哲学の科学

science of philosophy

私はなぜ息をするのか(14)

2009-08-29 | xx0私はなぜ息をするのか

XがYをする。(X、Y)と書ける。このとき、Xはだれでもよくて、他人でもよいし自分でもよい。ただしこのときYはどんな行為でもよい、ということではない。Xとは、Yという行為をするようなものであってXと分かるような特徴を持っているものである。

XとYとは互いに制限しあう。「A君が息をする」とは言えても、「コップが息をする」とは言えない。「息をする」という行為をするものとしないものとがある。「Xが息をする」と言えるようなXは、私たちがそれに憑依して、運動共鳴によって息をするという行為のシミュレーションができるようなものでなくてはなりません。

こういうことは言葉をしゃべる前から、無意識に分かっている。身体で分かっている。言葉を理解し始めた幼児は、言葉の使い方と同時にこのことが分かってきます。何が息をしていて、何が息をしていないか? 幼児はしつこく親に聞く。

「ママ、ママ、コップは息しているの? コップは、息してるの? ねえ、ねえ、ママ?」と質問を繰り返しながら、「息をする」というシミュレーションを学習しているのです。息をしているものは体内に空気を出し入れしている。だから、そのものを水中に沈めてしまえば、息ができなくなる。息苦しいだろう。息ができないと生きていけない。幼児はそういうことが分かってきます。

いろいろな(X、Y)を覚えていくと、世界が分節化してくる。たとえば、世界のものは、息をするものと息をしないものに分けられる。つまり、私たちが憑依して「息をする」というシミュレーションをできるものとできないものとに分けていく。こういう知識を蓄えていくことで、私たちは世界を探索し、物事を実用的に仕分けることができる。そしてこれらの知識が言語を支えている。

私たちは、私たちの知っているシミュレーションを使って物事の予測ができる。今から世界がどう変わっていくのかを予測できる。世界の分節化は、運動共鳴と言語の使用によって仲間と共有できていきますから、私たちは物事に対応して協力しながら集団的な予測をして将来のために計画を立てることができる。こうして私たちは、分節化された世界の中で、仲間と協力しながら、変化する物事を予測し、危険を避け、有益なものを拾い集めることで生活に必要な計画をつねに更新しながら暮らしています。

たとえば、

「えーと。A君はどこ?」

「A君は、向こうのほうへ歩いていきました」

「何しにいったのかな?」

「さあ、トイレじゃないですか」

「ああそう。じゃあ戻るまで待とう」

こういう場合、この場にいる私たちは、(A君、トイレに行く)というシミュレーションを全員が共有している。それによって私たちは、A君がトイレに行ってしまった、という新しい事態に対応する計画更新を行って大過なく集団生活を続けることができる。

ここで重要なことは、私たち全員が、A君がこれからどのような行動をするかについて予測ができている、ということです。(A君、トイレに行く)という事態を把握すれば、この後、A君は何をするか予測できる。つまり、A君は、(大か小か、という多少の違いはあっても)いずれにしろ十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測ができる。こういうことを予測できることが(A君、トイレに行く)という事態を認知することの本質です。

もちろん、予測はコンテキストに依存する。特殊なコンテキストでは、事態は違ってきます。たとえば、食中毒が疑われている場合、(A君、トイレに行く)という事態は深刻な予測につながります。まあ、ここでは、そういう特殊なコンテキストではなく、ふつうの場面を想像してください。

(A君、トイレに行く)という事態に際して、ふつう私たち全員が、A君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、という予測をする。私たちはなぜそういう予測をするのでしょうか?

(A君、トイレに行く)という場合、A君は人間です。ロボットではありません。仮にロボットの場合、(ロボットのA君、トイレに行く)となりますが、こうなるとこの後どういうことになるのか、予測はむずかしい。特殊なロボットなら別ですが、ふつうロボットはトイレには用がない。ロボットが何をしにトイレに行ったのか? だれもが首をひねってしまうでしょう。つまりこの場合、予測を共有することができない。

では話を元に戻して、やはりA君は人間であるとする。そうすると、(A君、トイレに行く)という事態のその後の予測は簡単になる。私たちのだれもが、A君は何をしにトイレに行くのか、よく分かる。そしてA君は十分くらいでトイレを済ませてここへ戻ってくるだろう、となりますね。しかし、A君がロボットなのか人間なのかで、なぜ予測が違ってくるのでしょうか?

それは私たちがロボットの身体を持っていなくて、人間の身体を持っているからです。

人間に関しては、(人間のA君、トイレに行く) という行為一般について私たちだれもが共通の知識を持っている。つまり、「人間はトイレに行きたくなるとトイレに行って十分くらいですまして、すっきりしてもとの活動に戻るものである」という知識です。

ロボットに関しては、私たちにこういう共通の知識はない。私たちはロボットではないから、ロボットがトイレに行くとするとどういう気持ちなのか、何をしたくてトイレへ行く気になるのか、さっぱり分からない。それは私たちがロボットの身体を持っていないからです。だから、(X,トイレに行く)という表現はXがロボットの場合には使えない。意味がある表現になっていない。

(ロボットのA君、トイレに行く)。

この表現は、私たちだれもが共通に分かるような意味を持っていないからです。

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私はなぜ息をするのか(13)

2009-08-22 | xx0私はなぜ息をするのか

こうして、憑依と運動共鳴を使う予測によって、私たちはこの世界を感知する。これによって客観的な物質世界(「現実1」―拙稿19章「私はここにいる」)が構成される。

また、擬人化を使って、憑依できるようなXと、運動共鳴によって予測できる行為Yの組み合わせ(X、Y)を音節列に対応させて人々が共有すれば、言語が構成されます拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」

また、私たちは、コンテキストとともに(X、Y)で表される物事を記憶する。つまり、いつ、どこで、どういう周辺状況(あるいは社会状況)でXがYをして、どうなると予測されて実際どうなったか、を記憶する。感情をともなって、それを記憶し学習する。そういう物事で構成される世界を仲間と共有し、現実として記憶する。

実際、私たち人間はこのようにだれもが同じように現実を記憶し学習する能力を持っている。そのおかげで、人間は言語を習得し社会を維持し、その中で生存と繁殖を持続する動物となっている。逆にいえば、そうして人間だれもが同じように感じとれるものを、私たちは現実と言っている。

ちなみに、途中から拙稿をお読みになっている読者のためにご案内すると、ここで使われている憑依という語は拙稿特有の用語です。もともとは「狐が憑依する」というような文例につかう語ですね。これを援用して、拙稿では、他人の身体に乗り移ったように自分の身体が動きそうになることでその人の身体の動かし方が無意識のうちに分かるというごくありふれた現象を、「その人に憑依する」という言い方でいうことにしました。

あまりうまい造語ではないような気もしますが、表現を簡潔にするには便利なので導入したしだいです。筆者は言葉使いに関しても不調法な上に単純な便宜主義者でして、しかも語感に鈍いので、とりあえず思いついたこの語を安直に使っています。この用語に特に執着があるとか、この語を使って(神秘主義的なものとか)ある種の文学的な雰囲気を出したいとかいうような気はいっさいございません。ましてこの語を普及させたいなどという大それた野心は、筆者にはまったくありません。どなたか、もっとよい用語を思いついたら教えてください。すぐ取り替えます。また、たぶんないでしょうが、この語をこのように使うことで万一どなたかに失礼となっているようならば、言っていただければお詫びの上改めます。

さて、拙稿で使う憑依という語は、語感からは神秘主義の用語あるいは形而上学的表現、または心理学的表現、のようにも聞こえますが、筆者としてはそういう含意はまったく意図していません。単純に、科学の対象となる脳神経回路の物質機構を指して使っています。もちろん、現代の脳神経科学では、拙稿のいう憑依機構に相当する神経細胞組織を解剖学的な意味では同定してはいません。他人の運動を視認する場合に活動する大脳頭頂葉上部、上側頭溝および前頭葉下部皮質の一部神経細胞の集合(ミラーニューロンと呼ばれる細胞群など)が構成する神経機構が関係ありそうですが(二〇〇七年 ヴィンセント・ライト、ゲルゲリ・シブラ、ジェイ・ベルスキー、マーク・ジョンソン『幼児の目的指向行為感知の神経系対応現象』)、詳細は分かっていません。また他人の顔の認知、識別などについての神経学的研究は盛んですが、これが拙稿のいう憑依現象をどのように表現しているかについては、現在の脳神経科学ではほとんど分かっていません。将来は、こういうマクロな認知現象をミクロな神経細胞の活動レベルで同定する科学が可能と思われますが、現代の神経科学の(脳神経画像化などの)測定技術では、とてもミクロな細胞レベルの精密測定は不可能なため、心理学や認知科学の対象であるマクロな認知現象は、神経細胞回路の機構にまで還元できていません。

さて、このような科学の現状でも、拙稿の見解では、マクロな物質現象としての憑依機構の働きは、ある程度、科学的に記述できると思われます。

拙稿ではまず、哺乳動物の脳の運動形成回路には運動感覚シミュレーションのための神経機構が付随しているという仮説を使います。この仮説によれば、対象物を視認しながら身体を動かしている場合、動物の脳神経系では、シミュレーションを伴った運動形成が行われている。そのシミュレーションには、動物の身体運動がモデルとして埋め込まれている。

拙稿の予想仮説によれば、哺乳動物が脳内に保持している身体運動モデルは運動形成回路の最上層で(X、Y)という二項状態変数によって表現されている。Xは注目する運動体を表現する状態変数で、Yは運動の予測結果を表現する状態変数です。

その身体運動モデルは、群棲動物の場合、仲間集団の群運動を表現している。群棲動物の神経系では、仲間の群れが運動すると、それに誘発されて自分の身体が自動的に動いて追従する仕組みになっている。この仕組みのための神経回路が脳にあるはずです。人類では、その回路が発展して憑依機構に進化したと(拙稿の見解では)考えられます。

憑依機構の働きによって、まず仲間の行為と自分の行為とは、同じものと感じられる。そもそも最初から区別されていない。自分の行為を感知する私たちの感覚神経系は、そもそも、(拙稿の見解では)仲間の行為を認知する神経回路と、たぶん同一のものだろうと思われる。前を歩いている人が走り出すと、まず、自分が走り出したと感じる。それから、体性感覚など意識的に点検した後で、その走る人は自分ではなくて自分は走ってはいない、と私たちは気がつくのです。

仲間のだれかが、ある行為Yをしている。それはYという結果になることが予測されます。私たちは無意識のうちにその結果を予測している。そういう場合、まず、私たちはYが起こっていることを感じる。それは自分かもしれないが、自分ではないだれかかもしれない。いずれにしろ、それはYという行為をするようなだれかです。つまり、そういうだれかがYをしている、ということがまず感じられる。

これは、たぶん、群棲動物共通の運動共鳴機構により私たちの身体が共鳴運動を開始するからでしょう。人間の場合、ふつうこの共鳴運動は脳内の仮想運動の段階で抑制されるので筋肉は動きません。しかし、行為Yは、仮想運動の予測シミュレーションとして感知される。

それから次の瞬間に、その行為YをしているものがXであると分かります。そこで、いま起こっていることを(X、Y)で表すことができる。XがYをしている。Yの結果はシミュレーションで予測できている。こういう場合、脳の憑依機構はYをしているXへの憑依を起こしているので、Xの気持ちがよく分かるわけです。Xが何をしたくてYをしているのか、その目的が分かる。逆にいえば、この場合のXとは、Yという行為をするような私たちの仲間であってXと分かるような特徴を持っているものである。

Yという行為をするような仲間は、ふつう複数あります。それらはX1、X2、X3・・・などと区別できる。X1がYをしたことが分かったとすると、その経験は(X1、Y)と表現することで記憶できます。次に同じような状況になったときには学習記憶した(X1、Y)を思い出すことで、ふたたび(X1、Y)が起こるだろうと予測できる。こうして、今後のX1の行動を予測できることで生活が便利になる。この便宜のために、(X1、Y)のような自他感知世界での憑依機構をつかう予測学習のシステムが進化して私たちの身体に備わった、と(拙稿の見解では)考えられます。

同じように、X2がYをすれば(X2、Y)と表現することで、X2の動きが分かる。

特別の場合としては、このXが自分と分かるような特徴を持っていれば、それは自分ということになる。この場合、(X、Y)は(私、Y)となって、自分の行動を表現し記憶し、予測します。

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私はなぜ息をするのか(12)

2009-08-15 | xx0私はなぜ息をするのか

それではそもそも、自分という人間を客観的な観察対象にする以前の問題として、私たちは人間の動きというものをどのように読みとっているのでしょうか? それを考えて見ましょう。

人が人の動きを感知するときは、自然に、その運動の動機を読み取る。あいつは、何のためにああしているのか? 私たちは人が動くのを見ると、すぐに、無意識のうちに、他人の行動の目的、動機、意図、意志を読み取っていきます。それで、それを言葉に表すことができる。

「A君はどこ?」「A君は、向こうのほうへ歩いていきました」「何しにいったのかな?」「さあ、トイレじゃないですか」とか、いつも、人は人の行動の意味を感じとっている。A君は、トイレに行きたいという欲望を感じたからトイレに行ったのだと思うわけです拙稿11章「欲望はなぜあるのか?」。それで、(A君、トイレに行く)という表現が思い浮かぶ。

(X、Y)。XがYをする。そもそも、私たちが使う言語は、どこの国の言葉でも、この図式で作られている。人間の動きをこうして感じとる私たちの脳神経機構の働きから、言語は作られている拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。A君という人間が、トイレに行く、という行為をしたくてその行為をする。Xという人間がYという行為をしたくてYをする。この図式で、(X、Y)、つまり(主語、述語)、という言語の骨組みが作られている。Xが人間以外の動物の場合も同じ。さらに、Xが植物や非生物の場合も擬人法によって同じ言語形式で表現される。主語が「世界不況」や「地球温暖化」のような抽象概念の場合も比喩をつかうことで、同じ擬人化形式で表現されます。

XがYをする。この形で、人間は世界のすべてを感知する。

(A君、トイレに行く)という表現は二つの記号列「A君」と「トイレに行く」が並ぶことで作られる。このように二種類の記号(あるいは記号列)XとYの組み合わせであらゆる物事は表現される。つまり、私たち人間が認める物事は、(X、Y)というペアで成り立っている。Xはなにか人のようなものであって、Yは人がするような行為です。

私たちは、Xがそこにあると、Xがそこにある、と分かる。私たちは、XがYをすることがあると知っている。そして、XがYをすると、XがYをした、と分かる。そして、ここが重要なところですが、XはXがYをすると何が起こるかを予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思っている。つまり、XがYをするとき、XがYをすると何が起こるかを私たちが予測してXがYをすると見なすのと同時に、XがYをすると何が起こるかをX自身が予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思っている。

それは必ずしも、予測したとおりになるということではありません。むしろ、予測は外れることが多い。けれども、XがYをすると何が起こるかをX自身が予測してYをしようとしてYをする、と私たちは思う。そう思うとき、「XがYをする」と言葉で言うのです。

私たちは、物事をこう捉える。Xが、自分がYをすることの結果を予測してYをする。A君が、自分がトイレに行くことの結果を予測してトイレに行く。世界不況が、自分が深刻化することの結果を予測して深刻化する。

意識的運動という言葉を使えば、Xは意識的にYという運動をする。私たちがそう思うとき、(X、Y)というペアの図式で、そのことを認知する。

つまり、私たちとXとは、同時に、XがYをすると何が起こるのかを予測していて、XがYをしたときは、私たちもXも同じように、XがYをしたと分かる。その何か、はXがYをする動機、あるいは目的だといえる。私たちとXとは、ともに、Xがその目的を持ってYという行為をすることを知っている。こういう場合、「XがYをする」という言葉を使える。

「A君がトイレに行く」あるいは「世界不況が深刻化する」。どちらの文も、XがYをする結果として起こる変化を予測してその結果を起こそうという目的を持ってYという行為をすることを表しています。世界不況が深刻化するとどういう状況になるのか、不況が不況を招くようになるだろうと私たちは知っている。そして世界不況はいまやそういう状況を目指して深刻化しつつあるのです。私たちがそう思うとき、私たちは「世界不況が深刻化する」という。

私たちは、私たちがXの代わりにXに成り代わってYをするとしたら、そのとき何が起こるかが予測できる。Xに成り代わった私たちは、Yをすることで起こることを予測してそれを目的としてYをする。それを予測してそれを目的としてYをしようとするXの気持ちが私たちには分かる。

逆に、Xが私たちに成り代わってYをするとしても、Xがそうすることで何が起こるかが私たちは予測できる。つまり、私たちとXとは、互いに成り代わってYをして、そうすることでどうなるかが互いに予測できるのです。

このことは、私はXに憑依できる、またXは私たちに憑依できる、ということです。これを敷衍すれば、私というものは、だれにも憑依できるし、だれからも憑依され得るようなものである、ということになる。(拙稿の見解では)この構造が、人間の自他感知世界という現実(「現実3」―拙稿19章「私はここにいる」 を作っている。

ここで、Xを私たちが憑依できるようなものであるとして,Yを私たちがその行為の結果を予測することができるような行為であるとする。このとき(拙稿の見解では)、XとYの組み合わせ(X、Y)によって、すべての物事を分節化することができる。逆にいえば、私たちが認めることができる物事は、私たちが憑依できるようなものXと、私たちがその行為の結果を予測できるような行為Yとの組み合わせ(X、Y)として私たちは認知している。

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私はなぜ息をするのか(11)

2009-08-08 | xx0私はなぜ息をするのか

コンサート会場で鼻をかむ場面でも、身体の動きを、私たちは(拙稿の見解によれば)意思決定論で決めているのではなく、衝動的に、ヤイヤッ、と決めています。いや、決めているというよりも、身体がさきに動いて、鼻をかんでしまってから、「ああ、私はもう我慢できなかったのよね」と後から決意した理由となる感情を追認する。実際、(拙稿の見解では)意思決定はまず身体が動くことでなされる。感情も意識も後からついてくる。

後から追認しているだけなら、意識は何をしているのでしょうか? 

つまり、こういうことではないでしょうか?

コンサート会場で、いい気持ちで演奏を聴いていると、近くの席の人が突然、チーンと鼻をかむ。「ああ、この人はもう我慢できなかったのよね。でもはた迷惑な自己中心的な人だわ」と思いますね。だから、(拙稿の見解では)自分が鼻をかんだ場合もまったく同様に、鼻をかんだ人である自分自身という人間に関して「ああ、この人はもう我慢できなかったのよね。でもはた迷惑な自己中心的な人だわ」と思う。そして周りの人がそう思うのをはっきり感じるから自分が恥ずかしくなる。

私は、鼻をかんだ私を近くの席でながめている人に成り代わって、私の動作を感じとっている。私は、近くの席の人に(拙稿の用語をつかうと)憑依している。逆にいえば、私の脳の中にある(バーチャルな)その他人の観察眼が私の動作をどう感じとっているかが、私の意識というものになっているのではないか?

もしそうだとするならば、意識というものの役割は、他人(仲間集団)の目で自分自身の行動を観察し予測することだ、といえる。たしかに、こういう働きを持った意識という機構を脳内に保持していれば、いつでも客観的に自分を観察できる。これは社会生活の上でとても便利なことは明らかですね。特に、先に述べたように勝って残るか負けて消えるかのサバイバルゲームをしている競争的社会の場合、自分の動きが周りの人の感受性に及ぼす効果を客観的に読みとる機構は重要な武器です。そうであれば、類人猿の中でも特に緻密な社会をつくる人類において、意識を作りだす神経機構が進化した理由も分かりやすい。

前述したように、意識は、予測して行動をする場合に伴う。それも、人が見ていると意識は鮮明になる。つまり意識というものは(拙稿の見解によれば)、他人あるいは自分の行動の結果を、第三者(仲間集団)の視座から予測するシミュレーションとその感情評価である。人(仲間集団)が見ていると感じることで、その人に憑依して他人あるいは自分の運動シミュレーションの予測を評価する。感情が伴うので記憶は鮮明になる。

私たちが、一人でひそかになにかを考えているときも、同じです。仮想的な人(仲間集団)の視座に憑依して自分の行動を予測し評価している。深夜、一人でブログを書いているときも同じ。人生の越し方、行く末を思い起こし、案じているときも同じ。人(仲間集団)の視座から自分を見て、その自分の行動を客観的に予測するから、自分が何をしているのかが分かる。そもそも、自分という観念そのものが、このような意識の産物そのものですね(拙稿12章「私はなぜあるのか?」)。

また、こうすることで、自分が何をしているのかを、言葉を使って話すことができる。他人と自分とを、それぞれの人間として客観的に見ることで、言葉ができてくる拙稿18章「私はなぜ言葉が分かるのか?」。人と会話するときはまさにこれですが、独り言の場合も同じです。声に出さずに頭の中で独り言をしゃべっているときもまったく同じ。

言葉を使うときはいつも、私たちは自分を他人(仲間集団)の目で見ている。そうしなければ、言葉というものは使えない。

ふつうに無意識に呼吸をしているときは、「いま私は無意識に息をしている」と言葉で言えません。言う気持ちにならないはずです。言おうと思ったとたんに、それは意識して息をしていることになってしまう。

「いま私は無意識で息をしている」と言葉で言ったとたんに、私は他人(仲間集団)の視座に憑依して自分の身体の動きを予測し評価している。声に出さずに頭の中でそういう独り言を考えただけでも同じです。

言葉を使うことによって他人の目に成り代わって自分の身体の動きを見れば、いま私は息をしている。何かを予期して息をしている。何かを予期して生きている。何を予期しているのか? 何を目的にして生きているのか? 私は何のために生きているのか? 私の人生の目的は何か? 人生とは何か? こうして、哲学の大問題ができてくる、ともいえます。

人生の問題、さらには哲学の大問題は(拙稿の見解によれば)、このように、言葉を使うことによって、自分の動きを人(仲間集団)の目で見取ろうとするから起こってくる。ここは重要です。このあたりの事情をじっくり考えてみる必要がありそうです。

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私はなぜ息をするのか(10)

2009-08-01 | xx0私はなぜ息をするのか

それではこの二重苦三重苦をこらえて二十分ないし二十五分、鼻をかまないで持ちこたえられるか(そのほかに代替案があるのか)? まず息が苦しい。口を開いて息をしていると口が渇いてきて、耐えられないくらい不快だ。さらにもっと気になることは、鼻汁が口までたれてきてしまうかもしれないことだ(リスク)。それをなめるくらいなら、鼻の奥から飲み込んでしまうほうがましかもしれない(コスト比較)。

そうはいっても、鼻の奥で飲み込もうとすると、ズズーと鼻をすすり上げなければならないから、かなり大きな音を立ててしまうだろう(リスク)。そうなると、考え方によっては、単純に鼻をかむよりも不気味な音を立てることになってしまう(リスク比較)。そういう危険性(リスク)を全部勘案すると、鼻をかまずに我慢するという選択はまずありえない。

というように、こういう場面において私たちが次になすべき行動については、意思決定論で詳細に計算できるわけです。世間常識ではその通りでしょう。私たちは、いつも、こうして自分の行動の利害得失を計算しながら行動している、と私たち自身思っています。

しかし、拙稿の見解では違う。これは実際の人間の行動と違う。私たち人間が意識的に行動を予測し、予測結果の利害得失を計算して意思決定していると思い込んでいるのは、錯覚です。

意思決定論の教科書には次のように書いてある。

周辺状況の観測→現在可能な行為の選択肢の列挙→それぞれの選択肢を仮に実行した場合のそれぞれの結果の予測→それぞれの結果から予測される利害得失の計算→すべての選択肢についての利害得失の比較検討評価→最適な行為の決定→行為実行。こういう教科書の通りに意思決定を進めるには、ノートに計算を書いていくとうまくできる。

たとえば、行為の選択肢はA1,A2,A3の三択になっている。

A1,A2,あるいはA3のそれぞれの選択結果は、状況S1、S2あるいはS3を引き起こすことになると予測される。S1のゲインは5点、コストは4点とすれば、差し引きの利害得失による得点はプラス1点となる。同様にS2の得点は3点となり、S3の得点は5点となる。そうなると、最高得点5点となる状況S3に到達できる行為A3が、選択すべき行為であることが分かる。

これはかなり単純な意思決定の場合ですが、実際には行為の選択肢は、たいていA1からA15くらい多くある。さらにそれぞれの行為の結果を経験に基づいて推算しなければならない。さらに、その結果に生ずる利害得失を読んで計算する。さらにその計算誤差の評価も見込まなくてはならない。それらをノートに詳しく書きだしていくと、膨大な量の推定計算をしなければならなくなる。

たとえば、演奏が始まったコンサート会場で鼻をかむために、ノートを取りだしてすべての選択肢を書き出して、それぞれに対する結果予測を書き込みながら、こつこつと推定計算をする人がいるか?いませんね。ノートに書いたり計算したりしなくても、身体運動の場合、私たちは瞬時に意思決定することができる。考えるよりも先に身体が動いてくれる。これは、なぜでしょうか? 紙に書いて計算したら入試問題よりも難しい意思決定問題でも、深く考えずに身体に任せて自然に運動しているうちに、うまく解決してしまう。なぜか? 

こういう現象は瞬間的な身体運動をする場合ばかりではありません。頭の中で自分の動き方を考えるときも同じ。これから話す内容を考えるときも同じ。拙稿の見解によれば、物事を考えるということや言葉を考えるということは、頭の中で身体運動をすることと同じです。意思決定理論を使って計算するよりも身体に任せて自然に出てくる動きを利用するほうが早い。しかもたいていうまくいく。

実際、どの派閥のだれの味方をすればよいかなどという高度な政治的判断だとか、どの株に全財産を投資すべきか、とかきわめてむずかしい経済的判断の場合、私たちは結局のところ、直感で衝動的に決断してしまう(一九九九年  ゲルド・ギゲレンザ、ピーター・トッド、ABC研究グループ『賢い単純発見的方法)。身体が動くほうに決める、といってもよい。そして、案外これがうまくいく。

重要な問題ほどそうです。人生における岐路の選択というような重要な場面であるほど、ほとんどの場合、頭で考えるよりも身体を動かしたほうがうまく解決できる。頭よりも身体のほうが賢い。意識よりも無意識のほうが、予測計算が得意なようなのです。

もちろん、簡単な問題の場合も考えないほうがうまくいきます。パソコンが変な動きになってしまった場合、ヘルプのマニュアルを読んで対処するよりも、シャットダウンして再起動したほうが早い。あるいは、パソコンが得意な若い人を呼ぶ。慣れ親しんだ一番安易な方法が一番よい。毎日の生活ではそういう場合が多い。

例外は入学試験ですね。鉛筆を転がして合格した人はあまりいない。安易な答え方では失点するように出題者がひねっているからです。まあ、こちらの失敗を狙っているような相手がいる場合、無意識に動いてはいけません。敵対する相手がいるゲームなどでは衝動的に安易な方法で攻めると相手の陥穽に陥る。サバイバル競争社会に生きる現代人としてはそういう場面も多いが、まあ、あまり勝負をしないですむふつうの人生の場合、ほとんどの場面では問題を問題と意識しないで、無意識に身体に任せるほうがうまくいきます。人生いろいろ経験してくると、結局は、意識しないで自然体でいくほうがうまくいく、という知恵が身についてきます。

意識と無意識。どちらが賢いのか? それに、そもそも私たち人間は、ほかの動物に比べて、なぜこれほどはっきりした意識を持って行動するのか?

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