そもそも私たちは、なぜ忙しいのか?
ふつう、明日あるいはこの数日の予定が多い人ほど今日も忙しい。当然、今日のうちに明日以降に備えて準備しなければならないからでしょう。現実に追われて、今すべきことを懸命にしているので忙しいのです。私たちは明日の自分を現実として身体で感じています。それだから今しなければならないことが現実として迫ってくるのでしょう。
そうであるとすれば、私たちは現在を生きる存在であるというよりも、明日を生きる存在である、ともいえます。逆にいえば明日がなければ私たちはない。「俺たちに明日はない」と本気で思っている人がいるとすれば、その人たちはふつうの人間ではない、ということですね。明日はないと思っている人たちがなぜ銀行強盗を働いてお金をためるのか?矛盾です。今日の欲望を満たすためだけの犯罪ならば銀行強盗よりも無銭飲食のほうが理屈に合っています。実際、人間以外の動物は無銭飲食はしますが銀行強盗はしません。
「俺たちに明日はない」という言葉は、分かりやすい。あの映画のタイトルにピッタリです。まあしかし比喩としては傑作ですが、本当に字句通りと受け取ると、あり得ない言葉です。明日を考えることのない人は(拙稿の見解では)物事の予測ができない。予測ができなければ人間の行動を言語で表せないので言葉を使いこなすことができません。言葉を理解できない人は、当然どんなセリフも言うことはありえないでしょう。
禅で日々之好日という。ラテン語の箴言でカルペディエム(carpe diem 一日を摘め)といいます。昔の賢人の言葉です。これはつまり、俺たちに明日はないと思って生きろ、という意味です。しかしどうでしょうか?こういう生き方は人間には不可能ですね。動物はできます。しかし私たち言葉を使う人間にはできない。人間は、人間以外の動物とここが違っています。
人間は言葉を使う。そもそも言葉を話すことは、仲間と物事の予測を共有することです。明日を思い描き、仲間とあるべき明日を予測することです。一人きりで考える場合でも同じことです。自分の中にいる仲間と語り合っている。
結局、人間の言語というものは、(拙稿の見解では)明日のために自分たちが今どうするか、を語る形になっている。
「××が○○をする」という人類共通の言語形式は、××はこれからのために○○をする、という背景の(コンテキストを)暗黙に前提としています(拙稿26章「『する』とは何か?」)。たとえば「俺たちに明日はない」という言葉を話した瞬間に、それだから俺たちは明日からどうしようか、という話を引き出してくる。そのために発される言葉であるという前提になっています。言葉というものは、どうしてもそうなってしまう構造になっています。したがってたとえ「日日之好日」という言葉であろうとも、これまた、それだから私たちは明日からどうしようか、という話に続くためになされているという構造を持っています。
つまり私たちは何を語ろうとも言葉を語る以上、必ず、それだから明日のために、あるいは今日これから、こうすべきだ、という話を仲間に語っているのです。これが(拙稿の見解では)人類の言語の基本的な構造です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。
したがってそういうことであれば、私たちに明日はない、とか明日のことを思わない、とかいうことを言葉でいうこと自体、矛盾であるといわざるを得ません。
私たち人間にはだれにも明日がある。明日はいらない、必要ない、といっても明日はあってしまう。それは私たちが言葉を話す動物だからです。
私たち人類は身体の中に言語を作り出す機構を持っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。それは脳に備わった器官であるといえますがそれを使わずには人間は生きられません。マグロが泳ぎ続けないと窒息してしまう(ラム換水呼吸という)ように、人間は生きている限り言葉を使い続けるしかありません。その器官が私たちの前に明日というものを作り出す。モグラが巣穴の中だけで生きるように、自分の身体が作り出したその明日という現実感覚の中を私たちは生きていきます。
空がなくては鳥が生きていけないように、海がなくてはクジラが生きていけないように、明日がなくては人は生きていけません。仮に今日死ぬことが分かっていても、私たちは(人あるいは自分に)明日を語ることしかできないでしょう。
(28 私はなぜ明日を語るのか end)
本章全体→哲学の科学Ⅷ-2