Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

お駄賃

2008-10-31 12:56:46 | ひとから学ぶ
 子どものころ、お使いで隣家や周辺の家に行くのは楽しみのひとつであった。そのお使いというのもそれほどたいした使いではないのだが、必ずといってよいほど、行った家では“お駄賃”をいただける。お駄賃などというと物を運んだ運賃のようであるが、子どもへのおやつのようなものである。子どもだからおこづかいをあげるなどということがあるはずもない。どれほど重要な使いであったとしてもそんなことはないのである。さまざまな義理が金銭で行われるようになると、品物に対しての意識は低下していく。それにならったように品物は世の中に氾濫し、先ごろ「いただき物」で触れたように有り余っている物をもらっても嬉しくくない、ということになる。おなじくして子どもたちも物をもらっても嬉しくなくなる。迷惑になる、と差し上げる側も気にするようになるから、そんな“お駄賃”などというものが消えていく。

 子どものころ祖母や母は、かならずへそくりのようにどこかにそんなお駄賃を置いていた。そうしないと子どもたちがお使いに来てもすぐにあげられなくなる。だからお使いに行っておじさんやお爺さんが現れると、少しとまどってしまうのだ、「もらえないかもしれない」と。でもそんな時にもお駄賃をもらえると、いつも以上に嬉しく思うものだった。不思議な心のありようであった。また、そんなお駄賃隠し場所を探し出して口にしてしまうなどということもあった。子どもがお使いに来て「あったはずのお菓子がない」という言葉を独り言のようにいう姿も思いだす。そんな時は「ごめんね、今度ね」という具合に謝るのだ。不思議な光景かもしれないが、それぞれの思いがそこにあるとともに、それがどこの家でも見られる光景であったことが、また不思議で楽しいことなのだ。もちろんすべての家ではなく、お駄賃を一切いただけにない家もあった。だからといってお使いに行かないわけにもいかず、出かけたものだが、きっとそのときのわたしの顔は、「こんにちは」という言葉ととともに、暗い表情だったのかもしれないが、記憶にはない。

 さてそんな具合に子どもが来ればお駄賃を、と用意していた時代なら家に必ず駄菓子やら煎餅やら隠されていたものだが、そうした人の往来も激減して、例えばわが家でも家族が食べ散らかしている菓子はあっても、簡単に“お駄賃”といってあげられるようなものは置いてない。この時代だから子どもがお使いにやってくるなどということは、年に1度あるかないかで、そのために用意しておくなどということはない。もちろんそんな環境下では子どもがそんな楽しみを抱いてやってくるなどということもない。味気ないものなのだ。それでも子どもをつれてやってくる大人や、子どものいる大人に対して、かつての“お駄賃”と同じような意識で物をあげたいと思うことはあるようで、時折来客があった際、妻が何かないかと戸棚やらをごそごそとやっている光景を見る。日ごろそんな意識を持ち合わせていないから、結局なかったりする。まず“お駄賃”として利用することはありえないことなのだが、最近は自ら“お駄賃”にも利用可能なお茶菓子を用意しておいたりする。妻が「なんでこんなにお菓子ばかり、糖尿病になるよ」と言われるときの言い訳てはないのたが…。
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男と女の民俗誌③

2008-10-30 12:36:51 | 民俗学
 男と女の民俗誌②より

 今年は身近で自殺で亡くなった人がいて、何度か自殺について触れてきた。それは若い世代の自殺であったが、実際自殺者数は中高年において増加している。その理由の一つともいえるのは生命保険との絡みである。昔のような家族が崩壊し、今や熟年離婚というものが突然とやってくる。「子どものために」と働いてきた親たちは、子どもが一応それらしく一人前になれば、強いて夫婦という形を継続して「子どものために」と思う必要もなくなる。意外にこの意識はかつての老後とは大きな違いがあるのかもしれない。親と子ども、長子であっても家に縛られることなく自由に思うがままに生きる。親は自分たちの余生だけに生きればよいととすれば離婚もありうるわけだ。裏を返せばこの世の中はずいぶんと裕福になったといえるのだろう。そのような金銭的にも時間的にも余裕も無く働いていた時代に比較すれば、余裕のなす業なのかもしれない。しかし、いっぽうで高年齢化社会の偶然ともいえるのかもしれない。「定年」という境界、そしてそこに付随する「生命保険」という境界、さまざまにそうした境界域は人々の心の中を揺さぶる。

 八木透氏は「男の民俗誌」(『日本の民俗7』2008/9吉川弘文館)の中で、「男のプライド」について説いている。「妻子をただ養うに止まらず、豊かな暮らしを自分が保証しなければならない」という責任感が潜んでいるといい、いざとなった時に「生命保険」がそのプライドを示す切り札にもなるというのだ。服部誠氏は「恋愛・結婚・家庭」(同署)の中で結婚の基本姿勢の中にかつても今も「上昇婚」があると述べている。女性は少しでも上の暮らしを求めて結婚相手を選択する。かてならどれほど嫁の立場が苦しくとも暮らし向きの良い家に嫁ぐことで、上昇を前提として苦労も耐えることができた。そして現在は言うまでもなく財産のある家、収入のある家に嫁げばそのまま自らの立場を誇示できることは言うまでもなく、すべてにおいて展開は広がる。格差社会という名の根源はそこにある。もし上昇環境でない場合、離婚というレッテルを恐れてためらうものはあっても今やそうした離婚も日常的なことで、農村社会でも珍しいことではない。こうしてくるとますます上昇機運が高まるのは言うまでもない。そうした意識が変わらず生きている以上、「男のプライド」も生き続けるのである。自殺者にも保険料が支払われる現制度下において、境界を目の前にプライドを賭けた葛藤を繰り広げるのだ。今後の男たちはともかくとして、中高年層においてはまだまだ男たちは女性に依存している。離婚されて独り身になって貧しい人生をおくるくらいなら、自殺してプライドを示すという方法は確実なものであるのかもしれない。

 「子どもの時は「決して弱音を吐かない男の子」を要求され、青春時代は「女性をリードできるたくましい男性」を演じ、結婚後は「頼りになるお父さん」であり続けた男性たちが、老後に行き着く先が「自殺」であったり「産業廃棄物」であるのは、何ともやるせない思いだ」と言う八木透氏は(前掲書)、民俗社会に生きた男たちの「生きがい」や「プライド」は何だったのだろうと問う。そして「男としての一人前」の姿とはどういうものであったのかという部分を「男の民俗誌」の中で事例をあげていく。それらは成人儀礼や村落社会におけるトウヤ祭祀などの男性の役割であり、加えてそれらは男性だけで成り立つ役割ではなかったことにも触れている(夫婦家族の支え)。

 とはいえ、プライドを誇示するがために仕事人間になってきた男性の行き着く先が、前述のような現状であることは変わらない。まさに男性受難の時代である今、ではどう男たちは生きるべきなのか。八木透氏は、「無自覚に背負い込んできた「男らしさ」を自覚し、強迫観念を棄ててそこから自由になり、自分にとっての心地よい本当の「自分らしさ」を見つけることだといえるだろう」という。そしてそれは「多様な男らしさを受け入れる」ことを意味するといい、なすべきことの第一と掲げる。第二には「男性にも「更年期」があり、それが原因でこれまでは社会的に認知されなかった、男であるがゆえのさまざまな心身の障害があることを皆が早く自覚することである」と述べ、それは「男らしさ」からの開放につながるという。第三は「「熟年期」から「老年期」の男の生き方を前向きに模索することである」という。どれもいまひとつ具体性に欠ける「なすべきこと」で難しい言い回しである。

 さて、八木透氏は「男の民俗誌」のなかでかつていたトリアゲジサのことに触れている。男は助産婦にはなれないのか、という問いのなかで両性から嫌われている男は、現代においては体質的に受け入れられない存在となっていることについて触れている。介護問題がクローズアップされるなか、男性の介護従事者も多くなっているのだろうが、男性にも嫌われる男という存在ではなかなか喜ばれはしない。確かに男に面倒を見られるよりも女性に見てもらった方が嬉しいと思う人は多いのかもしれない。しかし、この根底に男と女という立場と、弱みを握られるという意識がどうもこの世の中では不安定な存在になっているのではないだろうか。信頼関係の崩れた社会において、男の存在はまことに悲しいものとなっているに違いない。

 続く
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捨てられたページ

2008-10-29 12:16:08 | ひとから学ぶ
 先日、会社の先輩に「この新聞へんですよね」と言うと、「どこが?」とすぐには気がつかなかった。会社で購読している「長野日報」という新聞は、以前にも触れたことがあるが、一面ごと地域見出しを付けてどこの情報なのかその見出しで解るように半分以上の誌面が構成されている。あまりににその見出しが目立ちすぎるとともに、その順番が順序良く北から南に並べられているから南の人間には違和感が抱かれると言ったことがあった。まさかその意見を耳にしたわけではないだろうが、最近はその順番が変わっている。真っ先に伊那市の話題、最後尾に駒ヶ根市の話題を掲載している。そんな配置がまたしばらく続いていたのに、なぜか駒ヶ根市のタイトルが消えてなくなっているのである。「駒ヶ根市はどこへいったんだ」と気がついたわたしは、先輩に冒頭の言葉をかけたのである。先輩は地域タイトルをあまり意識せずに読んでいたのだろう、だからすぐには気がつかなかった。それでもいつもある「伊那」のタイトルで掲載される記事がなければきっと気がついたはずである。

 「駒ヶ根市がないけどどうしてでしょう」とその答えを言うと、ようやくそれに気がついたようで、新聞にはよくありがちな地域ごと誌面を変更して配布しているのだろうかなどと想像することになったが、先輩は「そういえば、諏訪地域版とまったく同じ誌面の芸能欄が最近ないなーと感じていた」という。そうなのだ駒ヶ根市版の裏側にそれが掲載されていたのである。そこまで言われて「ひょっとして」と思いページを確認すると2ページ欠落している。なるほど新聞がおかしいのではなく、もともと誌面が欠落していたのである。まさかと思い、古新聞の塊を探すと「あった、ここに」という具合なのである。「昨日も見なかったけど昨日のも本当はあったんだ」というわけで、ここで思い当たることがある。この新聞、毎日ではないがウィークデーには折りたたみ見開きページではない半紙の両面一枚版が入っている。その一枚版が駒ヶ根市版なのである。そしてこの一枚版は、新聞の垂れ下がるタイプのパイプ閉じ式閲覧棚に架けると、落ちてしまうのである。ようは綴じ代がないから落ちてしまうわけで、落ちないようにするにはその版だけ糊付けするかホッチキス止めしないといけないわけだ。架けたときは摩擦で落ちずにいても、閲覧しているうちに落ちてしまう姿を何度も見ている。ようは落ちてしまう誌面を最初から閲覧用に綴じずに、古新聞の中にポイッとしてしまうのである。実はこの作業、毎朝女性が行っている。「どうせ見ないだろう」と思っているのか「どうせ落ちてしまうから」と思ってなのか、いずれにしてもその女性がこの行為に出たのである。実は少し前から「へんだなー」と思っていたわたしはそれに気がついたが、会社の人は気がついていなかった。ようはその新聞を読んでいる人は、わたしとその先輩ぐらいなのである。よそから来ている人たちにはあまり気になる記事は載っていないということで、まったくのローカル新聞だからそれも仕方ないわけである。

 それにしても最初から日のあたるところに出ずに古新聞にされてしまう駒ヶ根版の運命もはかないもので、平気でそういうことをしてしまう人もいるんだとなかなか感心してしまうのだ。「彼女ならやる」と口にはしなかったが、先輩もそんな予測を同時にしていたのである。たまたま掲載順が変更されて駒ヶ根版であるが、かつてなら飯島・中川版のポジションであった。飯島生まれのわたしはすぐに気がついたことだろう。新聞をいきなりゴミポイとはなかなか「やるなー」。そして気がつかなかった我々もぼけたもの、というか「そんな新聞必要なの」ということになる。
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もっと足元を見なくては

2008-10-28 12:57:23 | ひとから学ぶ
 近ごろリニアが話題になって、ブログにもよく関連の記事が掲載されている。このことについてはわたしも何度か触れてきたことで、いまさら「また何を?」というとこであるが、きっとリニアの駆け引きはまさに地域性を表すもので、今後も頻繁に利用する題材だろう。

 「あなろぐちっく」さんの日記にこんなことが書かれていた。「悲しいのは、知事が県の利益にならないという理由で直線ルートに反対していることだ。諏訪という地方の人たちも直線ルートでは長野県の総意ではないと言う。この直線ルートにある飯田市には、諏訪よりも多くの人が住んでいる。この人は長野県人ではないのか・・・・ 長野県人とは、長野市の辺りに住んでいる人か、長野市に益をもたらす地域に住む人のことなのか・・・」というものである。おそらく飯田周辺の人たちの多くがこの意見に賛同するのだろう。これがわたしの今までにも触れてきた、この地域の不幸な意識なのであり、どうしようもないことなのかもしれない。しかし、飯田とか伊那といった枠で切られてしまうとやるせない人たちがいんじゃないか、と発言したあなろぐちっくさんの口からこうした言葉が出たということは、かなり厳しい状況だと感じる。

 まずあなろぐちっくさんの間違いは、県の利益を考えればやはり直線ではないということ。人口の話を出すと間違いなく直線ルート長野県のメリットはない。諏訪市は飯田市よりも人口は少ないが、諏訪広域圏の人口は2006年2/1現在で約210千人。南信州広域圏の人口は2005年8/1現在で177千人。飯田市が大半を占めているものの、広域圏の人口比では明らかに諏訪が多い。加えて飯田市から遥か遠い下伊那西南部といった地域もあって、下伊那地域は広大であることは言うまでも無い(面積比 諏訪:飯田=715km2:1929km2)。さらに言えば中間地域の上伊那広域圏の人口は2005年11/1現在で約198千人である。もっといえば松本広域圏の人口は2006年4/1現在で430千人である。ようは人口のことを言うと、北寄りであるほど広域視点に立てばメリットが大きいということになる。このことは念頭においておかなければならない点である。もちろん飯田の人々が「長野県人」であることも説明すことでもないだろう。

 飯田の人たちが思うほど、わたしは飯田下伊那地域が長野市の人々に虐げられているとは思わない。以前いつごろだったか触れたことがあるが、長野市内の犀北館の隣にある歯医者さんに通った際、そこの歯科衛生士さんが、「下伊那っていいところがありますよね」と言ったことを忘れない。彼女は売木村にある星の森キャンプ場を毎年訪れると言っていた。彼女だけではない。確かに遠いことは誰もが認識していてどこにどんな村があるかなどということを知らない人は多いが、目くじらを立てて下伊那の人々が文句を言うほど長野市周辺が恵まれているわけではない。人口が多ければある程度傾向するのは仕方の無いことだし、またそこに住んでいる人たちが「飯田は・・・」などと文句を言うことはない。しいて言えば田中知事時代に、知事自ら長野を毛嫌いしていたことで、「飯田の方が恵まれている」と口にする人がいたことは事実ではあるが・・・。しかし、その当時長野市周辺のとくに西山地域を頻繁に訪れていたわたしは、飯田市下伊那以上に虐げられた村々を見てきたつもりだ。それほど飯田周辺地域が際立って長野県人として蔑まされているなどということはまったくないのである。むしろ飯田下伊那の人々がそれを意識しすぎて、自地域の中に閉じこもっている傾向を感じるわけである。そういう意識があるからこそまた成功している人たちもいるのだろうから、必ずしもそれが悪いばかりではないということも認識しなくてはならない。

 あなろぐちっくさんのこれまでの語りにはない違和感のある意見は、わたしには少しばかりがっかり感が生じたわけだが、それがこの地域を物語っているといってもよいことで、やはり根深い問題が横たわっているとわたしは思っている。ちなみにコメントの中で彼が感じ取ったこれまでの北の方の人の言葉が並べられているが、もちろんそういう言葉を口にする人もいる。しかし、それは意識しすぎるからこそ悪く捉えてしまいがちで、より強く地域性を意識しながらこの何十年もの間長野県内を歩いてきたわたしだからこそ言えることは、「それほどじゃないですよ」ということである。どうも飯田下伊那地域の人たちが口にする言葉は、自分たちを誇示しすぎているということである。わたしの関わっている世界でたとえて言うならば、飯田下伊那は民俗の宝庫とか民俗芸能の宝庫なんていうことを言う。でももっと素朴でかつての暮らしをしっかりと継続している地域は全国に行くといくらでもある。なぜそうやって他地域をもっと純粋に見ようとしないのか。また、田舎そのものも売り出しているが、どうでしょう、飯田下伊那より素朴な地域はいくらでもあると感じる。そういうところにいつも違和感を持っているわたしでもある。もっと足元をみないといけない、というのは自分も含めてみんなに知ってほしいということである。昨日も南箕輪村の水田地帯を歩いていて思ったのは、飯田下伊那には姿が少なくなったワレモコウが、あたこちに咲いている。びっくりするほど多い。周辺には新たな住宅地が虫食いのように点在してはいるものの、風景だけをとってみると、素朴な風景はいくらでも足元にある。もっともっと目を凝らして観察していかなくてはいけないとつくづく感じるわけである。

 そういえばもうひとつ最近気になった事例があった。ある郷土研究の雑誌を出している飯田の方に「お一人で全部やるのは大変だから、こういう時代ですし役割分担とかしてはどうなんですか」と言ったところ、「そういうわけにはいかない」と言う。「●●(飯田ではない県内の地域の会を事例にして)ではそうやっているようですが」と言うと、「●●とは違う」とずいぶんと不機嫌に言われてしまった。何か自分たちがけなされたと思われたのかもしれないが、こういう意識があちこちで垣間見れたりする。とても違和感のある後味の悪いものとなってしまうのである。こんなことを長年蓄積してきたのだろう。だからこそ簡単には抜け出せない関係になってしまっているのである。
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いただき物

2008-10-27 12:53:33 | ひとから学ぶ
 実り秋といえばもらい物である。わが家じたいでは何も生産していないから、非農家である。ただし妻の生業を農業といってもよいほどだから、おおかたの農産物は自家製ということになる。そうした中でもっとも縁のない農産物が果樹である。果実だけはブドウを除いては妻も作っていない。わが家の周辺は果樹園地帯ということで、そんな果樹のおすそ分けがいただける。消毒がどうのといものの梨やリンゴは消毒なしではまともなものができないと知っているからか、梨やリンゴに関してはいただくと大変ありがたい。それでもかつてのようにどこでも果樹をたくさんやっているという状況ではなくなり、おすそ分けの量も減っている。楽をして口にしている果物も、いつまでそうして口にできるかは微妙なところである。

 いただき物はそうした果樹が主であるが、やはり妻の実家でも作っているわずかながらのブドウは一応いただいても別のルートに回ることが多い。ようはいただき物をよそへ回すというケースである。「いただいたものは遠慮することなく、ありがたくいただくもの」と妻は言う。この言葉は妻の父の口癖である。「いりません」などと口にはしないこと、そしてもし家で作っていても拒否はしないものという。そしていただいたらしばらくして必ず「美味しかった」とお礼を言うのである。食べていなくとも…。いただいた相手への思いやりということになるのだろう。

 駒ヶ根にIターンして自家消費の農業をする方はブログでこんなことを書いている。「近所の果樹農家の方は臆面もなく、「今は使っちゃいかんといわれているが○○(農薬の品名)が効くんだよ」と、禁止農薬をいまだに使い続けている。そこのお宅からの果物のおすそ分けは丁重にお断りしています。安心して口に入れられる食べ物は、自分で作るのが無理な場合でも生産者の人となりを確かめないと顔が見えても安全とはいえない場合があります」というものだ。わが家でもあそこの家からのおすそ分けは遠慮したい、などという会話がでることもあるが、それでもいただき物を断るというのは地域の中で暮らしていくのに得策ではない。だからといって命を短くするような問題がそこに横たわっているとしたら、こうした判断もあるのだろうが、果たしてその方の住む地域空間とはどういう関係なのか、わたしならどう判断するのか、などと考えたりする。いずれにしてもこういう物言いをする方や、わたしもそうであるが、意識の中にはっきりしたものがあると、どこかで「いらない」という顔が出ているのかもしれない。しかし、このケースはともかくとして、いただき物に対してどういう背景があろうと、「ありがたく頂戴いたします」という顔は持ち合わせていたいものである。それとは別にちっよと気になるのは、「近所の篤農家といわれる人でも「つべこべ言わずに除草剤振りゃ楽だろ」と、アドバイスしてくれます」というところで、篤農家とわざわざ前置きをしている点である。この方の「篤農家」に対する視点は明らかに農業を必ずしも理解していないものだとわたしは思う。篤農家とは手間を惜しまずに働く人たちだとわたしは認識していた。
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男と女の民俗誌②

2008-10-26 10:13:10 | 民俗学
 男と女の民俗誌①より

 前段では記述されていることについてではなく、わたしの常日頃の鬱積のようなものを書いてしまった。以後は本誌(『日本の民俗7男と女の民俗誌』)から教えられるものについて触れたい。

 このごろの家庭においては、専業主婦として一日を暮らすのは難しいと思う。それはこれほど家が、人が個々を重視している以上、外交的でない女性にとっては家の中に引きこもることほどつらいものはないだろう。どれほど仕事という重圧から避けられるとしても、一人で日々を暮らすことの方が精神的にはつらいものがあるはずだ。それを思うと、簡単に男たちが妻の日常を批判することもできまい。どれほど専業であっても、男たちは「疲れているから」といって妻の言葉から逃れることも、また妻の仕事場に足を踏み入れないのもけして得策とは言えないのである。八木透氏は、「民俗社会では、都市には存在しないさまざまな女性たちだけの講集団が機能しており、子育てやその他のあらゆる情報を共有できるシステムが存在したことによって、女性たちが家の中で孤立してゆくという、都市の家庭に見られがちな状況は回避できていたと考えられる」(「男と女の諸相」)と述べている。専業主婦はあっても専業主夫の例は少ないだろう。どうしても家に閉じこもる立場は女性が多い。そういう面ではもし主夫の例が多ければ、男性の自殺はもっと多くなるのだろう。

 かつてなら講集団のようなものがあったのだろうが、しだいにそうした講も廃れたりした。その後婦人会とか若妻会といった地域の女性だけの集団と言うものが盛んになったのだろう。ところがこうした集団も高度成長以降「忙しい」という流れから個々の生活重視になり、集団に参加する人たちも減少したり、集団そのものもなくなっていった。かろうじて女性たちにとって健在な集団はPTAなのだろうが、これらも少子化のなかで必ずしも継続性のある集団ではないし、子どもを介しての集団は、競争意識など違った問題を生む。こんな状況下で専業主婦が存在したとしたら、女性にとって外部との交わりは無くなる。いつか触れたいと思っていることに「農業者の課題」というものがある。現代の農業者にとって何が苦痛かといえば、やはり孤独な世界だということではないだろうか。どれほど忙しいサラリーマンであっても、そこそこ他人との交わりがあり、仕事以外の世界も垣間見ることができる。ところが農業者にとってはどうだろう、ということなのである。いずれにしてもこのことはいつか触れたいと思っている。孤立化する人々の先進的な空間を、主婦たちに見るとことができると思っている。

 本書の中でも何度となく触れられているが、民俗社会は家を継ぐ者を中心において語られてきた。それは必ずしも長子と限られるわけではないが、社会空間は家が構成しており、それらの一戸一戸が生活の基盤であった。したがってその家の中心には主がいて、その主から見た社会だった。もちろん子どもやおんなたち、そして隠居の姿も見え隠れするものの、やはり家は固定されたものであって、さらには社会空間もそれほど変化しない構造を前提にされていた。その原点は「かつては」という聞き取りに始まる際の「かつて」がそうした構造を前提にしていたからだ。ところがその前提とは異なる地域ではそれなりに異なった視点で聞き取られたのだろうが、やはり前提には家があって主がいたのである。「夫婦が揃ってることが村人として正常な状態である」という視点は、常識的に存在していたわけで、このところ口にはされなくなったが、結婚しない人への捉え方も夫婦(家庭)になることが前提としてあったからである。もちろんそれはくすぶりながらも現在も語られるものなのだろうが、今や夫婦でなくてはならないという制約を掲げていては地域社会が成り立たない状態でもある。

 八木透氏が事例としてもあげている京都市左京区花背別所(はなせべっしょ)町のミヤザシキと呼ばれる男性中心の宮座組織の話は、わたしなどのように家を継ぐ者でないものには羨ましくも見える。滋賀県などで行われている「おこない」と言われる行事も、地域社会や家が織り成す世界である。そしてそこには主ではない者、いわゆる家を継ぐ者ではないものは関われない。ミヤザシキは厳格な組織といわれ、後継ぎである長男でしか参加することはできないという。神饌であるシロモチを作るのはシロモチハタギと呼ばれる若嫁であり、それは本人・夫双方の両親が健在で年齢は若ければ若いほどよいとされたという。限られた存在であることは言うまでもないが、いずれにしても男は生を受けたときからこの役に立てる立てないが決定していたわけである。世襲と言われるものも一家相伝と言われるものもそうであるが、いずれにしても生まれたときには既にその任がある程度限られているわけである。同じ家にいてもそれを前提とせずに育つ側の視点は、民俗社会でも重要ではなかったというこである。

 さて、そんな従来の視点を問題にしながら、本書は「人生における多様性への理解」が必要と説いている。

 続く
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弁当を作る

2008-10-25 10:00:48 | つぶやき
 ここ数日の間、妻が不在であった。冷蔵庫を開けると、そこには賞味期限はもちろんのこと、消費期限の切れた食べ物も見える。我が家では賞味期限切れのものを処理することはありえない。加えて消費期限切れのものでもよほどのことがなければ捨てはしない。ということでふだん冷蔵庫内を管理していない者には、本当のところ食材としてダメなのかどうなのかというところははっきりしないものが多い。とくに期限表示されているものであればまだしも、そうでないもの、例えばわが家で調達できる玉子やら加工品、さらには一度食材として利用したものの残りのようなものは何ともわたしには判断が出来ないのである。せめてそのあたりが整理されていれば良いが、どうみても食べられそうもないものも混ざっていると、不安は増大するのである。

 ということでこの4日ほど自ら弁当を詰めて会社へ向かった。正確に言うと弁当ではなく“むすび”にして行った日もあるから「詰めた」というのは正しくない。おかずさえたくさんあれば弁当の方が手間はかからない。ところがおかずがないともなれば、とりあえず“むすび”だけでもと思って握ることになる。むすびだけでは栄養バランスに問題はあるが、外食してお金を使うことを思えばその方がいい。弁当をとるにしても外食するにしても、一食食べれば500円くらいは最低必要となる。それを弁当で済ませればずいぶんと安上がりだし、夕食や朝食と兼用したおかずで間に合う。よく弁当など作ればその方がお金がかかるという人がいるが、確かに手間などを考慮するとなんともいえないかもしれないが、基本的に農家がよその米を食べるなどと言うことを繰り返してきたからこんな食糧事情を生んでいる。米作りをしている農家はほとんど米については自給できるはずなのに、よその米を食べることにいささかも抵抗がないようだ。このあたりを最近とくに感じるようになった。いまさら、というか今頃になって気がついているようでは遅いのだろうが、こういう基本的なことは子どもたちにも教えていかなくてはいけないことだろう。とはいえ、外食をまったくしないなどということは不可能である。しかし、特別な日ではない限り、自らの家の米を食べたいと思う。裕福な暮らしをしているわけではないのだから、当然のことと受け止めている。

 さてそんなことで、自分の弁当であればおかずなど何でも良いのだが、息子の弁当まで用意するとともなるとそうはいかない。自分の弁当だけ作って息子には外で食べろというのでは前述した主旨に合わない。ということでわたしの弁当のおかずでは息子が納得しないことは解っている。何よりわたしの弁当はほとんど緑色のものばかりである。とりあえずというのなら野菜炒めでも入っていれば十分である。だいたい弁当を持ち合わせていなくて、外食する機会にもメニューで最初に探すのが「野菜炒め」である。考えてみればよその米は食べるべきではないと言いながら、同じようなことは野菜にも言えること。にも関わらず野菜炒めを選択しようとするのはそれさえあれば満足だからである。息子は肉を食べたい。しかしわたしは肉はそれほど好まない。今時の若い人たちの好みのものなど作れるはずもないのだ。したがって「父はお前の好みのものはできないから、“むすび”だけは作る」と言ってむすびを握る。それでも毎日それではまずいと思い、玉子焼きとウインナー、肉を無理やり入れた野菜炒めを少しばかり入れて、あとはリンゴを入れてお終い。とりあえずわたしの弁当は4日、息子の弁当も3日間に合わした。長野での単身赴任時代に毎日弁当を作っていのだから苦にはならない。とそんな弁当のことを思い出せば、二十歳前後のころにもわたしは弁当を作って会社に行っていた。よく作ったものだと感心するが、人にはとても見せられる弁当ではなかった。そのころの弁当ときたら、焼きそばを作っておかずはそれだけという日が毎日だった。何よりお金がなかったから、外食とかは選択に無い。何でもよいから弁当を作る。それしか頭になかった。そんな大昔の自分の生活を思うと、このごろの弁当作りもそのころの意識の賜物かもしれない。
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男と女の民俗誌①

2008-10-24 12:37:32 | 民俗学
 『日本の民俗7男と女の民俗誌』(2008/9 吉川弘文館)は、この時代の男女の問題に何らかのヒントを示すことができるだろうか。民俗誌などで捉えられてきた女性は、主婦であった。いや、主婦と言うよりは嫁の民俗と言ってもよいのかもしれない。それは嫁という仕事なのである。子どもがいつまでたっても子どもであるように、嫁もいつまでたっても嫁である。しいて言えばその存在はけして高いものではなく、どちらかというと低姿勢なものであった。そうした嫁の苦労はたくさん聞き取られ蓄積されてきたわけで、民俗で取り上げられる女たちは、たいへん“惨め”なものに映っている傾向が強い。それを払拭するように本書はさまざまな女たちのありようを描いているが、いずれにしても一般に注目されるには今までのイメージが強すぎて難しい。服部誠氏は「恋愛・結婚・家庭」の中で、「結婚と家庭の問題について昔の常識は通用しなくなった。このような状況を迎えたとき、民俗学が何を発信できるかを考えるのが本章の主旨である」と言う。同じことは農村におけるさまざまな部分において言えるだろう。かつての常識などまったく通用しないと思うことは多々ある。しかし民俗学は農村にあって、より身近にそうした変化を察知していたはずなのに、なぜか他人事のように扱っているような気がしてならない。変化もまた民俗と言うのなら、それは学問を装い、問題に対して見て見ぬ振りをしてきたようなものではないだろうか。農業の衰退を察知していながら、実際の農村を理解せずわけのわからない政策や、補助金を撒いた農業担当部署の責任が大きいのに等しい。農村の衰退、都市への流出、女性の社会進出などなどそうした変化の真っ只中で民俗研究者たちは地方に入っていたはずだ。それが地方の画一した世界だけでは人々の生活を網羅したとは言えないと気がついて、さまざまな視点に展開しているが、これまでの地方を集中的に調査をしたにもかかわらず、現在のさまざまな問題にほとんどヒントを与えなかったことを見ると、視点を変えてもただただ学問の継続を視野に入れているだけで、どんな視点にもヒントは与えられないのではないだろうか。もちろんただでさえ民俗学に関わる人間が少なく、低調だと言うのに枠ばかり区切ってもなんら先は見えてこない。

 またまた後ろ視線の前段を述べてしまったが、「男の女の民俗誌」は一般の人たちに読んでもらってもなかなかおもしろい記述が多い。ただ、やはりというか専門家の名前が論文形式に並んでいて、専門書であることに変わりはない。

 さて、前述した部分にもあるが、「常識は通用しない」という表現を念頭にこの本を読んでいると、かつての家とか男と女のこととか基本的な見方は歴史的な過去のものであるという書き振りが目立つ。ようはすでに前代の常識であって、そこから大きな変化をきたしている現在とを比較している視点が強いということになるだろうか。例えば出産や月経のための小屋の暮らしと現在の比較はとても落差が大きい。民俗学が調査する者と話す側の共感の部分に視点を当てているためか、どうしても個人的な物言いが多くなる。とすると物言いをする者もある程度多様な視点が求められるのだろうが、なかなかそれを読み手に、また社会に表現できていないのが現実なのだはないだろうか。先に爆笑問題の太田光が常光徹氏と学校の怪談について対談した際、太田光はこの学問に純粋に頭を傾げていた。太田光らしい問題意識の表現である。くだらないことをやっているものの、それにどういう意味があるのかという部分を素人に解くことができていないということではないだろうか。

 八木透氏は「「つきあい」という観点から見れば、「近代家族」ではプライバシーの名のもとに、必要以上の地域や親族とのネットワークを遮断することができたが、民俗社会においては、地域や親族とのつきあいが重んじられ、その日常的な差配が女性に託された」と述べる。この表現からすると「民俗社会」は明らかに前代の社会という雰囲気が漂う。わたしのように地方にずっと生きているものにとっては、明らかに現在とは隔絶された社会と捉えられ、違和感を持つ。何度も言うが、明らかに民俗学と実際の民俗社会は乖離していると言わざるをえない。

 続く
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人社会の迷走③

2008-10-23 12:24:45 | つぶやき
人社会の迷走②より

 前回地方社会の「悪循環」について触れた。先日書いた「中山間集落のこれから」の内容は、そんな悪循環の結果の出来事になるかもしれない。年寄りしかいなくなった社会で、子どもたちはその伝達を受けないまま親は亡くなっていく。子どもであることにかわりはないが、地域とはまったくの無縁である。そんな家が増えていけば、残った人たちも住みづらくなるとともに、手を施しようがなくなる。どれほど環境を唱えたとしても、1人では何もできないし、人の土地や所有物をどうにかしようなどということもできない。まさにそれぞれの生活は切り取られた個々の生活になってしまい、総合的な空間ではなくなる。妻が危惧する農村の将来の一つに、これらの問題が山積する。妻にとっては実家のある空間で農業をするのが生きがいである。家、山、田んぼ、ため池、そして周囲の景観、すべてにおいてさまざまな噂話はあってもその空間を生きがいにしてきた。どれほど過疎化が進もうと、その空間で自然と、人々と関わりあいながら連綿と暮らしが継続してきた。ところが人はしだいに顔を変えていく。亡くなれば次の顔へ、いなくなればその土地には顔はなくなるものの、そのまま土地は残る。変わらないようで長いスパンでは大きく変化を遂げる。その中で身を置いていると、それまでの地域社会が泡のように消えていくのを体感するのである。それは自分の描いた社会を自らが常識化しているだけで、変わるのは当たり前と思っていればまた違うのだろうが、なかなかそうは捉えられない。自らが描く世界が継続できればよいが、それが変化していくことは、年老いていくものたちにとってはやるせないものなのである。とくに自然はそのままとしても人は必ず変わっていく。その「人」は悪循環の結果、意思疎通がなくなり、その関係は都会の人間関係以上に顔の見えないものになる可能性は大きい。そうした環境に住む人は少ないから国民目線では既に理解されないだろう。もはや地域社会、いやここでいう社会は妻の視ている社会なのだろうが、最悪のシナリオに紛れ込んでいるのかもしれない。そしてそれはもっと山間の地域ではすでに諦めの中に彷徨っているに違いない。

 さらに危惧の根源には、妻の立場もある。娘は手伝う人であって、経営者ではない。なおさらそうした問題に口を出すこともできない。その葛藤の中で苦しんでいる。それは日常の暮らしにも影を落とす。悪循環はわが家の生活の中にも同じような問題を派生させる。これが地方社会のそれぞれの迷走ということになるだろうか。

 このごろの世論調査において、麻生内閣の支持率が下がったということを、あちこで言っている。もともと発足後は下がるのが常識であって珍しいことでもなんでもないのだが、麻生内閣が示した景気対策に触れ、解散が先か景気対策が先かという質問に対しては、景気対策が先という回答が過半数ではなかったが解散優先と言う回答よりも圧倒的に多かった。世の中の大方の人々は、やはり景気対策を期待している。発想の転換はかなり難しい話なのである。その原点には自らが生きる術がなくては、それを犠牲にしてまでも経済至上主義を転換というわけにはいかないのが実情なのである。政治に個々の生活を潤わしてほしいなどと言えば、結局は経済成長に行き着いてしまう。環境も福祉も成長の上に成り立つという計算式が解かれる。どれほど地方財政が厳しいといってもおおかたの人々は成長はともかくとして、便利だけを望む。もはやこの迷走は止まるところを知らない。働き口なければ収入はなし。それを政策として実行してきた地方のリーダーたちは、口では企業誘致だの定住促進などというが、空間は限られているとともに、土地はモノは金は、自治体のものではない。地方の意識が分離したそれぞれの切り取られ描かれた舞台だといったが、同じことは市町村ごとでも言える。自分の町が良ければといっても、隣は飢え死にしては広域行政は成り立たない。そして自治体だけではなくさらに大きな枠でも同じことである。これが繰り返される以上明かりは見えない。自治体の合併はそんな切り取られた世界を作ってきた。かつてのように小さな自治体が分散していれば、それぞれがもう少し違う視点を持った。ところが大きくなれば、かつては左手も見ていた人々が、みなこぞって右手を見る。自治体ばかりではない。地域を支えていた農協にしろ、もっといえば政治にしろ、大きくくくられるからこそ、小さな意見は飛んでしまうし、また隣との協調もせず、競争だけをする。ますます境界域で暮らすには暮らしにくい時代になったといえるのだろう。

 かつて昭和の大合併において、同じ村の中で北の方は北へ、南の方は南へ行きたいと言ってもめたものだが、今はそういうことはほとんどない。大きいが故に、そんな小さな意識は問題外なのである。さらにはそうした意識を生むほど小さな地域がまとまっていないという現実がみてとれる。まさに諦めなのである。

 終わり。
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思い込んで山登り

2008-10-22 12:23:12 | つぶやき


 現場に出た折に伊那市笠原の御射山神社で昼をとった。この御射山神社のある場所は蟻塚城跡のあった場所で、伊那市内でも山城の形をもっともよく残した城跡である。御射山神社のことは知っていたが、もともとお城に興味があったわけではなかったため、神社が城跡にあるということを認識していなかった。現場に出て昼を取るときは、こんな具合に神社とかお寺とかを目安にする。食べ終わって少しばかりの時間に、たて看板などを見て「へー、そうなんだ」程度に余暇をつぶすのが、現場での昼の楽しみである。看板を見ていて注目したのが、「この城からの眺望は素晴らしく、あだしの原(六道原)をはじめ、遠く西山(木曽山脈)まで一望できる」という部分である。なぜか「眺望がよい」というところに注目しすぎて、神社の裏の本郭まで登ろうと考えた。ところが、神社のすぐ裏の堀を越え、本郭のあたりまで行ってもとても眺望がよいという状態ではなく、その場ではその鬱蒼とした林がを本郭だと認識しなかったのだ。そのためこの裏の山の上が城なのでは?、と思い込んでひたすら山を登る行動に出てしまった。急峻な松林を登りやっとたどり着いた山の上は、看板にあるように確かに30メートル×50メートル近い広さがある。山上で「ここだ」と思う達成感を味わってみたものの、やはり松林が邪魔で、下界を望むことはできない。かろうじて木々の間から六道原がなんとなく見えるものの、かろうじてという世界で、期待した視界とはまったく異なっていた。それでもおそらく二度と登ることはないであろう山に登った達成感を味わったとともに、その平らにある祠と、少しばかり枯れている大木の松に目を奪われそんな光景を写真に撮って山を降りた。山上の平らの北側にも堀らしきものがあって、完全にそこが蟻塚城だと思い込んでの下山であった。

 ところがである。自宅でその城跡をもう一度確認してみると、『伊那市史歴史編』に城跡実測図なるものが掲載されている。それには御射山神社とすぐ裏の本郭が描かれていて、神社と本郭との距離はとてもわたしが登った山上と神社のような距離ではない。そのとき「あの山上は蟻塚城ではないんだ」とようやく気がついたしだいである。けっこうこんな思い込みをするわたしである。もう一度現地にあった看板の図を、撮影した写真で確認してみると、御射山神社と本郭はすぐである。こんなものである。しかし、この経験で蟻塚城跡のことはそう簡単には忘れないだろう。



 笠原といえば獅子舞をかつて訪れたことがある。当時は4月29日の天皇誕生日が祭日であったが、今も当時と同じ日なのかは知らない。御射山神社の境内で舞われると、里に下りて家々を回って舞をする。起源は定かではないが、1264年の記録に「村の若者が獅子頭をつけ、抜刀を神前に供えるという形があり」(『伊那市史現代編』)というからかなり古い話である。ちょっと古すぎるからその時代に本当に舞われていたのかは解らないが、さらに1501年には「俗歌に合わせ横笛と太鼓が奏され、…」という記録もあるという。大神楽の舞は、同じ伊那市羽広の獅子舞と同じである。獅子舞を訪れたのはもう20年以上前のこと。写真にも写っている茅葺の舞台が、今も残っている。

 獅子舞の撮影 昭和62年4月29日
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姿を見なくなったリンドウ

2008-10-21 12:28:17 | 自然から学ぶ


 リンドウについてはだいぶ以前に触れたことがある。長野県の花と指定されているリンドウであるが、それは園芸用に植えられている花をもってそう言われるわけではないだろうが、ちまたではそんな捉えかたをされてもしかたがないほど野から姿を消している。秋の花かと思うと春や初夏に咲くリンドウもあるが、そんなあまり意識しなかった季節のリンドウ以上に、秋の野からリンドウは姿を消した。

 比較的昔のままの姿を残す自宅の近くのため池に二年ほど前にその姿を見たが、その年はそのため池で拝見しただけであった。あまり群生するという花でもなく、その際も一株程度であった。昨年はまったくその姿を捉えることはなかったが、この土日に妻の実家を農作業で訪れたところ、やはりため池の土手で久しぶりにリンドウの姿を捉えることができた。雑草がたいぶ伸びていたが、それでも夏の終わりに刈られたであろう土手には、ススキなどの丈の長い草は目だっていない。適度に日当たりがあって、丈の低い草花にはよい環境が維持できているのだろう。遠めで少しばかり紫色が見えたことで期待はしたが、この季節はツリガネニンジンが賑やかに咲いていて、間違えているのかも、という不安もあった。しかしそれとリンドウの紫色は濃さが違う。ということで寄ってみると見事にリンドウだった。やはり三株ほどと少ないものの、遠めでも期待を膨らませたほど目立つ存在であることに違いはない。

 ここのため池は頻繁に訪れているにもかかわらず、リンドウを捉えたのは久しぶりのことである。「確か咲いているのを見た」程度の記憶だったので、どこに咲いていたかもあまり記憶になかった。草刈りの時期にもよるのだろうが、たまたまここ数年咲いている時期に訪れなかったのか、あるいは草刈り後で拝顔できなかったのか定かではない。もともと人造の工作物であるため池なのだが、けっこう自然環境上は多様な世界であることは今までにも何度か触れてきた。妻はこのため池に思いいれもあって、自然の残っている空間と言うが、こと植物だけで捉えると、自宅の近在にある比較的人目につくため池の方が多様な植物が残っている。池の中のことまでは解らないが、それぞれのため池にそれぞれの特徴があることを知る。思い入れのあるため池は、メダカもいればツボ(たにし)にドショウもいる。トンボの種類もとても多い。ほかにため池のような空間がないことによってため池が特別に目立っているだけなのかもしれないが、小さな生物にとってこれほど住みやすい場所はなさそうである。

 リンドウについては検索してみると冒頭でわたしが述べたように、園芸用のものがたくさん登場する。自生しているものと園芸用の項目が半々くらいにひっかかるということは、いかに園芸の世界で一般化している名称であるかが解る。いわゆる絶滅危惧種として指定はされていないものの、わたしの視界ではとても珍しい花であることに違いはない。仕事で野に出て、またプライベートでも野に出ている者の視界は、かなり現実に近いと思うのだが…。
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中山間集落のこれから

2008-10-20 19:21:30 | 農村環境
 民俗学が現代の地域問題にあまり関わろうとせず、その問題解決の糸口さえ提示できなかったことを以前から少しばかり触れてきた。具体的にどういう意味なのだと考えても、すぐには事例をあげられなかったが、今回紹介する事例は明らかに今後の(いやすでにそんな事例はたくさんあったのだろうが、地域社会だったからあまり表に出なかったのかもしれない)地域社会で問題となりうるもので、かつこの問題は一層地域社会を疲弊した状況に陥れてしまうものであると危惧している。

 平地農村においては、ほ場整備というものが網羅されて行われた。これは①不整形の水田や畑を整形にして機械化を促進する、②点在している所有地を集団化することにより、効率化を図る、③かつては道路というものがなかったため、そうした道路をそれぞれのほ場に接すことで機械化はもちろん公共の道と個の土地を結ぶ、④同様に水路をそれぞれのほ場と結ぶ、など大変意味ある整備であった。確かにそれをきっかけに失われたものもあるだろうが、実は地域社会を維持していくためにはこの整備はどんなレベルの整備であっても不可欠であったといえるだろう。その最たるものが③と④であって、それでも将来的に水田外に転用してしまうとか、大規模な転売という土地であれば④は絶対必要というものではなかった。何より重要な点が③である。もちろん道路についてはほ場整備でなくとも単独で整備は可能であり、事実ほ場整備はできなくても道路だけは整備をしたいといって整備された事例はたくさんある。しかし道路となると土地を捻出する方法でなかなか折り合わないこともあり、総合的にさまざまな問題をクリアーできる手法としてほ場整備は存在した。ところが、ほ場整備はもちろん、道路整備も完全ではなかった地域では、いまだ個人の耕作地に道路が隣接していない事例は探せばたくさんある。耕作地ならともかく山林ともなれば道のない山林がほとんどかもしれない。それらはそれら山を所有する人々の中で暗黙の了解で人の土地を通ることが許されたもので、今も同様の形で維持されている空間だろう。ところが山林はご存知のとおり林業の衰退とともに、また利用価値という面でも土地の流動はそれほどなかった。しかし、水田など農地についてはこれまで転用という形でその環境を大きく変えてきた。もちろんそうした土地流動において問題が今までに派生しなかったわけではないだろうが、平地に関しては山間と異なり、「道路を設ける」という意識が早くからあって、それほど道のない所はなかっただろうし、あったとしても道がなければ土地が売れないという現実もあっただろう。ところが山間ではそうした土地流動が少なく、加えて整備がなかなか進まないということもあって、いまだ道のない土地は残る。

 山間地域が跡継ぎがなく、過疎化していくのは承知のところである。山奥はともかくとして、このごろは中間地域においても次世代には人口半減は当たり前で、家そのものの存続が危ぶまれ、集落はなくなろうとしている。そんななかで、伝承する子ども達が同居していないということもあって、たとえばある集落の主だった人々が亡くなれば、それまでの慣習が途絶えてしまう。ということは暗黙で了解されていた地域のしきたりのようなものも切れてしまい、たとえば道のなかった人は二度と道を使えないなどという事例が出ても不思議なことではない。妻の実家の近辺で現在も耕作されている水田をみても、道が隣接していない水田が50パーセントほどある。たまたま水路が隣接していてその水路敷が広げられて耕作をしているが、正規に公の土地として広げられているわけではない。どういう経過かは解らないが、当時は了解の上で水路の隣接地の人々がそれぞれの土地を出し合ったのだろう。まだ水路が沿っている水田はともかくとして、それすら隣接していない土地も少なくない(了解のもと人の土地を通って良かった)。山間ということもあって土地の流動は今までなかったが、そろそろ次世代が耕作もできないからといって人に貸したり売ろうなどという話も出ている。まったくの他人の手に渡ったとしたら、今までの口約束とか地域の約束などというものはいっこうに通用しなくなる。道に沿っていない土地は、結局は道に沿った土地の奥に存在するわけで、売れるのは道に沿った土地。ということで、奥まったところの土地の所有者は、人の手に渡ってしまったらその土地に足を踏み入れることすらできなくなる。

 地域が穏便に動いている間はともかくとして、たとえばずる賢い人間がそこを突き法律を嵩にしてしまうと、地域は大変なことになる。そんな問題が起きうることを民俗学は認識してこなかったのではないだろうか。

 『長野県史民俗編』の中に調査項目として触れられているものにこんな質問がある。「耕地へのはいり道のない土地の持主は、馬いれを作ってもらうことを主張できるならわしはありましたか」というものである。ここで質問している馬入れは、「公道」という意味での道なのか、それとも了解の上で利用される道なのかはっきりしない。同じ質問をかつて飯田市の公共調査で質問した回答をみると、多くの人が「耕地へのはいり道のないところはなかった」と答えている。飯田市域はほ場整備がされていないところが多い。とくに山間で聞いた回答を見ても同じような回答が多く、「本当なの?」と疑問がわく。この質問の問題点は、回答者が耕地への入り道を公のものか、それとも暗黙の了解のものか判断しにくい質問だということ、さらには回答者がそれを認識しているか、というところである。場合によっては公の道と回答者が思い込んでいるということも十分にありえる。実はこの質問内容を作ったのは自分であるが、あらためて民俗学の不備を知る結果となる。民俗学の関係者でこのことに気がついている人がどれほどいるのだろうか。隣接していないため土地が売れないということにもつながるが、売買以上にそのことを地域の人々ですら認識していない人が多く、さらには次世代が同居していないがために、地域社会の秩序はあるときいきなり途切れてしまう可能性が大きいのである。
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絶滅に向かう

2008-10-19 15:33:12 | 自然から学ぶ


 先ごろツメレンゲのことについて触れた。道端の石垣、というか石積護岸に群生しているツメレンゲも、しだいに土に覆われてその生育環境が変化してきていることが解った。これもまた毎年触れていたことであるが、そのツメレンゲの群生する護岸の前面に広がる河川敷内にツツザキヤマジノギクがかつては群生していた。すでに群生という表現はできないほど姿が消えている。

 初めてここにツツザキヤマジノギクを見たのは、ツメレンゲと同じ5年ほど前のことである。その当時は仕事で植生調査をしたためここにそれらの花が咲いていることを教えてもらったのだが、家が近いということもあって、毎年様子をうかがいに来ている。教えていただいた植物の先生方もここに咲いていることを認識された上でのことであったのだが、先生たちの目で見てさらにそれ以前はどうだったのか、改めてこの変化を目にしながらまたの機会に聞いてみたいとも思う。5年という自然界においては短い期間でこれほど変化するということは、いかに微妙な環境が影響するかが解るわけである。ことさら河川敷内というのは、変化の激しい場所である。ところがそうした変化があればよいもののまったくないとむしろ違う意味で変化が現れることもある。河川敷内に生育する希少植物はどちらかというと氾濫を繰り返すことでその環境になじんでいる。そう思わせるのは、このツツザキヤマジノギクの減少過程からはっきりする。この場所は上流にダムがあることから、氾濫するというほど水位が上がることはめったにない。そのせいか河川敷内に堆積している砂や土の上の植生が濃くなる。中州のような場所にヤナギが生え、そこからわずかながら流れる水辺との間にいかにも「河原」という印象の石がごろごろしてその間に砂地がある光景ができる。しかし近年この空間が狭くなり、しだいに河原らしい光景ではなく土目が濃くなってきたのである。そうなると雑草が生えやすくなり、とくに河原地とは異なり、丈の伸びる草が優先してくる。すると同じような丈になるツツザキヤマジノギクがそれらに負けて減少していくのである。おそらくある程度河川が氾濫し、上流から土砂が供給されていれば、これほど固まった環境にはならないはずである。当時の群落調査のデータを紐解いてみると(昨年の日記に掲載)、優先種としてメガルカヤやメマツヨイグサが見られる。今同じ空間に優先的に生えているのはメガルカヤである。そしてそれは他を圧倒するように生え始めていて、いずれはかなりの確率になっていくのだろう。

 ツツザキヤマジノギクは、どの株にもツツザキの物が咲くわけではない。ツツザキではないものが咲くものがあれば、ツツザキとそうでないものが同じ株に咲くこともある。だいぶ少なくなったかつての群落調査をした中でツツザキの物を探すが、なかなか姿は見られない。そしてそれらしきものも、完全なるツツザキのものではなかったりする。かつて見た見事なツツザキヤマジノギクは、本当に珍しくなったといえる。別名イナノギクと言われるように、このあたりにしか咲いていない種である。ところがこの5年の変化を見るにつけ、絶滅に向かっているとつくづく感じるのである。

 写真は今年見たツツザキヤマジノギクの中ではもっともそれらしい花を撮ったものである。
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平日のワンマンカー

2008-10-18 22:27:03 | つぶやき
 昨日は妻の実家で急きょ脱穀をするということになって、会社を午後休んだ。ところが午後休むとはいっても妻の実家まで車で30分ほどかかるし、会社から自宅までは電車で1時間かかる。ということで、せめて午後2時くらいには脱穀に合流できるような電車はないかと探すと、ほぼ1時間に1本走っている電車が、なぜかこの時間帯には間隔が長い。午前11時30分ころの電車に乗るものの、自宅のある駅まで1時間20分もかかる。不思議なことに、交換のためでもないのに駒ヶ根駅で15分以上停車する。まさに昼間の電車はのんびりな動きである。自宅に着くのは午後1時過ぎで、そこで昼をとって脱穀に向かう。

 そんな真昼間の平日の電車に乗ることはめったにない。休日ならともかく、平日の電車はどうなんだろうと興味もわく。なによりお年寄りの姿が多いとともに、それはおもに女性である。お年寄りといっても今や80歳くらいなら免許を所持している人が多い。それでも女性はまだまだ免許を誰でも持つという世代ではなかった。事実わたしの母も免許は持っていない。まだ80歳にはとどかないが、近所の母の世代は免許を持っていない人の方が多い。15分ほど停車した駒ヶ根駅で、またお年寄りが乗車して来た。開いたままになっているドアの外で、電車に乗るのに苦労している。東京の電車と違って、ホームと電車の床の面には段差が大きくついている。この段差がけっこう大変なのだ。荷を背負ったおばあさんはドアの内側の床に手をついてまさに「よっこらしょ」という具合に登った。ふとわたしと目が合って、にこりと笑っているのだ。「年寄りはしょうないもんだに」と言わんばかりに・・・。たった1尺弱の高さだが、お年寄りにとってはこの段差さえ一苦労なんだと気がつく。

 わたしの座った席の反対側では、もう少し若い年配の女性が2人で世間話をしている。その会話に「ハイヤー」という言葉が登場した。最近はすっかり聞かなくなった言葉である。昔はよく聞いたし、恥ずかしい話だが自分も使った覚えがある。そしてよくこんな話をしたものだ。タクシーとハイヤーの違いは?、というものである。だいたいが地方の小さな町にタクシーなどというものはなかったのだ。駅前に会社はあったが、電話をもらっては迎えに行くというスタイルが一般的だったのかもしれない。大きな町のタクシーとは、営業スタイルが異なっていた。なぜそれをハイヤーといったか。「道路運送法においては、ハイヤーを定義する条文は特に存在せず、ハイヤーはタクシーの一種として位置づけられている」とウィキペディアでも述べている。また「タクシーを「ハイヤー」と呼ぶのは都市部以外に在住する者や高齢者が多く、最近では「タクシー」と称することが多くなってきている」と記述している。「最近では」というよりすでにそう呼ぶ人はかなり限られているようだ。

 平日の電車、それもワンマンということで、乗り方も降り方も迷う乗客の姿を必ず見る。それでも自宅の駅に近くなると、乗客がまばらになるのはいつもと変わりない。
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雑な物を取り除いて・・・

2008-10-17 21:31:35 | ひとから学ぶ


 わたしは矛盾したことをたくさん言っているのかもしれない。かつて会社の先行きを考える会のメンバーに選ばれた時、「何に対しても反対するタイプの人間」ということで「こういうタイプは1人は必要」などというのが選ばれた理由。気分はよくないが、そういう面を確かに持っている。人と言うのはもっている雰囲気と言うものもあって、口調から実際言っているものとは別のイメージで捉えられてしまうということもよくある。人の上に立ち、みなを引っ張っていく人たちの器量の大きさを改めて思うとともに、批判はするものの実際にはその人たちの立場にはなりえないという自分は、ずいぶんと小さなものだと認識せざるを得ないのである。

 昨日、地方のなんでもない景色のある一部分だけをトリミングして額縁に入れるような暮らしの選択をして欲しくないといった。しかし、生活はあくまでもそんなものではないが、切り取って自分がモノの見方を表現することはけして悪いことではない。写真はかなり自由に、そして短時間に表現のできる格好の方法である。絵を描くのとはだいぶその容易さに違いがある。子どものころ絵を描くことも嫌いではなかったが、上手いとはとても言えない絵は、人に見せられるようなるにはなかなかの努力が必要だ。ところが写真はまったくの素人でも人を引き付けることができる。安易にそこへ走ってしまうのは解りやすい人間の気持ちである。だから写真を撮るというけして安易とは言い切れないが、素人でも表現しやすい世界を好んだことも事実なのだが、以前にも触れたように祭りの写真を撮ったりしているなかで、いわゆるアマチュアカメラマンと言われる人たちの態度には納得できないものを感じた。ようはトリミングする世界には、邪魔なものは入り込んで欲しくないわけである。北相木村の「かなんばれ」というひな流しの行事で、可愛い女の子だけを並べて男の子を排除させた教頭先生。彼はカメラマンの要望に応じてそんな対応をしてしまった。また、小浜市西津の地蔵盆で、海端に出張して念仏を唱えていた子どもたちを写真に納めようとしたら、「ぼくたちがお金を出して連れて来たんだから、お前は撮るな」と罵声を浴びせたカメラマン。こんな事例をあげると山ほどあって、思い出すと腹立たしいばかりだ。それでも思わず引き込まれる写真は背景はともかくとして存在し、もしかしたら嘘の世界が本当のように表現される。芸術か記録かという撮る側の意図の違いかもしれない。しかし、だからといってまがい物というのも視点の違いなのだろう。実は自らトリミングした写真を用意しながら、とはいえ写真の世界は意図の深いものだと思い、こんな文を下書きしていたところ、Akiさんに見事に指摘をされた。「矛盾したことを・・・」と思っていたらのタイミングだから、下書きをそのまま本日の日記にするために書きかえた。

 そんなことを思い続きを書くことにしよう。前述したようにそれぞれが思うものを表現するのは自由であるし、またその表現に意図があるからこそ、また人の共感を呼ぶ。けしてその背景で何が行われていようと、意図というものと背景が整合しなくてはならないことはない。だからこそ絵と同じように深い表現があると思う。ところが言葉で具体的に意図が表現されていない、いわゆる捉える側が何をそこから拾い上げるかについては受けて側に任される。そこに問題が生まれる。ようは芸術ならともかく、観光用の、あるいは人寄せのための写真は、やはりまがい物でもよいというどこか怪しさが漂ってしまう。なぜならやはり切り取られた世界だからだ。それを良しとして人寄せするのは、了解のない作成者の独りよがりなのだ。「トータルな暮らしを実感しよう」で書いたように、わたしたちは観光も、そして住んでいる人を減らさないという視点でも、できる範囲でどういうことをすればよいかを地道に話し合わなくてはならないと思う。安易な移住者へのアプローチや、観光誘致は必ずしも地域継続や地域の将来ということに立つと得策とは言えないはずだ。もちろんそこまで計算されてやっているのなら別であるが。

 わたしたちは切り取られた景色の中で生きているわけではない。多くの課題を持った地域のすべてを担って暮らしているはずだ。それはわたしがわたしに課しているテーマでもあり、また、自らがトリミングされた景色を象徴的に捉えてしまってはいけないと自らへの戒めとしている。それをこの地域の人たちに解ってもらいたいと思う。前述したように意図的に表現をしようとして写真を切り取るのとはわけが異なる。

 ところで、そんなことを考えていて気がついたことがある。かつてフィルムで写真を撮った時代には、できうる限りトリミングは前提にしなかった。たとえば35mmフィルムをトリミングすれば、35mmの画面を有効に使えない。50%切り取ってしまえば35mmハーフサイズになってしまう。だからサイズをより有効に使うためにはトリミングをしないことが当たり前だった。すればするほどに画像は荒くなる。ところがデジタルとなると違う。撮影する際に常に最大ピクセルで高画質で撮っているひとならいざ知らず、ふつうにスナップで撮影している人の多くは、画質にそれほどシビアではない。だからトリミングありきになってしまう。事実かつてフィルム利用時にはトリミングなどしなかった自分が、デジタルで撮影すると特段トリミングに抵抗がないのだから・・・。

 撮影〔辰野町北大出 2008/10/15〕
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