哲学の科学

science of philosophy

世界の構造と起源(11)

2010-12-25 | xx4世界の構造と起源

拙稿の見解では、こういう超ハードな問題というのは、まず問題の立て方が間違っている。むずかしいと思うからむずかしい。むずかしいと思えば思うほど、解決から遠のいていきます。ですから、まずむずかしいと思うことをやめるのがよろしい。

拙稿の見解を述べます。世界が存在しているといい、私が存在しているといい、どちらもそれが存在しているとすることによって、私たち人間が互いにうまく語り合い、仲良くなり、協力できればよいのであって、哲学的矛盾などは重要なことではない。

世界というものは(拙稿の見解では)、それが現実にここにこう存在することによって私たち人間が協力して生活することができるようなものとしてある。逆に言えば、そのように作られているものが、私たちの感じとれる世界である、といえます。また、私というものも、人と語り合う時に、私というものがこの身体であるとすれば、話が通じて協力がうまくいくようなものとしてある。

そうであるからして、私は世界がこうあると思い込んでいるのだし、私というものがここにこうあると私が思い込んでいるのはなぜか、納得がいく。

世界が存在しているということ、あるいは私が存在しているということ、それぞれ、人と人とが協力し合ういろいろな場面で皆がそう思っていることが社会生活のために実用的です。そういう実用的な認知機能が人間の身体に発現し、それが概念を作り言葉として定着し、私たちは私たちが共有するそれら認知対象を現実の存在として感じとれる身体になっている。

仲間との協力をさらにスムーズに進めるように、私たちは、世界とか私とか、あるいはその他の概念を強烈な現実感をもって身体の奥底で感じとれるようになっている。そういう身体の機構を人類は共有しています。自分たちがそういう身体になっていることに、私たちははっきり気づいていない。けれども、私たちのそのような身体の作られ方が、私たちにこのような客観的な世界の構造を感じとらせているといえます。

ようするに、拙稿の見解では、世界も私自身も、それらがこのように存在していると私たちが思うことが私たちが生きていくために実用的だから私たちはこういう世界が現実に存在しているのだと感じとっている(拙稿23章「人類最大の謎」)。私たちはそう感じとるような身体としてできあがっている。人類がこの世界で生活を続けて子孫を増やしていくために人間の身体はこの世界と自分自身をこう感じとっている、といえます。つまり短く言えば、私たちのこの身体がこの現実の世界と現実の私を作っている、といってよいでしょう。

たとえば、私たちの身体の前後左右上下に三次元空間が無限に広がっている、と私たちは感じる。私が今いる建物の壁の向こうや天井の上に向かって、また床の下に向かって世界はどこまでも広がっている。それが私たちの住んでいる街であり、地球であり、あるいは宇宙である、と私たちは感じる。しかし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、どうでしょうか?

身体が左右対称形ではなくて、回転対称形であるとすれば、上下の方向しか区別はつかない。クラゲにとっては、世界は海面までの上方空間と海底までの下方空間の二層からなる単純な構造でしかないでしょう。実際、私たち人間の身体が頭と胴体からなる左右対称形をしているというところから世界が前後左右上下に三次元空間として無限に広がっていると感じられるのだ、といえます。

もし私たちの身体がクラゲのように回転対称であるとすれば、私たちは、上と下、という言葉しか持っていないでしょう。前とか後とか、右とか左とか、を表す言葉はないはずです。そういう場合、私たちの地理学は「海面下10メートルでは圧力がどれくらいで、水温がどれくらいで、どういう生物がいるか」というような記述から成り立つことになります。つまり、上下方向の一次元の地理学になる。クラゲにとって、世界の構造は、そういうことになります。

Banner_01

コメント

世界の構造と起源(10)

2010-12-18 | xx4世界の構造と起源

私たちの身体は、仲間の皆が感じとっている存在感を(運動共鳴によって)直感として感じとることができます。これが(拙稿の見解では)空気を読む、といわれる現象、あるいは協調性といわれる社会現象の基礎になっています。この私たちの身体の共鳴機構が人々が共有する理論の作り出す世界の存在感になっていると思われます(拙稿4章世界という錯覚を共有する動物」)。神話や伝承の物語、あるいは現代のマスメディアが作り出す世界情勢や現代世相などのイメージの存在感、あるいは自分の人生というストーリーの存在感(拙稿22章「 私にはなぜ私の人生があるのか」)なども、おそらく、この機構によって作り出されるものでしょう。もちろん、科学理論も例外ではありません。科学理論も科学者の間の認識の共有によって支えられています。

サンテグジュペリの童話におもしろいエピソードがあります。、星の王子様の小惑星はトルコの学者によって発見されたが、学会発表の時にその学者がトルコ服で登壇したために、その発見は無視されてしまった。改めてヨーロッパ人の服装をして学会発表に臨んだところ同じ発見は認められた。とあります。

メンデルの法則は一八六五年に学会発表されたにもかかわらず、グレゴール・メンデルの死後十数年後の二十世紀初頭まで学会に無視されていました。これはメンデルが先見の明がありすぎたというよりも、彼が当時ヨーロッパの片隅だったチェコの田舎寺院の修道僧だったからといわれています。

冗談ではなくて、現代でも極東の非英語国日本の学者の発見や理論は欧米で認められにくい、というのは事実のようです。実験や観測のデータに基づく明快な事実は認められるようですが、あいまいさの残る理論や仮説などは無視される傾向がある。英語での発表や宣伝が下手だからという理由もありますが、そればかりではなさそうです。直感的共鳴という身体的な要素が(拙稿の見解では)科学理論の理解の下敷きにもあると思われます。

さてそういう具合に、世界は(拙稿の見解によれば)、人々に共有されている理論によって存在している。理論は、結局は人々の身体の間に作られる運動共鳴にもとづく認識の共有によって支えられている。つまり、だれが観測しても同じ現象が存在するかのように見える場合、それは存在することになる。たとえば、職人の子は父親から職人の遺伝子を伝えられているように、だれが観察してもそのように思える場合、職人の遺伝子は存在する、といえる。

物理学の法則は、だれが観測してもそのように見えるから、それは存在している。それ(物理学の法則)はこの現実の物質世界を存在させている、ように見える。

理論(たとえば物理学の法則)はなぜ存在するように見えるのか? 世界のありさまがその理論によって合理的に説明できることによって、私たちはその理由を納得します。その理論(たとえば物理学の法則)が完全に納得できる場合、その理論によって存在が認められるものは、完全に存在している、といえます。科学理論はそのようにして物質世界を完全に存在させることができます。

ここにも、チキン―エッグ問題が現れてきます。世界の存在が先か、観測が先か? 世界が存在するからそれが観測されるのか?それとも、観測されるから世界は存在するといえるのか? このような質問には(拙稿の見解では)答えがない。近代哲学には、存在の問題は認識の問題と不可分であるとする考え方があります(一七八七年 イマニュエル・カント純粋理性批判』第二版 既出)。私たちが仲間と一緒にそれを感じとるということと、それが存在するということは(拙稿の見解では)同じことです。同じ意味を表しているといえます。

世界は、世界がこう存在して、そこに私の身体がこう存在していて、その身体が世界をこう感じとっている、かのように感じとれる。それは世界がこう存在しているからだ、と単純に思えます。しかしそれだけでは、世界が存在することは理解できますが、それを感じとっている私の存在が必要であることが理解できない。世界が、私が世界をどう感じとるかに関係なく存在しているならば、私がどう感じるかは世界とは全く関係がないはずです。世界の存在と私の存在とは、互いに関係がない別の話になってしまいます(拙稿23章「人類最大の謎」)。

これが世界のチキン―エッグ問題、あるいはデカルトスピノザ問題、あるいは心身二元論問題、あるいは心脳問題クオリア問題あるいは現象学、あるいはハードプロブレムと呼ばれる形而上学の問題です。

これは哲学として非常にハードなコアな問題とされています。いつまでたっても解けない。二千年以上の哲学の歴史にわたって偉大な哲学者たちが悩み続けた問題ということになっています。人知の及ぶところではない神秘の問題という気もしてきます。なぜむずかしいのか? 私という自我の謎がむずかしいのか? 意識の問題がむずかしいのか? この世における人間という存在が不可思議なのか? なぜ解けないのでしょうか?

Banner_01

コメント

世界の構造と起源(9)

2010-12-11 | xx4世界の構造と起源

そういうことですから、遺伝子という概念を生体高分子として物質的にはっきりと定義する生物学者の明快な考え方はもっともであると思われます。しかし、拙稿としては、話はこれで終わりではない。青い目の遺伝子と職人の遺伝子は、科学としては違うカテゴリーの概念であって、一緒に議論すべきではないことは明らかですが、拙稿本章で話題にしている世界の構造という観点からみると、青い目の遺伝子と職人の遺伝子はその存在のしかたが似ている面があるのではないでしょうか?

職人の親から子へ職人の遺伝子が伝えられていく、と思うことで私たちは、じょうずに社会を維持していくことができるのではないか? 実際、血の流れという表現で、私たちは大昔から遺伝子のような概念を使っている。そうすることで、血縁の概念、家系の概念が理解され、家業の維持、あるいはギルドや組合のような職業の世襲制が維持され、もっと深い意味では氏族や民族という概念にもつながっている。それは伝統社会では部族社会の基礎であり、農業牧畜においては再生産体制の基礎であり、現代の国民国家の基礎でもあり、また個々の人々のアイデンティティとなっている事実があるでしょう。

青い目に関しても、血の流れのような観念と同じような意味合いで、青い目の社会を安定させる働きがあったのではないか、と思われます。 たとえば、青い目の人々は青い目という血の流れに誇りを持ち、青い目の子孫を維持するために青い目どうしでの結婚が奨励され、あるいは青い目以外の人々を排他的に疎外することで、青い目の集団としての団結と協力を強化したのかもしれません。もしそうであれば、それは職人の集団がその伝統を守る行動をとることと似たような現象だといえる。そういう似たような社会的行動を導くということで、職人の遺伝子という概念と青い目の遺伝子という物質とは、人間集団にとって、同じような社会的機能を持っていたことになります。

同じような社会的機能を持つものは、同じような存在といえるという拙稿の見解に従えば、職人の遺伝子も青い目の遺伝子も、ふつうの会話で使われる血の流れというような概念として、同じような社会的意味合いを持ってこの世界に存在している、といえます。

それでは、科学者がその存在を確信している青い目の遺伝子を表現するDNAの核塩基配列HERC2という物質は、この世界においてどういう存在であるのか? 拙稿の見解では、核塩基配列HERC2は、職人の遺伝子が存在することと同じように存在すると同時に、木星の衛星ユーポリーのようにも存在している。つまり、私たちの社会生活を支えると同時に、科学の整合性を支えることで、存在している、といえます。

一つのものの存在のしかたは(拙稿の見解では)一つとは限らない。核塩基配列HERC2という物質は、ここに述べたように、社会的アイデンティティと科学的知識という二つのしかたでこの世界に存在しています。

この(核塩基配列HERC2という)物質は第一に、青い目の遺伝を実現させることで、私たちが人間のある社会集団、あるいは人間個人のアイデンティティを認知する手掛かりの一つを作り出すことによってこの世界に存在している。また第二に、科学分析を施されるとその核塩基配列という物質構造をだれの目にも見えるものとして現す物質となっていることによっても、この世界に存在している。

核塩基配列HERC2という生体高分子が第一のしかたで存在するということは、私たちが青い目の遺伝現象を見分けることで、社会生活をうまく営むことができる、ということに他なりません。こういう存在のしかたをしているものはたくさんあります。先の例として挙げた渋谷のハチ公もこれですし、実際、言葉で表わされるものは全部がこれであるといえます。逆に言えば、社会生活をうまく営むために存在するものは言葉で表されるはずです。

つまり私たちが言葉を使って互いに語り合うということは社会生活をうまく営むためである(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)と考えれば、言語がそのために作られていることは明らかでしょう。そうであれば、言葉で表わされる物事は、私たちが社会生活をうまく営むために存在していると言ってよいことになります。

では、科学の理論によってその存在が説明されている物質的な存在とは、どういうことなのか? たとえば、木星の衛星ユーポリーという物体は肉眼では見えない。それはしかし、(科学を理解できれば)だれもがその存在を確信することができる。逆に科学の理論体系の存在を確信すれば、この小天体の存在を確信せざるを得ない、という論理構造になっている。

科学理論によって存在が推定される「未知の存在物問題」はこうして定式化される。科学理論に限らず、私たちが持つどのような理論であっても、その理論体系によって存在が推定される物事は、その理論体系を維持するために存在する、と言うことができます。

たとえば日本人の住居には玄関という構造があり、そこには必ず靴箱(昔は下駄箱と言った)という戸棚があります。ここで靴を脱いで中に入る。日本人ではない人々の家には靴箱に当たるものがない。日本人は、家の中では靴を履かない、という特有の行動をとります。日本人どうしが自分たちのその行動を説明するときには、道路は汚いから、というような理論が使われます。ところが実際、現代の日本ほど道路が清潔な国は少ない。この理論はグローバルスタンダードではない。それにもかかわらず、この道路不潔理論は日本では標準的理論となっています。この理論体系を維持するためには、靴箱は存在しなければなりません。逆に言えば、日本におけるこの道路不潔理論は靴箱を存在させるための理論であるといえます。

この世に存在している物事はすべて(拙稿の見解によれば)、この靴箱に似た理由で存在しています。科学理論も広い意味で、このように物事を存在させるための理論の一種であるといえます。

Banner_01

コメント

世界の構造と起源(8)

2010-12-04 | xx4世界の構造と起源

この研究によれば、遺伝子のこの変異は、五千年前から一万年前ころにイラン北部あたりにいた小さな集団の人々の間で発生して、北へ移動しながら他の集団と交わらずに子孫を急速に増やした、と推論されています。事実、現在の北ヨーロッパでは人口の半数近くが青い目を持っています。なぜ、青い目のこの集団は、他の目の色の人々と交わらないで子孫を産んでいたのか、それは先に述べた実験の仮説のような配偶者選好が理由なのか、それともそうではないのか、はっきりとは分らないようです。ちなみに筆者は黒い目で、青い目の女性がその眼の色によって魅力的だという気はしませんが、皆さんはいかがですか?

いずれにしろ、青い目の遺伝子はある。現代の科学では、その遺伝暗号を表すDNAの分子構造(核塩基配列)とそれがある染色体上の位置は、はっきりと分っています。DNA分子の構造は、水素、炭素、窒素、酸素、およびリンの原子からできていて、それらが核塩基リン酸糖鎖の高分子として、どう配列されて相互の原子間エネルギーがどう働いているのか、二十世紀末までに完全に分かってきました。さらに今世紀に入ってからは、その分子のそれぞれの原子群がどう働いて酵素たんぱく質などを作り出し、動物や植物の細胞を構成し、身体構造を作り出し、その生理機能を調整しているか、かなり詳しく分かってきました。

しかし、二十世紀前半には、こういうことはほとんど分かっていませんでした。筆者が生まれたころ、生物の細胞をすりつぶすとDNAと名付けられたどろどろした成分が抽出されることは分かっていてその物質が遺伝現象と関与しているという仮説は提唱されていたものの、それがどういう仕組みで遺伝現象を実現しているのか、まったくの謎でした。DNAの分子構造も解明されていませんでした。まして、DNA分子のどの部分がどの遺伝子に関係しているのか、それがたんぱく質とどういう関係になっているのか? タンパク質がどういう仕組みで生物体を作り出しているのか、まったく分かっていませんでした。

そういう場合でも、「青い目の遺伝子は存在する」と言ってよかったのでしょうか?

目で見える物質現象としては、エンドウ豆の色や形、あるいは人体の色や形が親から子へ受け継がれるらしい、という観察データしかなかった。科学で説明できる現象としてはメンデルの法則や、卵子と精子の合体や生殖細胞染色体の減数分裂くらいでした。二十世紀前半では、そういう知識の上に、遺伝子という抽象的な概念が作られていた。

その時代(筆者が生まれた一九四〇年代)青い目の遺伝子は、存在していたといえるのだろうか? たしかに戦後の日本には進駐軍のGI(米兵)さんたちが闊歩していた。黒い人もいたし、金髪で青い目の軍人さんもたくさんいました。日本人女性との混血児の話もよくあったころです。生物学者でない一般の人の常識でも、青い目の人は青い目の親から生まれたのだろうな、と思っていました。「親から子へ血が受け継がれる」という言い方をしていた。今でもふつうの会話ではそう言っていますね。それは神秘ではあるけれども事実である、と思われていた。だれもがそう思っていた。そう思うことで、話が通じていた。こういう場合、やはり(拙稿の見解では)、「青い目の遺伝子は存在する」と言えるでしょう。

私たちはごく自然に「青い目の遺伝子は存在する」と言う。まったく疑問を持たずに、当然のように言う。そして、右に述べたように、それに相当するHERC2というDNA核塩基配列が物質として人体の細胞内に存在している。つまり「青い目の遺伝子」に相当する物質がこの現実世界に存在しているといえます。分子生物学者はこのことを正確に知っています。生物が専門でなくても科学を理解している人はDNAという生体高分子がどんな構造であるかは、だいたい知っているでしょう。

しかし、ここで問題は、科学者ではないふつうの人が、「青い目の遺伝子」とか「青い目のDNA」とかいう言葉を世間話でごく当たり前に語り合っている、という事実です。生物学者はそれを聞いて、DNAの分子構造も知らない人が何を理解して遺伝子とかDNAとか語り合っているのだろうか、と首をひねります。とうぜん、生物学者のほうが、ふつうの人よりも遺伝子やDNAについて正しく知っているはずですね。だが、本当にそうでしょうか?

現代では一般にありふれて使われている「○○の遺伝子」とか「○○のDNA」とかいう言い方は、ほとんどの場合、物質としての実体がないことが科学的に明らかです。このことをよく知っている生物学者や医学者は、科学用語が乱れて使われている事態にいささか困惑を感じているはずです。正しい知識を普及しなければならない、という使命感を感じている科学者も多いでしょう。

たしかに日本人の遺伝子とか、下町っ子のDNAとか、職人の遺伝子とか、私たちは簡単に言ってしまいます。ふつうの人は、そういうものが本当に存在するのかどうかにまったく疑問を持たずに、当然のように言っています。科学者は困ったものだと思っているようですが、拙稿としては、それがいけない言い方であるというつもりはまったくありません。むしろ拙稿の議論にとっては、これはかなりよいヒントになります。世界の構造と起源を考えるに際して、かなり重要な、興味深い事象である、と思われます。

職人の遺伝子というものは存在するのか? DNA配列にそんなものはありません。DNAの核塩基配列に職人を作る暗号が書き込まれていると言ったら、まったくの偽科学ですね。しかしカルチャーの継承という観点からは親から子へ受け継がれるものといえる。また、気質の遺伝という概念も生物学的に無意味ということはない。

親父が立派な職人で、息子を徒弟として鍛え上げる。その結果、その子が一人前の職人になるということはよくある。よくあるというよりも、かつてはそうなるに決まっていたくらいです。こういう場合、職人としての技術知識が親から子へ受け継がれ、職人カルチャーが親から子へ受け継がれる。それは遺伝ではなく環境と学習の結果でしょう。職人気質が親から子へ受け継がれることについては、気質の遺伝という面はありそうです。しかし科学として見た場合、その気質という概念が脳神経系の構造として物質的に同定されているわけではありません。

職人の遺伝子という言い方は比喩としては使えるが、科学的な裏付けはない、といえます。一方、青い目の遺伝子は存在する。物質として存在しています。これは決定的な違いである、と科学者は言います。

科学者の立場からいえば、まず職人といっても、それは物質として何を指しているのかはっきりしない。青い目はそれに対して、物質として何を指しているのかはっきりしている。青い目という物質現象は、メラニンに乏しい虹彩が個体発生として発現することですね。さらに、遺伝子という場合、科学的には、遺伝子型の物質現象としてDNAの核塩基配列四文字によるコードが書き出せなければならない。職人というカテゴリーの生物学的意味がある表現型が仮に定義できたとしても、その遺伝子型であるDNAの核塩基四文字による配列コードを決定できない限り、それが遺伝子として物質的に同定できたとはいえません。青い目に関しては、それができています。

Banner_01

コメント

文献