哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(20)

2010-02-27 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

もしかしたら、私たちの身体は、台風のように自然法則だけにしたがって動くものなのかもしれない。台風のように太平洋を北上し、九州地方を襲う。しかし、台風には、それをしたいという気持ちなどない。台風は九州地方を脅かすかのように接近してくる。しかし、だからといって、台風が九州地方を脅かそうという気持ちを持っているわけではありません。九州に住んでいる人々に害を与えたいと思ってそちらへ接近するわけではありません。重力と熱力学の法則にしたがって空気のかたまりが動いているだけです。

動物の身体もまた、台風と同じように自然法則だけにしたがって動く。進化によって状況に適応した行動を自動的に起こす。進化によって、それは動物の利益が大きくなるような行動になっている。そのために利益を目的として動いているように見える。しかしそれは自然法則だけにしたがって、機械的に自律神経が変化し、機械的に感情が起こり、結局は機械的に動いているだけ、ともいえます。

つまり結局、動物は、電池とモーターと歯車でできている機械のように動く。実際、ロボット製作に莫大なお金をかけて、細かいモーターと歯車を数百台、数千台と使って上手に設計すれば、動物のように滑らかに動かすことができる。コンピューターを搭載すれば、感情を持つかのように動かすこともできる。評価プログラムを埋め込んでやれば、目的を持つかのような行動を取らせることもできる。ロボット集団に(DNA転写変異の代わりにニューラルネットのウエイトに乱数を掛けるなどで )ゲノムの突然変異と集団に働く自然淘汰圧によって進化するように設定すれば、模擬的に進化して動物のように目的を持つかのような行動を身につける(二〇一〇年 ダリオ・フロレアノ、ローレント・ケラー『ダーウィン型淘汰によるロボットの適応行動の進化』)。

生物はすべて、進化現象によって、自然界の中に出現したロボットである、といえる。

人間も動物ですから、自然の法則に従って進化して、このような身体になったのでしょう。現象としては、モーターと歯車でできているロボットと何も違いませんね。もう少し正確に言えば、たんぱく質と核酸の組み合わせで動く分子機械です。そういう物質である身体から成り立っている人間の私が、このように、私の気持ちを持っているということは、どういうことか?

私は、なぜ自分の気持ちというものがあると思うのか?

それは私が、人間というものは皆、それぞれの気持ちというものを持っている、と思いこんでしまっているからではないのか? まわりの仲間たちが、私のそれが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、私はそう思っているだけなのではないか? 私が私の気持ちと思っているものは、そうして作られる錯覚なのではないだろうか? と考えることもできる(二〇一〇年 マーク・エンゲルバート、ピーター・カルーサーズ『内観』)。

もしそうであれば、実際、私たち人間は、だれも自分の気持ちなどというものは持っていないことになる。私たちの行動は、台風などと同じような、ふつうの自然現象だ、あるいは進化によって自然にできあがった機械的な環境適応行動だ、ということになります。

私たちは、目や耳や皮膚で台風の存在を感じる。台風に吹き飛ばされそうになって踏ん張るときの筋肉の緊張としても感じる。もちろん、テレビの情報からも、人との会話からも台風の存在感を感じる。そうして無意識のうちに感じる存在感を台風だと思っている。

それと同じように、私たちは、目や耳や体性感覚で感じ取った情報から無意識のうちに自分の身体という自然現象の存在感を感じとっている。そうであれば、台風の中に台風の気持ちなどというものがある必要がないのと同じように、私の身体の中に私の気持ちというものがある必要はない、といえる。私というものはこの物質である身体だけだ(一八八三年 フリードリヒ・ニーチェツァラトゥストラはかく語りき』既出)ということになります。

私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分の気持ちが人に伝わらないという問題もありません。社会に疎外されるという問題もなし。宇宙が広すぎてさびしいという問題も起きてこないでしょう。

私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。しかし私たちが自分の気持ちというものを、実は、持っていないとすれば、自分がどうすればどうなるかとか、どうなったらどうすべきか、などと考える必要がない。自分が不幸になることも、自分がいつか死んでしまうことも、考える意味がない。心配事がまったくなくなるわけです。まことにけっこうなことです。

ところが実際、私たちはそうは思えない。私たちは自分の気持ちというものを持っているとしか思えない。それは、まわりの仲間たちが、私の気持ちというものが私の身体の中にあると思っていることが間違いないように思えるから、という気もするが、そればかりではない。私は私が自分のことをどう思っているのか分る。 私が何をしたいのかわかる。何をしなければならないのかが分かる。私は自分の気持ちが分かる。

それは、私たちが、いつも、自分の行為の結果を予測しているからです。私たちは人の行為を見て、その人の目的を推測するように、自分の行為を見て、またそれによる自分の体内の反応、あるいは自分の感情、を感じとって、自分の目的を推測している。自分というものを、目的を持って何かの行為をするものである、というモデルを使って、自分の行為の結果を予測している。それで、私たちは自分の気持ちが分かる。

この分かり方は、私たちが他人の気持ちを分かるのと同じ分かり方です。私たちは他人の身体の動き(表情、視線、声色)を見て、まず身体がこれからどう動いていくかを予測する。それを予測することが、その人の気持ちを推測することになっている。それで、その人の気持ちが分かる。そういう分かり方です。

私たちは、同じやり方で自分という他人のしている行為を予測することでその目的を推測し、それをしている自分という人間の気持ちを推測する。その推測した気持ちが、私たちが思うところの自分の気持ち、というものになっている。

私たち人間は(拙稿の見解によれば)こうして、自分の身体の動きを感知し、その身体がすることを予測することで(自己再帰的に)自分の気持ちを知る、という身体の仕組みを持っている。逆に言えば、私たちが自分の気持ちだと思っているものは、私たちが私たちの身体の動きを観察することで、私たちの身体がしようとしていると予測される行為あるいはその目的のことだ、といえる。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(19)

2010-02-20 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

人類は、こうして(拙稿の見解では)、数分後の具体的な物的配置の状況から遠い将来の抽象的な個人的な状況、あるいは社会的な状況を操作しようとする行動まで、広範複雑な状況を予測し、それを目的概念として脳内に設定することができる。脳神経系のこの仕組みは、行為の連鎖から生成される状況空間構造のなかに目的概念を表現し、そこに至る目的行動を仮想運動として形成する。

この脳神経機構は、原始人類の生活環境において(拙稿の見解では)特に社会生活上、有利な生存繁殖適応を与えたために進化発達して現代人の身体に定着したものと思われます。逆にいえば、私たちが自身の目的として設定する数分後、あるいは遠い将来の状況概念は、私たちが自身の考えで設定したと思っているにもかかわらず、実はそれが導く目的行動が私たちの先祖の原始人類の生活において生存繁殖に有利な行動であったが故に私たちの身体が自動的にそれを作り出している。私たちはそれを自身の意志意図あるいは欲望から発すると思い込んでいるだけなのでしょう。

人間社会の中で共有され反射生成を繰り返す目的概念は、言語と同じように、無限に抽象化し、複雑化する。複雑な目的概念を認知できる人間たちの社会は複雑になっていく。逆に、複雑な社会に生きなければならない人間たちは、複雑な目的概念を扱えなければ生きていけない。

人は、人を見ると、その人が何のために動いているのか分かろうとする。何かのために動いているに違いないと思う。それが人でない物事でも、あるいは抽象概念でも、それが動くのは何かのために動いているに違いない、と感じる。台風でも、日本経済でも、それは何かのために動いている、と感じる。

人間は、無意識のうちに自動的に、物事をそう感じるような身体になっている。人間の脳神経系に、たぶん生得的に備わっているこの機構を(拙稿の用語では)目的認知機構といいます。この脳神経機構は人類社会を構成する基本的な要素になっています。人類の社会と目的認知機構は、共進化によって効率を増すと同時に、抽象化し、複雑さを増していった、と(拙稿の見解では)考えられます。

つまり私たちは、いつも、自分が生きるこの社会の中で自分がどうすればどうなるかを考えている。ここでいう「考えている」とは、行為の結果を予測して、その行為をする自分とその結果の状況変化を予測している、ということです。そして、その状況予測に反応し自分の身体が引き起こす自律神経反応からの体性感覚(不安や期待などの感情)を自分の気持ちだ、と感じとっています。そして同時に、状況変化の予測に反応して身体が反射的に仮想運動を起こしていくのを感じとって、それを自分の意識的意図や意志による目的行動だ、と思っている。しかしそれらの反応は、人類の進化適応によって私たちの身体に埋め込まれている無意識の反射でしかない。

自身のそれら一連の身体の動きを感じとって(拙稿の見解では)私たちは、自分は自分の気持ちにしたがって行動しているのだ、と思う。それが自分の気持ちだと思って生きています。

私たちが自分の気持ちだと思っているものは、もともとは(拙稿の見解では)仲間の視点から見た私の身体運動を芯にして、身体運動に反応して起こる自律神経反応などに対応する体性感覚を貼り付けることで作られている(一九九四年 アントニオ・ダマジオデカルトの誤謬:感情、理性、および脳、二〇〇三年 アントニオ・ダマジオスピノザを探して:喜び、悲しみと感じる脳』)。たとえ一人でいるときでも、私の身体の(表情や声の調子など)動きを見ている仲間がいるとしたらその人たちが感じとるはずの私の気持ちというものを推測することが、私が感じとる私の気持ちというものを作っている。

台風が九州地方を襲うとき、私たちは、台風が九州に被害を与えることを目的にして接近しているかのように感じとる。だから、「襲う」という言葉を使う。しかし、台風は自然現象ですから、何かを襲いたいと思っているはずはありません。つまり台風はその行為の結果を予測してその行為をするわけではありません。私たちも、もちろん、これは比喩だと思っている。台風は目的を持っていない。そうだから台風の気持ちというものは、私たちには、想像できない。

ケニヤのライオンがシマウマを襲うとき、私たちは、ライオンがシマウマにかわいそうなことをしようとして跳びかかる、と感じとる。しかし実際、ライオンはその行為の結果を予測してその行為をするわけではない。逃げるシマウマを見ると自然に跳びかかるような身体になっているだけでしょう。私たち人間はそういう身体にはなっていない。だから私たちは、実は、シマウマを襲うときのライオンの気持ちが想像できない。

そうして、人間の場合も、ある者がある行為をするとき、その行為の結果を予測してその行為をするのではないとすれば、私たちは、その人の気持ちが想像できない。たとえば、自殺行為をする人が何を予測してそれをするのかまったく分からない場合、私たちはその気持ちが理解できない。

最後に、その人間が自分の場合も、自分がなんらかの行為をするとき、その行為の結果を予測してその行為をするのではないとすれば、どうなるでしょうか? 私たちは、自分自身の気持ちというものが想像できない。つまり、自分で自分の気持ちが分からない。そういうことになります。

その行為の結果を予測してその行為をする場合は、はじめからそれをする自分の気持ちは分かっている。けれどもその行為の結果を予測してその行為をするのではない場合は、自分の気持ちが分からない。つまりそれは、私たちが自分は何をしようとしているのか、自分の気持ちが分からないまま行動するということです。たまたま、注意を向けた行為の結果だけを予測するけれども、注意しないでしてしまう行為のほうが圧倒的に多い。呼吸のように、ですね(拙稿20章「私はなぜ息をするのか?」)。

もしそれが本当だとすれば、私たち人間というものは、自分の気持ちにしたがって行為するものではないのかもしれない。そもそも私たちが自分の気持ちだと思っているこの自分の気持ちなどというものは意味がはっきりしない、意味がないものなのかもしれない、ということになる。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(18)

2010-02-13 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

ここで、私たちの身体が行為を繰り返すことで状況空間を生成する簡単な具体例として、身体移動により位置空間が生成される過程を書き出してみましょう。

たとえば、私が北を向いているという状況①から、「前に三歩進んで右を向いて四歩進んで、さらに右をむいて五歩進む」という行為によって「はじめの位置から南に二歩、東に四歩の位置にいて南を向いている」という状況②になる。そこで続けて「右を向いて六歩進む」という行為をすれば、「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という状況③になる。

私たちは状況の変化を予測して動くことで、それを意識し、計算し、記憶できる。こうして、私たちは状況の変化を目的概念として設定できる。私たちが置かれている状況の変化を、仲間と互いに共有できる。状況を言葉で概念化できる。行為を始める前に、今の状況③を「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という言葉で概念化することで、この状況を目的概念として設定することができます。

「はじめの位置から南に二歩、西に二歩の位置にいて西を向いている」という目的状況を達成する、つまり状況①から状況③に達するためには、「前に三歩進んで右を向いて四歩進んで、さらに右をむいて五歩進む」という行為に続けて「右を向いて六歩進む」という行為をすればよいことは、計算で分かる。

また同じこの目的状況を達成できる別の手段として、「はじめの位置で左を向いて二歩進んで、それからまた左を向いて二歩進んで右を向く」という行為をすればやはり状況③に達することが分かる。このように違う行為によって同じ目的を達成できることも分かる。

ちなみに、空間を移動する行為が持つこのような規則性(空間のベクトル構造と群構造)は、進化の過程で動物の身体の中に取り入れられている。実際、人類のほか、多くの脊椎動物や昆虫など帰巣性の動物はこの規則を使った移動シミュレーション機構を脳神経系の中に備えています。

このような、行為の連鎖と状況の変化とが規則的に対応する構造は、数学的にはコンピューター(機械)の計算原理と同形な構造です。たとえば、a,b,c,d,e,fを、それぞれ単純な運動目的イメージを実行する六個の行為(インプット)だとしましょう。ある状況①(コンピューターの内部状態)において、a,b,cという三個の行為を連鎖させると別の状況②に変化する。この新しい状況②を{abc}と書いて表現すれば、これにdという行為をさらに加えた場合の状況③は、四個の行為をa,b,c,dと連鎖させたものと同じことだから、{abcd}と表現できます。ここで、出発点の状況①に戻って改めてe,fという連鎖行為で到達した状況④は{ef}と表現できる。この状況④が状況③と同じだとすれば、

ef=abcd}(同じ内部状態)

と書けますね。

このようにコンピューターの内部で行われる計算と同じ形で、私たちは、行為の連鎖と状況を関係付けることができる。私たち人間の脳は(拙稿の見解では)、行為を連ねることで次々と状況を変化させていく過程を、コンピューターの内部で行われる計算と同じように、シミュレーションとして予測できる。そうであれば、現実の世界での行為と状況変化のこういう関係構造を、私たちが直感で分かることが納得できます。

人間の認知システムが、進化の結果、身の周りの世界へ加える行為とそれによる状況の変化をしかるべく反映する機構となっているとすれば、私たちが認知する具体的な行為と状況変化の関係は現実の世界の構造(たとえば空間移動のベクトル構造)を反映しているはずです。

行為とそれによって引き起こされる状況変化のこのような構造的関係を、人間は生まれつきの感受性を基礎にして、成長の過程で学んで行く。そうして私たちは、行為とそれがなされる状況を想像するだけでその結果を予想できるようになる。物事の成り行きを予測するためのシミュレーション機構が身体に備わるようになるからです。

人類の脳に備わっているらしいこのような機構は、たぶん他の動物の脳にもあると思われます。しかしどの動物にどのような機構があるのか、それが実際どのようなものなのか、私たちの現在の知識ではよく分かりません(二〇〇八年 ジャスティン・ウッドル、マーク・ハウザー『人類以外の霊長類における行為把握:運動シミュレーションか推測法か』既出)。

人類は(拙稿の推測では)他の動物に比べて、たぶん、はるかに緻密に、このような行為と状況変化との構造的関係を予測し、目的概念を作ることができる。私たちは脳内で無意識に働くこの仕組みを使いこなすことで、何層にも行為を連鎖連結させ、合成し、多層的で複雑な状況概念を作り出していきます。

そうして得られる構造的な状況概念は(拙稿の見解では)人々に共有されることで客観的な認知対象となり、人々の間で再帰的に合成を繰り返すことでますます一般的抽象的なものになっていきます。それら状況概念は身体運動のイメージから大きく飛躍した抽象的な概念になっていき、再帰的に生成される記号概念によって表現されることで言語化され、私たちだれもが明確に共有できる社会的感情を作りだし、それを介して互いに感情を共鳴しあうことで、社会生活に使える便利な共有装置となっていきます。

こうして、(拙稿の見解では)人類による状況認知は、仲間に理解され共有される抽象的、記号的なものから構成されるようになる。それは再帰的に生成される(たとえば群構造を持つ)空間概念を作り出し、(あるいは半群構造を持つ)記号列概念となり、共有化され言語化される。言語化された状況概念は、さらに安定的に共有され、行為の目的として設定されることで、逆方向に分解され、行為の連鎖として再合成される。

拙稿の見解では、人類の脳における状況概念の表現は、言語の表現と同様の再帰的生成構造によって行われています。つまり状況概念は、行為の連鎖を表現するシミュレーションとして生成され、目的を表現する空間構造を持つ。空間のある点を目的点とするといろいろな経路で到達できるように、人間の目的行動は、目的となる状況概念に対して、いろいろな行為の連鎖で到達できる経路を予測することで行われる。

目的行動のシミュレーションは(拙稿の推測では)、予測された状況を予測できる行為の連鎖で覆いつくすことでなされる。このシミュレーションは案外と簡単になされていると思われます。なぜならば、予測された状況は、もともと行為の連鎖から生成されているものだからです。シミュレーションは、目的状況に到達する代替経路を探して、比較評価することで実行されるのでしょう。

次に、目的となる状況に至る一本の経路が確定される。行為の連鎖からなるその経路を表現する行動が仮想運動として活性化される。そのとき、仮想運動のその活性度(仮想運動を表現して活性化される神経細胞の数)が閾値を越えると仮想運動は実行運動として起動される。

この場合(拙稿の見解では)、学習記憶の連鎖的想起と瞬時に実行される予測計算の複合を使って、それぞれの行為が自動的に身体運動の運動目的イメージとして表現され活性化されることで、当初の目的を意識することなく私たちの身体は連鎖的に運動を実行していく、と考えられます。

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私はなぜ自分の気持ちが分かるのか(17)

2010-02-06 | xx1私はなぜ自分の気持ちが分かるのか

私たち人間は(拙稿の見解では)、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」と、無意識のうちに、思っている。世界の物事の動き方に関して、その変化をそう感じ取るように人間の身体が作られているらしい。

たしかに、物事の動きを、直感で、そう感じ取るような身体を持っていれば、生存繁殖に便利です。生活に関係する物事の動きがうまく予測できる。特に生物の動きをよく予測できる。動物や植物が効率よく生存繁殖をしていく現象をうまく表現できるし、かなり正確にその行動を予測することができる。なによりも人間の動きがうまく予測できるようになります。人の動きや表情を見て、次にその人がどう動くのか、まったく分からない人は、社会の中で、うまく生き抜いていけないでしょう。

しかし物事の動きに関するこのような直感が、人類の生存に便利だからといっても、それがすべての物事の動きを正確に予測できるかどうかは、別問題です。社会的なもの以外の自然現象などの動きを予測するためには、むしろ、数学を使って表現される自然科学の法則によって物事は動く、という科学の見方のほうが正確な予測に向いています。

ニュートンが微分方程式によって力学を表現する方法を発見して以来、数学を使って表現される自然科学の予測能力は、自然科学を知らない人間の直感による予測能力をはるかに上回る正確性を持つようになりました。

科学のめざましい予測能力を知っている現代人が、目の前の現実世界を科学の法則で動いている世界だと見なすようになったのは、もっともなことでしょう。しかし実は、私たちが目や耳など感覚器官で感じ取っているこの世界は(拙稿の見解では)、科学の法則で動いている世界とはいえません。私たちの身体で感じ取っている限り、物事は身体で感じられるようにしか感じられないからです。

私たちの身体は、科学の方程式を計算して物事を見るようにはできていない。現代人の私たちも身体は昔と変わらず、いかに科学を知っていようとも、数万年前の原始人と同じ構造の身体で、私たちは、目の前の世界の物事を感じている(一九九四年 レダ・コズミデス、ジョン・トゥービー『ドメイン特有性の起源:機能組織の進化』、二〇〇八年 ジョン・トゥービー、レダ・コズミデス、アーロン・セル、デブラ・リーベルマン、ダニエル、ツニュセル『内的調整変数と人間における動機の設計:計算的進化的アプローチ』)。

私たちが目の前に見ている現実世界は、科学で描かれる世界ではない、というべきでしょう。私たちが、目や耳やその他の身体の感覚器官を使って直感として感じとる現実世界は(拙稿の見解では)、私たちが学校で教わるニュートンやファラデーアインシュタインが描いた世界ではありません。目の前のこの現実は、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という私たちの身体に生まれつき備わっている直感により感知される、いわば人間特有の法則で動いている世界です。

人間の身体は、他の動物と同じように、その生存環境の中で、生き延びて子を産み育てるために便利なように物事を感じ取る。物事のそのような見え方を現実と受け取るようにできている。逆に言えば、現実とは、人類がその生存に便利なように物事を見て取る認知機構のことだといえる。

そうであるとすれば、猛獣や獲物の行動を予測したり、仲間との人間関係を予測したりすることがその生存にとってもっとも重要となる群棲動物である人類が、「あるものがある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」という物事の見取り方によって、身の周りの現実を予測し存在感を感じとっていることは、当然と思われます。

私たちの身体が物事をそのように見取るものだとすれば、その見取り方は、自分自身の身体の動きにも使われていると考えられます。仲間から見た自分の身体とその動き、つまり客観的に見た自分の行為、の結果をうまく予測できない人々は、確率的には、うまく生き残れないため子孫を残していない。その理由で、うまく生き残れた人々の子孫である私たちは、自分の行為というものを認知できる。私たちは、自分の行為を見取る場合にも、他人の行為を見取る場合と同じように、「人がある行為をするときは、その行為の結果を予測してその行為をするのだ」と見ている。

こうして、目的行動というものが作られる。こうして、人間が使う複雑な目的という認知の仕組みが作られる。

人類において特に発達した目的認知機構は、対象が動物、無生物、他人、あるいは自分自身である場合も、同じようにその運動を目的志向と見なしその目的を予測する。その目的を推測することで、私たちの周りに起こる将来の状況を予測する。それに反応して自動的に起こる自分の身体の動きを自分の意識的意図と思う。それを自分の行動の目的だと思う。そうして私たちの目的行動が作られていく。

私たちは(拙稿の見解では)こうして、自分がある行為をするときはある目的を持ってそれをしているのだ、と思うような身体になっています。そこからまた逆方向に、向こう側から私の身体を見ている他人もまた、私が持つ目的を認めることで、ある目的を持って、私に何かをしてくるのだと推測する。私の側としては、そこからまたさらに、その人の目的に関しての自分の行為の目的を考える。

このように、他者と自分との間で、目的認知の反射を繰り返すわけですね。いちいち書き出すととても煩雑になりますが、こういう複雑な判断を、私たちは常時、瞬時に、らくらくと実行している。人間どうしの間で、いつもエコーのように目的認知の反射反響が起こっている。再帰的にこの反射の繰り返しが進み、反射から反射が生成され、人間の使う目的認知機構は動物共通の単純な運動目的イメージから大きく飛躍する。

人間の脳に備わっている目的認知機構は(拙稿の見解では)、運動目的イメージを連鎖し合成して作られる行為の結果を予測する。その予測を概念化して仲間と共有する。こうすることで、行為とその結果として予測される状況変化が、目的認知機構によって概念化される。それを繰り返して、行為とそれによって変化する状況を連鎖的に予測し、その予測結果を総合して生成される状況空間を仲間と共有することで概念化する。

私たちはこうして、状況に対して行為を加えることで引き起こされる変化の法則性を学び、精度の高い予測機能を獲得する。

私たちの身体に備わっている右のような法則性を埋め込んだ目的認知機構は、行為の結果を再帰的に予測することで状況空間を生成します。この状況空間を仲間と共感することで、私たち人間は(拙稿の見解では)、同じ客観的世界を共有しています。

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