哲学の科学

science of philosophy

人類言語はなぜ万能なのか(8)

2015-07-25 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

人間は、自分たちの行動(たとえば外出する)に影響を及ぼす現実の変化(雨が降るか)を予測する必要を感じます。その予測に応じてこれからの行動を対応させる(傘を持つか持たないか)必要があるからです。行動に影響を及ぼす因子(雨模様)に注目し、それがあたかも仲間の人間であるかのごとく(擬人化)その気持ちに乗り移って(憑依)行動を予測し(雨が降りそう!)それを仲間と共有する(メールする)。そのような認知行動を表現できる効率的な構造を人類言語は持っています。
逆にいえば、このような認知行動を仲間との群行動として実行する手段として効率的であったから言語が発生し進化した、といえます。
人間が知る必要がある物事の表現がこのような構造を持つ限り、言語の構造と同じ形をとるので、当然、それは言語で表現できます。人間が知りたいと思うことがすべて言語で表現できれば、私たちはすべてのことは言語で語ることができると思う。結果的に、言語はすべての物事を語ることができる。つまり万能である、といえます。

なぜ言語は万能なのか?その答えは分かりました。トリビアルな自明な答えである、といえます。まあ、スフィンクスのなぞ賭けのように、難問の答えはたいていトリビアルではあります。
はじめに言葉ありき、とか、人類言語は神聖であるとか、最高の神秘であるとか昔からいわれていますが、たしかにそうであるような気もします。一方、言語も生物現象のひとつにすぎないのであれば、アミノ酸のように小さなつまらない自明が多様に重ねあわせられ、淘汰による選択を受けてできあがるものであることは当然でしょう。

人類言語は(拙稿の見解では)神聖でも神秘でもないふつうの生物現象です。ただ私たちが生きている社会全体がその(言語システムの)内部に含まれており、さらにその社会の中で私たちが会話し社会活動をし、文章を書きマスコミを作り、科学や哲学を読み書きしている限り、私たちにとってすべては言語の内部にあると感じられるには違いありません。
そしてなぜ私たちがそうしているかと考えれば、私たち人間が社会の中でしたいことのほとんどすべてをできるように作られた道具が言語であることが分かります。そうであるから、人類言語は当然万能であり万能であるしかない、といえます。■









(46 人類言語はなぜ万能なのか? end)




Banner_01

コメント

人類言語はなぜ万能なのか(7)

2015-07-18 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

言語は言語で表現できるものに関しては万能であるが、言語で表現できない多くのものに関してはそうでない、ということが正しい。
さて言語で表現できるものに関して、なぜ私たちは、言語が万能であると思うのか?それは私たちが知りたいことはすべて言語で表現できるから、といえます。逆にいえば、言語で表現できるようなことだけを人間は知りたいと思うような身体になっているから、ともいえます。

人類だけが言語を話す。それは人類だけが言語で表現されるようなことを認知しようとする身体を持っているからでしょう。言語で認知される事柄は、言語では認知されない事柄とは認知の形が違うという特徴を持っています。
言語で認知される事柄は仲間と共有されますが、言語では認知されない事柄は共有されません。言語で認知される事柄は、時間と場所、それが起こった理由、それが引き起こす予測などコンテキストを伴って記憶されます。心理学でいうエピソード記憶となります。一方、言語では認知されない事柄は定かな記憶を作らないか、記憶ができてもコンテキストを伴わず断片的な身体感覚の記憶としかなりません。
人間は(拙稿の見解によれば)仲間との運動共鳴を使って、現実世界の変化を精密かつ長期的に予測する。ここで精密とは多くの因子の相互関係を描写することであり、長期的とは数時間後あるいは数日ないし数ヵ月後の結果を予測することです。人類以外の動物はこれをしないので、目の前の事態だけに注目し、時間的にも数秒後ないし数分後くらいしか予測できません。
人類は、その生活を支える最重要な栄養補給と繁殖に関して、この仲間との連携による精密かつ長期的な予測能力に大きく依存しています。人間の物事を知りたいと思う欲求は進化上、認知に関するこの集団的予測能力の淘汰圧で作られてきたものと推測できます。そうであるとすれば、仲間との運動共鳴を表現する人類言語の構造が、そのような認知の欲求すなわち仲間と共有する現実の将来予測を表現する構造に収束していくことは当然であろうと納得できます。








Banner_01

コメント

人類言語はなぜ万能なのか(6)

2015-07-10 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

次に、そよ風のそよそよ感。これは言語で完全に表現できるのか?
「この風は気持ちがいい」と友人に言う。「ほんと」と友人は風を顔に当てながら言います。このとき、その風のことは完全に語り合えている。言語表現は完全です。その風について語る必要があることはすべて語っています。
しかし、これが昨日のそよ風について語り合う場合はどうでしょうか?
「今日は全然風がないな。昨日は、そよ風が吹いていて気持ちよかったのに」「あれ、僕は昨日、ずっと家の中にいたから風にあたっていないよ」という会話をするとき、体感で感じる風は今ありません。言葉から昨日のそよ風を想像することになります。こういう場合、言語は必要なことを語れていません。何を語りたいのか、すこしぼやけてくる。まあ、いいや、分かった分かった、とは思いますが、実は完全には理解しあえません。
では、あなたへの愛についてはどうか?言葉で語って伝わる場合は想像しにくい。ふつうむずかしいだろう、と思えますね。言語は必要なことを表現できません。

拙稿で、言語は万能である、というときの万能とはすべての存在を語ることができることをいいます。逆に言えば、言語が万能でないとすれば言語で語ることができない存在があることになります。そういうような存在は存在といえるのか?
言葉でいえないようなものは何か、はっきりとは分からないものでしょう。言葉でいえない悲しみとか、言葉でいえないおいしさとか、感情的感覚的なもの、あるいは世界経済の動向とか音楽の美しさ、あるいは存在の耐えられない軽さ、などなど、複雑すぎる微妙すぎる、口ではいえないものなど、です。こういうものはむしろ言葉でいえないからこそ、非常に重要なものが多い。私たちの生活は実は、これら言葉にいえないものを相手にしての戦いです。
もし言語というものが生活、人生に重要なこれらのものに関して予測もできないし操作もできない、というならば、言語が万能である、などとは思えません。











Banner_01

コメント

人類言語はなぜ万能なのか(5)

2015-07-04 | yy46人類言語はなぜ万能なのか

言語の万能性を調べるために、ここでは逆に、言語は万能ではない、という仮説を立ててそれが証明できるかどうかをチェックしてみましょう。
言語が万能でないとすると言語で表現できないことがあるはずです。その候補は、いろいろ考えられます。私の心、愛情、神様、体の痛み、気持ちよさ、悔しさ、うんざり気分、風のそよそよ感、美人の美しさ、などなどいくらでも挙げられそうです。
では、まず分かりやすい手堅そうなものから挙げていきましょう。

物質の状態を正確に記述すること。これは現代科学を駆使すれば完璧にできそうですが、どうでしょうか?この世の物質の中で記述が一番むずかしそうなものといえば、たとえば、私自身の脳、などでしょうか。これは手ごわそうです。現代科学を駆使してもむずかしい。脳の断面画像などいくらとっても、そこに何が映っているのか、を説明できるほど科学知識は進んでいません。
まあしかし、科学は進歩する。百年もすれば脳細胞の一個一個の内部構造も可視化できるかもしれません。ここではできると仮定しましょう。いっそ二百年後くらいには原子間エネルギー遷移構造も可視化できるとしましょう。どのDNAのどこそこがどうねじれていて、酵素分子がどうからんでいるか、言葉と数字データできちんと記述できます。もっと詳しく記述したければ、原子レベルのエネルギー表をデータ形式で記述すれば時間的空間的遷移を完全に記述できるでしょう。
このようにコンピュータデータで記述していけば、原理的には素粒子レベルのデータとしてどのような物質状態も記述できます。コンピュータや文字や数学も人類言語の補助装置とみなしてよいとすれば、世界の物質的現実についてはすべて言語で記述できるといえます。
そうであると思えば、言語はかなり万能という気がしますね。

では次に、ミロのビーナスの美しさは、言語で表現できるのか?どうでしょうか?
ビーナス像の美しさとは何か?百聞は一見にしかず。ルーブルに行ってそれを自分の目で見なければ、美しさは分からない、といわれます。もっともです。では、ルーブルの本物を見ると何が分かるのか?
意外と大きいな、とか、小さい傷が多いな、とか分かる。美しいかどうか?「うつくしい!」という人が多い。「ふうん・・・」と言ったきり言葉が続かない人も多い。それで結局は「ミロのビーナス像は世界一美しい」という一般的評価に賛同して帰ってくる。ミロの美しさにはっきり反論して認められる人はほとんどいない、という結果になっています。そういう事情で、ミロのビーナス像は世界一美しいということになっている。
結局、ミロのビーナスの美しさは「ミロのビーナス像は世界一美しいということになっている」という言葉で表現されています。つまりこれで、ビーナスの美しさは完全に言語で語られている、といえます。











Banner_01

コメント

文献