哲学の科学

science of philosophy

この世に神秘はない(5)

2013-04-27 | xxx4この世に神秘はない

私の内面の感覚感情とは無関係に存在する現実世界と、その中にある私だけにしか感じられない自分の内面。私たちが感じ取る物事のこの二面性は、この世の神秘の極みともいえます(拙稿24章「世界の構造と起源」 )。

 

 

だれもが現実として感じ取ることができない自分の内面は本当に存在しているのか、それとも幻影なのか、あるいは目の前の現実は本当に存在しているのか、それともそれが幻影なのか? 

 

自分の内面が嘘なのか、あるいは目の前の現実が嘘なのか、どちらかが嘘でないとおかしいのか、おかしくないのか、その矛盾さえも私たちははっきり自覚できない。それを混乱というか神秘というか? 話せば話すほど、分かりにくくなってしまう。この話はなぜこうなってしまうのでしょうか?

 

 

 

古来、この神秘は、哲学者を悩ませ、また科学者をも悩ませてきましたが、拙稿の見解では、これも人類特有の身体のつくりが引き起こす神秘感のひとつであって、それ自体が神秘ということにはならない、といえます。

 

人類共通の神経機構が(拙稿の見解では)集団的に共鳴を起こすことで現実が現れ、また同時に自分の内面というものが作られてくる、というべきでしょう(拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」 )。つまり現実も内面も、物質も精神も、私たち人間の身体のつくりがそれらを存在させている、と考えれば、神秘はありません。

 

 

現実世界全体は私が感じることの一部分であり、私の内面もまた私が感じることの一部分である。つまり(拙稿の見解では)どちらにしても私の身体が感じるもろもろの(かゆいとか暑いとか暑苦しいとか息苦しいとか見苦しいとかいう雑多な)事柄の一部分であって、決してすべてではない、と考えられます。

 

現実ではない内面を感じることがおかしい、という必要もないし、私が感じるものしか現実には存在しないという必要もないでしょう。

 

ですから、この現実世界があるということが神秘だ(一九二一年 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』既出、拙稿25章「存在は理論なのか?」17)というのも間違いであるし、私は考えるがゆえに私が存在するということが神秘だ(一六三七年 ルネ・デカルト方法序説 』既出)、ということも間違いです。つまりこの世の中にも私の中にも、どこにも神秘はない、といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(4)

2013-04-20 | xxx4この世に神秘はない

このいわゆる心脳問題、ハードプロブレム 。これが別の形を取ると、いわゆる存在感、リアリティ、あるいはクオリア、といわれる感覚に関する神秘が現れます。私たちの目に見えるものはすべて物質です。私たちの目の前に広がっている物質の風景、リンゴ、机、パソコン、猫、隣の奥さん、太陽、というような目に見える物質のかたまりは、もちろん、明らかに存在している、と思われます。しかし、それらは単に存在しているばかりでなく、私たちの身体は、その存在感をはっきりと感じ取っています。

 

 

この存在感はどこから来るのか? たとえば、このリンゴの赤さ、この赤々とした鮮明な色彩は、いったい何を意味しているのか?赤色波長帯の光を反射していることは明らかに分かりますが、この鮮やかな赤の存在感は光の波長分布をいくら精密に測定しても分からないではないか(二〇〇六年 ニコラス・ハンフリー赤を見る:意識の研究[邦訳: ニコラスハンフリー (著) 赤を見る?感覚の進化と意識の存在理由] 』既出)、という問題です。

 

 

あるいは、隣の奥さん。その人はあまりにも生き生きと存在していると感じられるので、急いでいるときでも、きちんと挨拶しないわけにはいきません。話しかけられたりしたら電車に間に合わなくなりそうで、いやだなと思ってしまったりします。

 

このように目の前の現実は、単に物質として存在しているばかりでなく、私たちの心に働きかけ、その存在感をはっきりとあらわしています。リンゴはリンゴらしく、パソコンはパソコンらしく、猫は猫らしく存在している。それぞれに特有な存在感を持って存在しています。

 

それは私たちに意識があるからだ、といわれれば、そうだろうな、と思えます。リンゴのこの赤を感じ取っている私の感覚器官もまた物質である分子原子でできているけれども、この赤のこの赤い感じ、このあざやかさは目の感覚細胞や脳の神経細胞、それらを構成している分子原子などの物質そのものとは別にこの世に存在しているはずだ、と思えます。物質でできているこの世界に物質でなさそうな存在感、その感覚経験というものがある、としか思えません。

 

感覚経験から心に突き刺さる現実のこの神秘的な存在感(クオリアという)を語れば人は分かってくれるのではないか? 人々とそれを共感することでこの現実世界の真実をさらにしっかり捕まえてみたい(拙稿4章「世界という錯覚を共有する動物」)、という思いが私たちにこの世の神秘を語らせています。

 

この現実がここにある不思議、私の心がこの現実を感じ取っている不思議、その神秘。この現実はなぜこのようであり、なぜここにあるのか、この現実を感じ取る私がなぜここにいるのか、その神秘を私たちは人に語りたくなります(拙稿25章「存在は理論なのか?」)。

 

しかし私たちはそれを語ることができない。私たちが何かを語ろうとすれば、それは現実について語るしかありません。人類の言語はだれもが目で見て手で触ることができる現実についてしか語ることができない。もしそうである(だれもが目で見て手で触ることができる現実についてしか語ることができない人類の言語で私たちは語り合うことしかできない)とすれば、私たちは結局、自分の内面を語ることはできない拙稿32章「私はなぜ現実に生きているのか?」

 

あなたの身体が私の身体であるとしたら、あなたは私の内面の気持ちを感じることができるだろう。しかし現実にはあなたの身体は私の身体ではないのだから、私の気持ちを感じ取ることはできない。この当たり前の事実に気づかないふりをして、私たちは心を通じ合おうとします。しかし、無理でしょう。私たちは言葉を使ってしか通じ合うことはできない。言語の限界が、通じ合いの限界となっています。人間の言語は(拙稿の見解によれば)目に見える現実しか語ることはできない。言語によって人間の内面を語ることはできません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(3)

2013-04-13 | xxx4この世に神秘はない

そこで人間にとって残る問題は、この自然現象(生命現象)に関して、人はなぜ神秘感を持つのか?命の存在感はどこからくるか、という問題です。つまり動物を見たときの人間の脳の反応の問題です(拙稿7章「命はなぜあるのか)。

 

人間に限らず視覚を持つ動物に共通の神経反射として、視覚により自律的な運動を視認すると注視、後退あるいは追跡などの行動が引き起こされる仕組みがあります。人類においても、無意識の反射運動として、動物などの運動を視認した瞬間、身体が身構えるように働く神経機構があります。

 

自分の身体のこの神経機構の反応を自覚した場合、人は「生きている」という言葉で表現するようになったのでしょう。たとえば、動物のような物体が規則的に膨張収縮を繰り返す運動をしている場面を観察した場合、「息をしている」、「いきてる」という言葉ができた、と思われます。

 

生きているものが持っていて死んだものが持っていない何かがあるはずだ、と思う。その何かを「いのち」ということにする。そうして生命という概念が作られてきます。このように生命という概念は、動物の運動に触発される私たち人間の身体的反射運動とそれを知覚した場合に私たちが感じ取る直感から来ています。

 

生死の区別、あるいは生物と無生物の区別、あるいは生命の神秘、それらの謎は、生物学者や医学者に聞けば分かることではありません。その神秘は、生物体の中にあるのではなく、むしろ、その生物体を観察する人体の無意識の反射にあります。

 

生命進化現象は、それ自身が神秘なのではなく、それを観察する人間の内部に神秘感覚を引き起こすが故に神秘と感じられる、つまり、生命現象を観察する場合、人類の身体がそれを神秘と感じ取るように進化してきたが故にそれは神秘である、といえます。

 

 

 

さて生命のほかによく議論される神秘感の中でも、少し哲学的な感じがする神秘は、いわゆる意識、自己とは何か、唯物論(すべての存在は物質でしかない、という理論)対独我論(すべての存在は私の内部にしかない、という理論)、あるいは「死んだら私はどうなる」あるいは「自由意志は存在するか」、「意識は脳のどこにあるのか」というような問題に伴う神秘感でしょう。

 

いわゆる精神と物質、心身問題、心脳問題、認知科学のハードプロブレム。つまり、精神あるいは心というものは、主観的には自分の内面としてはっきり感じ取れるが、物質である自分の人体や脳のどこにあるのか分からない。物質として見つけられるとは思えない。自分の身体が死んだら自分の心はどうなるのか直感ではさっぱり分からない。つまり自分の内面は現実世界のどこにも見つからない、という問題です。

 

これは人類最大の問題ではないか、という見方もできる(拙稿23章「人類最大の謎」 )。

 

 

内面として感じられる自己とは何か、という謎。現実の中にあるのは物質としての自分の身体だけであって、それは自分の内面とは違う。現実の中にあるものは、自分の身分証明書、氏名、写真、肩書き、戸籍、系図、家族、友人、友人が思う自分、というようなだれの目にも見えるものです。それらは他人にとっての自分であって、自分が感じ取る内面の自分とは違う(拙稿33章「現実に徹する人々」 )。自分の内面は、自分にだけはこんなにもはっきりと感じ取れるのに、現実世界のどこにも存在しないのではないか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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この世に神秘はない(2)

2013-04-07 | xxx4この世に神秘はない

人間と共に神秘はある。つまり、(拙稿の見解では)人間の脳には神秘を感じ取る感覚がある。そこからあらゆる神秘現象は来る。

 

これは進化の結果、人類が獲得した生存に有利な感覚、あるいは反射なのでしょう。大いなる未知に遭遇したときは、素直にショックを受け、立ち止まり、後ずさりする。安易に前に進まない。そういう身体の反応です。

 

真っ暗な森の中を、暗黒に神秘を感じず、恐れを知らずにずんずん進んでいく人間は、猛獣や毒蛇にかまれたり野蛮な他部族に殺されたりして子孫を残せなかったでしょう。

 

よく分からない物事には神秘を感じる。その感覚を、ここでは、神秘感ということにしましょう。神秘感という感情も、それ自身は、もちろん神秘的なものではありません。ホモサピエンスの脳が作り出す錯覚です。生存に有利な錯覚には違いありません。

 

私たち人間は、神秘には神秘を感じる。私たちの身体はそのようにできている。そうではあるとしてもそれは錯覚でしかない。私たちの身体が神秘を感じるからそれは神秘だ、ということになります。(拙稿の見解では)この世の中にも、この世の外にも、どこにも神秘はない。ただし人間の脳は錯覚の存在感と神秘感を感じる機構を持っています。

 

だれもが神秘は感じる。神秘を感じる人類だけが生き残ってその子孫が私たち現生人類になったからです。(拙稿14章「それでも科学は存在するのか)。そうであるとしても、それらの自然現象を神秘と感じるように人間の脳が作られているということと、それが神秘だということとは違う(拙稿13章「存在はなぜ存在するのか )。

 

 

 

 

たとえばテレビ、新聞などの常套句として、生命の神秘、という。しかし

科学にとって生命現象は、神秘なところはないふつうの自然現象です。

 

常温常圧の物理法則が成り立つ地球表面のような環境で、核酸あるいはそれとタンパク質の組み合わせのような自己複製機能を持つ高分子構造が一度できあがればその後は分子進化によって生命現象が起こる。平均数十億年の時間がかかると推定される化学反応ですが、結局は人類のような複雑な物質システムが自己増殖する現象が起こりうる確率過程です。

 

私たち人間が今のところ知る限りでは、そのような高分子化学反応の現象が地球上で一度は起こった、ということです。一つの惑星の表面で数十億年かかる反応であれば、二回以上これが起こった惑星はないでしょう。実際、太陽系では地球のほかに顕著な生命現象は発見されていません。しかし宇宙には太陽系のほかに種々の惑星系が理論上、兆の単位で存在するはずなので、そのうちの多数の惑星系で生命現象、あるいは人類程度に複雑な知的生命体が進化しているはずだ、という理論的結論になります。

 

生物進化は、確かに惑星の地質的変化に伴う数十億年という時間を要する現象ではありますが、物理化学の法則だけに従って自然に起こる現象には違いありません。この超長期の自然現象を生命現象と呼ぶとしても、それは、複雑ではあるが、水の蒸発などと同じような自然現象が積み重なった大規模の連鎖過程であるにすぎない。神秘はない、といえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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