哲学の科学

science of philosophy

身体の内側を語る(3)

2014-09-28 | xxxx1身体の内側を語る

 

私の内側というのは心の状態だ、と言いたい。しかし心はどこにあるのか? 現代人は、心は脳にある、と言いますが、昔の人は、心は心臓にある、と思っていました。だから心の臓といい、ハートという。あるいは古代人は、内的な感情や思いは神様が吹き込んでいる、と思いました。あるいは、空気の影響であるとか、気のせいである、とか考えていたようです。

 

私の心は雲の中にある、などと唱えれば、クラウドコンピューターシステムのようですね。実際、私の心は雲の上のUFOの中に置かれていてそこから電波でこの脳を遠隔操縦しているのだ、という奇妙な世界観を唱えている人もいます。ばかげていますね。

 

閑話休題、クラウドシステムはさておき、ふつう人間は自分の内的経験は脳など身体内部器官の働きだろうと感じているでしょう。しかしその根拠を直感で自覚することはできない。拙稿本章の興味はここにある。

 

私の内側は暗黒大陸のようである。いや、暗黒が存在するのかどうかも分からない。もしかしたら、何もない虚無なのではないだろうか?

 

 

 

私は、私の頭皮の下に、頭蓋骨の内部に、私の感覚、感情、私の思い、そして私の経験と知識が詰め込まれていると思っている。しかしそれは間違いであるかもしれない。私の頭皮と頭蓋骨の中には脳があり、血管がある。それらは細胞でできた単なる物質でしかない。蛋白質分子の結合組織です。そこにあるものは、そこ以外の場所のどこにでもあるような原子分子からなる単なる物質でしかない。私の感覚、感情、私の思い、そして私の経験と知識は単に物質ではないだろう。物質ではないとすれば、それらは私の身体の内側にはない。そうであるとすれば、私の皮膚の内側、身体の内側は、私自身には何も感じられないことから、私にとって虚無でしかありません。

 

 

 

私の皮膚の下につまっているものはダークマターである。暗黒の虚無である。他人の身体の内部ならば私にはよくわかる。筋肉や血管や内蔵や神経がつまっている。それらはタンパク質の分子が規則正しく結合したものです。それらの分子は水素や炭素や酸素や窒素などそこら中にあるありふれた原子が組み合わされたものです。他人から見れば、私の身体の内部もまったく同じようなものであることが分かるでしょう。

 

しかし私自身から見れば私の身体の内部は見えない。想像できるだけです。感覚では感知できない。つねったりすると痛いと感じるけれども、どこがどうなって痛いのかもさっぱり分からない。MRIで撮影すれば器官の断面のようなものが見えるけれども、他人の身体のMRIと同じようなものにしか見えない。直感でこれが私の身体だ、と感じることはできません。

 

このように私たちは自分の身体の内部はよく分かりません。それなのに私たちは自分の身体の内部をよく分かっていると思っています。特に、自分の気持ちは自分が一番よく知っていると思っている(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちが分かるのか?」)。それはなぜなのか?

 

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身体の内側を語る(2)

2014-09-20 | xxxx1身体の内側を語る

 

結局、私たち生きている人間は、目に見える自分の皮膚の下に何があるのか、自身の感覚では認識することはできない、と言うしかありません。私たちは他人の身体の内側ならば、解剖したりすれば見ることもできる。しかし、自分の身体を解剖して観察することはできませんから自分の内側を自分の感覚で知ることはできない。

 

私たち人間は、自分自身に関しては、内部が空洞の石膏像のように、薄い外皮だけで出来ているようなものです。私たちは自分の皮膚の内側を知ることができない。感覚にだけ正直に語るとすれば、私たちの内側は暗黒、あるいは虚無です。

 

 

 

本当にそうなのか?人間は自分の内側を知ることができないのか、それともできるのか、というテーマについて拙稿本章では少しくわしく調べてみることにしましょう。

 

この話は、私の心は私が一番よく知っている、という言い方の問題とよく似ています。拙稿の見解(拙稿21章「私はなぜ自分の気持ちがわかるのか?」)によれば、これは間違いである。私は他人の心が分かる以上に自分の心を理解することはできません。これと同じように、私たち人間は、自分の身体の内側をうまく語ることはできない。つまり自分の感覚で感知することはできません。

 

 

 

私は私の内側を知らない。そういうと、そんなはずはない、私は自分の内側をよく知っている、むしろ外側よりも内側のほうをずっとよく知っている、という反論がありそうです。

 

私は自分の腹具合をよく知っている。空腹の時は腹がぺちゃんこになるような感覚が分かる。怖い時は心臓がドキドキして胸から飛び出しそうなのが分かります。懐具合が心配な時は身体の中を風が通り抜ける。焦ったときは頭の中が真っ白になる。私はいつも私の内側がどうなっているか、よく知っている、という人は多い。

 

私がいま何を感じているか、私は知っている。私がいま何を考えているか、私は知っている。私が何を知っているか、私は知っている。と、私たちは思っています。それらは私の内側のことである。私の身体の内部で起こっていることである、と私たちは思っています。

 

身体の内部のどの部分がどういう状態になって、私が感じるのか、私が考えるのか、私が知っているのか、そこはよくは分からないけれどもそれらは私の内側のことだということは間違いない、と思えます。科学の知識によればそれは脳のそれぞれの部署で神経細胞のネットワークが活動していることであろう、と思われます。しかしそういうことは、私たち自身ではもちろん、自覚できません。直感でもよく分からない。

 

 

 

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身体の内側を語る(1)

2014-09-14 | xxxx1身体の内側を語る

(41 身体の内側を語る begin

 

 

 

41 身体の内側を語る

 

 

 

今の高校でもあるのでしょうか?筆者など昔の高校生は美術の実習で石膏像のデッサンをさせられました。ギリシア・ローマの彫刻のコピーだったのでしょうが、白い石膏の人体を何人かで持ち上げて移動したりしました。

 

意外と軽い。内部が空洞だからです。メス型に石膏を流し込んでコピーを作るとき、なるべく材料を少なく使う製法が取られるのでしょう。薄い外壁の形を支える網のような支持材が入っているらしい。

 

石膏の外壁というより、人体の形ですから厚めの皮膚とも言えますね。最近の技術ではエポキシレジンなど樹脂で薄く作るのでしょうか?そうなると皮膚の厚さで形が保てるのでしょう。着色技術もエキスパートがすると、非常にリアルにできるようです。現代美術では抽象画と逆のハイパーリアルアートと称するジャンルが人気だとのことです。

 

アーティストの技術が極限に達すれば生身の人体と見分けられないリアルな外見の人体像を作ることができるようです。これらの人体像というか人形、と生身の人体とはどう違うか?拙稿本章ではここに興味を集中してみましょう。

 

生きているか生きていないか、といえば全然違いますが、あくまで瞬間の外観ということに限れば、基本的には仕上げがどこまでリアルかという技術的問題が残るだけと思われます。簡単にいって区別できない程度の技術が実際にある。

 

外観は区別がつかない。ただし皮膚の一ミリ下はぜんぜん違います。塗料で仕上げてあれば百分の1ミリ内部はもうまったくちがう色合いでしょう。外見は全く違わない。身体の内部だけの違いです。

 

私たち本物の人体は、中身がある。私の皮膚の下には筋肉や骨や内蔵があります。神経や脳もあるはずです。

 

そうですか?本当ですか?と聞かれたら、何をばかなことを聞くのだ、と思いますね。解剖してみれば分かるでしょう。切れば血が出る。切られるのは嫌だが、MRIで身体の内部を撮影してご覧にいれることはできますよ。

 

まあ、皮膚を指で押して見るくらいでも、身体の中に筋肉や骨が入っているのは分かる。脳は、と聞かれると頭蓋骨は固くて押しても中身は分かりません。重そうだからずっしりしたものが入っているのではないかな、と思うだけです。胸や腹も深いところはよく分からない、というのが正直な答えでしょう。

 

 

 

 

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逃げない人々(6)

2014-09-06 | xxxx逃げない人々

そうであって、結局は動こうとしない。怠惰という範疇に入る人もいるでしょう。無気力とか、臆病とかネガティブな言葉で叱られる場面も多そうです。逆に褒められる場合は、よく我慢した、だとか、度胸が座っている、とか言われる場面です。状況によって叱られたり褒められたりする。しかし、ここで考えているような迷いもなく逃げない姿勢を取る人々は、たぶん、叱られるとか褒められるとかいうような人の評判をあまり問題にしていないはずです。人にどう思われるかではなく自分が納得すればそれでよい、とするところがある。拙稿としてはそういう人々に興味がある。

人の評価を無視する、という点では怠惰な人と言えます。たしかに中年あるいは老人に多そうです。しかし一日中寝そべっているような人ばかりではない。日常的には職業や家事をきちんとこなす人が、突然、逃げなければならない状況に遭遇した場合、逃げない。そういう人々がいます。

逃げるのが得意な人とそうでない人がいるのかもしれません。生まれてから一度も一人だけで逃げるという行動をしたことがない人は、いざという時にどうしていいか分からずに固まってしまうのかもしれません。逆に、いつも一人だけ逃げてばかりいる人はいざとなればさっさと逃げるでしょう。

そういうものであるとしても、極端に怠惰ということでもない人が逃げない場合、なぜか、と疑問のような思いが残ります。逃げる気にならない。そういう気になれない。このままここを動かなくてよいのではないか、という気になるということでしょう。

想定される危険はかなり確実と思われる。それでもそれは想定でしかない。顔に向かって黒い大きなものが飛んでくれば人はそれを避けるでしょう。そうでない場合、こちらに向かって襲ってくるものが想像でしかない場合、目前には見えない場合、人は逃げないことがある。逃げる気がしないことがある。

目に見えない、音も聞こえない、想像でしかない、そういうものは感じなくても良い、という気もする。そういう気がしているとき、人は逃げないでしょう。逃げることはかえって危ない気さえする。そして逃げない理由を考えてしまう。そう思うことがあります。特に老人はそういうことがありそうです。

このままでよい。今までいつもこのままだったから、今もこのままでよい、と思ったりするのでしょう。

身体の深いところでそう感じてしまうと、周りの人がよほど強く呼びかけない限り、人は逃げない場合がありそうです。

第三者が逃げない人々について考える場合、とにかく命を大事にしろ、と言いたくなるでしょう。あるいは哲学者が言う場合、いやただ生きるのではなくよく生きることのほうが大事だ、と言ったりする。しかし拙稿の見解では、そういうことは、逃げるか逃げないかのとっさの状況で当事者の感じていることと少し違う。身体を動かす気がしない、というところから来ている、それがまずある、と考えます。

そこから、逃げる人と逃げない人の運命が違ってくるのでしょう。

筆者ですか?筆者は逃げるのは得意です。二十何年か前ですがイギリス南海岸の保養地で国際学会の最終日に二百年来という大嵐に遭いました。大木がなぎ倒され、列車は全面ストップ。同行していた妻と当時小学生だった娘を連れてどうやってロンドンに帰ろうか?レンタカーはひとつもないという。各国の学会仲間は諦めてホテルの滞在を延長しています。筆者は顔を覚えていたホテルのボーイに十ポンド札を握らせながら相談しました。不思議、レンタカーが一台だけ残っているというではありませんか。三割くらい料金は高かったけれどそれを運転して、倒れた大木を避けながら無事にロンドンに着きました。■

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