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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

成人社会の果ては

2008-11-30 19:25:13 | ひとから学ぶ
 「児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査」によると、2007年度の暴力行為の発生件数は、約5万3千件と過去最高に達したという。信濃毎日新聞11/30教育欄に「小中校の暴力行為急増」という尾木直樹法政大学教授のコラムが掲載された。小中学校での急激な増加だという。「中でも多いのが、「中学三年生の生徒と、同じ中学校の一年生がささいなことでけんかとなり、一方がけがをした」などという「生徒間暴力」」という。

 近ごろはたとえば学校の行事は地域一斉に行う。文化祭とか運動会などといったものがその例であるが、とくに文化祭は子どもたちが奔放になる時だけに要注意。別々に行うと、他の学校に群れて行って問題を起こす、などということも予想されるからなるべくそうした事態にならないよう配慮される。郡の学校が一斉に集まるような催しでは、他校の生徒とはちあわせにならないように、ルートを綿密にチェックするともいう。完全なる性悪説に従った回避行動といっても言い過ぎではないが、いざ問題が起きれば学校の責任とされるこの責任転嫁時代においては、篤姫ではないが無血開城を求めざるを得ないほど現場は非力なものになってしまっているとも言える。

 「小学校における暴力行為のカウントが始まったのは、ちょうど十年前の1997年からであるが、1006年度から連続して三割を超える急増ぶりも気になる」といい、そして中学三年生に向けて年々件数は増加していく。「このことは、義務教育における子どもたちのストレスがいかに強いかを物語ってはいまいか。とりわけ、内申点などを気にして、問題行動にブレーキのかかるはずの中三において、その兆しがまったくないのは大いに気になる」と言う。これらの背景として、2007年度に始まった全国一斉学力テストに象徴される学力向上圧力だと尾木氏は言う。学力主義は人間性豊かな人材を育成するというラインとは反対に、「いったいどんな大人が今後世に出てくるのだろう」と危惧せざるを得ないほど成長を続ける子どもたちの姿に見る。

 時に就職難時代が到来。今や中卒など就職できないという。その時になって気がついて「なんとか高校に」と拾ってくれる高校に通う。もちろんのこと郡境校であったり、地域校にそうした子どもたちが集まる。「授業が成立しない」なんていうことは想像にたやすい。自らが年老いてきて、自らの通った高校時代とまったく違うのは当たり前だと思う。しかし、いったいその場で何が起こっているのか、などということは、実は大人たちはあまり知らない。

 わたしの時代と違うのは当然と認識した上でのことであるが、電車の中の高校生を見ていてこんなことを思うときがある。かつては同じ高校の上下の関係、あるいは別の高校でも同じ中学を出たという上下の関係が、電車の中でも見られた。たとえば上級生が乗車してくると、下級生が席を譲るという光景を見た。ところが今の電車内の高校生にはそうした姿がほとんどない。もちろんのこと挨拶すらしない。先日先輩に挨拶をしている姿を見て珍しいと思って注視したほどだ。彼らは野球部であった。子どもたちにとって上下などもはや無いのかもしれない。年功序列の崩れた社会がそうなのだから不思議ではないことなのだが、何かを忘れているという印象を受ける。
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闇の世界へ

2008-11-29 18:31:39 | 農村環境
 「水路に蓋を架ける」において、蓋を架けることによる水路への負荷について触れた。強いてはそれら水路の寿命を縮めてしまうことになるのだが、水が流れることによる「潤い」というものが空間には生じている。ところがもし西天流幹線水路がなければ、その潤いというものはなくなるわけであり、それは水田がなくなるということにもつながる。ところがわたしたちは日ごろ水田のある暮らしに慣れきっている。あるのが当たり前だと思っているが、まったく水田のない空間を想像することはないだろう。もちろん現にそうした空間にも農業が営まれているわけで、例えば西天流幹線水路から上の木曽山脈の麓までの空間では水田の姿が極めて少なくなる。水がなければそういうものなのだが、わたしたちは水田を造ることで、「潤い」のある空間を作り上げてきたことになる。長い稲作の歴史は、水との戦いともいえるのだろうが、そうした水を求めたことによって、わたしたちの住空間にも「水」というものが豊富に存在しているように見えるわけである。かんがい期間を過ぎた西天流からはそうした「潤い」が消え、「冬を待つ」景色が横たわる。冬だからこそそれで良いのだが、夏場に水のない空間は、なかなか渇ききった心を想像させる。もちろん慣れてしまえば「都」ということになるだろうが、例えば冬場であっても防災用に水が欲しいと思うように、暮らしには水が必要である。多くは河川から取水されているわけであるが、その川を管理する側の人々は、容易にはその水を分け与えてはくれない。かつてなら水田耕作のために農民が水争いをしたのだろうが、今は国土交通省と農民が争っているような姿が見受けられる。いや、直接的には農民ではなく、農民を支えている水利組織といった方がよいだろうか。

 さてそんな水路も、住宅が立ち並ぶとしだいに蓋が架けられ、ふと気がつくとどこもかしこも暗渠化してしまう。東京を訪れると思うのは水の姿がなかなか見えないということである。地方においても住宅の密集した地域や、地方都市の街中では水の姿を見なくなる。そうした環境に居る人たちに「潤い」などということを言っても感度が違うかもしれないが、できれば水は目に見えるところにあって欲しいものだ。

 地方においても地価が上がるとともに、土地を広げるよりも安いといって安易に暗渠化したものだ。ようは道路を広げると暗渠化するということもよくあった話である。いつごろから流行りだしたものか、とうに20年近く前のことなのだろうが、門形の二次製品の水路が登場した。半分は暗渠、半分は開渠というもので、開口部には蓋が架けられて使用される。それまでの蓋であればいざとなれば開けることが可能であったが、このタイプのものになると、開ける気にもなれず、ほぼ暗渠と同じである。水路が暗渠化すると完全に闇の世界入りである。破損でもしなければ覗くこともない世界。常に太陽にあたったり雨に当たったりする開渠に比較すればもちは良さそうだが、いかんせん闇の世界なのである。オープンであった水路がいきなり闇の世界入りすることほどさびしいことはない。闇であるからゴミが入り込むことも少なく、管理上は「好ましい」という言葉もあるだろうが、それならいっそ「潤い」など必要ないということになるだろうか。そのいっぽうで農村では「生態系」という単語を連発する。水が流れるのを当たり前のように捉えるのであれば、水利施設を更新したり、水利権を更新することになぜも世の中はこうもうるさいのか、ということになる。矛盾だらけの世の中は、つまるところ「強い者が声を荒げる」ということ。何か筋の合わない空論にのせられて、無駄な作業が延々と続いている。それを仕事としている人たちもいれば、そんな無駄なペーパーを細工することに弛まぬ努力を重ねる農民の代表たちがいる。悪の輪廻・連関が農村を蝕んでゆく。それはまるで蛍を呼ぼうと口にしながら、水の流れてこない水路を整備するようなものである。
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「海と里」から①

2008-11-28 12:11:55 | 民俗学
 安室知氏は「百姓漁師という生き方」について『日本の民俗1 海と里』(2008/11吉川弘文館)の中で触れている。海付きのムラでは漁業だけで生計を立てているのではなく、農業や行商のほか海運や工場勤務といったものが複合的に合わさって生計が維持されているという。その基本に漁があることは言うまでもないが、男が生計を維持するために金銭を稼ぐ漁師であって、女は食べ物を自給するために百姓をする形式が成り立っているという。これは横須賀市佐島を例にあげてその具体的生活の舞台を説いているものであるが、生業複合論を展開している第一人者らしい視点の当てかたといえるだろう。これは百姓漁師という空間だけでなく、かつてはさまざまな舞台において一つの職に特化することなく、さまざまな生きるべく生業を織り交ぜていたことを実証する一つの例といってよい。

 佐島では「漁撈の複合パターンは時代的な変成を受けにくい基幹となる漁と、比較的短期間のうちに変わってゆく投機的な漁との二つに色分けすることができる」と言う。1935年~40年のある漁師の一年と、1950~55年の同じ漁師の一年の漁撈暦を比較した場合、基幹となるミヅキとモグリを組みあわせ、投機的な鯛の一本釣りなどを取り入れながら個人の趣向に合わせた漁に変異している姿がみえる。安室氏は「生活するに十分な糧を得ることができると分かっていても、大ダイを狙って沖にまで一本釣りに出かけるのは、それに大きな魅力を感じているからである」とある漁師の姿を語る。

 ようは本職を冒してまで個人の嗜好によって生業が複合的に形成されている姿が見えるのである。サラリーマン化した社会においても、本業とは別に嗜好に沿った稼ぎをしている人がいないとは言わないが、そのような余裕のある暮らしをできる人は少ないだろう。しかし、職人にしてもかつての農業者にしてもどこかにそうした嗜好を取り入れて暮らしていた部分があったはずだ。現在ではそれを「趣味」とくくってしまうかもしれないが、あえてそれを生業複合と捉えるのも生き方の捉え方なのかもしれない。

 我が家を造ってもらった大工さんは、秋のほぼ1ヵ月はほとんど大工の仕事をしなかった。我が家もまったく手付かずということではなかったが、その間はほとんど顔を合わせることもなかった。この間何をしているかといえば、マツタケ採りなのである。マツタケ山へ入札で入り、この期間に本職とは別に山のモノ採りに専念する人も少なくなかった。投機的な部分であるとともにそこに魅力を感じての生業だったのである。そう考えると農業をしながら石屋をしていた父は、やはり秋になるとスガレ追いに没頭した。前述の大工さんほどのものではないが、趣味といい切ってしまうには割り切れない生業の一部分的なものがそこにはあったようにも思う。佐島では金になる漁を「商売になる」といい、自家消費目的にするものは「商売にならない」という言い方をしたという。役割で言えば前者が男の仕事、後者が女の仕事ということになる。金にならないからといってそれは生業にならないというものではない。両者がなければ食っていけないというとこがポイントなのである。

 現代においては自家消費も含め、金にならないことに対しての視点が大変低いといえる。金になる仕事だけをもって生業という見方をするから主婦は無職となってしまう。しかし、生活の舞台は金だけで存在するわけではなく、人件費がこれほど高い時代にあっては、収入がなくとも身体を動かさなければ暮らしはできない。ようはサラリーマンの空間においてもどこかにこうした生業複合的な部分が少しばかり存在しているという見方ができるかもしれない。

 「出銭(でせん)を押さえてつつましくとも、のんびりと暮らすことができることができれば佐島では一人前とされた」と言う。それが豊かであるかないかは価値観の違いかもしれないが、そこに価値を見出せない現代は、ひとつの仕事に特化せざるを得ない時代といえるのだろう。

 さて、安室氏は「重層する海と里」の中で、「新規農業従事者が増加に転じていることと、都市生活者の農村への回帰とは明らかに相関している」と述べ「衰退する民俗(保護すべき民俗)といったイメージを脱し、新たな民俗学の胎動を予感させる民俗空間になりつつあるといえよう」と締めくくっている。こういう言い回しが、民俗学の中でどこかしかで登場する。民俗学において衰退する農村の問題はどうでもよく、新たなる展開を大事としているようだ。しかし、この思想はわたしには不快である。民俗学は人の暮らしを舞台に行政の思い違いの行動さえ評価し、肯定してしまいそうだ。果たして農村はそれほど未来が明るいだろうか。そこへこの学問は飛んでしまってよいものなのだろうか。実際の農村に暮らす者として、これは思い違いではないかとわたしは考える。
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水路に蓋を架ける

2008-11-27 12:41:20 | 農村環境


 自分の暮らしている空間ばかりみていると、それが当たり前だと思い、どこでもそうなんだと思いがちであるが、実は結構地域、いや行政区の考え方で雰囲気が異なるものだ。

 わたしの生まれた飯島町は、昭和50年代において全町を対象にしてほ場整備が行われた。その整備を行うにあたり、町が主体となって整備を行ったため、後の施設管理などは行政が担ってきた。全町とはいうもののもちろん該当しなかった土地や施設もあるが、割合にしたら少ない。したがってどこへ行ってもほぼ同じような景色が見える。宅地の入り口に農業用水路が流れていれば、その水路の上に直に甲蓋が架けられて家への進入路が設けられる。新規に進入路が設けられても、行政の所有で管理している施設であるから、管理者はとくに文句は言わない。とは言うものの二次製品の用水路の上を、重量のある車両が通れば破損することも考えられるから、本来なら占用許可のようなものを申請するのが筋なのだろうが、そこまで正規に行われているのか、現在は暮らしていないわたしには不明である。

 いっぽう西天流幹線水路が潤している水田地帯を流れる用水路は、昭和初期に開田事業で整備され、そのまま更新しながらコンクリート水路にはなったものの、現在もほぼ同じ姿を見せている。これらは用水路を造成したこと、また開田事業を行ったことなどからその管理を土地改良区が行ってきた。管理者が行政ではないことから、住宅を新設したからといって勝手に水路の上に蓋を架けて進入路を設けることは許されない。行政とそうではない組織という2枚看板で管理されている水田空間は、新規住人には少し不可解かもしれないが、言われてみれば正当なことであって、よその構造物に直接荷重をかけるということは、管理している側にとれば「勘弁しろよ」ということになる。それが災いして寿命が短くなる、あるいは寿命どころか直接破損させてしまうということだって考えられるからだ。

 現在わたしの住んでいる行政区に住み始める際に、側溝をまたいで住宅に入るにあたり、その荷重を軽減するようになどという指導は受けなかった。確認はしていないが、おそらく飯島町に近い形式といえる。個人の宅地ならそれほど大きな車が入るということはないだろうが、事業者だったら違ってくる。そういう意味では逆に行政とはことなった組織が管理している方が、しっかりした対応ができるのかもしれない。どちらが良いかなどとは言えないが、いずれにしてもわたしが知っている空間とは違う世界を垣間見る。

 同じようなことが水田地帯の道路にも言える。写真は南箕輪村での光景である。子どもたちが未舗装の水田地帯の真っ只中を家路に向かう。けっこう未舗装の道が多い。かつての農村地帯の様相であるが、実は同じように飯島町ではこうした光景はあまり見ない。ようはほとんどの道路は舗装されている。なぜこれほどの差が出たのか、とそんなことを考えると、現在に近い時代に整備された空間は、水田の大きさが大きいため、道路にしても水路にして条数は少ない。したがって、小区画であるがため道水路が多い西天竜の水田地帯では、まず道が狭く、条数も多いとくるから、それらを効率的に舗装していくことができなかったともいえる。行政の管轄範囲の違いがこれほど空間の彩を変えてしまうということ、意外にも意識している人は少ないかもしれない。
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個人情報

2008-11-26 12:29:37 | ひとから学ぶ
 個人情報保護の目的は、「だれもが安心してIT社会の便益を享受するための制度的基盤として、平成15年5月に成立し、公布され、17年4月に全面施行されました」と総務省のページに説明がある。近ごろはこの「個人情報保護」を口にして何につけても隠される場面が多くなった。それほどまでしないと、我々はその情報によって迷惑を被ることになるのだろうか。時は「性悪説」で説けと言わんばかりで、青ざめた時代の顔が浮かぶ。

 先日所属している研究団体の総会で2年ごとに配布していた会員名簿を配布するかどうかについて議論になった。時代はこうした学術団体の名簿も目に触れなくなっている。個人情報保護法の義務の対象である「個人情報取扱事業者」とは、どのようなケースを言うか、同じ総務省のページの質疑応答から読み取ると、「個人情報保護法第4章から第6章に定める義務の対象となる「個人情報取扱事業者」とは、個人情報データベース等を事業の用に供している者(民間部門)をいいます。ただし、事業の用に供する個人情報データベース等を構成する個人情報によって特定される個人の数の合計が、過去6か月以内のいずれの日においても5,000を超えない者は、除外されます」という。データ数にして5000未満は法的には該当外となるようだ。詳細はわたしにも解らないが、皆が口にするほ本当のところはうるさくないのが実際のようだ。ただ、適用外であっても「個人情報保護法の義務は課せられないとしても、「個人情報は、個人の人格尊重の理念の下に慎重に取り扱われるべきものであることにかんがみ、その適正な取扱いが図られなければならない」(法第3条)という個人情報保護法の基本理念を尊重して、個人情報の保護に自主的に取り組むことが望ましいところです」という。

 データ数はともかくとして、適用されないケースが羅列されている。それは
(1)報道機関 報道活動
(2)著述を業として行う者 著述活動
(3)学術研究機関・団体 学術活動
(4)宗教団体 宗教活動
(5)政治団体 政治活動
をいうらしい。したがって学術研究団体の活動は適用外と読み取れる。とはいえ前段のその主旨に「かんがみ」ということになるのだろう。そうした部分に敏感になっているからこぞって情報を出したがらない。このごろは同級生の住所する解らない状態で、今後ますます人と人のかかわりがなくなることは自ずと予想できる。ようは友だちのできないような子どもたちは、ますます友だちはできるはずもなくなる。そういう雰囲気が日常に蔓延しているといってよいだろう。その雰囲気の中で生活していく子どもたちがどう育つか、予想もされないような社会がやってくるのではないだろうか。

 日本民俗学会の2007年4月に発行された会員名簿には次のような個人情報保護に関する考え方が明示されている。「○会員名簿の第三者提供は行わない。また、このことを会員にも周知する。○会員についての外部からの問い合わせについては、本人の承諾を得て行う。」というものである。名簿配布に関しては同意をとれば可能というが、同意がなくとも同意に代わる措置を取れば可能という。それは「以下の(i)~(iv)について、あらかじめ、1)又は2)のいずれかの措置を取った上で、作成した名簿を配布することができます」というものだ。

1)本人に郵便、電話、電子メール等で通知する
2)事務所の窓口への掲示・備付け、ホームページへの掲載等によって、本人が容易に知ることができる状態に置く
  (i)利用目的 (例 緊急連絡網として配布)
  (ii)名簿の内容 (例 氏名、住所)
  (iii)提供方法 (例 関係者へ配布)
  (iv)本人の求めにより名簿から削除すること

 いずれにしても過剰防衛的な雰囲気がある。軽々しく「個人情報」という言い回しをしているが、結局のところ面倒くさいから「そう言って出さない」という流れのような気もする。

 所属している会では名簿を配布することになったが、学術目的のそれも200名足らずの組織である。半月ほど前に、飯田市下伊那を中心に組織している伊那史学会と上伊那郡を中心に組織している上伊那郷土研究会の名簿を見せて欲しいとそれぞれの事務局に依頼した。具体的な利用目的を聞くまでもなく、胡散臭く思われたのか「名簿は見せられない」ということだった。それでも上伊那郷土研究会の方は、事務局で見ていただくのはけっこうということで出向いて調べた。伊那史学会の方は市町村名と名前だけを記録してある会費納入状況の一覧を見せていただいた。むしろこちらの方が本来の個人情報に関わる部分か見えているような気がしたが、わたしの目的ではないから目もくれなかったが、いずれにしても地方のこうした団体がずいぶん気を使っているのに驚く次第だ。正確な調査はできなかったが、雰囲気程度でモノを語っているわたしにはそれでも十分であった。妻に言うと、「年寄りばかり参加している会員名簿はそれこそオレオレ詐欺に使われる可能性があるから問題あるんじゃない?」と返され「なるほど」と納得した。しかし、年寄りにしたって、これでは誰とも会話ができない時代が訪れても不思議ではないだろう。いかにこれからの時代の不幸が膨らんでいるか、そんなところを思うばかりである。
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義理とは

2008-11-25 12:45:07 | 民俗学
 妻の伯母さんが亡くなって葬儀があるという。葬儀までの日々の行事をこなすごとに妻は愚痴をこぼす。とはいっても妻がその場に必要な人間ではないから直接的影響がそれほどあるわけではない。いわゆる隣組が寄り集まって葬儀の段取りを打ち合わせる会議。おおよそ亡くなって間もない日の夕方から開かれる会議であるが、今は葬儀屋がおおかたの段取りをしてくれるからそれほど時間を要すわけではない。先ごろあった我が隣組の葬儀でもものの1時間もあれば打ち合わせは終わる。我が家のあたりではお茶を飲みながら打ち合わせが行われ、終わればお開きである。ところが伯母さんの隣組では打ち合わせ後に酒が出される。そこまでは良いのだが、隣組の人たちが一向に帰らない。妻の父は兄弟の長老ということでその場に顔を出すが、老人にとってはそんな酒席は短いことにこしたことはない。

 さて、翌日は湯灌だという。一般的に湯灌は近親者で行われるのが普通なのだが、ここでも隣組がやってきて再び酒宴となる。故人を偲んでのものならともかくそれに疑問を呈すほど妻は「葬儀をよいことに飲み会をしている」とまでいう。加えてなかなか帰ろうとしない隣組に「なんなのこの人たち」という具合だ。

 湯灌とは流行の葬儀屋に言わせれば故人の遺体を洗浄し、身支度をするものだという。上伊那郡南部では、「今は目をおとすと同時に一切の処置が行われるので以前程ではない」と『上伊那郡誌民俗篇』(1980)に記述されている。この場合の「今」は1980年のことであるからだいぶ時は経っている。同書に記述される上伊那郡東部の項では、「臨終直後体を拭き清掃する。これが湯灌をかねている」とあり、神葬では「湯灌や旅支度はない」とされる。葬儀屋も地域ごと個人ごとの実情に合わせてやってくれるから葬儀屋に勧められるものでもないだろうが、最近は湯灌サービスなるものもあるという。そうしたサービスの質疑応答にこんなものがあった。「病院できれいにしてくれているのにどうしてお金をかけて湯灌をする必要があるの?」というもので、その回答として「基本的に病院ではアルコールなどを用いてお体を拭き上げるいわば消毒の意味合いが強くまた、お体の処置も十分になされていない場合が多いようです。病院様のご苦労もお察しできますが、湯灌とはイコールになりません。私どもが提供する湯灌サービスは日本人が大好きなお風呂を身内の皆様と共に故人様の「お別れ式」として昇華しより現代に合う手法を用いて行なうものであると認識して頂ければと思います。「やってあげたいけどできない」そんな思いを私共が成り代わりお手伝いさせて頂きます」という。わたしの印象では今はだいたいが病院で亡くなることが多いため、この内容にあるいわゆる消毒以上の洗浄ということをするイメージはなかった。妻の祖父が亡くなった際も、亡くなると新しい衣服を病院まで持って行き、それに着替えたと言う。死後硬直があってからでは着替えが難しくなるため、なるべく早い段階でここでいういわゆる清浄の行動をとっている。だから通常湯灌といえば、旅立ちの装束を整え納棺することを指して言っている。

 いずれにしても湯灌の意図からして「近親者で行う」という理由は解る。伯母さんの地域は昔からそうだったのかというと、この地域、高度成長期に住宅分譲されてできた新興地域。いったい誰の意見でそうなったのかは興味がわくところであるが、これを新たなる民俗の創生などとはあまり言いたくはない事例であるが、これもまた民俗という考えもあるのだろうか。今地方ではこうした不可解な現象がたくさん起きているのだろう。
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長野県の地方区域分類という視点から

2008-11-24 19:50:26 | ひとから学ぶ
 『信濃』11月号(信濃史学会)において、山中鹿次氏が「長野県の地方区域分類の現状と課題-道州制施行問題に関連して-」と題して論文を寄稿している。道州制についてはこれまでにも何度か触れてきたことと、最近のリニア問題などにも関連して、長野県の分裂の危機という捉え方が十分に出てきていると考えている。山中鹿次氏は日本道州制研究会幹事だといい、道州制賛成論者である。検索すると関連ページがたくさん登場してくる。それはともかくとして、果たして山中氏の指摘は長野県においてどうとらえるべきか、そんなところを思い興味深く読んだ。

 山中氏はこれまでの道州制試案において多様な地方区域に分類されている長野県の位置づけをし、次いで国の出先機関や公共機関での長野県の現状を把握、長野県が東西の接点にあって、多様な位置づけにあることに触れている。そして、もともと長野県民にある分割志向と一体思考の矛盾に焦点をあて、もし道州制に組み込まれるとしてどういう方向性があるだろうかという部分を提案している。

 地方制度調査会が2006年に示したものでは長野県はすべての案において「北関東」に区分された。しかし、地方制度調査会以外の案では、必ずしも関東に属すものではなく、さまざまな案があげられている。提案するそれぞれの人々にさまざまな打算があってのことなのだろうが、区割り案ばかりが先行するのも無理のないことである。強いてはそれが将来の自分たちの生活にもかかわってくる。もちろんそれが地域にとってどういう立場になるかということにも関わる。いずれにしても長野県にあっては山中氏が言うように、分割志向がどう働くかということになるのだが、現知事は道州制に対して「市町村と国の二層制で道州制は必要ない」と口にする。もともと現知事は県の役割はサポート役といっており、はっきりしないが県はいずれなくなっても仕方ないという考えを持っているのかもしれない。そこへゆくと前知事の田中康夫氏は、道州制が導入されることで長野県が分裂することを指摘して、それが故に山口村の越県合併に反対していた。田中氏の意図が必ずしも山口村の人々のためになるとは思えなかったが、大局的にみれば長野県の先行きを案じてのものだったわけだ。しかし、リーダーが案じる以上に、わたしには地域は分裂傾向にあると認識している。やはり地域のリーダーたちがどう接しているかが重要で、そうした流れが住民にも雰囲気を醸し出したりする。いや、それ以上に地域に根強いモノが横たわっているのかもしれない。

 山中氏の指摘の中でなるほどと思った視点があった。山梨県では知事が東京都と同じ区割りを希望しているものの、経済同友会は「南関東、東京と同じ州になることで、過疎の進行やゴミ処分場など迷惑施設を押しつけられる懸念から、静岡、山梨、長野による中央州を形成することを主張」と紹介している。山梨県はともかくとして、長野県は関東につこうが中京につこうが、いずれも僻地であることに違いはない。例のリニア問題からいけば、これを扱った掲示板などを伺うと、長野県など相手にされていないという印象は強い。リニアのルートについてごちゃごちゃ言うのなら「長野県を8つに分割し、隣り合う8つの県に併合させれば、すべては丸く収まる」などという意見すらある。確かにその通りかもしれないが、果たして分裂の先に本当にそんな現実があったらどうだろう。いずれにしてもリニア問題は、道州制と大きく絡んでくることも事実で、もし道州制が導入されるとすれば、長野県が「駅の設置を」と望んでいる意図が大きく左右されてくる。もっといえば、直線ルートが現実化したとして、さらには飯田地域が分県してしまったら、長野県には何の価値もないものになってしまう。そういう意味で、なんとか諏訪まで引き上げたいという考えは、いずれ議論にもなる道州制とも絡んでいることは自ずと解るわけである。そしてその接点にある地域だけに、「迷惑施設が押し付けられる」という想像もけして非現実的なものではない。

 山中氏は「道州制議論は長野県の分割志向を再燃させつつある」とまでいう。かつて県庁の綱引きをした長野県には、一体にはなれないものがあった。「春の統一地方選挙の候補者討論会で、「道州制が導入されれば、飯田下伊那地方は県を割っても中京圏へ行くべきか」という問いに、候補者五人全員が同意し、聴衆からも疑問の声は起こらなかった」という。さらに小木曽根羽村長や大平天龍村長の道州制では中京圏以外は考えられないという意識を紹介している。どれほど「信濃の国」を歌おうと、いざとなれば生活圏域は明らかに違うということを示す事例である。

 山中氏の捉えかたにはおそらく南信=中京圏のようなものが見え隠れするが、これは伊那谷という地域をあまり理解されていない視点だと思う。中京圏を望むのは伊那谷ではなく、飯田下伊那ではないだろうか。道州制論者である山中氏は、「現行の長野県の活用」をしながら道州制に移行することを薦めている。「県知事を廃止したり、県職員の身分を道州や市町村に移管するとしても、放送局や本籍地や住民票の記載は長野県の呼称を使用し、道州制の中でも高校野球予選や、運転免許試験場、県立歴史館など現行の県単位で保ち、市民感覚での長野県の存在感は現状と大差ないものとすることである」と述べている。果たしてそんな非現実的な道州制はありえるのだろうか。いずれにしてもいざとなってからでは遅い。接点、そしてもともと分割志向のある地域だけに、山中氏が最後に提案している「長野県から道州制や、広域地方行政に関するシンポジューム開催や、提案。岐阜、静岡、愛知などを交えた日本列島の東西交流のイベントや特別展開催」は必要なことではないだろうか。
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向かい山でぴっかり見える

2008-11-23 23:54:36 | 民俗学
 「大雪でも降って電車が停まってしまえば・・・」と始まった長野隆之氏(國學院大學准教授)の長野県民俗の会総会講演会。「民謡から見た長野県」という題の講演は、悩んだ末に直前に決まったタイトルだという。総会資料の題と内容とはまったく異なるというあたりが、それを示す。民謡の種類や登場人物、歌詞の示すもの、といったところから圏域性を求めようと試みているが、何かがありそうだがそこからまだ具体的な解説に至っていない。長野氏が注目した歌「向かい山でぴっかり見える 月か星か蛍か 月でもないし星でもない 忍び男の煙草火」は岩手県で歌われる田植え歌という。「ぴっかり」は「忍び男の煙草火」は何を意図しているのか、探ってみるに値する。この場合、闇の中に光ったものを捉えて言っている。田植え歌とは言うものの、闇夜に田植えをするわけではないから、なぜそれが田植え歌になったかは疑問のところだ。だいたいが向かい山で光っているのだから「月でも星でもない」ことは容易に解る。もっといえば向かいの山で光っているのだから距離感からいけば蛍でもない。深く読み取るとここには何かが隠されているのかもしれない。長野氏の資料には石川県の「向いの山の光るもんにゃなんにゃ 蛍か虫かこがねの虫か 今来る嫁の松明か」というものも掲載されている。また島根県のもので「大山山で光るは 月か星か蛍か」というものもあり、これは岩手のものとおなじように光を捉えている。長野氏は詞形で分別して圏域性を捉えようとしたが、なかなかわたしたち素人には?マークが並ぶくらい訳が解らなかった。さらには「民謡から見た長野県」という題材にはなかなか届いていなくて、さらに疑問符が並んだ。この2年の会の活動を総括するには、十分なくらいに姿を描いていた講演であったのかもしれない。

 さて、例年通りの懇親会は、10人ほどで始まったが、そのスタート時間に余裕があったため、時間つぶしに二次会を先行して始めた。宴会を真昼間に始められるようなところはなかなかない。それでも食事を取る時間でもなく、飲むくらいしか久しぶりに集まった顔には浮かばなかった。かろうじて飲める場所を探して始まった二次会で、十分なほどに酔い、本来の一次会、そして二次会と続いた宴会は長い宴会となった。自宅までたどり着ける最後の電車に乗り、岡谷で乗り換えて飯田線に入ったが、ほとんど寝た状態で駅までついた。直近で目が覚めて最寄の駅に降りられたのは奇跡であった。

 宴会ではなるほどというヒントをいくつももらったはずなのに、酔いが強すぎて多くは飛んでしまった。金も飛ぶが記憶も飛ぶ、ほとほどにということなのだろう。細井氏がこんなことを言った。聞き取りの際にその時代を確認すると「男性の場合は○○が役員をやっていた時だから、といって思い出し、女性は○○が学校に行っていた時でから、といって思い出す」傾向があるという。男性は地域社会の出来事で、女性は家族の出来事で時代を把握する傾向があるということなのだろう。なるほどと思う発言で、これはわたしが常に考えている地域性の把握という部分にも応用できそうだ、とそんなことを考えた。他にあったいろいろなヒントが失せてしまったのは残念だが、どこかで思い出せることを期待しよう。
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野にある石

2008-11-22 23:46:28 | つぶやき
 河川敷に巨石がごろごろしているのは不思議な光景ではない。田んぼや畑にそうした巨石なりがころがっている光景はとんとみなくなった。障害物は耕作の邪魔になる。ないにこしたことはない。電車の窓から眺めると、段丘崖の傾斜地やその斜面に巨石とはいわないまでも石が転がっている光景を見る。荒地であれば転がっていてもその用途のなかで支障はない。傾斜地も同様に、そこに価値を見出さなければ、石があっても支障はない。河川敷から段丘崖にかけての木々の生えた空間にある巨石をみて、いつからここに転がっているのかなどと考える必要もない。

 善光寺地震で山から転がってきたであろう巨石が、長野市郊外に見える。記憶に残るのは長野市信更町安庭あたりで国道19号からそれらがよく見える。巨石というよりもとてつもなく大きな巨岩となると、耕作に支障を来たそうと取り除くことはしない。そうした岩に祠か祀られ、拠り所とされる場合もある。それらがなぜそこに立ち止まったのか、あるいはなぜそこにあるのか、神秘的な心持でそれらは後の時代の人々に姿を映す。時代を経れば、事象よりも形として受け入れられる。そうしたカタチは、石に限って言えば、容易に動かしたり除去することのできないようなものに限られてくる。必ずそこに居座っているからこそ、変わらぬ拠り所として存在を大きくする。

 生家で暮らした子ども時代の、そんな記憶にある巨石を呼び戻してみよう。わが家ともっとも近かった家、いわゆる隣にあたる家との間には、少しばかり段差があった。我が家は低く、隣は少し高かった。距離にして100メートルほどの位置関係に、その段差を印象から消し去るように巨石があった。我が家はかつての河川敷内にあるから、その所在は古い時代の洪水、あるいは中央アルプスの大崩落などで転がってきたものだろう。沖積地だったことからも、それが基盤から突出した岩ではないことは、すぐに解ることである。その巨石は、わが家から隣に行く道の脇にあったもので、巨石のせいで道はくの字に折れ曲がっていたものだ。狭い道であったから、今ならへたくそな運転手が頻繁にぶつけてしまうような巨石である。その巨石には窪みがいくつもあったものだが、おそらく草をつついて子どもたちが遊んだ跡だろう。自分はそんな遊びはしなかったのに、古い時代から続けられたその遊びが痕跡を残したのである。ずいぶん昔からその巨石がそこに存在して、子どもたちの心を奪っていたわけである。確実に記憶に残っている身近な巨石はその石くらいであるが、確実ではないものなら、田んぼの土手にいくつも存在していたものだ。

 また、学校に通う道端にも巨石があった。そこもかつては河川敷であった場所であるが、ふだんの洪水では流されてくることはない大きさである。よほどの洪水、あるいは大崩壊といった何十年、あるいは何百年に一度というくらいの稀な災害が発生した折に動かされたものなのだろう。マチへ登る段丘の坂道を登る手前にその石はあって、花崗岩であったものの、長年の風化で表面は黒ずんでいたものである。

 さて前者はほ場整備が行われて、田んぼの区画が大きく変更された際に、わたしの目の前から消えてしまった。そして確実な所在として認識していなかったものの、田んぼなどに時折見えた石たちも、根こそぎ田んぼの空間からは消えていった。ようは田んぼにはありがたくない「石」なのである。機械化された耕作では、田んぼのど真ん中に障害物があることは不整形であるよりも厄介なもの。そして土手などに飛び出ている石も、草刈機で土手草を刈る際にやはり厄介なものとなる。だから耕作者たちがせっかく金を出して整備する以上は、そうした障害物は消えてなくなることがもっともありがたいことだったはずだ。いっぽう後者は最近その場所を通ったこともなく、定かではないものの、ほ場整備がされなかった場所だから今も残っていることだろう。現代の子どもたちにそんな巨石が横たわる空間を、印象深く語る者はいないだろう。
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機能低下を欠陥品にしてしまう社会

2008-11-21 12:40:46 | ひとから学ぶ
 朽ちかけた会社のことをあまり口にしなくなったわたしは、そこに人間社会の腐敗の構造を垣間見る。

 誰がどうしたとか、誰が仕事ができないとか、そんな情報をやたら収集する輩は好きではない。それは自分のたち位置を認識するために必要な作業なのかもしれないが、それがために時間を無駄に過ごしてしまうのも幸福なものである。子どもたちの教育はともかくとして、大人たちの教育が行き届かない社会にあって、極悪非道な殺人ひき逃げが起きようが、さして珍しい現象とも思えない。にもかかわらず、そんな非道を口にして社会の腐敗を強調しても、何も変わることのない日々を延長するに過ぎないのだ。

 毎年他者を利用して出先の仕事を放り出している事務所に、昨年までいた同僚は異動した。期待されて行ったのか、そこへ行く立場の者が彼しかいなかったのかは定かではない。人を評価できない人々が人事に関わり、縦割りのポストだけを配置していくから、人の評価などどうでもよいことなのだ。それでも厳しい情勢を打破するには、さらなる色分けが必要になる。とすれば「誰がどうした」ということが必要になる。そうした「どうした」をどう評価するかを、点数化でもして評価する単純作業で、そこそこのデータはまとめられるだろうに、どこか人間性を求めるから、技のない、また人を認識しない曖昧なものとなる。人の顔をすべて覚えられないような大会社ならいざ知らず、100人程度の顔で何を価値として見出そうとするのか…。それよりも仕事をすること。そして何が必要かを見出すこと。人の能力に個人差があることは十分に認識しているにも関わらず、常に「同じであるべき」という錯覚をし、無駄な消費を続ける。

 そんな事務所に異動した同僚は、身体の不調を訴えた。仕事の量で人員を配置しているからには、不良品が生じるとすぐに対応しろとわめく。2人のうちの1人とか、3人のうちの1人というのなら負担は重くなるが、そうはいっても3人だとしても仕事量は1.5倍。6人とすれば1.2倍。1年間ずっと不良品が機能しないというのならともかく、一定期間、そして一週間の半分程度は仕事ができるというのだから不良品というよりも機能低下品といったところで、それほど他者に負担を負うほどものでもない。ましてや事務所にそこそこの人員がもともと配置されているとすれば、それほどわめくほどのものでもないはずだが、「騒いだ者勝ち」と言われるように、わが社は対応した。部署長やその部署の者たちにしてみればありがたいことだろうが、当事者はどうかということになる。まったく当事者に対してのサポートなどそこにはないのである。当事者が物事に動じない人間ならともかく、ふつうに仕事をしていれば、自らの仕事のせいで他人に負担をかけるわけだから、心労が嵩むことはすぐに解る。ましてや、その負担を事務所の空間で補ってくれればともかく、公に他所にまで負担をかけるのが果たして当事者に対していかばかりかと思うのである。ただでさえそれぞれの間での信用を失った会社空間は、ますます冷え込んでいくことは容易に解る。それを誰も感じないのか、それともそれほど他所には余裕があると考えているのか、いずれにしても、彼の居る空間が何もサポートできなかったことをさらけだした事実は、皆の知るところになったわけである。

 「会社とは、仕事とはそういう厳しいものだよ」と簡単に答えられてしまうこの世の中にあって、自殺者が増加しているとか、路上生活者が増加している、あるいは犯罪者が増加しているなどということは、ちっとも話題にするべくものでないこともよーく解る。
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ヒイラギ

2008-11-20 12:32:40 | 自然から学ぶ


 指先を地面に這わせる。すでに冷たくなったそこは、冬を迎えるかのように冷たさをわたしの指先へ伝える。枯葉の中をまさぐりながらまだ青々とした草を取り除く。衰えはしたが、この季節にも十二分に草は伸びる。そうした草を今取り除くことで、整然とした庭は師走を迎えられる。そう思いながらもなかなかその準備ができないのが常なのだが、せめて枯葉を片付けようと、地面に指先を這わすのである。

 植えたくはなかったヒイラギの葉が、幾枚か枯葉の中にまぎれている。葉に棘を持つヒイラギは、ずいぶん昔に枯れ果てた葉にも棘は残る。地に這ったわたしの指先に、その痛みが当然のように感じられる。棘のついた葉の始末に苦労するから、植えたくはなかったのである。ところが母は「一本は植えとけ」といって造成された庭に持ち込まれた。落葉する枯葉はともかく、それまで冬も青々とした葉の始末の経験がそれほどなかったわたしは、ヒイラギの処理がこれほどめんどうだとは知らなかった。

 妻はそんなヒイラギの剪定をすると、いつも剪定枝はそのまま地面に残す。すぐ始末をすればまだしも、枯れてくると葉は枝から落ちる。すると葉だけが地面に散らばるから、枝を持っただけではすべてを移動することもできない。棘だらけの葉だけを手で集めるのは気乗りしない作業となる。

 ヒイラギは節分に登場する。鰯の頭をヒイラギの枝に刺し戸口に掲げた。またヒイラギの生枝の上で髪の毛、こしょうなどをいぶした。これほど棘のあるものは、外からの訪れる者にも嫌われる。ようは「賽ぎ」の意味を持つ。悪霊なり災厄を防ぐためにも棘のあるものが植えられる。しかし内からもそれは嫌われるから、とても厄介なものなのだ。

 雪の舞い始めた野に、冬の彩が埋め尽くされる。霞んだ山々は冷たい風を里に贈る。すると、どこか寒々した光景に心は冷やされ、灯りがとても温かく感じるのである。心は温かさを求めるが、野にある自分は身をそこに置きながら人生の冬を過ごすのである。歳を重ねるほどに冬は重くなる。その重さは春にならないと失せない。冬を越せることが、歳を重ねるということなのだと、まだ何度もそんな冬を越すことになるのであろう中年が思う。

 落葉すると確かに日差しは抜けてくる。ところが、同じく風も抜けてくる。寒々した光景を描けば、そこには遮る葉がないのである。透き通るような生垣では意味がない。しかし、冬も青々とした生垣も、葉を少なくして風を迎え入れるのである。そこまでやってきた冬を前に、凍てつく身体を揺さぶり、耐えている自分が、人生の傍で止まっている。ヒイラギは老木になると棘がなくなり葉は丸くなる。まもなく花をつけるヒイラギは、家に、また人に、人生という物語を季節になぞらえて語ってくれる。
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四畳半の余生

2008-11-19 12:28:58 | ひとから学ぶ
 「遅い朝飯を食べ終えて四畳半の私だけの部屋にもどってくると一人になったという解放感に似た安らいだ気持ちになっている。今日も何をしようとする当てがあるわけではなく、テレビのチャンネルをあちらこちらと変えてみるが見たいものがないので座椅子に背をもたれていると本棚の上に置いてある亡妻、秀子の遺影の写真がかすかな笑みをうかべて私を見つめている。」

 長野日報11/16版に北村卓次さんが寄稿された「懐古」という文の冒頭である。存命なら秀子さんは84歳というから北村さんもご高齢であるのだろうことはすぐに解る。約1600字程度にまとめられた寄稿文は、とても心地よいもので、会社の棚に吊るされた新聞の片隅に自然と目が留まった。引き込まれるような書きぶりに誘われたのだろうが、北村氏は長野文学賞などにも名前を見かけるだけにこうした随筆を書くことには慣れておられるようだ。

 大王岬の灯台でのことを懐古し、「そのとき前面に太平洋が限りなく広がりその水平線が空に消えるあたりにじっと見入っていたお前がしばらくして「あの水平線の奥には何があるのかねえ」とつぶやいた。私は笑みをうかべて「そりゃアメリカだよ」と言おうとしたがハッとして思い止まったことがあった。秀子はいつもとちがって、目を据えて水平線が空に消えるあたりをじっと見つめていた。そのとき秀子は自然の生命とか神秘とでもいったものを感じて感動しているにちがいないと思われたからである」と綴る。長年連れ添った夫婦であるならば、きっと多くの場合なら現実的な言葉を発してしまうのかもしれない。にもかかわらが北村さんと奥さんとの間には、それをとどめさせたお互いの認識があったに違いないのである。自らに問い、わたしだったらどうだろう、などと考えたりする。冗談でもない、現実でもない、妻の見つめる先を重んじて言葉を発しなかった北村さんの奥さんへの気持ちが現れている。そして「そう思って秀子の写真に目をやると「そんな大げさなものじゃないよ」と笑みを浮かべている。そうか、私の思い違いだったかな」と既に答えをもらえない妻の遺影に言葉をかけるのである。年老いてのち、80歳という年齢を数えてこれほど豊かな文を書けるとはとても自分には考えられないのだ。

 北村さんはそんなかつてを思い浮かべながらぼんやりと四畳半に過ごす。「そんなことを思い出しながら私は今日も何をしようという当てもなくぼんやりと窓外を眺めていた。遠い赤石山脈の上を一群れの雲が流れてゆく。じっと見つめていると雲は静かに形を変えながら、それは遅々としてではあるが確実に刻々と流れている。あたかも人生の歩みのように」とゆったりとした時を過ごす。これほど幸せな余生がわたしにはあるのだろうか、と思うとともに、時代の軋轢に心をしかめている自分が飛び散ってしまったような思いである。
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人生の差

2008-11-18 12:22:57 | ひとから学ぶ
 「俺の人生、これだけ差がついちゃったよ」、そんな言葉が男子高校生の口から飛び出した。なるほど横にいたわたしにも実感の持てる言葉であった。駅を降り、交差点の信号機の歩行者用点滅信号を見送ると、しばらく縦横の車の流れを眺めることになる。その時間にして2、3分のことなのだが、横断歩道の最前列に待つ高校生にとって、その前を歩いていた高校生とはこの2、3分の差がついたわけである。そして、気がついたときには前方には高校生の姿はなく、遥か200メートルほど先にその群れがかろうじて見えるほどなのである。確かにその言葉の通り、そこにはずいぶんの差ができてしまったと感じるものがある。きっと友だちと会話を交わしていて、ふと前方に視線をやったら、その差が歴然としていて、思わず出た言葉なのだろう。

 いかにもその差が自分の人生のギャップになったと思ったからこそ、友だちに共感を請うたのである。しかし友だちはその差がどれだけのものなのか問う。「先に学校に着けば、それだけ人生楽しいことがあるかもしれない」と冒頭の言葉を発した高校生は言う。そのいっぽうで友だちは、「俺たちここで楽しい会話をしていたからいいじゃないか」と言う。ようやく高校生は「そうか、いってこいということか」とその人生の差を埋め合わせしたようだった。

 しかし、わたしも冒頭の言葉に共感したように、たったひとつの信号機の待ち時間がこれほどの距離を作るというのは極めて惜しい気もする。とくに人生を考え始め、これからの自分に悩むとすれば、この差を埋めようとしてもなかなか自己解消できないものだと錯覚することも十分にある。彼は友だちと楽しい会話をしたことで、その解消がかなった。しかし、呆然と立ち尽くしてその差が開いていくのを眺めていたら、きっと落ち込むこともあるだろう。例えば車を運転していて信号機でその進行をストップされても、その差を見てこんな気持ちになることはないだろう。ようは車はその差を埋め合わせしよう手すればスピードアップも可能だし、信号機が夥しく散りばめられた空間では、つまるところどこかで停止して「いってこい」の状況を作る。ところが歩いているわたしたちは、無理やり止められた時間を埋め合わせるのもそう簡単ではないのである。もちろん「走る」ことで埋めることはできるだろうが、その意志と労力は、車のアクセルを踏むのとはわけが違う。

 人生の進み具合は人それぞれのもので、同じスタートをしたからといって同じように進めるものでもない。そんなことは十二分に解っているものの、立ち止まった自分の前の差が、しだいに広がるのを見ていれば何かを思う。そのいっぽうで違う道に悩みながらも立ち止まっていた時間はけして無意味ではなかったと気がつかせてくれたのが、この会話なのかもしれない。気がつけば差がついて人生の差を実感したものの、けしてその差は差ではなく、その差をつけた時間は違うものを与えてくれたに違いないわけだ。その会話の中にそれほど深いものはなかったのだが、彼らが交わした言葉は、とても楽しいものであった。冒頭の言葉は、「人生」をたとえたと言うよりも、信号機待ちが与えたこの差を「人生」という言葉で揶揄しようとしたものだったかもしれない。ところが友だちと会話をしているうちに現実の「人生」をどこかに描いていたに違いにないような「いってこい」という結論だったのである。
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選挙を終えて

2008-11-17 12:30:13 | ひとから学ぶ
 これまで選挙において投票する人を選択できる情報がないということについて触れてきた。血縁や地縁といったものがあれば、逆を言えばそんなものは必要ないということになる。田舎の選挙などというものはその程度のものなのかもしれない。しかしそうした地域にも明らかに都市の発想が浸透している時代なのだが、それでも顔を合わせる日常の世界では、それを覆すほどのものにはなっていない。いかに知名度が高いかということ、顔が知られているかということなどが影響する。そのいっぽうで今回の選挙の投票率は約80パーセント。2千票余の票は意思表示されずに終わった。ようは血縁や地縁といったものにほとんど関わらない人たちにとっては、こんな身内選挙に投票する意味もないということになるだろうか。考えてみれば自治会に未加入の人たちや、家の中において主から離れた位置で日々を暮らし、この地に居る時間よりもよその地にいる時間の方が長い人たちには、行政などというものは縁遠いものである。選挙を通して思ったことは、こうした縁遠い人たちへのアプローチが少ないとともに届いていないということであった。たまたまそこに住んでいる、その程度の空間においては例えば現在住んでいる地域のラベルなどどうでもよいことなのだ。とはいえ、まったくその意識がないとも限らない。そうした人たちへどう、何を伝えていくのか、そんなところは選挙の場面だけではなく、地域が考えていかなくてはならないことなのだろうが、そこに危機感を持っている人はいない。

 この日記で以前に触れたかつてのわたしの上司は、この選挙で落選をした。落選はともかくとしてその票数を見て、支持はしていない人であったが、思うところが大きい。ようはこうした血縁や地縁という部分でいけば、わたしとたいして変わりないこの地での居住期間を考えれば、そうした基礎票に恵まれず、予想外に低い票数で落選を招いた。当初から「よそから来た人」という環境は、厳しいという予測にあった。加えて選挙に慣れた活動をしたわけでもないだろう。まるっきしの素人が手を出すには、いくら現職(前回無投票で議員になっていた)であってもかなわぬ世界だったということではないだろうか。しかし、わたしが支持した候補とも何度もそのことについては話題にあがったことであるが、地縁といったしがらみのない立場で「ものの言える」議員が少なからず必要ではないかということであった。もちろん住民の代表として議会へ立つわけであるから、しがらみがないはずもなく、地域の言葉を上げていく以上、人の顔を見ていかなくてはならないことは事実である。しかし、自分の利益だけを主張する時代ではない。しがらみもなく自由に述べることのできる議員がほとんど支持されずに終わったことは、複雑な思いであった。

 さて、投票所の雰囲気が悪いことについては、以前国政選挙の際においても触れた。「なぜあんなに投票所には人が必要なのか」という言葉を口にする人がいた。きっと投票所に行っても閑散としている空間の中に投票人が幾人もいない、あるいは1人しかいないと、とても投票しにくいということは誰しも思うこと。しかし、そうした空間ばかりではなく、いっせいに大勢の投票人が訪れたら、もしかしたらその人数でも目が届かないということになるのだろう。立会人については、2人が最低限だという。投票事務に何人配置するか決め事があるかどうかは知らないが、いずれにしても投票所が暇になる時間に行けばそう思われてもいたしかたないわけである。さまざまな人がいるかぎり、予想できないことが起きることも想定しておかなくてはならないのだろう。とはいえ、今回もわたしが投票した際には、その空間に立っているのはわたしだけであった。あの空間に足を踏み入れるのは、とても勇気のいるものになりつつある。そのくらいなら期日前投票を、と思うのもわたしだけではなく、事実そういうことを口にする人もいる。選挙総体的に、その発想や方法を転換する時期がきているのかもしれない。
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投票日

2008-11-16 20:11:24 | ひとから学ぶ
 いよいよ町議会議員選挙の投票日である。もし無縁に近い境遇、いわゆる選挙期間中にほとんど候補者の声を聴くことの無い環境で、かつほとんど地域との関わりもなかったらどうだろう。その場合、選挙そのものに行くかどうかも怪しい。それでも選挙権を行使するとすれば、わたしはどうしただろう。どうしただろうというのは、誰に投票するかということである。前回も述べたが選挙公報にはめぼしいことは書いてない。衆議院選挙などの国政クラスでは、党のマニフェストがあったり、公報にもずいぶんたくさん文字が並ぶ。この選挙公報をウィキペディアで引くと、「選挙に際して立候補した全ての候補者や政党等の政見等を記載した文書で、公費で有権者に配布されるものをいう」らしい。市町村議会議員選挙となると、条例での規定を有する自治体において発行されるもので、投票日の2日前まで有権者のいる世帯に配布されものという。とはいえ、これでいくと期日前投票者には、場合によっては届かないわけで、期日前投票をする場合だったら、ほとんど候補者のことは「不明」ということになるわけだから、「選びようがない」ということになる。そしてそこには、候補者個人が掲載文を届けた候補者の氏名・写真を掲載されることになるが、それ以上詳細なことは決められているわけではないようだ。新聞紙大の公報、今回の選挙の公報の欄外には「この選挙公報は、候補者から提出された原稿を写真にとってそのまま印刷したものです」と書かれている。そこには公約というか抱負が書かれているのが普通で、ようは国政で言うところの政策ということになるだろうか。文量はそれぞれであって、ほとんどが活字印刷されたものだが、ワープロで作成したものもあり、またただ一人手書き原稿のものもあった。字が上手だといいが、へたくそだとそれだけで票を落としそうという印象を受けるが、別の親近感も沸くかもしれない。

 そこで素人が目を当てることもない「選挙公報発行規程」にそこらへんのことが記載されているのだろう、と検索してみたら登場した。そこには「交付する原稿用紙に活字又はペンを用いて、黒色の色素により明瞭に縦書きしなければならない。ただし、候補者の氏名欄内の候補者の氏名及びこれに付するふりがなに限り毛筆で記載することができる」とある。ワープロのこととか印刷のこととか細かい規定がないようだが、実際はどう作られているのだろう。

 さて、公報に掲載された候補者の掲載順が掲示板と同じに並べられていて、素人にはそれが当たり前なのだろうと思っていた。ところが「選挙公報発行規程」を呼んでいくと第7条に「掲載順序のくじは」とある。ちょっと待てよ、「掲載順もくじを引くんだ」と知った。そこで今回の公報の順序を掲示板と照らし合わせて見るとそっくりなのだ。珍しいもので、掲示板と公報の掲載順のくじが同一だったということなのか・・・。いやそんなことはないと思うが、さていかなものだろう。そうはいっても掲載順で候補者を選択する人など国政などならともかく、町議会議員選挙レベルではほとんどいないだろう。でも考えてみれば成人であれば選挙権が与えられているわけだから、その判断さえできない人でも権利がある可能性もある。とすれば最後まで読む根気がなければ、初めの方に書かれている人の名を書く可能性が大きい。だからこそ「くじ」を引くわけだから・・・。

 全員が揃って演説会を催すわけでもない。だから横一線で人を見ることもできず、人のいない空間に候補者を連呼するだけの風景は、どこか無味無臭のようなものである。「反応が鈍い」という選対の言葉に押されて、そんな無味無臭のような空間に再び足も向けた。しかし、農村のように平日外で働いている人がいる空間ならともかく、サラリーマン化した農村地帯は、明らかに反応のない空間に変わりつつあるはず。今後選挙をどう戦うかは、方針変換が必要ではないか、とそんなことを思ったしだいである。ますます地縁のある人とない人では格差がつくということにもなるだろうか。
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