哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ言葉が分かるのか(16)

2008-09-27 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

集団的運動共鳴と拙稿が名づけた脳内現象は、現時点では残念ながら、神経生理現象としては同定されていません。拙稿の見解では、集団的運動共鳴は群棲霊長類の群行動から発展した。動物あるいは人間の群行動の研究は、動物行動学社会生物学進化心理学などで理論的に研究されている。また、実用目的で、群集行動、経済行動、魚群探知、協調行動ロボット、などの研究がある。いずれも独立した(自己保存などの)目的を追求する個体が自律的に行動する結果、集団として顕著な群行動現象が起こる現象を扱っている。これらの研究は、個体を単位とする集団のメカニズムを対象としていて、ミクロな神経回路のレベルでの研究はなされていません。これは、脳内神経現象を精密に測定する技術がまだまだ未熟で、神経回路の作動を物質現象として観測できないからです。いわば、DNAを知らずに研究していた二十世紀前半ころの生物学にあたるのが、現代の脳神経科学、というところですね。

脳内神経回路の働きに関して、神経細胞間の連結構造(神経ネットワークという。一九四九年 ドナルド・ヘッブ『行動の組織化』既出が決定的に重要であることは、この半世紀の脳神経科学の発展によって明らかになっています。しかし、認知、記憶,想起、などマクロな認知現象と神経ネットワークのミクロな作動による表現との対応は、残念ながら、いまだに明らかになっていません。物質現象としての運動共鳴の解明は、(かなり先の時代になるであろう)次世代の(ポストヘッブ?)脳科学パラダイムの出現を待つしかないでしょう。

 ちなみに最近の神経科学における興味深いテーマとして、神経細胞膜電位の脱分極(発火)の時間変化が認知と深い関係にあるらしいという予想(一九九九年 マイケル・デンハム『学習と記憶の動的過程:神経科学からの知見』)が提唱されている。このような予想が正しいとすれば、拙稿のいう集団的運動共鳴が、視覚聴覚信号の処理による他者の運動認知の表現と体性運動感覚信号の処理による自分の運動制御の表現と、それぞれを表現する神経細胞群の発火の時間的空間的干渉あるいは(周波数その他の発火頻度を媒介とする)制御系共鳴を下敷きにしている、と予想したくなります。

あるいは、単に、集団的運動共鳴は通常の運動制御とまったく同じ神経回路が使われているのかもしれない。このあたりの脳内メカニズムをぜひ知りたいと思いますが、現状の脳活動計測技術は、こういうレベルの現象の検知には、精度がまったく足りない。通常の運動制御メカニズムでさえも、神経ネットワークのミクロな作動のレベルで解明されてはいない。したがって、現時点では運動共鳴などさらに高次の機構に関する仮説は検証の仕様がない。ということで、まあ、こんなことを言ってみたところで筆者の個人的楽しみというだけのことです。

閑話休題、言語問題に戻る。さて、日本語で「リンゴ」と言ったとき、日本語が分かる話し手と日本語が分かる聞き手の脳の状態が、部分的にですが、同じになるはずです。ここで、こういう場合に脳の状態が同じになるということは、物質的にはどうなっているということなのか? まず、それが問題ですが、実は、そこのところは現状の科学ではよく分かっていません。

話し手と聞き手と、二人の脳の内部が細胞単位で目に見えて、しかも二台の同型コンピュータのように、神経ネットワークのつながり方がまったく同じであって、それぞれの神経ネットワークの内部状態が対応できる、とすれば簡単ですが、そうではないようです。脳内では、どうも、密生する多数の神経細胞の個々の活動状態から、多数決とか、合計値ベクトルとか、株価のようなもので決まる、特定の集団的内部状態が、特定の語、たとえば「リンゴ」という言葉のイメージを表しているらしい。「リンゴ」という語の話し手と聞き手で同じになる脳の状態というのは、これにあたるでしょう。そうだとすると、脳のそういう内部状態というものは、コンピュータ理論でいう内部状態というようなしっかりした定義には当てはめられない。デジタルな数値で表されるようなものというよりも、微妙な印象とか、色合いとか、味わいとかいうような感じでしょうか? 

いずれにせよ、そういう話も、科学の現状では、たぶんそうであるらしい、というくらいで、はっきり分からない、らしい。現在、世界中の脳神経科学者たちは、これを解明するために懸命な研究を続けていますが、むずかしい。現在あるものよりも、桁違いに精度のよい測定装置が必要だからです。望遠鏡で火星を観察していても岩石の模様は分からない。火星着陸船が必要です。

将来は、神経細胞がネットワークとしてつながる連結部の変化を見分けられるような精密な測定ができる技術が開発されるでしょう。しかし現在の技術では、ネットワークのつながり方が分からない単発の神経細胞の活動電位、あるいは多数の神経細胞集団の統計的な活動が大雑把に観察できるだけです。理論的には、言葉に特有の神経ネットワーク(の集合)が特定の内部状態を持つと想定できますが、その具体的な構造は分からない。もちろん、残念ながら、「リンゴ」という語に対応する神経ネットワークがどれなのか、どういう内部状態を持つのか、それは人によってどの程度違うのか、どこが共通なのか、そういう問題の答はまったく分かっていません。

今している話では、とりあえず、話し手と聞き手の二人の脳のその部分の内部状態を交換してもそれによる変化は起きない、という場合に、それらは同じ状態である、ということにしましょう。交換可能なその内部状態は、実際のリンゴを見たときの経験と、深く関係する脳の状態です。実際のリンゴを見たときの脳の状態(身体運動‐感覚受容シミュレーション)を思い出す、という場合の脳の内部状態です。「リンゴ」という語は、話し手と聞き手の双方の脳をそういう同じような状態に持っていく信号になっているはずですね。リンゴに関する共通の経験、というのは、そういうことでしょう。

この仕組みで、「リンゴ」という語は、話し手と聞き手のどちらにとっても、実際のリンゴの経験に対応がつく。この仕組みがうまく働くためには、話し手と聞き手が、リンゴに関して似たような経験を持っている必要がある。話し手がリンゴをリンゴだと思っているのに、聞き手がナシをリンゴだと思っているとすると、会話はつながりません。

日本語の使い手は、だれもが、本物のリンゴをよく知っていて、その本物のリンゴを本物のリンゴだと思っているから、日本語が使える。つまり、日本人はだれもが、脳の中に、本物のリンゴに関する共通の経験を思い出せるような、「リンゴ」という日本語にぴったり対応するリンゴらしさ、リンゴのイメージ、を表現する身体運動‐感覚受容シミュレーションを持っている、といえる。

ちなみに、拙稿でいう身体運動‐感覚受容シミュレーションが、脳神経系において、どのような物質現象として表現されているかについては、残念ながら、現在の脳神経科学の知識では、はっきり分かりません。一般に、学習と記憶という現象は、先に述べた神経ネットワークの連結構造の可塑性(連結部の物質変化)として物質的に表現されているという予想が神経科学者の間では主流になっています。この予想が正しいとすれば、身体運動‐感覚受容シミュレーションも学習と記憶によって脳内に形成されるので、同じように神経ネットワークの連結構造の可塑性(たぶん冗長性が非常に高い多数のネットワークの統計的特性値)として表現されているのでしょう。

いずれにせよ、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりした経験から学習された、リンゴに関する身体運動‐感覚受容シミュレーションは、記憶として脳内に保存される。別の機会に、別のリンゴを見たり、食べたり、思い出したりするときに、そのシミュレーションが記憶から呼び出される。呼び出されたそのシミュレーションは、私たちの筋肉や唾液腺を動かしたり、あるいは動かさずに、脳内で、それらへの運動指令信号の準備だけをしたり、イメージを浮かべたり、関連する物事を連想させたり、する。

私たちが言葉を覚え始める幼児のころに、リンゴという果物を見たり触ったり食べたりするとき、ふつう、その経験を仲間の人間と共有する。自分ひとりだけでリンゴを見たり触ったり食べたりするが、自分以外の他人がリンゴを見たり触ったり食べたりするところを見たことがない、という人は、まずいないでしょう? 幼児が、その物質をリンゴだと思うようになるときは、必ずママとかだれかが一緒にいて、リンゴを一緒に見たり触ったり食べたりしていたはずです。つまり、リンゴに関する経験の身体運動‐感覚受容シミュレーションは、ふつう、人間仲間と、集団的に、リンゴについての運動共鳴を起こす経験を含んでいる。こういう場合には、(拙稿の見解では)言語が形成される条件が整っている。実際、そうして幼児の脳内にリンゴに関する集団的運動共鳴のシミュレーションが作られた後で、ママなど周りの人間がリンゴを一緒に見たり触ったり食べたりするその運動に伴って頻繁に発声する音声「り・ん・ご」が条件反射として連結して、「リンゴ」という語ができる。

言語は、(拙稿の見解では)このように集団的運動共鳴が起こった身体運動‐感覚受容シミュレーションに恣意的な音節列記号が連結することで作られる。「リンゴ」という語は、実際のリンゴに関する経験から学習された身体運動‐感覚受容シミュレーションに、音声発音運動の学習により条件反射として結びついた「り・ん・ご」という音節列が組み合わされた神経ネットワークの内部状態(連結部の可塑性)として脳内に記憶されている。「リンゴ」という発音を聞いたとき、あるいは字を読んだとき、私たちの脳内では、その神経ネットワークの連結構造を、学習時とは逆方向にたぐって引き出されるリンゴの身体運動‐感覚受容シミュレーションが浮かび上がる。そのとき、私たちの身体は、自動的に(条件反射として)、リンゴの形や色のイメージを思い浮かべたり、リンゴを食べたくなったりする。

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私はなぜ言葉が分かるのか(15)

2008-09-20 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

話というものは、不正確だからいけない、というものではありません。新聞やインターネットなど、速ければいい、という面がある。多少不正確でもよい場合も多い。むしろ不正確なほうがよい、という場合さえあります。しかし、哲学の話などは、不正確で分かりにくいとまずい。分かりにくいということが分かる場合はまだよい。分かりにくいということが分からないで、逆に分かりやすいと誤解する場合など、かなり困ったことになります。うっかり分かってしまってはいけない。それなのに、分かってはいけないということが分からないから困るわけです。

不正確な言葉を使って分かりにくい会話や議論をする場合、あるいは書く場合、特に抽象的な書き言葉を使う場合、言葉は目の前の物質現象や単純な感情に頼るわけにいきません。正確な伝達をしたいのであれば、別のものに頼るしかない。たとえば、数学は、論理計算のルールを作ることで物質や感覚、感情と関係なく自己完結することに成功した。現代の哲学の一部も、数学をまねて、論理だけで自己完結することに目標を置いて成功したものがある。しかし抽象語の操作に終始するこういう自己完結型の言語は、脳内の神経活動のごく一部しか表現できない。感情とか人情とか心とか、人間が大事だと感じるものを表わすことができません。

論理的に自己完結する言葉は、数学などのように厳密に設計されたものしかない。それらは、私たちが一番大事だと思っている感情や心を表すことができない。感情や心を表すことができるものは、私たちが毎日使っている直感によるふつうの言葉です。これらは、逆に、数学や科学を正確に表すことができない。ふつうの言葉は、世間話のような軽い話題ならば正確に伝えられるが、哲学のようなものを語ろうとすると無理です。私たちの直感は、身の回りの物事を身体で感じる。しかし、身体で感じたことを、そのまま、ふつうの言葉で語っても、自然の法則を正確に伝えられない。抽象的な数学と科学の言葉を使ってはじめて、私たちは自然を正確に表現し、互いに共有できる。

人間も、他の哺乳動物と同じように、その神経活動は、五感や筋肉運動などを介して目の前の物質に関係する活動が多い。同時に自律神経系や体性感覚神経系のように体内の筋肉や分泌腺、内臓、血管などの活動を媒介する感情に関係する活動が多い。したがって、目の前の物質や今起こっている物事に反応する感情を表わす言葉は、私たちには分かりやすく、だれもが共感することができる。言葉として、だれにでも、間違いなく伝わる。

それ以外の目に見えない、物質や身体や感情にあまり関わらない抽象的な言葉遣いは、むずかしい。ふつうの人には、すぐには理解できない。そういう表現を使いこなしたいという意欲が強く、かつ毎日のようにそういう表現に慣れ親しんでいる専門家や、趣味のグループの人々にしか、理解されない。宗教や教育などによって、長い時間をかけて社会に浸透していけば、むずかしい抽象語も広く使われるようにはなる。あるいは、現代であれば、学校やマスコミを通じて頻繁に繰り返して人々に教え込めば、抽象表現も流行語になり、感性で分かるようになる。それらは短い時間で広まり、一般に伝わるようにはなる。しかし、それによって、何が伝わっているのか、実は、だれにもよく分からない。錯覚はそうして作られ、広く伝わっていく。

 抽象的なものや、目に見えないものを表現する言葉は、しばしば、そうして作られる。

 現代の哲学は、数学などと同様に、目の前の物質に関与しない抽象表現を好む。かつて、哲学は、自然哲学を展開して物質について論じた。ところが、自然科学が哲学から分離し、物質に関する知識が大発展すればするほど、哲学は物質から離れていく傾向を見せる。

 哲学は、物質の知識に巻き込まれないように、言語の使い方を厳密に制限することで隙のない理論を作ろうとします。言語知識だけで成果を上げられそうなところを求めていく。論理が自明な、弱みのない理論を書いていく。論理的な言語操作だけで勝負しやすいところに集中してしまう。その結果、哲学の議論は、狭い趣味のサークルで作られる仲間言葉(ジャーゴン)のような言葉遣いに似てきます。そうなると、ふつうの人間にとっては、近づきがたくなる。そういう現代の哲学は、私たちの毎日の暮らしには役に立ちそうにありません。

 昔の哲学者が考え出した難解な哲学語を語ることよりも、もっと身近なことで、もっと哲学を必要としていることがある。世間話やビジネスや科学に使われている分かりやすい言葉は、なぜ分かりやすいのか? なぜそれらが分かりやすいのかは、必ずしも分かりやすくはない。それらの分かりやすい言葉が人間の脳という物質現象として現れてくることを、どのように考えればよいのか? 哲学が、今なすべきことは、またまた新しい抽象語を作って分かりにくい観念をますます分かりにくく表現することではないでしょう。まして、昔の哲学者が苦吟して作り上げた難解な哲学語をさらにむずかしく解釈することでもない。むしろ、世間話やビジネスや科学に使われているような分かりやすい言葉を使って、分かりやすいものどうしの関係がなぜ分かりやすく説明できないのか、それを語ってみることが重要でしょう。科学がここまで発達した現代において、その成果を利用できるチャンスを、哲学は、ぜひ生かすべきではないでしょうか?

「今日は暑いですね」というとき、その言葉と話し手の脳の神経回路が発生している電気信号との対応はどう考えればよいのか? それは、屋外のかんかん照りの路上で立ち話するときでも、屋内のエアコンで涼しい部屋に座って会話するときとでも、同じ意味になっているはずです。でも、かんかん照りで汗だくになっているときの私たちの脳の状態と、「暑い」という言葉とは関係がある。

皆が「暑い、暑い」といいながら、汗をだらだら流して、服をはだけてウチワを使っている。もちろん、自分も暑い。そういうとき、暑さを少しでも和らげたい、という気持ちが、皆の間で共有されている、と感じる。袖をまくりあげて自分を扇いでいる人を見ると、無意識に同じ事をしてしまう。暑さを和らげようとする運動が共鳴している、といえる。これは人間集団の中で起こる運動共鳴です。皆が暑いときの運動共鳴が、脳内で身体運動‐感覚受容シミュレーションを形成している。このシミュレーションは記憶され、(拙稿の見解では)「暑い」という言葉で、それが想起される。そういう仕組みで、言語は作られている。

同じ「暑い」という言葉を使う場面でも、場面の数だけ、少しずつ違う意味になる。しかし、それにもかかわらず、「暑い」という言葉には、共通の部分がある。それが「暑い」という言葉の中身、ということですね。それは、かんかん照りで汗だくになっているときの経験を思い出させる記号になっている。

幼児が「暑い」という言葉を覚えるとき、必ず、夏の暑い日に家族や友達と一緒に汗を流しながら「暑い、暑い」と言い合う経験が伴っている。ところが、子供が言葉に習熟してくると、汗をかいていないときにも「暑い」という言葉を使えるようになる。これは、スポーツや職人芸が習熟してくる場合のように、無意識で言葉だけを回転させる技が身についた、ということでしょう。「暑い」と言うべき、会話の適切な場面で、「暑い」という言葉が口をついてでてくる。脳内のこの機構はどういうものなのか? スポーツの習熟と同じなのか、どこか違うのか? 汗をかく自律神経系は、暑くないときはほとんど働いていない。身体が暑さを感じていないのに、私たちは、なぜ暑いという言葉が分かるのか?

過去に、ひどく暑いと感じたときの身体状態の痕跡が、(たぶん脳のどこかに)長い間、残っていて、「暑い」という言葉を使うときには、私たちはそれを無意識に思い出しているのでしょう。身体のメカニズムとしては、暑くて汗を流すとき、皮膚や体内の血流温度を視床下部が検知して、自律神経系を活動させ、皮膚の汗腺細胞が発汗するという生理学的な仕組みはよく分かっている。しかし、暑いから汗をかく、というこの身体生理活動を、私たちの脳がどう記憶していて、それをどのようにして言葉に対応させているのか、現代の科学でもよく分かっていない。

拙稿の見解を述べれば、その身体状態の痕跡は、暑苦しい体感とか、皮膚の熱感、汗のべとつき感などの皮膚感覚、扇ぐと気持ちよい、などの運動‐感覚の記憶などがセットになって、身体運動‐感覚受容シミュレーションとして脳内に保存されている。そのシミュレーションが仲間と一緒に動くことで感じる集団的運動共鳴として記憶されるとき、言葉に結びつく。「暑い」という言葉によって、私たちは、その経験に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションが呼び出されて、暑くてひどくつらい思いをしたときのことを思い出す。これはほとんど無意識で実行されるので、私たちはそれを思い出したことさえ覚えていない。ただ、「暑い」という言葉が分かる、と感じる。

その暑いという経験のシミュレーションは、仲間と一緒に感じる集団的運動共鳴であるとき、なぜ「暑い」という言葉に結びつくのか? 私たちはなぜ、暑いときに暑いと思うのか? なぜ、暑いときに「暑い」と言うのか? そして、暑くないときにも、「暑い」という言葉を使えるのか? こういう問題が、哲学、あるいは哲学の科学、にとって、まことに重要な問題だと(拙稿の見解では)思われます。

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私はなぜ言葉が分かるのか(14)

2008-09-13 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

ちなみに、このとき西洋語などでは動詞の人称変化がおこる。三人称の主語を受ける動詞は、英語の場合、Sがお尻につく三人称対応の形に変化する、などですね。日本語の述語は人称変化しない。拙稿の見解では、どの言語も人称変化がない時代を経ている。つまり、どの言語も、もともとは、人称というものはなかった。その後、人称が発明され、それが便利だったので、使われるようになった。西洋語などでは人称構造がよく発達して複雑な人称変化が定着し、日本語などではそういうものは発達しなかった。

この違いを社会や文化の違いと関連させて研究すると面白いと思いますが、言語進化の研究共通のむずかしさがある。過去の言語の変遷は文字資料が残っている千年あるいはせいぜい数千年までしかデータがない。世界各国語の大きな分岐時点は数万年前くらいですから、そのころ話されていた言語がどんなものだったか、知る方法が見つかっていない。

人称構造がはっきりしている西洋諸語(インドヨーロッパ語族)に比べて、(拙稿の見解では)そういうものがはっきりしていない言語、たとえば日本語、のほうが、人称変化が生まれる以前の言語の古い形態を保存しているとみますが、いかがでしょうか。人称代名詞や動詞の人称変化など人称構造は、話し手の自己中心世界からみた聞き手と第三者との関係の自己中心的方向性(ダイクシス)を示す。(話し手の自己中心的世界観については次章で詳論予定)。「私じゃなくて、君がそれをする」とか、「君じゃなくて彼がそれをする」とかいうことを気にしながら言葉を使おうとすると、人称構造が生まれる。話し手の自己中心世界の原点から聞き手、あるいは第三者の位置へ向かう視線方向を使って言語表現の差異を作ろうとすると、人称構造が現れる。

拙稿の見解では、言語はもともとは、集団的共鳴運動を表現することから始まった。原初の言語は、(拙稿の見解では)仲間の皆で何かをするとき、何をするのかを表現する。つまり、「だれが」、ということよりも、「何をするか」ということを表現するほうが重要だった。話し手と主語「だれが」との関係を示す人称構造は、一番重要なことではない。その後、言語がいくつもに分岐し、それぞれが発展する過程で人称構造ができてきたということではないでしょうか?

このような文法の進化に関して、多数の人々が使い込んでいるうちに、不規則性から規則性が進化してくる、つまり覚えやすい規則ができてくる、という興味深い理論が最近提唱されている(二〇〇七年 サイモン・カービ、マイク・ダウマン、トーマス・グリフィス『言語進化における生得性と文化』)。

主語で表される物事の(擬人化された)身体運動は、述語に対応する。(拙稿の見解では)その身体運動は、話し手がその物事に憑依することで話し手の運動形成回路の上に引き起こされる。その運動形成の信号は種々の筋肉緊張や自律神経系の反応(心臓血管、内臓の変化)を引き起こす。さらに、それら筋肉緊張などの身体変化が体性感覚にフィードバックすることで感情回路を駆動する。その感情変化によって、主語で表される物事の意図に起因する因果関係の存在感が生成される。これが、(拙稿の見解では)主語と述語を結ぶ因果関係の基底になっている。この因果関係を言語で表現するに際して、自己中心世界の原点(話し手)の視座からの視線方向を強調する便宜のために、西洋語などの人称変化規則ができたのでしょう。

いずれにせよ、言語は、複数の人間が、音節列による記号化を媒介として、脳神経活動の共鳴を確認することで、物事の変化について客観的な存在感を共有する仕組みです。逆に、この仕掛けによって、世界の物事は、それを感知することによって引き起こされる脳神経活動の共鳴を複数の人間が確認し合い、それに音声を対応させて言葉にすることで、はじめて客観的にしっかりとこの世界に存在できるようになる(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」)。

さて、話し手は、文法に従って「XXが○○をする」という形式で、主語と述語がそれと分かるように並べることで、世界のある部分への注目と擬人化を伝達します。物事をXXといい、その物事を擬人化してそれがする運動を○○という。それによって、聞き手の脳内に世界の構成とその変化の身体運動‐感覚受容シミュレーションを形成する。つまり、言語は、脳における注目と擬人化の運動形成過程の集団的共鳴現象を利用して、世界の構成と変化の捉え方を人から人へ伝播する。この方法は人間どうしが世界を共有して緻密な協力関係を構成するために役立つ。原始人の集団狩猟採集行動から始まって、私たちの世間話も商談も科学も哲学も小説も、現代社会全体を構成するすべての言語活動は、(拙稿の見解では)この仕組みで成り立っているわけです。

人間どうしが、目の前の物質現象について、互いに指差し、あるいは注目する視線を誘導しあって語り合うとき、この仕組みは間違いなく正確に働く。仲間の身体と物質現象との相互干渉を視覚や聴覚で感知できれば、その物質現象に対応する身体運動の共鳴を起こすことができるからです。実際、言葉を覚え始める生後十数ヶ月の幼児は、手全体を使って盛んに指差しをする。その指差し行動の八割以上は、ママを見上げたり(言葉になっていない)声をかけたりという対人行動を伴っている(一九九九年 デイヴィッド・レヴェンス、ウィリアム・ホプキンス『全手指差し、比較見地からの指差し機能。手全体を突き出すこの指差しで目の前の物を指示する行動は、飼育された猿の多種に観察されることから、人類に限らない霊長類共通の神経機構に基盤を持つ行動だと思われる。

さて、私たち人間は、猿など他の動物と違って、目に見えない遠くの物質現象についても語ることができる。この場合、目の前にないものは注目したり指差したりはできないが、言葉を上手に使えば、それに関する仮想運動はかなり正確に伝わる。話し手は目に見えない物事を想像して、それに注目したり指差ししたりする仮想運動を脳内で形成し、それに対応する言葉を発する。聞き手の脳内では、聞いた言葉に共鳴する仮想運動としての注目や指差しが起こることで、目に見えない物質現象をうまく想像できる。こうして言葉を使うことで、だれもが、目の前にない物事についても、同じような経験を思い浮かべることができる。

世間話をするとき、人々は、話し手と聞き手とが共感できる(と双方が思える)単純な感覚、感情(いい天気ですね、とか)を、言葉で言い表すことで、お互いに同じ世界を感じている、と感じる。言語を通じて、お互いの注目と運動の神経活動を、脳から脳へ伝播する。つまり、目の前の物質現象に注目したり、互いに慣れた習慣的運動を繰り返したりすることで、言葉とそれによって伝播される脳内の神経活動とを、ほとんど直感だけを使って、かなり正確に対応させることに成功している。

科学者が科学の話をするとき、物質現象を言葉で言い表す。話し手と聞き手が協力して共通の物質世界の法則を理解し、共感して共通の言葉を使う。ただし、科学で使う言葉は、直感で通じるふつうの語彙ではない。人工的に設計された言葉の体系です。実験と観察によって実証できるように厳密に組み上げられている。特に現代物理学は、数学を共通の言葉とすることで、客観的な世界の存在感を確立した。現代科学では、化学は物理学を土台にし、生物学や地学や工学は、物理学と化学を土台として組み上げられている。したがって、現代の自然科学は一貫した世界認識を表現できる。現代科学によるその共通の世界認識を利用して、私たちは互いに協力し、物質現象を上手に操作して現代の技術文明を作り出すことに成功している。携帯電話や再生医療を見れば、現代科学が、物質の操作に関して正確に世界認識を共有できるシステムであることは明らかです。

世間話は直感に頼りきるのに対して、科学は直感を排して組み立てられる、という両極端です。しかし、言語が伝わりやすいと言う点では、両方とも分かりやすくできている。分かりきった物事を分かりきった言い方でつないでいく。そのため、話し手と聞き手が間違いなく共通の世界を共有できる。

ところが、私たちが毎日使っている言葉の中には、世間話や科学と違って、実際は非常に分かりにくい言葉が多い。特に、書き言葉に多い。新聞や雑誌や、本や、インターネットに書いてあるものは、しばしば分かりにくい。それらはかなり抽象的です。目で見たり手で触ったりできない。物質世界には手がかりがない。目に見えない。微妙な感情、心、などの内的感覚について、自明であるがごとく語っていく。そういう場合、話は急に不正確になる。何を言っているのか、分かりにくい話になっていく。ざっと聞くと簡単に分かりそうな印象を受ける。しかし、ある程度深くなってくると、急に、さっぱり分からなくなる。それが問題です。

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私はなぜ言葉が分かるのか(13)

2008-09-06 | x8私はなぜ言葉が分かるのか

さて、言語が私たちの間で共有される仕組みは、具体的にどのようなものなのか? 少し詳しく調べて見ましょう。

工学的に見た場合、人間の言語活動は、一種の情報伝達システムです。しかし、データ通信のように文字や数字自体を伝達するのではなくて、視覚と聴覚を通じて運動形成プロセスを、人から人へ伝播する。そうすることで、言語は、私たちにとって重要な情報の意味内容を圧縮して効率よく伝達できる。

目の前に馬がいないとき、馬という言葉が通じない外国人に、馬のことを伝えるにはどうすればよいか? 紙と鉛筆を準備して、上手に馬の絵を描けば、通じるでしょう。しかし、時間がかかる。それよりは、ジェスチャーで、手綱を握って馬にまたがって走る動作を見せれば、手っ取り早い。

そもそも、言葉を使わなくても、人間は、視覚聴覚で、他の人間の動作を観察することで、その動作を作り出すその人の内部状態を感知する。この現象を、二人の人間の間で内部の運動形成プロセスが伝播する、とみなすことができる。まず、その伝播の仕組みを詳しく見てみましょう。

二人の人間を考えて、A、B、と名をつける。Aの内部の運動形成回路がある運動信号を形成する、とする。その信号はAの神経細胞の電位変化パルスとなって運動神経経路に沿って遠心的に伝播し、目標筋肉の電位を変化させることで筋細胞の分子を収縮させて身体の変形や移動を起こす。Bは、Aの身体の変形と移動、その表情や視線の変化、あるいは手足指の屈伸、など身体の外形変化を見たりそれが発する音を聞いたりする。

Bは、Aの運動によりBの視覚、聴覚に発生して求心的に伝播する感覚信号を情報処理して、(拙稿の見解では)過去に学習した身体運動‐感覚受容シミュレーションを自動的に想起し、自分の運動形成回路を無意識のうちにそれに共鳴させる。その結果、Bの内部に、Aが実行した運動形成プロセスを真似てなぞったように組み立てられた身体運動‐感覚受容シミュレーションによる仮想運動の信号が発生する。この仮想運動は、Aが実行した運動形成プロセスのコピーといえるが、正確な複製ではない。相当量の情報は失われていて、その代わりに多くの雑音が加わっている。それでも、実用上、役に立つ程度のイメージとしては伝わっていく。

この仮想運動は、(拙稿の見解では)、脳内の神経活動だけで完結する場合は少なくて、身体全体の機構を巻き込む。つまり、シミュレーション形成を引き金として脳と身体末端との間で信号のやり取りが始まる。さらには、身体が接触する外部環境、たとえば、地面、建物など構造物、道具、風景、他人の姿、動作、音声、画像、文字、などなど、と情報をやり取りする。

脳におけるこれら仮想運動の形成は、自律神経系と身体運動系の神経活動による微弱な筋肉緊張(たとえば、手に汗を握るとか、むかつくとか、つばを飲み込むとか、鼻の穴を広げるとか、眉間にしわを寄せるとか、目が笑うとか、貧乏ゆすりをするとか)を引き起こすことで体性感覚にフィードバックされる結果、感情機構を駆動する。

自分の身体が反応することによる体性感覚の変化によって、BはAの運動形成過程の存在感を感知する。同時にBは、Aが不安、あるいは安心、あるいは、快、不快などを感じていることを感知する。Bの内部で、感情機構の反応はさらに、次の仮想運動シミュレーションを呼び出して次の感情反応を引き起こす。仮想運動と感情とのこのサイクルは回り続ける。このような神経活動により、Bの脳は、Aの脳がした活動を引きついで、それを擬似的に再生して経験する、といえる。

この現象は、AがBの運動の外見を、視覚聴覚で観察することで脳神経状態を表す情報がAの脳からBの脳に伝播した、とみなすことができる。実際は正確な運動のコピーは作れず、多くの錯誤も含んで変形したシミュレーション信号が作られるのですが、これを一応、運動信号の(仮想的な)伝播といってよいでしょう。私たちが、目と耳で見えて聞こえる相手の身体の変形と運動を知覚することだけで、この伝播は行われる。

たとえば、Aが腕を組むと、それを見ているBの頭の中で自分が腕を組む身体運動‐感覚受容シミュレーションが作られる、というような例です。Bの脳内には、このとき、腕を組むという仮想運動の形成に伴う体性感覚や自律神経系の反射を通じて感情機構の反応が発生する。この仕組みで、Bは、腕を組んだAの気分が理解できる。たとえば、Aが腕を組んで頭をそらした姿勢をとるのを見たBは、直感で「Aは、私に不信感を持っているらしい」と感じる。

ここまでは言語を使わない運動の伝播機構ですが、(拙稿の見解では)人間は言語を使う場合でも基本的にはこの機構を使っている。話し手の脳内で、言語は、その内容に対応する仮想運動(仮想の身体運動、憑依運動、注目運動など)の形成回路を使って形成される。聞き手の脳内で感知された言語は、自動的に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションを呼び出す。そのシミュレーションが、仮想の憑依運動や注目運動などを呼び出す。こうして、言葉に対応する仮想運動が話し手から聞き手へ伝播する。

人間Aが、実際には腕を組んでいない場合に、言葉を使って「腕を組みたい」と言うと、それを聞いた人間Bは自分の腕を組みたくなる、という例です。Aの脳内の仮想運動形成→言語形成→発音→Bの言語聴取→Bの脳内の運動形成→仮想運動→体性感覚フィードバック→感情機構、というルートで運動形成活動が他人に伝播する。話し手が「腕を組みたい」と言葉でいうと、聞き手の脳内で、言葉に対応した特定の(この場合、腕組運動の)身体運動‐感覚受容シミュレーションが呼び出されて、聞き手が腕を組みたい気分になる。歌を聞くと身体が踊りだしてしまうのと同じです。つまり、よくいわれるように、言語の意味を身体で理解する、ということです。

人類の言語現象について、安易に通信理論のアナロジーを使うと、本質を見誤る危険がある。気をつけなければならない点は、聞き手の脳内で言語が理解される過程です。これは通信理論でいうデコーディング(再生、解凍、暗号解読など)にあたるが、原型の情報が正確に復元されるデジタル通信のような可逆過程ではない。話し手が言葉を組み上げるきっかけとして作られた(原型の)仮想運動がそのまま聞き手の中で再生されことはない。

言語現象では、擬人化というフィルターを通った物事だけが伝えられていく。つまり、話し手の脳内に起こった仮想運動が、(拙稿の見解では)共鳴運動を引き起こして擬人化による物事への注目が起こる場合にだけ、その共鳴運動は言語化される。この場合、擬人化された物事は主語を引き起こし、その共鳴運動が述語を引き起こす。

こうして、主語述語の形式で物事の動きとその内的感情の集団的共鳴を表現する(擬人化による)仮想運動が、聞き手の脳内に新たに作り出される。主語述語の形式で聞き手に伝えられる言語表現は、聞き手の脳内で、物事のシミュレーションとその内的感情の仮想共鳴運動に変換される。聞き手の脳内で形成されるこの仮想運動は、集団共鳴による強い存在感を伴うので、はっきり意識に残り長期的に記憶される。

同時に、話し手も自分が発声した言葉の聞き手になるので、言葉を形成する仮想運動は、同様に話し手の意識にも残り記憶される。物事は口に出すことではっきりする、あるいは、明確な思考は言語でなされる、という私たちの経験は、(拙稿の見解では)ここから来ている。

このような過程を経て言葉は話されるので、はじめに話し手が言葉を組み立てる前に形成していた仮想運動は、言語という型にはめ込まれることで、制約された共鳴運動の組み合わせに変換されている。言葉が発声された後では、話し手も聞き手も、言語化された集団的共鳴運動を意識し記憶する。言語化以前に話し手が形成した原型の仮想運動は記憶されにくく、言語化された後の共鳴運動は記憶されやすい。

物事は口に出すことではっきりするが、そのとき、口に出せない部分は欠落していく。言語化される前に私たちが漠然と感じている、いわゆる形容しがたい感覚あるいは感情(原型の仮想運動)は、言葉を口にすることで消え去っていく。

正確な言葉には主語がついてきます。「くみちゃんが腕を組みたい」という言葉を聞くと、聞き手の脳内には、くみちゃんという人物に注目し憑依する仮想運動シミュレーションが呼び出される。話し手が注目しているものに聞き手の注意を導く役割の言葉が主語ですね。話し手は、指差しや顔向けや視線による指示によって、一緒に注目したい物事へ聞き手の注意を誘導する。そのとき、しばしば話し手は、同時に声を発して指示を強調する。こういう場合、物事のカテゴリーを音声で言い分けると、指示に便利です。このために、名詞が作られてきた。名詞の使い方が皆に共有されると、目の前にそのものがなくても、分るようになる。聞き手は、くみちゃんとはあの子のことか、と分る。

こうして言葉を使うときは、話し手はまず「XXが(くみちゃんが)」と名詞を叫んで、聞き手の注意を促す。これが主語としての名詞の使い方です。「XXに注目せよ(くみちゃんに注目せよ)」、あるいは「これから話し手の私はXX(くみちゃん)に憑依して述語を述べるから、聞き手のあなたはその述語に対応する身体運動‐感覚受容シミュレーションができるように準備せよ」という意味です。

次に「○○する(腕を組みたい)」という述語が来る。これは運動を表す。(拙稿の見解では)話し手は、群の集団運動と共鳴する脳の神経回路を働かせて、それに連結した音節列として述語を発声する。聞き手がこれを聞くと、集団運動に共鳴する運動形成神経系が活性化されて、無意識のうちに共鳴運動が起こる。つまり聞き手の中で、話し手が使っているのと同じ群行動を追従する場合に使う集団運動形成回路が自動的に活動する。こうして述語が伝わる。それから瞬時に主語と連携して文を作る。

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