哲学の科学

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マンガは言語なのか(4)

2018-01-27 | yy61マンガは言語なのか


身体に取り込まれる情報の速度が違うからかもしれません。文字を読んでいると情報速度は、たかだか毎秒数キロビットの単位でしょう。マンガの場合は画像がありますからその数百倍の速度で情報が身体に入ってきます。情報速度が少ないと脳に余裕ができるので、余計なことを考えやすい。読書している自分の姿などを想像してしまいます。
そういうことがまずないマンガは、雑音が入らない、まさに純粋な快楽。ページをめくる時間が早いからか?自分の好きなスピードを出せる。
あるいは、自意識のない子供のころから読んでいた影響でしょうか?子供時代は、やめろと言われても隠れて読む、というほどの魅力がマンガにはありました。
言葉が聞こえてくると耳が、自然に、その音を追ってしまう。言語の吸引力というべき力です。マンガもそれを持っています。ページを開けたとたんに吸い込まれる。ページの終わりまで一瞬に見てしまう。次のページをめくりたくなる。
魅力というか、引力です。これはどこから来るのか?
マンガ独特の線描、コマ割り、運動描写、擬音表記(オノマトペという)、キャスティング、ドラマツルギー、どれが魅力の源泉なのか?どこかにそのヒントがあるはずでしょう。

人がいれば、その人が語る物語を期待する。人がいなくても、いずれ人が現れて物語を語ることを期待する。そのように私たちの身体ができているのでしょう。物語はそれがあることによって、世界を現してくれる。むしろ世界というものは、私たち人間にとって、物語によって現されるものである、といえます。(拙稿44章「物語はなぜあるのか」)







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マンガは言語なのか(3)

2018-01-20 | yy61マンガは言語なのか


マンガにおいては、ウサギであろうとも、自動車であろうとも、簡単に擬人化される。逆に、擬人化されなければマンガのキャラクターにはなれません。物事が言語化されるとき必ず擬人化される(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか」)ことと同じ理由です。
マンガは言語と同じように、意味が共有され、文法に従って組み立てられ、受け手に共鳴を起こします。そのようにマンガと言語の類似点は多い。二つの表現法は似ている、ということはいえるでしょう。
マンガにはなさそうな言語の顕著な特徴は、少数の文字の順列で表現されること、文字列が表すもの(signifiant)と表わされる事物(signifié)との関係は恣意的であること、などです。しかし、ある漫画家のマンガ全体を言語のひとつの方言とみれば、その表現は数千あるいは数万くらいの表現要素の組み合わせで作られている、ということができます。
漢字の数よりは少ないくらいでしょう。実際、マンガの技術教科書などでは見下し顔、懇願顔などそれぞれ数十種にも分類され、概念化されて目口眉それぞれのデフォルメ描画法が呈示されています。

では、マンガは言語なのか?
言語ではありません。厳密にカテゴライズする立場からすれば、言語以外のものは言語ではない、と言うべきでしょう。しかし、どうも似ている、と言いたくなる。
マンガは、私たちに語りかけてくる。それを聞き取ることが心地よい。私たちは純粋な観客である。だれにもわずらわされない。
文字で書かれた作品、雑誌や小説など読むことも快楽となり得ますが、しばしば読んでいる自分の姿が意識されてしまいます。






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マンガは言語なのか(2)

2018-01-13 | yy61マンガは言語なのか


歌舞伎などもそうですね。役者を見に行く。スポーツ観戦もそうかもしれない。
毎週のように繰り返します。読者、視聴者、観客が飽きないかぎり同じパターンを繰り返す。ビジネスになっています。

市民は何を必要としているか?パンとサーカス(panum et circensus)といわれます。古代ローマでサーカスというのはコロッセウムでの剣闘士の試合でした。アリーナの中で行われる虚構の死闘。それを日常世界にいる市民である観客が見ている。スポーツやドラマなどテレビ画面に映る映像を見ている私たちに似ているのではないでしょうか?
何万人、何十万人が毎回同じパターンの映像を見ている。毎回まったく同じということはない。少しずつ違う新しいイベントが入る。仲間と共通の話題になります。同一の虚構を共有している、といえます。
マンガも似ています。毎週発売される。連載漫画。それがテレビアニメにもなる。ますます虚構の世界に浸ることができる。
仲間と共有する虚構。物語、おとぎ話がそうです。
チョッキのポケットから懐中時計を取り出すウサギなんて現実にいるはずがありません。しかし、お話がそうなっているとそれはすぐに共有できる。
一緒にお話を聞いている友達と同じものを想像することができます。言葉で聞いただけでもそれはできますが、挿絵があると完璧です。マンガでもよい。
マンガのほうがよいかもしれません。作者の感性がそのまま感じられる。身体の緊張感がゼロです。マンガだから見ているだけでよい。チョッキを着たウサギの姿に何の違和感もありません。それはマンガであるから、そうであるのが当たり前なのです。





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マンガは言語なのか(1)

2018-01-06 | yy61マンガは言語なのか

(61 マンガは言語なのか begin)




61 マンガは言語なのか?

マンガは物語の一種でしょう。というよりも、ドラマ。劇画といわれるように劇、映画の類。あるいは絵がついた本、絵本や挿絵小説、絵草紙のカテゴリーかもしれません。
最も現代的、最先端のカルチャーについて伝統的なカテゴライズを当てはめようとしても議論は当然、錯綜とすることになります。

テレビの幼児番組でする人形劇などはどうか?そのままマンガになりそうです。あるいは、たいていのマンガはこのような人形劇に変換できるのではないでしょうか?マンガはすぐアニメや映画(実写化という)にできます。逆はあまりされない。商業的な理由でしょう。

人形劇あるいは被り物劇、仮面劇など、は、一話で終わることはほとんどなく、連続番組になっていて毎日、毎週延々と続くものが多いようです。人形や仮面を作るコストを考えれば、当然繰り返し使用しなければならないのでしょう。同じキャラクターを繰り返し使う、という点でマンガも同じです。
マンガのキャラクターは線描で簡単に作り出せるのでコストはかかりません。毎回違う人物を描けばよいではないか、と思えます。
しかし実際そういうことはされません。マンガのキャラクターは初回に印象深く登場した後、毎週あるいは毎回、繰り返し登場し、ストーリーを展開する。使いまわされる、といえます。制作のコストの問題ではなさそうです。

読者がそれを求めているのではないでしょうか?
俳優、スターのファンになるように、マンガの読者はキャラクターのファンになってそれ(彼あるいは彼女)の登場する物語を聞きたい(見たい)と思うのではないか?












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