哲学の科学

science of philosophy

生きるという生き方(1)

2012-03-31 | xx9生きるという生き方

(29 生きるという生き方  begin    

29 生きるという生き方

親しい人の訃報を聞く。たとえばかつて机を並べた同僚だった人が、近頃見えないと思ったらがんで手遅れだった、通夜は今夜、などという話。

驚きに続いて感慨がおこります。もうあの人はいないのかと思うと、さびしい、というか何か強いむなしさのようなものを感じます。

いつもは会わなくてもときどきその人のことを考えることがあったりする人であれば、ふつうは、今どうしているか、あるいは今何を思っているかな、と想像します。私の消息など知らないだろうから私のことなどもう忘れてしまっているだろうけれども、もし今の私を見たらあの人はどう思うだろうか、などとちらっと想像したりもします。

ところがその人がもう死んでしまったとなると、いま何を思っているかという想像ができない。まったく意味がなくなってしまうからです。その人の思いなど想像する気がしなくなります。

そういうことは、もともと、それが想像できないからといって、現時点で仕事上の付き合い仲間でもなければ、とくに困ったことはないわけです。それでも、生きていたころとは、この世界が、その人がいなくなった分だけ違ってしまったような気がします。

楽しみにしていた連続ドラマが終わってしまったような、連載マンガが終わってしまったような、長編映画が終わってしまったような、一種のむなしさのようなものに近いのかもしれません。連続ドラマといっても歴史物のように筋が分かっているものは終末が予想できます。しかし寅さんのような人情物とか水戸黄門のような一幕物のワンパターンの繰り返しであれば、いつ終わるともしれず、見ているほうも終わりが来ると思っていませんね。

親しい人に限らすスターや作家や有名人など、同時代に生きていてその最近作品や最近の行動が報じられる人々。そういう人と今私たちが生きていると感じている人々。その人の訃報が報じられると、何か自分の中でも何か、たいていはとても小さな何かですが、無くなってしまったような気持ちになります。

私たちがよく知っているある人が死んでしまうということは、仕事仲間あるいは遊び仲間が減って困ったとか困らないとかいう生活上の問題はありますが、それとは別に身体が少し苦しくなるようなさびしさというものがあって、それはそういうところからくるのでしょう。

大した理由もなく、私たちは知っている人のことをふっと思い出します。その思い出す人が死んでしまった人か、生きている人か、の違いで思い出すときの感覚は違います。

同時代に生きている、今生きている人を思うことは、死んでしまった人を思うこととは根本的に違うところがあります。生きているということは、これから何かをするということです。何かをするか、何もしないか、の違いは決定的です。死んだ人は何もしないだろうと確信できますね。私たちから見てその人はもう絶対に何もしないだろうと確信できること、それが私たちにとっての、その人が死んだということの意味です。逆にいえば、私たちがその人は何かをするだろうと思えるということが、その人がいま生きているということでしょう。

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私はなぜ明日を語るのか(9)

2012-03-25 | xx8私はなぜ明日を語るのか

そもそも私たちは、なぜ忙しいのか? 

ふつう、明日あるいはこの数日の予定が多い人ほど今日も忙しい。当然、今日のうちに明日以降に備えて準備しなければならないからでしょう。現実に追われて、今すべきことを懸命にしているので忙しいのです。私たちは明日の自分を現実として身体で感じています。それだから今しなければならないことが現実として迫ってくるのでしょう。

そうであるとすれば、私たちは現在を生きる存在であるというよりも、明日を生きる存在である、ともいえます。逆にいえば明日がなければ私たちはない。「俺たちに明日はない」と本気で思っている人がいるとすれば、その人たちはふつうの人間ではない、ということですね。明日はないと思っている人たちがなぜ銀行強盗を働いてお金をためるのか?矛盾です。今日の欲望を満たすためだけの犯罪ならば銀行強盗よりも無銭飲食のほうが理屈に合っています。実際、人間以外の動物は無銭飲食はしますが銀行強盗はしません。

「俺たちに明日はない」という言葉は、分かりやすい。あの映画のタイトルにピッタリです。まあしかし比喩としては傑作ですが、本当に字句通りと受け取ると、あり得ない言葉です。明日を考えることのない人は(拙稿の見解では)物事の予測ができない。予測ができなければ人間の行動を言語で表せないので言葉を使いこなすことができません。言葉を理解できない人は、当然どんなセリフも言うことはありえないでしょう。

禅で日々之好日という。ラテン語の箴言でカルペディエム(carpe diem 一日を摘め)といいます。昔の賢人の言葉です。これはつまり、俺たちに明日はないと思って生きろ、という意味です。しかしどうでしょうか?こういう生き方は人間には不可能ですね。動物はできます。しかし私たち言葉を使う人間にはできない。人間は、人間以外の動物とここが違っています。

人間は言葉を使う。そもそも言葉を話すことは、仲間と物事の予測を共有することです。明日を思い描き、仲間とあるべき明日を予測することです。一人きりで考える場合でも同じことです。自分の中にいる仲間と語り合っている。

結局、人間の言語というものは、(拙稿の見解では)明日のために自分たちが今どうするか、を語る形になっている。

「××が○○をする」という人類共通の言語形式は、××はこれからのために○○をする、という背景の(コンテキストを)暗黙に前提としています(拙稿26章「『する』とは何か?」)。たとえば「俺たちに明日はない」という言葉を話した瞬間に、それだから俺たちは明日からどうしようか、という話を引き出してくる。そのために発される言葉であるという前提になっています。言葉というものは、どうしてもそうなってしまう構造になっています。したがってたとえ「日日之好日」という言葉であろうとも、これまた、それだから私たちは明日からどうしようか、という話に続くためになされているという構造を持っています。

つまり私たちは何を語ろうとも言葉を語る以上、必ず、それだから明日のために、あるいは今日これから、こうすべきだ、という話を仲間に語っているのです。これが(拙稿の見解では)人類の言語の基本的な構造です(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。

したがってそういうことであれば、私たちに明日はない、とか明日のことを思わない、とかいうことを言葉でいうこと自体、矛盾であるといわざるを得ません。

私たち人間にはだれにも明日がある。明日はいらない、必要ない、といっても明日はあってしまう。それは私たちが言葉を話す動物だからです。

私たち人類は身体の中に言語を作り出す機構を持っています(拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」)。それは脳に備わった器官であるといえますがそれを使わずには人間は生きられません。マグロが泳ぎ続けないと窒息してしまう(ラム換水呼吸という)ように、人間は生きている限り言葉を使い続けるしかありません。その器官が私たちの前に明日というものを作り出す。モグラが巣穴の中だけで生きるように、自分の身体が作り出したその明日という現実感覚の中を私たちは生きていきます。

空がなくては鳥が生きていけないように、海がなくてはクジラが生きていけないように、明日がなくては人は生きていけません。仮に今日死ぬことが分かっていても、私たちは(人あるいは自分に)明日を語ることしかできないでしょう。

(28  私はなぜ明日を語るのか end)

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私はなぜ明日を語るのか(8)

2012-03-17 | xx8私はなぜ明日を語るのか

この問題に関して拙稿の見解では、人間は仲間の集団的視線で自分の姿を客観視できることから言語が発生した、と考えます拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」 )。人間が、明日を語ることができるのも、また自分で自分の明日を想像することができるのも、どれも仲間の視線で自分の姿を外側から客観的に眺めることができるからでしょう。

逆にいえば、人類は、(拙稿の見解によれば)仲間の集団的視座を使うことで自分を客観的に見てとり、自分が感じ取る物事が客観的に存在することを確かめる仕組みを身体機構として脳の中に作り込むことで、自分自身を含めた客観的世界の変化を予測し物事をうまく操作できるような動物として進化した、といえます(拙稿第4章「世界という錯覚を共有する動物」 )。さらにこの能力が狩猟採集から農耕牧畜の生活形態を発展させ今日の科学文明に至る人類の発展を可能にしたともいえます。

たとえば科学者が実験あるいは観測によって物質変化を観察記録して科学理論を作る場合、前提となる基礎的な科学理論を真実と思いこみ、さらに観察した現象を真実と思いこむところから出発します。そのとき科学者である彼または彼女は、その基礎科学理論をなぜ真実と思いこむのでしょうか? それは、科学者の仲間のだれもが、あるいはだれもがではなくとも、少なくとも権威ある一群の科学者仲間がそれを真実だと思い込んでいることが明らかであると確信できる、という理由によります。つまり科学者の集団的視座によってその科学理論が真実であると認められるとき、それは真実となるわけです。このことは(拙稿の見解では)、百年前ごろの(論理実証主義 )哲学者たちによって盛んに議論された「科学にとって真実は何か」という問題に対する現代的な答えのひとつといえます。

科学者仲間での冗談として「科学的真実とはネイチャー に載ることである」といわれますが、これが真実に過ぎて冗談として言えなくなりつつあるのでしょう。

科学に限らず(拙稿の見解では)、人間が真実とか現実とか思っているもろもろの物事、たとえば物質や人間や社会や運勢の現象と法則、現状認識、実現性、傾向などが、なぜ真実といえるのか、その理由は結局、仲間の集団的視座から見てそれが真実としか思えない、というところにあるといえるでしょう。このことは単に理屈でそう思うということよりも、私たちの身体がいつの間にかそれを現実として受け入れるように動いてしまう、ということです。動いてしまうことで、それを、現実という感覚として感じ取る、ということもできるでしょう。なぜ身体がそう動くのか意識しないうちに動いているということが、まさに私たちの身体が現実というものをそうして受け入れている証拠といえます。

私たちはこうして(拙稿の見解では)現実を身体で感じ取り、身体感覚としてのその現実感覚を利用して言語を習得し使いこなしています。またその言語を使うことで仲間と共有する現実の感覚を容易に維持することができます。このような仕組みによって私たちは現実としての明日を感じ取り、明日のことを仲間と語り合って今日の行動を起こすという毎日を送っています。

このことはあまりにも当たり前なので、私たちは自分たちが言葉を使うことで現実を集団的に把握していることに気づいていません。私たちはまれに、言葉が全く通じない外国で孤独になったときなど特殊な状況で、現実が白昼夢のように頼りなく感じられる経験をしますが、すぐに仲間と通じ合うふつうの日常生活に戻るので、やはり現実の頼りなさを自覚することはあまりありません。

日常生活で、私たちはふつう十分に忙しい。たいていの毎日は、明日の準備で忙しいのです。

今日が木曜日ならば明日は金曜日の仕事がある。明日十時から共同事業の山田さんと来月の企画の打ち合わせがある。午後は二時までに部内会議に出席しなければならない。今日が金曜日ならば、明日は土曜日で仕事がない。その代わりに午前中はテレビでサッカー実況を見なければならない。午後からは繁華街にでかけて遅い昼食をとってからショッピングモールでウィンドブレーカーを探さなければならない。

それら明日の予定は、別にじっくりと作戦を練って考えたわけではなく、なんとなく当然のごとく、仲間(あるいは家族)に合わせているというか、自分としても身体がそういう気持ちになっているからそうしようと私は思っている、ということです。

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私はなぜ明日を語るのか(7)

2012-03-10 | xx8私はなぜ明日を語るのか

演劇や演奏会など特に緊張を要する行動でなくとも、私たちはいつも頭の中で明日のリハーサルをしている、といえます。それは簡単に一瞬の想像である場合が多いですが、明日の天気と外出のための服装などリハーサルのように思い浮かべます。あるいは手帳に買い物のメモを書いておく。あるいは会話や携帯電話や電子メールで明日の予定を誰かと確認する。そういう想像や書き込みや会話のために身体を動かすことで、異臭のリハーサルをしたことになるのでしょう。そういう明日の予測やリハーサルをすることで(拙稿の見解では)明日が私たちにとって現実となっていきます。

私たちにとって、今日の行動は明日の現実につながっています。逆に、私たちにとっての明日の現実は今日の行動からできあがっている、といえます。それだからこそ、明日というものをいつも私たちは思い描いていてそれについて人と語り合うのでしょう。

そうであれば、私が今していることは、たとえば誰かと電話していることや、メールを書いていることは、明日の私のためになるからそれをしている、といえます。その理由を私は実は知っている。言葉で言えない場合も多いし、意識に上っていないことも多そうですが、少なくとも私の身体がそのように明日のために動いているということは、その理由を私の身体が納得しているということです。

そういうときの私は明日の私の気持ちになっています。そうであるから自然に身体が動いて明日のために今日すべきことをしてしまいます。特にむずかしく作戦を立てて一日前になすべきことを決めているわけではなく、ごくふつうに明日の自分をばくぜんと思うだけで、私たちはすぐに身体が動いていくようになっています。

これは(拙稿の見解では)人間特有の身体の仕組みであるようで、人間以外の動物はこれができないようです。動物は明日の自分という想像をしませんから、これができないのは当然でしょう。ふつう動物はそんなことをする必要がありません。動物のおかれたふつうの事情としては、現在の身体が置かれた周辺状況にすばやく対応することのほうがずっと大事です。おいしそうなものがあれば、一秒でも早くそれに食いつくべきです。今感じ取っている匂いとか、目に映る光景に瞬時に反応して身体が動いています。人間の赤ちゃんも同じですね。明日のことを考えて準備したり、目の前のものをすぐ取らないで取っておいたりするようなことはしません。

ところが、私たち大人の人間は(動物あるいは赤ちゃんと違って)、想像できる明日の予想に対応して身体が動く場合が多い。明日、お客さんが来ると思えば、トイレの掃除などします。

私たち大人の人間は、現在の周辺環境に対応して身体の神経系、筋肉、分泌腺などが作動するばかりでなく、明日の自分が置かれると予測される環境にも対応して身体作用が起こる、といえます。このことは、人間にとっては明日の自分、あるいは明日になれば他人に見られる自分、というものが生々しい現実として身体に作用し反射的な身体運動、自律神経の興奮、内分泌外分泌などを引き起こす、といえます。そういう意味で、明日は今日の現実に含まれる、といえるでしょう。

子供も幼稚園くらいになると、明日の遠足を想像するのが楽しくて夜寝られなくなったりする。これはなぜなのでしょうか? まず、言葉が分かるようになっているので、言葉で言われたことを素直に想像するからでしょう。お友達とバスに乗って知らない楽しいところに行ってお弁当を食べることを想像すると、楽しそうで身体全体がうきうきする気分になります。実際、身体の自律神経系と内分泌系は興奮状態になってなかなか睡眠状態になれない。つまり身体は明日の予測状況に反応する。子供をその気にさせるのは、言葉だけではふつう不十分で、お弁当の箱を見せたり、親が一緒にバッグや衣服を準備したりしていると、だんだん興奮が高まってきます。

言葉の分からない赤ちゃんにそういうことを話しかけたり、明日の衣服を見せたりしてみても、こういうことは起きませんね。

明日になったときの自分が置かれるであろう状況を想像すること、昨日までの過去として自分の経験を記憶(自伝的記憶

)していること、他人から見える自分を想像すること、これらは皆、赤ちゃんにはできません。三歳くらいから上の子供と大人、つまり言葉を話す人間にしかできないことのようです。

一言でいえば、客観的に自分を見ることができる、ということでしょう。たしかに人間以外の動物や言葉を使えない赤ちゃんは、明日に向けたこういう想像ができるようには見えません。言語というものが、明日を想像するという人間特有の能力に深く関係していると考えられます。言語が使えるから、こういうふうに自分を客観的にみることができるのか? あるいは逆に、自分を客観視できるから言語が話せるのか? ニワトリが先か、卵が先か、分かりにくい話です。

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私はなぜ明日を語るのか(6)

2012-03-04 | xx8私はなぜ明日を語るのか

拙稿本章の興味としては、私たちが明日と思っているものが私たちの現在の行動を決めている、つまり私たちにとっての現実である、という点です。私たちは明日の自分の状況を予測し、それがどの程度実現しそうなのかを予測し、明日になったときの自分の気持ちを予測し、明日の自分に乗り移ってその気持ちになり、その明日の自分として現在の自分を操って明日に役立つ行動をさせる。そのメカニズムはどう作られているのでしょうか?

私たちは明日の自分が読むために本を購入し、あるいは深夜のテレビを録画し、明日の自分が着るために服を洗濯しアイロンをかけ、またレストランを予約します。私たちの今日の行動は、ほとんど明日のため、あるいは明日以降の日々のために行なわれています。まるで私たちはここにあるこの身体ではなくて、予想される明日の自分の身体であるかのようです。現在の私たちは、明日になったら現れるであろう明日の私たちの身体のために懸命に奉仕するようにできているのでしょうか?

動物は身の回りの環境の変化に対応して動きます。その環境は感覚器官を通じて感じ取る現在の環境です。人間ももちろん、そうしていますが、それ以上に明日の予測される状況に対応して現在の行動を起こす。つまり人間においては、現在感知している環境と明日の予測によって感知される未来の環境とが同じように行動を誘発するように見えます。あるいは現在の環境よりも明日の想定される環境によって私たちの行動は起こされる、というほうが正しい場合が多いと思われます。人間の身体は、明日の予測環境によって、現在の環境によると同じくらい、あるいはもっと強く行動を誘発される。私たちの身体は、そういう仕組みになっているようです。

明日の予測が確実であると感じられれば感じられる程、明日に備えて身体が動きだす。明日は朝早くから背広を着て出掛けるという予定になっていれば、ワイシャツにアイロンをかけておきます。明日朝にはパリッとしたシャツに袖を通したい、という気持ちがそれをさせます。明日朝にパリッとしたシャツに袖を通している私の姿を想像すると、今すぐにそれをしたくなります。

動物はそれをしないでしょう。動物はシャツを着ないからそうしないという理由もありますが、それよりも、動物は明日を知らないからです。明日を想像しないから、といえます。

人間は明日の状況を想像する。想像した状況が現在目の前にあるように身体が動く、といえます。つまり人間は現在とは違う状況を現実であるかのように想像することができる。その仕組みが明日に向けての人間特有の行動様式を作っています。この仕組みは脳の中でリハーサルをするようなものでしょう。

演劇などでは上演前にリハーサルをします。オーケストラの演奏会前にも、ロケットの打ち上げ前にも、ふつう入念なリハーサルをします。リハーサルは何のためにするのか? リハーサルなしでぶっつけ本番をすると、失敗が多い。そういうことを私たちは経験で知っています。皆の息が合わないとか、勘違いがあるとか、急にあがってしまって演技が続けられないとか、機械が設計通りに動いてくれないとか、いろいろ困ったことが、本番では起きます。

リハーサルは、これからする本番の場面を予測して、実際に身体を使って本番と同じように動いてみることで経験済みにしておくことです。経験済みのことを繰り返すと未経験の場合よりも、明らかにうまくいきます。慣れるとうまくなる、ということです。

ちなみに繰り返しは、慣れすぎるとなれ合いになったりして、かえってうまくいかなかったりします。演劇や音楽リサイタルなどでは、リハーサルは、一回か二回くらいにしておくほうがよい、といわれています。それもドレスリハーサルのように本番そっくりのリハーサルをすべきかどうかには意見が分かれて、本番そっくりにはしないほうが本番のときに適度な緊張感が保ててよい、というプロの演技者の意見もあるそうです。

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