうなっていると理解できます。

私は、なぜA子が痩せたのか知りたい。

A子の身体の横幅が細くなったから痩せたということが理解できる。身体が細くなった原因は身体の脂肪が減ったからだと理解できる。身体の脂肪が減ったのは一日一食にしたからだと理解できる。A子がそういうことをして痩せたのは美しくなるという目的を持ったからだと理解できる。

こうして私は、A子が痩せたという事実を理解できます。

目的は何か、ということが重要である。アリストテレスはそう教えています(BC三三〇年頃 アリストテレス物理第2巻 』)。ところが現代科学は、アリストテレスのこの教えに逆らっています。科学の見方によれば、チンパンジーのA子の身体が細くなった原因は身体の脂肪が減ったからだという言い方は認められる。チンパンジーのA子の身体の脂肪が減ったのは一日一食にしたからだという言い方は認められる。しかしチンパンジーのA子が痩せたのは美しくなるという目的を持ったからだという言い方は認められません。

科学の言葉遣いでは、チンパンジーのA子が痩せたのは美しくなるという目的を持ったからだという言い方は認められない。チンパンジーのA子が痩せたという生物現象に関してそれはある目的のためだという言い方は認められません。

人間のA子が痩せたのは美しくなるという目的を持ったからだという言い方は認められるが、チンパンジーのA子が痩せたのは美しくなるという目的を持ったからだという言い方は認められない。これはどういうことでしょうか?

「チンパンジーのA子はなぜ、そんなに痩せたのですか?」

「一日一食にしたからです」

「なぜ、一日一食にしたのですか?」

「痩せさせるためです」

「なぜ、瘠せさせたのですか?」

「美しく見せるためです」

前に挙げた会話と似ていますが、ちょっと違ってきましたね。

また少しだけ変えてみましょう。

「A子はなぜ、そんなに痩せたのですか?」

「一日一食にしたからです」

「なぜ、一日一食にしたのですか?」

「痩せさせるためです」

「なぜ、瘠せさせたのですか?」

「美しく見せるためです」

何かおかしいですね。不気味な会話の感じがします。ヘンゼルとグレーテル の逆バージョンのようです。

この場合でも、質問者の「なぜ」という質問に対して回答者はまじめに答えています。この回答者は、質問者が「なぜ」と聞いている現象を引き起こしているだれかがそれをしている目的を回答しています。このような会話が進んでいるところを私たちが立ち聞きしているとすれば、この回答で質問者は納得しているように会話は進んでいると感じられますね。

Banner_01

コメント

私はなぜ、なぜと問うのか(1)

2012-08-18 | xxx1私はなぜ、なぜと問うのか

(31 私はなぜ、なぜと問うのか? begin

31 私はなぜ、なぜと問うのか?

拙稿は、哲学はなぜ間違うのか、と問う。ところでそもそも、私たちはなぜ、なぜと問うのか?

なぜという問いには二通りの答え方がある、といわれます。その目的を答えることと、その原因を答えることです。しかしこの二通りは実は同じことを答えています。拙稿本章では、この辺から、物事の目的というのは物事の原因と深い関係があるのではないか、非常に近い関係なのではないのか、という疑問を展開していこうと思います。

「なぜ、そんなに痩せたのですか?」

「美しくなるためです」

この場合、美しくなるために痩せる、という痩身の目的を答えています。

では次の問答。

「なぜ、そんなに痩せたのですか?」

「一日一食にしたからです」

この場合、食事量を減らしたから、という痩身の原因を答えています。

同じ質問に、目的で答える仕方と原因で答える仕方と、二通りの答え方ができる。なぜ、なぜという問いには二通りの答え方ができるのでしょうか?

質問した人の気持ちはどうなっているのでしょうか?回答に満足しているのでしょうか?

「なぜ、そんなに痩せたのですか?」に対して

「美しくなるためです」

と答えてもらえば、「ああ、そう」と分かる。

「一日一食にしたからです」

と答えてもらっても、「ああ、そう」と納得できます。

どちらも得られた答からは、同じことが分かる。この問答の回答者は、美しくなりたかったから一日一食に減食して痩せたのだな、ということが分かります。

なぜ、という質問に対してアリストテレスは、四種類の答え方

がある、と言いました。「なぜ、そんなに痩せたのですか?」という質問に対しては①「身体の脂肪が減ったからです(質料因)」②「身体の幅が細くなったからです(形相因)」③「一日一食にしたからです(作用因)」④「美しくなるためです(目的因)」と四種類の答えがある。そういわれればそうだと思えます。しかし①と②は、理屈っぽい哲学者が好きそうな答ではありますが、ふつうに使われる答は③と④だけでしょう。たしかにアリストテレスが言うように、この四種類全部を続けて言ってみると、完璧な答のようになります。「美しくなるために一日一食にしたら、身体の脂肪が減って身体の幅が細くなったからです」

そもそも質問した人は、こういうことが知りたくて質問したのでしょう。こうして答えてもらえば、質問者としても納得がいきます。

「美しくなるために一日一食にしたら、身体の脂肪が減って身体の幅が細くなったからです」

こういう言い方を聞くと、私たちは、よく分かる、と思います。逆に言えば、こういう言い方が、物事の意味をよく表している、といえます。

では、なぜ私たちはこういう言い方がよく分かるのか?

私たち人間は物事を理解するときに、こういうことを注目しているからではないでしょうか?

「美しくなるために(という目的を持って)一日一食にしたら(それが原因となって)、身体の脂肪が減って(そういう現実の変化が起こったために)身体の幅が細くなったから(痩せたということになったの)です」

Banner_01

コメント

私を知る私(8)

2012-08-11 | xxx0私を知る私

私たち人類は、言葉の世界の内部で生きています(拙稿26章「「する」とは何か?」)。

私たちは言葉で話し合う。一人で考えるときも、言葉で考える。言葉をはっきりとは使わないときでも、それを意識できて記憶できるような物事は言葉で言えるような物事です。それらは人と分かり合える物事です。つまり私たちが互いに理解し合えることは、言語あるいはその他の形で人と共有できるような表現(「言語等」ということにしましょう)として目や耳で感じられることができる物事だけです(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

言語等で表現できない私の部分(たとえば現代人の思うところの自己中心的自我)については、(もしそのようなものがあるとしても)語ることができない。私たちが語ることができる自我は、互に目に見える自分たちの身体とその動作、音声で表されることでしかないでしょう。それは自分のことであっても、他人のことであっても、基本は同じことです。私たちが自分で考えることができる私もまた、人に語ることができる私だけです。

私が知っている人間たちの中では、たしかに私はとびぬけて自分自身のことをよく知っています。しかしその知り方は、結局はほかの人間を知る知り方と変わりがない。私というものが私にとって特別なものである、という理由はこの現実世界の中には見つからない(拙稿23章「人類最大の謎」)。言い換えれば(この現実世界においては)、私というものは私にとって、もっとも親しい他人である。とても親しいけれども他人である。それ以外のものではない、ということができます。

拙稿本章をまとめてみましょう。

私が知る私とは何か?私はまず現実としての私(第一の自我)を知る。だれの目にも見える私の身体。履歴、自己紹介、過去の事実、ルーツ、社会的地位、収入、資産、家族、友人関係。だれもが知ることができる私の行動。それらはすべて現実です。私は、私を含むこの現実を知る。それは、現実を知る私を知る、ということです。

一方、この現実を知る本当の私を知っているのはこの私ただ一人しかいない、と現代人である私たちは思っています。(昔の人はこの私以外にも仲間、一族、あるいは神様が本当の私を知っていると思っていましたが)現代人の私たちにとってこれは常識になっています。そうであれば、私だけが私の自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を知っていることになる。

しかしそういうこと全体を、私たちは言葉(言語等)を使って語り合うしかない。ところが、言語等の限界として、現代人の思うところの自己中心的自我は直接に表現できない。ここに近代哲学、現代哲学の混乱が起きています。哲学の混乱は知識人、教師、マスコミの混乱に通じて、現代人の自我意識に複雑な影響を与えています。

私たち現代人は、言語等で直接に表現できないような自己中心的自我を自分自身だと思い込んでいる。一方、言葉で語り始めた瞬間、それはそれ自身とは違う客観的なものになってしまう。そこに現代人のフラストレーションが出てくるのはしかたがないでしょう。

言葉(言語等)で語り合う限り、言葉(言語等)で考えようとする限り、私たちが知り得る私というものは、他人から見える私と違うものではありません。私たちは他人を知る以上に自分を知ることはできない。逆に言えば、私たちにとって私とはそれだけのものです。この限界に、現代人である私たちは、なかなか気がつきません。■

(30 私を知る私 end

Banner_01

コメント

私を知る私(7)

2012-08-04 | xxx0私を知る私

実際、西洋諸国などの近代社会、あるいはそれから発展した現代社会は、自由市場、民主主義などの社会システムとして自己中心的自我を社会化することに成功した社会です。つまりこれらの社会では、自己中心的自我を社会的に認知する個人主義と呼ばれる社会規範を社会機構の基礎として再生産するようになっています(西洋人は個人主義であるのに対比して日本人は集団主義である、とよくいわれますが、日本人の組織については、性根は集団主義でホンネは個人主義でタテマエは集団主義で教科書としては個人主義だ、ともいわれているように複雑な階層構造を作ることで近代化に成功した例でしょう。さように、個人主義という語はトリッキーなところがあり、いずれの国の組織でも実は同様に複雑な構造を持つと推定されます)。

この現代的な自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)は、しかしながら、言語によってはっきりと表現しつくすことができません。人類の言語は(拙稿の見解では)、原理的に客観性を持つので、客観的対象ではない自己中心的自我を直接表現できない(詩や文学や芸術で表現できるといっても、それは比喩的な表現でしかありません)。私たちの日常言語(自然言語)にこのような自己中心性の直接的な(言葉では言い表せない本当の私を言い表せるような)表現を求めることは言語機構の構造からして矛盾です。過去数万年にわたって使われてきた人類の自然言語、つまり私たちが話す言語は、複数の人間の間で共有できるような客観的な物事を表現することしかできないものとして作られています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。

にもかかわらず、自分一人を行動の基準としなければならない私たち現代人は、自分自身の自己中心性を、その同じ言語によって表現しなければなりません(拙稿19章「私はここにいる」 )。

現代人の私たちは、この現代的な自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)を自身で体感していますから、話し手がそのことを語ろうとしている場合、詩や文学や芸術での比喩的な表現や、コンテキスト(文脈)による判断、話者の空気を読み取ること、などで漠然とは気分が理解できます。しかし、それは言語によってとらえたものではない。その空気が分からない人々には伝えることができません。そのため科学論文に書くことはできず、哲学の議論としても空回りしてしまいます。

現代人が言語で表現しなければならない自我意識と自然言語の表現能力とのこの構造的な矛盾が(拙稿の見解では)、近代哲学の間違いを引き起こし、結局は現代の哲学者、知識人、マスコミのなす議論を空転させ現代思想を不毛に陥れている根本原因といえます(一九二九年 エドモンド・フッサール「デカルト的省察既出 )。

たしかに、自己中心的自我にとっては自分だけがすべての中心であって特別な価値がある、と感じられます。私たちは、そのような自分を、私あるいは自分、という言葉で語ろうとします。ところが言葉で語れる自分は、人から見たその人のことでしかありません。言葉で自分を語ろうとすればするほど、自分が感じている本当の私(自己中心的自我)を語ることはできない。それなのに、私たちはそれが言葉で語りきれると思い込んでいる。私たち現代人のフラストレーションの多くはこのような齟齬から来ているのではないでしょうか?

たとえば就職先を探す学生に対してマスコミあるいは教師などが「自分が好きな職業をめざすべきだ」とアドバイスする。直接話法で言えば「君が好きな職業をめざすべきだ」となる。話し手がいう「君」とは聞き手のことですから、「自分が好きな・・・」というものは話し手から見てその人が好きだろうと思われているものになります。それは話し手という他人、あるいは話し手が代表している無数の仲間たちから見て、聞き手が好きだろうと思われているもの、それが「自分が好きな・・・」という言葉が指すものです。

若者は自分が変わり者だとは思いたくない。ふつうの人だと思いたいはずです。自分がふつうの人だと思う場合、自分が好きなものという言葉は、ふつうの人が好きだろうと思われているものを指すことになる。ふつうの人が好きであるはずだと思われるもの・・・それは、職業であれば花形職業になるのは当然です。アドバイスを信じた全員が花形職業に就けるはずがなく、職を求めての過当競争は敗者を増やすだけとなるでしょう。

自分が好きなものを選ぶ、ということは現代人が思うところの自己中心的自我(第二の自我、言葉では言い表せない本当の私)の自然な欲求に従うことであると考えれば、当然なすべきことである、と思われます。しかしその自然な欲求というものが「自分が好きなものを選ぶ」という言葉で表されるとき、仲間の皆が認めるはずの欲求とすり替わってしまう。そうして選んだものを、自分が好きで選んだ、と私たちは思っています。

Banner_01

コメント

文献