哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ明日を語るのか(9)

2012-03-25 | xx8私はなぜ明日を語るのか

そもそも私たちは、なぜ忙しいのか? 

ふつう、明日あるいはこの数日の予定が多い人ほど今日も忙しい。当然、今日のうちに明日以降に備えて準備しなければならないからでしょう。現実に追われて、今すべきことを懸命にしているので忙しいのです。私たちは明日の自分を現実として身体で感じています。それだから今しなければならないことが現実として迫ってくるのでしょう。

そうであるとすれば、私たちは現在を生きる存在であるというよりも、明日を生きる存在である、ともいえます。逆にいえば明日がなければ私たちはない。「俺たちに明日はない」と本気で思っている人がいるとすれば、その人たちはふつうの人間ではない、ということですね。明日はないと思っている人たちがなぜ銀行強盗を働いてお金をためるのか?矛盾です。今日の欲望を満たすためだけの犯罪ならば銀行強盗よりも無銭飲食のほうが理屈に合っています。実際、人間以外の動物は無銭飲食はしますが銀行強盗はしません。

「俺たちに明日はない」という言葉は、分かりやすい。あの映画のタイトルにピッタリです。まあしかし比喩としては傑作ですが、本当に字句通りと受け取ると、あり得ない言葉です。明日を考えることのない人は(拙稿の見解では)物事の予測ができない。予測ができなければ人間の行動を言語で表せないので言葉を使いこなすことができません。言葉を理解できない人は、当然どんなセリフも言うことはありえないでしょう。

禅で日々之好日という。ラテン語の箴言でカルペディエム(carpe diem 一日を摘め)といいます。昔の賢人の言葉です。これはつまり、俺たちに明日はないと思って生きろ、という意味です。しかしどうでしょうか?こういう生き方は人間には不可能ですね。動物はできます。しかし私たち言葉を使う人間にはできない。人間は、人間以外の動物とここが違っています。

人間は言葉を使う。そもそも言葉を話すことは、仲間と物事の予測を共有することです。明日を思い描き、仲間とあるべき明日を予測することです。一人きりで考える場合でも同じことです。自分の中にいる仲間と語り合っている。

結局、人間の言語というものは、(拙稿の見解では)明日のために自分たちが今どうするか、を語る形になっている。

「××が○○をする」という人類共通の言語形式は、××はこれからのために○○をする、という背景の(コンテキストを)暗黙に前提としています(拙稿26章「『する』とは何か?」)。たとえば「俺たちに明日はない」という言葉を話した瞬間に、それだから俺たちは明日からどうしようか、という話を引き出してくる。そのために発される言葉であるという前提になっています。言葉というものは、どうしてもそうなってしまう構造になっています。したがってたとえ「日日之好日」という言葉であろうとも、これまた、それだから私たちは明日からどうしようか、という話に続くためになされているという構造を持っています。

つまり私たちは何を語ろうとも言葉を語る以上、必ず、それだから明日のために、あるいは今日これから、こうすべきだ、という話を仲間に語っているのです。これが(拙稿の見解では)人類の言語の基本的な構造です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

したがってそういうことであれば、私たちに明日はない、とか明日のことを思わない、とかいうことを言葉でいうこと自体、矛盾であるといわざるを得ません。

私たち人間にはだれにも明日がある。明日はいらない、必要ない、といっても明日はあってしまう。それは私たちが言葉を話す動物だからです。

私たち人類は身体の中に言語を作り出す機構を持っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。それは脳に備わった器官であるといえますがそれを使わずには人間は生きられません。マグロが泳ぎ続けないと窒息してしまう(ラム換水呼吸という)ように、人間は生きている限り言葉を使い続けるしかありません。その器官が私たちの前に明日というものを作り出す。モグラが巣穴の中だけで生きるように、自分の身体が作り出したその明日という現実感覚の中を私たちは生きていきます。

空がなくては鳥が生きていけないように、海がなくてはクジラが生きていけないように、明日がなくては人は生きていけません。仮に今日死ぬことが分かっていても、私たちは(人あるいは自分に)明日を語ることしかできないでしょう。

(28  私はなぜ明日を語るのか end)

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私はなぜ明日を語るのか(8)

2012-03-17 | xx8私はなぜ明日を語るのか

この問題に関して拙稿の見解では、人間は仲間の集団的視線で自分の姿を客観視できることから言語が発生した、と考えます拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。人間が、明日を語ることができるのも、また自分で自分の明日を想像することができるのも、どれも仲間の視線で自分の姿を外側から客観的に眺めることができるからでしょう。

逆にいえば、人類は、(拙稿の見解によれば)仲間の集団的視座を使うことで自分を客観的に見てとり、自分が感じ取る物事が客観的に存在することを確かめる仕組みを身体機構として脳の中に作り込むことで、自分自身を含めた客観的世界の変化を予測し物事をうまく操作できるような動物として進化した、といえます(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )。さらにこの能力が狩猟採集から農耕牧畜の生活形態を発展させ今日の科学文明に至る人類の発展を可能にしたともいえます。

たとえば科学者が実験あるいは観測によって物質変化を観察記録して科学理論を作る場合、前提となる基礎的な科学理論を真実と思いこみ、さらに観察した現象を真実と思いこむところから出発します。そのとき科学者である彼または彼女は、その基礎科学理論をなぜ真実と思いこむのでしょうか? それは、科学者の仲間のだれもが、あるいはだれもがではなくとも、少なくとも権威ある一群の科学者仲間がそれを真実だと思い込んでいることが明らかであると確信できる、という理由によります。つまり科学者の集団的視座によってその科学理論が真実であると認められるとき、それは真実となるわけです。このことは(拙稿の見解では)、百年前ごろの(論理実証主義 )哲学者たちによって盛んに議論された「科学にとって真実は何か」という問題に対する現代的な答えのひとつといえます。

科学者仲間での冗談として「科学的真実とはネイチャー に載ることである」といわれますが、これが真実に過ぎて冗談として言えなくなりつつあるのでしょう。

科学に限らず(拙稿の見解では)、人間が真実とか現実とか思っているもろもろの物事、たとえば物質や人間や社会や運勢の現象と法則、現状認識、実現性、傾向などが、なぜ真実といえるのか、その理由は結局、仲間の集団的視座から見てそれが真実としか思えない、というところにあるといえるでしょう。このことは単に理屈でそう思うということよりも、私たちの身体がいつの間にかそれを現実として受け入れるように動いてしまう、ということです。動いてしまうことで、それを、現実という感覚として感じ取る、ということもできるでしょう。なぜ身体がそう動くのか意識しないうちに動いているということが、まさに私たちの身体が現実というものをそうして受け入れている証拠といえます。

私たちはこうして(拙稿の見解では)現実を身体で感じ取り、身体感覚としてのその現実感覚を利用して言語を習得し使いこなしています。またその言語を使うことで仲間と共有する現実の感覚を容易に維持することができます。このような仕組みによって私たちは現実としての明日を感じ取り、明日のことを仲間と語り合って今日の行動を起こすという毎日を送っています。

このことはあまりにも当たり前なので、私たちは自分たちが言葉を使うことで現実を集団的に把握していることに気づいていません。私たちはまれに、言葉が全く通じない外国で孤独になったときなど特殊な状況で、現実が白昼夢のように頼りなく感じられる経験をしますが、すぐに仲間と通じ合うふつうの日常生活に戻るので、やはり現実の頼りなさを自覚することはあまりありません。

日常生活で、私たちはふつう十分に忙しい。たいていの毎日は、明日の準備で忙しいのです。

今日が木曜日ならば明日は金曜日の仕事がある。明日十時から共同事業の山田さんと来月の企画の打ち合わせがある。午後は二時までに部内会議に出席しなければならない。今日が金曜日ならば、明日は土曜日で仕事がない。その代わりに午前中はテレビでサッカー実況を見なければならない。午後からは繁華街にでかけて遅い昼食をとってからショッピングモールでウィンドブレーカーを探さなければならない。

それら明日の予定は、別にじっくりと作戦を練って考えたわけではなく、なんとなく当然のごとく、仲間(あるいは家族)に合わせているというか、自分としても身体がそういう気持ちになっているからそうしようと私は思っている、ということです。

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私はなぜ明日を語るのか(7)

2012-03-10 | xx8私はなぜ明日を語るのか

演劇や演奏会など特に緊張を要する行動でなくとも、私たちはいつも頭の中で明日のリハーサルをしている、といえます。それは簡単に一瞬の想像である場合が多いですが、明日の天気と外出のための服装などリハーサルのように思い浮かべます。あるいは手帳に買い物のメモを書いておく。あるいは会話や携帯電話や電子メールで明日の予定を誰かと確認する。そういう想像や書き込みや会話のために身体を動かすことで、異臭のリハーサルをしたことになるのでしょう。そういう明日の予測やリハーサルをすることで(拙稿の見解では)明日が私たちにとって現実となっていきます。

私たちにとって、今日の行動は明日の現実につながっています。逆に、私たちにとっての明日の現実は今日の行動からできあがっている、といえます。それだからこそ、明日というものをいつも私たちは思い描いていてそれについて人と語り合うのでしょう。

そうであれば、私が今していることは、たとえば誰かと電話していることや、メールを書いていることは、明日の私のためになるからそれをしている、といえます。その理由を私は実は知っている。言葉で言えない場合も多いし、意識に上っていないことも多そうですが、少なくとも私の身体がそのように明日のために動いているということは、その理由を私の身体が納得しているということです。

そういうときの私は明日の私の気持ちになっています。そうであるから自然に身体が動いて明日のために今日すべきことをしてしまいます。特にむずかしく作戦を立てて一日前になすべきことを決めているわけではなく、ごくふつうに明日の自分をばくぜんと思うだけで、私たちはすぐに身体が動いていくようになっています。

これは(拙稿の見解では)人間特有の身体の仕組みであるようで、人間以外の動物はこれができないようです。動物は明日の自分という想像をしませんから、これができないのは当然でしょう。ふつう動物はそんなことをする必要がありません。動物のおかれたふつうの事情としては、現在の身体が置かれた周辺状況にすばやく対応することのほうがずっと大事です。おいしそうなものがあれば、一秒でも早くそれに食いつくべきです。今感じ取っている匂いとか、目に映る光景に瞬時に反応して身体が動いています。人間の赤ちゃんも同じですね。明日のことを考えて準備したり、目の前のものをすぐ取らないで取っておいたりするようなことはしません。

ところが、私たち大人の人間は(動物あるいは赤ちゃんと違って)、想像できる明日の予想に対応して身体が動く場合が多い。明日、お客さんが来ると思えば、トイレの掃除などします。

私たち大人の人間は、現在の周辺環境に対応して身体の神経系、筋肉、分泌腺などが作動するばかりでなく、明日の自分が置かれると予測される環境にも対応して身体作用が起こる、といえます。このことは、人間にとっては明日の自分、あるいは明日になれば他人に見られる自分、というものが生々しい現実として身体に作用し反射的な身体運動、自律神経の興奮、内分泌外分泌などを引き起こす、といえます。そういう意味で、明日は今日の現実に含まれる、といえるでしょう。

子供も幼稚園くらいになると、明日の遠足を想像するのが楽しくて夜寝られなくなったりする。これはなぜなのでしょうか? まず、言葉が分かるようになっているので、言葉で言われたことを素直に想像するからでしょう。お友達とバスに乗って知らない楽しいところに行ってお弁当を食べることを想像すると、楽しそうで身体全体がうきうきする気分になります。実際、身体の自律神経系と内分泌系は興奮状態になってなかなか睡眠状態になれない。つまり身体は明日の予測状況に反応する。子供をその気にさせるのは、言葉だけではふつう不十分で、お弁当の箱を見せたり、親が一緒にバッグや衣服を準備したりしていると、だんだん興奮が高まってきます。

言葉の分からない赤ちゃんにそういうことを話しかけたり、明日の衣服を見せたりしてみても、こういうことは起きませんね。

明日になったときの自分が置かれるであろう状況を想像すること、昨日までの過去として自分の経験を記憶(自伝的記憶

)していること、他人から見える自分を想像すること、これらは皆、赤ちゃんにはできません。三歳くらいから上の子供と大人、つまり言葉を話す人間にしかできないことのようです。

一言でいえば、客観的に自分を見ることができる、ということでしょう。たしかに人間以外の動物や言葉を使えない赤ちゃんは、明日に向けたこういう想像ができるようには見えません。言語というものが、明日を想像するという人間特有の能力に深く関係していると考えられます。言語が使えるから、こういうふうに自分を客観的にみることができるのか? あるいは逆に、自分を客観視できるから言語が話せるのか? ニワトリが先か、卵が先か、分かりにくい話です。

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私はなぜ明日を語るのか(6)

2012-03-04 | xx8私はなぜ明日を語るのか

拙稿本章の興味としては、私たちが明日と思っているものが私たちの現在の行動を決めている、つまり私たちにとっての現実である、という点です。私たちは明日の自分の状況を予測し、それがどの程度実現しそうなのかを予測し、明日になったときの自分の気持ちを予測し、明日の自分に乗り移ってその気持ちになり、その明日の自分として現在の自分を操って明日に役立つ行動をさせる。そのメカニズムはどう作られているのでしょうか?

私たちは明日の自分が読むために本を購入し、あるいは深夜のテレビを録画し、明日の自分が着るために服を洗濯しアイロンをかけ、またレストランを予約します。私たちの今日の行動は、ほとんど明日のため、あるいは明日以降の日々のために行なわれています。まるで私たちはここにあるこの身体ではなくて、予想される明日の自分の身体であるかのようです。現在の私たちは、明日になったら現れるであろう明日の私たちの身体のために懸命に奉仕するようにできているのでしょうか?

動物は身の回りの環境の変化に対応して動きます。その環境は感覚器官を通じて感じ取る現在の環境です。人間ももちろん、そうしていますが、それ以上に明日の予測される状況に対応して現在の行動を起こす。つまり人間においては、現在感知している環境と明日の予測によって感知される未来の環境とが同じように行動を誘発するように見えます。あるいは現在の環境よりも明日の想定される環境によって私たちの行動は起こされる、というほうが正しい場合が多いと思われます。人間の身体は、明日の予測環境によって、現在の環境によると同じくらい、あるいはもっと強く行動を誘発される。私たちの身体は、そういう仕組みになっているようです。

明日の予測が確実であると感じられれば感じられる程、明日に備えて身体が動きだす。明日は朝早くから背広を着て出掛けるという予定になっていれば、ワイシャツにアイロンをかけておきます。明日朝にはパリッとしたシャツに袖を通したい、という気持ちがそれをさせます。明日朝にパリッとしたシャツに袖を通している私の姿を想像すると、今すぐにそれをしたくなります。

動物はそれをしないでしょう。動物はシャツを着ないからそうしないという理由もありますが、それよりも、動物は明日を知らないからです。明日を想像しないから、といえます。

人間は明日の状況を想像する。想像した状況が現在目の前にあるように身体が動く、といえます。つまり人間は現在とは違う状況を現実であるかのように想像することができる。その仕組みが明日に向けての人間特有の行動様式を作っています。この仕組みは脳の中でリハーサルをするようなものでしょう。

演劇などでは上演前にリハーサルをします。オーケストラの演奏会前にも、ロケットの打ち上げ前にも、ふつう入念なリハーサルをします。リハーサルは何のためにするのか? リハーサルなしでぶっつけ本番をすると、失敗が多い。そういうことを私たちは経験で知っています。皆の息が合わないとか、勘違いがあるとか、急にあがってしまって演技が続けられないとか、機械が設計通りに動いてくれないとか、いろいろ困ったことが、本番では起きます。

リハーサルは、これからする本番の場面を予測して、実際に身体を使って本番と同じように動いてみることで経験済みにしておくことです。経験済みのことを繰り返すと未経験の場合よりも、明らかにうまくいきます。慣れるとうまくなる、ということです。

ちなみに繰り返しは、慣れすぎるとなれ合いになったりして、かえってうまくいかなかったりします。演劇や音楽リサイタルなどでは、リハーサルは、一回か二回くらいにしておくほうがよい、といわれています。それもドレスリハーサルのように本番そっくりのリハーサルをすべきかどうかには意見が分かれて、本番そっくりにはしないほうが本番のときに適度な緊張感が保ててよい、というプロの演技者の意見もあるそうです。

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私はなぜ明日を語るのか(5)

2012-02-26 | xx8私はなぜ明日を語るのか

最近、インターネットのショッピング、つまり通信販売が便利になっているのでよく利用します。アマゾンで本を買います。パソコン画面で購入決定ボタンを押せば数日後に宅配便で届く。しかし本屋さんで買うのとは違って、今すぐ手に取ることはできません。明日、あるいは数日後に手に取れることを予想してパソコン画面の購入ボタンを押す。その本を手にとってパラパラとページをめくりたい。けれどもそれができるのは明日、あるいは数日後です。電子本ならばすぐにダウンロードできるでしょうが、紙の本が欲しい、という人の話です。

明日でいいから届けてもらう。明日の便の予約をする。明日来るものを申し込む。

人間以外の動物はこういうことはしません。赤ちゃんもしません。小学生も高学年にならないと自分のお小遣いで通信販売の予約購入はしないでしょう。

これをする人間は、まずアマゾンの購入ボタンを押せば決まった日数後には確実にその本が入手できることをよく知っています。これは同じような行動を今までに何度かして、経験で知っているということです。あるいは経験した人の話を聞いて、その人を信用した場合です

それに私たちインターネットのユーザーも、理論的に、このシステムが信頼できることを知っています。有名販売店やインターネットショップは消費者に損害を与えて評判を落とすようなことはしないはずだ、という理論です。

経験と理論と、さらに重要なことは家族や友人、つまり仲間たちがこの予約購入の方法をもっともだと認めているということです。だれもが、それでいいだろう、と思っているということ。このことによって、明日に向けた私たちの現在の行動は実行されます。

この現在の行動を決めるために、私たちは明日について語る。仲間と明日の状況判断を共有します。仲間がいない場合も、実は全く同じです。自分という仲間にそれを語り、そのときの判断を参考にして私たちは現在の行動を決めます。自分で考える、ということはそういうことです。

私たちは(拙稿の見解では)だれもが自分の内部に信頼できる仲間を持っていて、その仲間の行動に共鳴することで自分の行動を実行する。あるいは逆にいえば、そういう自分の内部に共鳴行動を起こすものとして仲間というものがある、といえます。

私たちにとって、明日というものは、それを仲間と語り合えるからある、といえます。明日が来る、こういう明日が来る、と皆がそう思って互いにそう語り合うからそういう明日が来る。そうであれば私たちの身体は、仲間が皆そう思っている明日の状況に反応して、現在の気持ちを準備する。それは行動につながる。そうして私たちの身体が明日に備えて現在の行動を起こすから、明日が来る。そうしてそういう明日が来る、といえます。

時には仲間の皆が思っている明日と私が思っている明日とがだいぶ違うということがあります。皆は明日も株高が続くと思っているのに、私は下がると思っていれば今日売り抜けてしまえばよい、ということです。このとき売り注文を出している私はどんな明日が来ると思っているのでしょうか?

明日は私だけが成功者になっているはずです。そういうハッピーな私の気持ちが想像できます。だれが見ても、明日の私の状況を理解できる限り、明日私がハッピーであることは分かるはずです。現在、皆さんはそれが分かっていないけれども明日になれば分かる。だから私はそういう明日が来ると確信できる。そして明日はそうであろうとして今日の売り注文を出すのです。

こういう場合、私は現実の仲間と明日を語ることをしません。自分の内部にいる秘密の仲間とひそかに明日を語る。自分の内部にいる仲間は私と同じ明日がくるだろうという気持ちになっている。ほぼ確実に、そういう明日が来るはずだ、と私は感じます。

さて、その明日が来てその株価は私の期待を裏切って、うなぎ上りに上がっていったとします。ああ、こんなはずはない。私の大事な株はひどい安値で売られてしまった。こんな現実は認められない、と私は地団太を踏むでしょう。もう目をつぶってしまいたい。昨日はあんなに確実だと思った予測は何だったのだ、と思います。しかしこれが現実なのでしょう。私はうつ状態になって頭を抱えてしゃがみこんでしまいます。

こういう間違った予測を明日と言っていいのか?しかしこれは昨日の時点では間違いとは思えなかった。結果的に間違ったのであって、昨日の時点では間違いではなかった、と言いたい。昨日の時点で明日というものは予測されるとおりであってそれが昨日の私たちの行動を決めていた。その意味で明日というものは、今日思う予測としての明日と明日になって分かる実際の明日との二種類があるのではないか。

明日になって分かる明日は、その時はもう明日ではないのだから明日といっても、正確にいえば「昨日の時点で明日と思った日」ということです。明日という言葉を「いま明日と思っている明日」というせまい意味で使うことにすれば、明日というのは、今日の次の日であって、今日が終わるまでは予測でしかないものです。しかしその明日の予測に基づいて、私が今日の今、このように行動しているのであるからこの行動を起こさせている明日、というものははっきりとしています。

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私はなぜ明日を語るのか(4)

2012-02-18 | xx8私はなぜ明日を語るのか

過去の記憶は、結局は、いま何をするか、現在の行動に反映するために使われるものです。いま何をするかに関係が深い最近の記憶は鮮明です。逆に遠い過去の記憶は、いま役に立たないから薄れていきます。

過去は風化する、というか古い写真のようにセピア色になって時間劣化し、不鮮明になり、最後は分からなくなります。コンピュータのデジタル記憶データが時間劣化しないことと対照的ですね。アナログデータは時間劣化するがデジタルデータは時間劣化しない、ということから類推すれば、人間の記憶はアナログ式でしょうか?

人間に限らず多くの動物はそういう時間劣化する記憶システムを持っています。人間や動物にとって昔のことは重要でなくなるが、最近のことは重要である。つまりそういう記憶装置を備えていることが生活に便利だからでしょう。

まあ年寄りは近年のことよりも自分が若いころのことをよく覚えている。それはたぶん、それが原始時代の老人の生き方であったからでしょう、文字や書物やインターネットがない時代、若い人々に知識を伝承するという老人の役割がそういう記憶を必要としていたと思われます。

このような自伝的記憶 、つまり自分を主人公とする絵巻物が私たちの時間感覚の土台になっています。この絵巻物の左の端(西洋人なら右の端か)から、私たちは明日を語ります。私たちは、明日に関してそういう概念を持っています。

正月から使い始めた手帳の今日の欄。時間ごとに予定が書いてありますが、終わった予定はもう見ない。たまに見返す機会もないことはありませんが、警察にアリバイとして見せるとかいった特殊な場合を除けば、ふつう過去の細かい記録はあまり必要ではありません。

いちおう去年の手帳も取っておきますが、まあもう二度と見ないでしょう。若いころは、晩年に自伝を書くときのための記録として手帳を取っておくことが必要だろう、などと思ったものですが、いまこの年になってみると、社会的な自尊心や自己顕示欲というものがすっかり薄くなっていて、過ぎた人生は夢のようです。かすかに残っているセンティメントが古い手帳を捨てさせないのでしょうが、そのうち引き出しを整理する時にそれも忘れて案外あっさりと全部捨ててしまうような気がします。

閑話休題、過去に自分がしたことを記憶しておいて現在の行動に役立てる、ということは人間以外の各種の動物でも広く行われています。金魚は水槽の中で、どの石の下を通り抜ければどこに出るかを記憶しているようです。ある種の鳥(アオカケス など)は満腹の時に見つけた木の実や毛虫を穴に隠しておいて後で空腹のとき取り出して食べます。いつどこに何を隠したか覚えています。哺乳類では多くの種が自分が歩き回った経路を覚えています。このように動物は過去の自分の行動を記憶して現在の行動に反映します。

しかし動物の場合、機械的な反射運動の組み合わせなのに将来への対応行動のように見える動作をしている場合が多そうですが、人間のように考えている場合との区別はむずかしい。直感では、動物が何を考えているのか、なんとなく分かりますが、それが人間のように考えているのかどうかの証拠はふつう見つけられません。厳しくいえば、人間の場合でも、無意識の反射的動作なのか、将来のことを考えてしているのか、本人も分かっていないことが多そうです。

そうはいっても私たち人間は明らかに明日のために今日すべきことをしています。私たちは、カレンダーや日記やブログに明日はこれをする予定、などとよく書き込んでいます。人に語ったり言葉や記号で明日のことを書き記したりなど、はっきりと明日のためになすべきことを考えてしているのは、人間だけです。予定を言葉にするということは、その言葉の主語としての自分というものを思い浮かべて話すということです。それは明日の自分でしょう。

明日の自分に乗りうつって今の自分にその準備をさせる。こういう行動様式は人類特有といってよいでしょう。

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私はなぜ明日を語るのか(3)

2012-02-12 | xx8私はなぜ明日を語るのか

私たちが経験するさまざまな現象に対して、人々の間で、いろいろな理論が作られ、現実として実際にうまく使えた理論が取捨選択されていきます。実際に行動を起こすために現実を見極める必要を感じている人間は、結局、予測力が高くて単純で分かりやすい理論を現実として受け入れるようになっているようです(一九七四年 赤池弘次『統計的モデルの決定のための新しい方法について )。

私たちは単純で直感でとらえやすい理論を信じてしまう傾向を持っていますが、それは実際、人間のふつうの活動範囲では、そのような理論の予測力が高いという経験を私たちが持っているからです。

こうして私は明日の予測が上手になっていきます。これは現実を意識して行動する、ということです。明日になれば自分はどんな現実の中に置かれているだろうか?明日の現実を想像して今日すべきことをする。これは当たり前の行動ですね。しかしこういうことができる動物は人間だけです。明日以降の自分の有様を予想して語り合い、あるいは自分自身に語り、そこから現在の行動が決まってくる。つまり意識を持って長期の未来をはっきりと予測し、それにもとづいて行動する動物は人間だけといえます(二〇一〇年 佐藤暢哉『ヒト以外の動物のエピソード的(episodic-like)記憶 』)。

人間以外の動物は言語能力を持ちませんから、仲間に明日のことを語ることができません。仲間に語ることができないということは、自分自身に語ることもできないということです。そうであれば明日を予測することはない。そういう生活を送っているはずです。明日を予測することもなく、明日に備えることもありません。人間ではない動物にとって明日はない、というべきでしょう。現在の状況に直接反応するだけです。たとえば空腹のときおいしいものがあれば食べてしまう。成人病になるといけないから摂食しようなどとは思いません。

私たち人間は、いつも明日の(あるいはもっと先の)自分の姿を予測し、そのときの自分の周りの状況を予測し、未来のその状況での自分の気持ちを想像していて、そこから現在の行動が出てきます。

現在の時点では明日は未来ですが、私たちにとって、現在の行動がそこから出てくるという意味ではその明日は現在の一部である、というべきでしょう。現在というものは今の瞬間だけではなくて現在の行動を決めている未来の時間をも含むと考えることができます。つまり私たちは、今日から明日へ至る現在というモデルを持って意識的に行動している、といえます。

私たちがする明日の予測は自分が予測するというよりも仲間のだれの目で見てもその通りになるだろうと思える明日の状況を予測して、そのときの自分の気持ちを想像することです。その予測をすると同時に、いま何をしたらよいのかが直感で分かります。逆にいえば、今日の現実は明日の予測、つまり、いま何をしたらよいかということが明日の予測だ、ということができます。そして、今自分がすることは明日の自分にとってどうなのか、現在していることと明日の自分の状況とはどういう関係なのか、私たちはいつも分かって行動しています。

時には、分かっていないと自覚しながら行動する場合もありますが、そういう場合でも、不安だけれどもこうしてみようと思ってしているわけですから明日の自分の状況は心配だという予測をしているといえます。

私たちが何かするときはこのように自分が何をしているか分かっていて、したことは記憶しています。もちろん時間がたつと忘れていきますが、ふつう過去にした大事なことはきちんと記憶できます。

自分がしようとしてしたことを意識的行動といいますが、これにはしっかりした記憶が伴っています(エピソード記憶という)。こういう記憶は自分が過去にした行為を時間列で並べた歴史絵巻のようにつながった記憶になっています(自伝的記憶 という)。この絵巻物の最後の端に今の自分がいる、と私たちは思っています。ここから、私たちは自分がどこから来て、何であって、どこへ行くか、を知ることになります。

私たちは自分が昨日から今日の今という時点へ来て、この人生絵巻の主人公であって、明日の未来へ行く、ということを知っています。

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私はなぜ明日を語るのか(2)

2012-02-04 | xx8私はなぜ明日を語るのか

動物が身の周りの状況を感知して数秒後数分後の予測を行う場合は、身体が機械的、反射的に動いていくことで予測が行われます。捕食者が襲ってくると反射的に逃げ出します。逃げるという行動がそのまま危険状況の表現になっています。人間も、雨が降りだすとかけ足になるなど、動物と同じ仕方で無意識に数分後の予測をしている場合が多いですが、ときには計算したり、他人の心を読んだり、学習した知識を適用したりして、意識的に数分後の予測を行うこともあります。人間が数日先あるいは数カ月先のことを予測する場合は、もう動物のような身体反射を使うのではなく、計算や他人の言動や学習した知識などだけによって、意識的に、予測しています。意識的である証拠に人間はその場合の自分の予測内容をよく記憶しています。

一般に予測のシステムを設計する場合、長期予測は短期予測とは違う方法で行う必要があるでしょう。短期予測は現在の状態から簡単な計算で導くのがふつうです。一方、長期予測は現在とは違った状況になったときの予測ですから、現在では起こっていないけれども長い時間ののちには周りの条件が変わってきてその結果どうなるかを予測する必要があります。

長期予測は、時間の経過による大きな変化をいくつかの仮定のもとに想定して、その架空の状況に当てはまる過去の経験の記憶あるいは理論からの推測に頼って状況を判断し、その状況がここでまた繰り返されるだろうという直感を持たなければできません。

こういう仮定条件が起これば、こうなる。そうでなくて違う仮定条件が起こればああなる、という複数の場面を次々に想像してどれが実現しそうかを比較検討することになります。

予測は計画に結びついています。こうすればこうなる。こうしなければこうなる。私がこう動くとことで相手はこう動く。周りはこう変化する。予測はシミュレーションでもあります。その場に私の身体があってそれが動いていくシミュレーションが必要です。状況の場面に応じて、その人の経験からその人が信頼している理論があります。その理論に基づいたシミュレーションが使われます。

そのような理論を使ったシミュレーションにより予測し計画して動いた結果うまくいった。あるいはうまくいかなかった。うまくいかなかったのはこういう理由だった。その理由は言葉で語られます。言葉で仲間に語ることができる。そういう経験を記憶します(エピソード記憶 という)。そういうデータと理論が記憶されて次の機会に使われます。

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私はなぜ明日を語るのか(1)

2012-01-28 | xx8私はなぜ明日を語るのか

28 私はなぜ明日を語るのか? begin

 28 私はなぜ明日を語るのか?

 正月に新しい手帳を買いました。正確には十二月に入ってすぐ買いました。前の手帳が十二月三十一日で終わってしまっているので、一月の予定を書き込むためには、新しい年の手帳を買わなければなりません。年末の忙しいときに面倒なことです。

新しい手帳の一月十八日の欄に17:00望月、と書いてあります。私が一週間くらい前に書き込んだものです。一月十八日午後五時に望月氏と面談する予定、という意味です。その日その時刻になれば望月氏がいらっしゃって私と談笑することになろう、と私は思っています。おそらく望月氏の手帳にもこの予定が書き込まれているはずだ、と思えます。間違いないでしょう。人を通じて電子メールのやり取りがあったので、まず間違いありません。

一月十七日の時点で一月十八日の予定表を見ると、このように明日十八日にやらねばならないことがいくつか書きこまれている。その中には、今日中に準備しておかなければならないものも含まれています。たとえば明日望月氏に渡す書類を、今日中に、鈴木さんにチェックしてもらう必要があります。鈴木さんが明日は不在だということが分っていますから、今日中にしてもらわなければなりません。では、今すぐに鈴木さんに声をかけてお願いしよう、ということになります。

このように、明日の予定がはっきりすると、今日すべきこともはっきりする。そういう理由で、私たちは明日の予定を知る必要があります。

私は、明日の予定を鈴木さんに語ることによって、今日すべきことを鈴木さんの協力を得て実行できます。

私たちは、いつも明日のことを語る。それは、たいていは話し手と聞き手が今すぐにしなければならないことについて語っていることになります。たとえば、忘れないように明日の予定をちゃんと手帳に書き込んであるかどうか確かめる、というようなことです。

このように明日、あるいは明後日、あるいは来週、来月、あるいは来年のことを人に語りながら私たちは暮らしています。むしろ私たちの会話は、先々のことを語ることでできあがっている、といえます。それ以外のことは、実はあまり話していませんね。人と人が話をするするときはいつも、明日のこと、近い将来のことあるいはもっと先のことを語ります。

人がいないときでも、私たちは自分自身に明日の予定あるいはこれからすべきことなどを語りながらその準備をする。声に出さなくても頭の中で語っています。身体を動かさなくても気持ちの準備はします。気持ちがそのように明日に向かっていないと、明日の準備などできません。逆に気持ちをしっかり持つためには明日のことを考えていなければなりません。

私はなぜ明日を語るのか? それは、私がなぜ私の気持ちをしっかり持っているのか、なぜ私が意識をはっきり持っているのか、という問いになります。

私はなぜ明日を語るのか?

明日のことを思い煩うな、と聖人君子は教えました(マタイ伝六章、一九四二年 太宰治「新郎」での引用が有名)。つまり、ふつうの私たちは、明日のことを思い煩うのです。いやむしろ、私たちは一日中、明日のこと、来週のこと、来月のこと、来年のことなど先のことばかり思い煩って暮らしている、といえます。

私たちが聖人君子になるのはまず無理そうなので、むしろ、私たちはなぜそもそも、明日のことを思い煩ってしまうのか、について考えてみましょう。

明日のことを思い煩うということは、まず明日のことを人に語り、あるいは自分自身にそれを語るということでしょう。なぜ私たちは明日を気にかけ、意識して、それについて語るのか?

拙稿本章では、私はなぜ明日を語るのか、というテーマを考えていきます。

人類は、農耕牧畜を始めたころから、明日のことを考えていたはずです。明日どころか、何カ月も先の収穫を考えて種をまきます。あるいは数年後の肉を期待して家畜を飼育します。農耕牧畜を始める前、狩猟採集の原始生活でも、人類はドングリを穴に貯蔵したりして明日以降に備えています。そもそも、家族の将来についての長期的な見通しを持たなければ異常に成長が遅い人類の子供は育てられません。明日ばかりでなく何日も何か月も先のことを予測して行動するからこそ、人類は地球上いたるところに広がって繁殖していくことができたといえます。

このような人類の生態学的生物学的な特徴から推測すれば、明日以降の将来を予測して集団行動をとる人類の生活形態は、おそらく数百万年前からあったものと思われます。もちろん人類のこの生活形態は、他の動物に比べて異常に大きい大脳皮質の働きと深い関係があると考えるべきでしょう。明日のことをはっきりと想像する能力がなくては、明日を語ることはできません。それは自然の変化を予測し、仲間の動きを予測し、そのときのその空間での自分の姿を想像することで、初めて可能となります。これらの、人類特有と思われる予測能力が、明日を思い煩うことができるための前提となっているはずです。

人類以外の動物も、予測の能力はあります。昆虫や鳥類などが、天候の変化に備えて行動を変えることが知られていますが、これらの種のいくつかは人間よりもすぐれた予測能力を持っているようです。しかし、一般には、人間以外の動物は数秒後あるいは数分後の変化を予測することはすぐれていても、数日後、あるいは数カ月後に起こりうることを予測する能力には乏しいと思われます。ほとんどの動物の生活形態においては、数秒後あるいは数分後の変化を予測することの必要性が極めて高いのに対して数カ月後など長期の予測はあまり必要でない、というからくるのでしょう。もしそうであれば、動物の身体の仕組みとしては、簡単な(たぶんにアナログ的な)計算で数秒後あるいは数分後を正確に予測して行動に反映するするシステムが作られていて、数か月後の予測などのために必要な大量の記憶装置と演算装置を備えた大きな脳は非効率なので発達していないはずです。

このことは、動物の生活環境において数秒後数分後を予測するシステムと、数か月後を予測するシステムとは根本的に違う原理で作られる必要があることを示唆している、と考えることができます。人間は、数秒後数分後を予測する能力もありますが、数日後、数カ月後あるいはずっと先のことをも予測することができます。

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