Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

相変わらず同じ顔

2008-04-30 20:10:13 | つぶやき
 公民館報を見ていて「まだやってるんだなー」と妻と言葉を交わした。まだやっているのは役員のことである。以前にも触れたことがあるが、考えていると公民館活動とは何か、というところに行き着いてしまう。しばらく前に地域の公民館活動の役員をしたが、地域の活動の方は役員が毎年のように変わっていく。だからなかなか違うことができないということもあって、前例に倣うというのが一般的である。変化がないという意見もあるだろうが、そのいっぽうで同じ顔でも何も変わらない。地域の活動の上にある町の公民館活動である。そちらの方は、まったくもって役員の顔が変わっていかない。若干の変化はあっても、地域の方とは違い、同じ顔が続く。どちらもどちらということになる。それでも前例に倣っても顔が変わっていくことはいいことだとわたしは思う。大勢の人たちが担う。そして、どこかで違うことをしようとする動きは必ずある。そうした変化を持ちながらも、継続しようとすることは継続する。顔が変わるからこそ、選択する余地がある。ところが変わらない顔が、継続していたらまったく何も変わらないし、選択ができなくなる。とくにいけないのは公民館報で、まったく変化しない。「○○町の文化財」なるものがすでに三百回を大きく上回っている。1カ月に1回発行されていたとしても30年近い間、同じパターンが続く。同じことを繰り返し続けるから、「もう変えられない」という感じになる。悪い例そのものである。

 そういえば、2月にこの町である会の例会を開いた。たまたま公民館を利用したのだが、初めて訪れた方たちが、時間調整で郷土資料館をのぞいた。のぞいたメンバーには、長野市立博物館や松本市立博物館の学芸員さんがいた。休日だというのに当然のように見学者などいない。それでも休日だから事務室には年配の方がお留守番をしていた。数人で侵入したから、「誰かがきた」と気がついて、電気をつけ、また案内の放送をしたくださった。人がいないと電気は薄暗い。実は図書館に寄った際にたまに忍び込むことがあるが、一人で静かに侵入ししていくと、お留守番の人たちは気がつかないから、暗がりで展示物を見ることになる。お留守番の人たちが世間話でもしていると、まず客には気がつかない。長らく「文化財」などと言って公民館報で特集しているものの、それらのデータをその資料館で拝見することはできないし、継続が何も役に立っていない証拠でもある。こんなすっとぼけた施設が長野県中のあちこちにあるのかもしれない。立派に活用するともなると人件費が必要になるのかもしれないが、それらも含めて、公民館の活動や町の社会教育活動が連携されていないということになる。いや、人件費などかからなくてもいくらでも方法はあるはずなのだが、なかなかそれを口にする人はいない。

 こんな活動が継続されていれば、どこかで苦言をするトップが登場してもいいのに、そんなトップもいない。長らく同じことをしているから、部外者が言うことではない。内部のトップが「どうだろう活動を見直しては・・・」と言わなければ変わらないと思う。いずれにしてもいろいろのことが顔が変わらないということは、あちこちに見える。引き継いでいくような体制をなぜとらないの、と聞けば「人がいない」とか「やり手かいない」と言うのだろうが、こんなのは問題外の言い訳である。
コメント

乗車位置で解る高校生の大人度

2008-04-29 15:38:22 | ひとから学ぶ
 この4月から朝方の通勤時の定位置を変更した。乗る際にも降りる際にも最も改札に近かった位置から、最も遠い位置に変えている。電車が遅れたりすると、動きの鈍い高校生の集団に遮られ、会社に到着するのは始業間近となる。理由はいろいろあるが、その最たるものは、約一年間乗り続けていた車両の込み具合である。新入生が入ってくれば真新しい顔になるのは当然で、加えて一時的に乗客数が増えたように見えるのは予想できたことである。ところが、その込み具合がそれまでとは比較にならない。車内放送で「1両目が混雑しているので、後ろの車両にお回りください」などとお知らせが入るほどで、ようは1両目に乗っていた者としては、空いた空間を求めて後ろへ移動したわけである。それまではわたしが乗車する際には数人しか乗っていなかった車両が、10倍程度に増えているのだから変えたくなるのも解るだろう。それにしてもどうしてこれほど混雑するようになったのか、高校生の年代によって、電車利用者数が変わるのだろうか。社会人の乗客がとてつもなく増えたという印象ではない。わたしが毎日乗車する駅での乗客数が2倍以上になっているのだから、混雑するのも当たり前なのかもしれない。

 乗車する位置を変えてみて解ってきたことがある。降車する際の改札に近い位置に乗るのは、社会人が多い。その証拠に社会人が最も多く降車する伊那市駅では、1両目から降りる客に社会人が目立つことである。そのいっぽうで、最後尾に乗る伊那市駅で降車する社会人はほとんどいない。前述したように朝方の時間的なことを考えると、降車時の改札に近いという位置関係は重要なのだろう。わたしもそれを意識して、今まで1両目を利用していたのだから。

 社会人が多いということにも起因するのだろうか、1両目に乗っていると5割以上の確率で臨席は埋まる。社会人の多い空間ということもあって、そこに入り込んでくる高校生も、どちらかというと社会人に精神的に近いのかもしれない。埋まる隣席は、単独行動の高校生のケースがほとんどだった。もちろんその高校生は、地域の進学校に通う。これについては不思議なことで、進学校に通っている生徒の方が、社会人の隣に座ることをそれほど嫌とは思わないようで、帰路での電車内、また別の車両でも同様のケースに遭遇している。この1両目の雰囲気は、中央本線の岡谷―松本間の雰囲気に近く、満員の際に空いている席が極めて少ない。それに比較すると、現在盛んに乗車している3両目は全体的に乗客数が少ない。もっとも乗客数が多くなるのは伊那福岡―小町屋間で、これは小町屋で降車する赤穂高校の生徒数が多いことに起因する。そして小町屋のホームの出口が後尾側にあるためでもある。その後駒ヶ根駅をはじめ、伊那市駅までの間に乗車する客数は、1両目に比較すると格段に少ない。そんな3両目に乗ると、臨席が埋まることはまずない。高校生ばかりの空間だから、現実的には立ち客が多いのに、空いている席が目立つ。加えてこの車両に乗る人々は単独行動の人は少ない。おおかたが集団である。したがって、3人組で2座席が空いていたとしても、その席が埋まらないこともある。不思議なことなのだが、そんな微妙な関係がみてとれる。1両目と3両目にはそこに乗車する人々の明らかな精神的な違いが現れている。
コメント

「休みたいなら辞めろ」発言から

2008-04-28 12:22:24 | ひとから学ぶ
 「休みたいなら辞めればよい」と発言したとされる日本電産の永守重信社長を強く批判したのは連合の高木会長である。批判したことが話題になっていて、発言もとの永守社長が正確にはどう言ったのかはあまり詳細にされていない(4月23日の記者会見で「社員全員が休日返上で働く企業だから成長できるし給料も上がる。たっぷり休んで、結果的に会社が傾いて人員整理するのでは意味がない」と言ったらしい )。したがってわたしも表面的な話題になっていることについて述べることになる。

 ご存知の通り、今や組合が組合として成立しないところが多い。組合員比率も低調なら、組織そのものも弱体化する。かつてのように組合組織が社会党を応援した時代とは大きく変化し、その証拠に社会党も近いうちには消えてしまうだろう。ということで、組合依存時代は終わったわけであり、高木会長の言うような労働者視点に立った意見には、必ず反論もあるだろう。一般論とすれば、永守発言は批判されるものなのだろうが、現実的にはそれに近い就労環境にある人たちも多くて、共感する人もそこそこいるのだろう。だからこそ〝「休みたいなら辞めろ」発言は暴論?正論?〟などという議論になる。暴論も正論もない。基本的には正論とは言えない。大会社の社長としての発言としてはレベルが違うのではないか、と言う印象がある。ただし、日本電産といえば、合併しても人員整理をせずに会社を継続させていることでよく知られている。そうした実績の上にたった正論とも捉えられなくもない。

 この社会の疲弊は著しい。例えば今回の高木会長の批判に対して、舛添厚労相は、直後の来賓あいさつで「労働関係法令はきちんと遵守してもらわないといけない。きちんと調査し、指導すべきは指導し、法律にもとるものがあれば厳正に処分する」と言ったらしいが、すでに行政はこうした労働環境に対して無視しているといわざるをえない。かろうじて非正規雇用に対しての対策を口にしてはいるものの、労働基準法などというものはなんのその、というくらいに現実は厳しい。だからこそ、連合というものへの期待もなければ、まずそことのつながりすらない人たちがたくさんいる。高木会長の発言も適正なら、永守氏の発言も日本電産という会社の方針に沿えば正論なのだろう。それぞれが分離した個の世界を作ってしまった以上、正論が適正とは言えなくなってしまっている。それを作り上げたのも、やはりそことはなんら関係のないお役人なのだろう。

 情けない現状といえば、そうした議論に登場してくる、「この発言の何がいけないんでしょう?実際中小企業はこういう気持ちで一致団結してやってなければつぶれますよ。この発言を批判できる人間は公務員かあるいは庶民の生活を知らないゴールデンウィークには高い金払って海外旅行にいける大企業の人間だけですよ」(Yahoo!コメント)というようなもので、働かなければ価値はないみたいな異見や、隣を見ては妬むタイプの発言である。いろいろな価値観があっていいはずだし、またそれを実践する人たちも多い。そうした多様化した時代にありながら、どうも人間の価値指標はむしろかつて以上に画一化しているのではないかということである。だからこそ、「格差」というものが表面化してくる。ここをクリアーしない限り、この国はますます疲弊すること確実である。
コメント

事件「聖火リレー」から

2008-04-27 09:50:23 | 歴史から学ぶ
 おおかたの報道は「無事に終了」というほっとしたものでくくられる。4/26に長野市で行なわれた聖火リレー、もともと開催国以外で聖火リレーが行なわれるのは二度目のこと。意外にこんなこともあまり認識していない。かつて長野オリンピックの際には、和やかな聖火リレーだったというものの、それは自国内でのイベントだから、国内に火種さえなければそれが普通のことだろう。それが中国という特殊事情の国が、五大陸で火をつなぐというイベントをするからこういうことも起きる。チベット問題がなくとも、少なからず二つの中国が現存する事情からいけば、抗議をする人がいても不思議ではないだろう。

 嵐が去った長野市内には、捨てられた痕跡(報道されないたくさんの事件)がたくさん残ったに違いないが、そんなことはこうしたイベントにはつきもの程度に、忘れ去られる事柄なのだろう(小さな事件で人は後々まで思い馳せることもあるが)。いっぽうで聖火リレーというどうでもよい背景にも、さまざまな事情があって、それを全世界に知らしめた今回のオリンピックイベントは、中国にとっては気持ちのよいものではなかっただろう。中国から送られてくるたくさんの国旗を、あれほど中国人がいるんだと思わせるに十分なほど目立たせた。地方の長野にまでこんなに多くの中国人が結集して、アピールしたことがすべてストーリー立てされたものであると気がつくと、「なるほど」と納得して傍目で感心するのがわれわれ日本人であった。関連ブログをのぞいてみても、盛んに「中国の旗ばかり」という感想が聞こえる。中国にはやまほどの問題があるんだと全世界に知らしめてしまって、それで持ってオリンピックを迎えるとなると、世界の今回のオリンピックの注目度は高い。それはスポーツということだけではなく、中国という国に対してもである。五大陸をつないだことにより、少しそんな面が目立ってしまったことは、中国の立場としていかがなものだったのだろう。そんなことを思わせる聖火リレー事件であった。

 長野聖火リレーについて「市民不在」とか「平和の祭典に不似合い」とか言うが、もともとオリンピックというものがどういうものか考えてみれば、必ずしもその言葉に適切な回答見出すことはできない。こんな問題になっていなければ、中国国旗が目立つ映像ではなく、スポンサー名が氾濫する映像になっていたはずである。直前に聖火リレーのスポンサー契約を行なわないという報道もあったように、市民ばかりではなくスポンサーさえ映像から消えていった。そのいっぽうで事件性があったからこそ、たかが聖火リレーの映像が注目された。聖火リレーの視聴率は高かったのではないだろうか。そういう意味では「中国」というスポンサーは大きくクローズアップされた。「中国の旗ばかり」という感想は、それ以外の「市民」というスポンサーも「企業」というスポンサーも撤退したからこそ現れた現実だったのである。

 競泳の選手団は40人近いというが、メダルの期待はかなり少ないという。加えて記録を向上させるというスピード社製の水着は、契約上から日本選手には利用できないという。「平等ではないじゃないか」というが、もともとオリンピックに限らずプロ化したスポーツ界にあって、金のあるものとないものでは差が出る。オリンピックそのものが「国の力」という背景の一つとして、経済力が大きくものを言うとともに、お国柄というものも影響する。もともとが横一線ではないのである。そんな背景を知ると、興味が薄れてしまうが、実は一喜一憂するものの、現実はそんなところに立っているということも忘れてはならない。
コメント

現代の道祖神①

2008-04-26 12:19:06 | 民俗学



「現代道祖神建立の背景」より

 下伊那郡高森町吉田の主要地方道飯島飯田線沿いの赤羽という地籍に「金比羅大権現 秋葉山大権現」碑が中央に、そして両側に甲子塔などいくつかの石碑が並んでいる一角がある。その石碑群の中に写真の双体像が真新しい姿を見せている。双体像の上には「報徳」の文字が見え、背面には「敬愛」という文字が目立つ。背面の建立年月日は「平成十八年三月吉日」、建立者は「宮島喜芳 みさを」とある。2年ほど前に建立されたものであるが、つい先日建てられたように輝いている。そんな輝きのせいで、県道に対して面と向かって建っている石碑ではないが、すぐにわたしの目に入った。宮島さんはこの石碑群の建つ土地を所有される方で、背後に広がる梨園を経営されている。ちょうどその果樹園で作業をされている際に話しを聞こうとして、作業の手を休めさせてしまったわけであるが、快くいろいろ話しをしてくださった。

 双体像の上に刻まれた「報徳」の精神が今の時代に欠けているということを口にされ、日々食べるだけの暮らしで満足できないこの現代の経済主義に対して、苦言を呈す。しかし、そんな苦言とは裏腹に、温和な表情は、聞く側の心に重たさをまったく与えさせない温和な雰囲気がある。そんな生き方を目指したいと思っているわたしには、共感が湧く。

 「報徳」といえば、今ではあまり語られもしなくなった二宮尊徳の世界である。伊那谷、ことに下伊那地域では報徳社の集りというものが盛んに行われた。今でも妻の実家の地域では、そんな集まりが定期的に開かれている。かつてほど「報徳」の精神を高めようということはないかもしれないが、今では死語にもなりつつある「報徳」が、実は今の時代には必要なのかもしれない。

 そんな「報徳」を願う宮島さんが建てられた双体像を、わたしは第一印象で道祖神ととらえた。ところがよく見ると神像は2人とも女性のように見える。男女神には見えない。しかし、宮島さんに道祖神という先入観でうかがうと、けしてそれを否定されなかった。宮島さんにとってはこの双対像は道祖神なのである。そして、道祖神の信仰について聞くと、「それは道しるべ」だという。このあたりにはあまり道祖神がないようで、今までにもこの地域で祀る道祖神はなかったようである。もちろんこの道祖神も講中で祀られたものではない。ほかの秋葉山大権現などは講中で祀ったもので、現在庚申講は行われていないが、かつての旗竿などを保存されているという。「なぜ造ったのですか」と問うと、後世まで記念として残るものを建てたかったという。道祖神信仰の希薄な地域に建立された現代の道祖神、それは長年連れ添われてきた夫婦が、常に果樹園で働かれてきた姿を映しているようである。

 撮影 2008.4.13

 

続く

コメント

観光客

2008-04-25 12:40:28 | 農村環境
 「あなろぐちっく」さんのページでこんなことが紹介されていた。

〝木曽のお気に入りの温泉に行こうということになり、家族で出かけた。その途中に国道から見下ろしたら立派な枝垂桜が見えた。関西の観光バスが何台かと、県外ナンバーの車が何台か停まっていた。ツアーガイドのお兄さんが大きな声で、「あと10分で出発です。お墓には絶対入らないでくださいね~。(中略)地元の農家のおじさんが一輪車を押しながら通りがかって、写真撮影している人に声をかけた。「看板に書いてあるでしょ。お墓に入らないでね。」(中略)写真を撮ってた人は、それに対して小馬鹿にしたような言葉を返した。撮られてる人も撮影が終わるまで墓を出ることはなかった。その人が撮り終わるとまた次の観光客が墓に入って記念撮影。〟

というものである。続いてこんなことも書かれている。観光客が山に入って山菜をビニール袋いっぱいに採っている。私有地だから採らないでもらいたいのたが、よくちまたに見られる「入山禁止」という立て札をしても採られてしまう。「都会の人は山は公共のものと思っている人が多い」のではないか、という。そのくらい解っている人たちだと思っていると大間違いである。

 極論と言われてしまうかもしれないが、田舎を売り物にして観光客を呼び込めば、少なからずというかかなりの割合でそんな観光客ばかりとなる。例えば温泉地とかスキー場、あるいは軽井沢といったまさにかつての「観光地」ならともかく、田舎ならごくありきたりの風景を売りにしようとしたら、こんなものなのだ。そして実はそうした観光で誘客しようという動きが強い。「観光地」らしい観光地ではなく、ふつうの農村地帯が、実はすでになくなりつつある風景であると認識されているから、そんな素朴さを求めるのだろうが、そんなカネのかかっていない観光地は、山や海といった対象と変わらず、自然は公のものという感覚が強いだろう。したがって、こんなことはごくふつうにあちこちにある問題なのだが、文句も言えずに泣き寝入りしている人たちも多いだろう。ところが地方の人間は、まだまだ昔の人間関係を知っているから、そんなことで文句を言ってはいけない、という感覚が少なからずある。これも世代が変わるごとに変化していくことで、そのうちにそんなに簡単に地方の空間を謳歌できない時代がやってくるに違いない。ようは農村空間そのものがカネで左右されることになる。観光客の横暴も「今のうち」というところかもしれない。そうした観光を推し進めようとしているのだからどうにもならない。

 昨年も触れたことかもしれないが、喬木村の氏乗というところの学校跡地に枝垂れ桜の木がある。見事な花を咲かせるのだが、近年この桜を目当てに観光バスもやってくるという。地域でもそれを喜んではいるのだが、写真を撮ろうとする人たちから「あのフェンスが良くない」などとクレームがつくという。よそ者には好き勝手な言い分である。桜の木が有名になると、環境整備をしようという動きが上がる。例えば最近では高遠町勝間の枝垂れ桜の周辺に、木製ガードレールが設置されたという新聞報道をみた。不思議なもので、よそ者のために、地元の人たちがカネを使う。もちろん、観光客誘致とか地域活性化が主旨となれば、カネは使っても元が取れるということもあるのだろうが、どうも納得いかない。

 冒頭のお墓に入るという話も、程度ものなのだろう。先日ある寺の参道を歩いていて、きれいな桜が咲いていたので写真に納めようと墓地に入った。もちろん無断で入っているわけだが、世の中無断で人の土地に入るなどということは頻繁にある。とくに家が密集しているマチならともかく、農村地帯ではごくふつうのことである。それを叱られたことも何度もある。しかし、それを完璧に道理にあわせていたら、おそらく地方の観光などたちゆかない。観光客がどっと押し寄せるような環境になるから、それによる問題が大きくなる。善悪をはっきりさせようとするこの世の中には、ちょうど似合った話題かもしれない。
コメント

二十世紀梨

2008-04-24 12:23:48 | 農村環境


 梨の花が盛んに咲いている。伊那谷での二十世紀梨の発祥の地は上伊那郡飯島町本郷である。今は看板がなくなってしまったが、かつては飯田線の伊那本郷駅に「伊那谷二十世紀梨発祥の地」という案内があった。この地での梨の栽培は、大正15年に始まる。桃沢匡勝が考案した盃状棚仕立法というものが全国各地の梨栽培に影響を与えたという。そういえば、わたしの分校時代、皇太子(現天皇)が桃沢家の梨を見学に来られた際に、分校で旗を振った覚えがある。

 その二十世紀梨は、後に下伊那郡松川町に主生産地を譲ったが、それは当然の成り行きであった。ようはこの本郷という地を境にして、北は水田地帯、南は畑地帯に変化する。ようはこの地より南はかつての養蚕の盛んな地域と整合するわけであるが、養蚕後の農家の換金作物として果樹が大きな存在となる。畑地帯であるがために用水に乏しい。となれば、畑作物で農業経営をしなくてはならないわけで、そのひとつとして果樹が盛んになっていった。そんな果樹農家も今や減少を続ける。水田農業以上にその衰退は早いと言われるほどである。米作りなら次世代でも、あるいは担い手農家に任しても継続可能であるが、果樹にいたっては、次世代への継続率は極めて低い。加えて果樹農家の担い手も極めて少ない。そうした流れを現す傾向として、かつて二十世紀の主生産地であった松川町も、今やリンゴの生産が主となっている(H18 リンゴ268ha、日本梨166ha)。もちろん二十世紀梨のニーズが低下したという事実もあるが、それだけではない。手のかかる二十世紀梨の栽培から撤退しているわけである。わたしは果樹園地帯に暮らしているが、おすそ分けして頂く果物は、今はリンゴばかりである。かつては梨をいただくことも多かったが、梨が貴重なものになっている証拠である。もちろん梨よりもリンゴの方が長持ちをするということもあるが、本当に二十世紀梨ともなると、口にすることがなくなった。いかに生産量が減少しているかは、そんなところからもはっきりしている。

 さて、その伊那本郷駅の西側には段丘があり、その段丘崖一面に二十世紀梨園が広がる。駅のホームが高い位置にあるため、ホームから眺めればみごとな梨の花が目に入る。これは電車に乗っていても見える光景であるが、ホームに立てば展開は大きい。ここの風景は、よく本にも紹介されるものであるが、わたしがここに立った折にも、湘南ナンバーの車が駅前にあった。写真を撮りにきたかどうかは定かではないが、こんな目立たない駅によその車がやってくるなんていうことは滅多にない。写真の背景は飯島らしい南駒ケ岳。おそらく飯島を代表する景色の一つであることに間違いない。ちなみにちょうど梨の花付け作業をしていた。はっきりとは解らないだろうが、画面には3人ほどおばさんたちが花の向こう側で作業をしている。いつまでもここの二十世紀梨が続けられるとよいが…。もうわたしはこの光景を40年ほど前から見ている。

 撮影 2008.4.22
コメント

判決を決めるもの

2008-04-23 12:24:57 | ひとから学ぶ
 作家の森達也氏がいうように、近年の殺人事件数は、戦後でもっとも少なくなってきている。ようは治安は悪化しているのではない。ところが情報過多時代にいたっては、テレビの報道番組と言われるようなもの、あるいはワイドショーといったものが、それらを煽っていることも事実である。昨日の光市母子殺害差し戻し審の判決は、多くの人が予想するような内容で、おおかたの同様の番組はその判決を支持しているどころか、なぜ今までの裁判で2度も無期懲役になったのか、と司法への疑問の声も聞こえる。これもまた森氏の言葉であるが、世の中が善悪の二極化に進んでいる。わたしも今までに何度も触れてきているが、その傾向は確実であり、それが政治の世界にも繁栄されつつある。その延長線上に政権交代が見えてくるわけである。正しい政治ではなく、世論に流される政治の登場なのである。もちろん、民意か反映されてこその政治なのはわかっているが、それだけで良いとも思えない。それをしっかりと説明できないほど、政治と現実にそれを執行する役人とが乖離しているともいえるかもしれない。

 話はそれてしまったが、今回の判決に至るまで長い年月を要してきた。しかし、「予想通り」という環境を作り上げるにはこの時間は必要であったということもいえる。世論が、そしてテレビに登場する多くの人々がコメントするような内容を築きあげるのに、また被害者の本村さんの主張がいきわたるのに、時間は無駄ではなかったということになるのだろう。しかしである。世論の流れをみていると疑問な点もある。たとえば、近ごろの凶悪犯罪の低年齢化に対しての「死刑にならない」という歯止めをなくすべきだという流れは、疑問の一つである。死刑になるかならないかなどという天秤にかけて、殺人を犯すとはとても思えないわけで、とくにそうした意識が若者にあるだろうか。時代の変化を説く人もいるが、単純なものではない。ではなぜ殺人事件の多かった時代には、そうした世論が高くなかったのか。

 裁判が世論によって判決が決まったとは思いたくない。でなければ裁判所などというものは必要ない。ところが盛んに取り立たされる裁判員制度は、明らかに一般人の感覚で繰り広げられることになる。ワイドシーが好き勝手なことを言っているのはよい。しかし、裁判所内でそんな議論がされることじたいが納得いかない。民意繁栄とか住民参加といった、いかにもオープンな議論を求める時代であるが、イメージで判決が下るような時代であってほしくない。けして「若い」からというわけではないが、事件の背景を風化させることなく考えていかなくてはならないが、感情のおもむくままに、「悪いことをしたんだから当たり前」と判断しては学習できないだろう。自らの病を犯罪者だけに押し付けようとする世の中から、犯罪者がなくなるとは思えないわけである。

 ところで、今回の差し戻し審のなかで、弁護団がそれまでの裁判とはまったくことなった方法をとった。とても信用おけないような内容で推し進めたわけだが、むしろそれが死刑判決への道を順当なものにしてしまった。もしや、これは作られた裁判だったのではないのか、と疑問さえわく内容である。判決内容からも森氏の言うような「死刑ありき」がみて取れるわけで、この国の裁判の先が案じられる内容である。
コメント

播隆上人像

2008-04-22 19:54:23 | 民俗学
 日本の山々を開山したのは、宗教者であることが多い。木曽駒ケ岳は文化8年(1811)に下諏訪の寂本行者によって、甲斐駒ケ岳は文化13年(1816)に茅野の延命行者によって、乗鞍岳は文政2年(1819)に明覚法印と梅本院永昌によってそれぞれ開山されている。いずれも御嶽系の行者によるもので、それらは主峰を剣ケ峰といい、摩利支天岳を従えるという共通点があるという。修験系の行者にとっては、その修行の場として山が利用されたこともあり、開山という明確なものがなくとも、こうした山々への登頂は古くより試まれていたのかもしれない。もちろん開山のひとつの指標は、そこに祀られる神々の存在があるだろう。こうした山頂に石の神々を祀ることで、それをもって開山としたわけである。

 以前松本市浅間の玄向寺を訪れ、裏山にある御嶽系の石造物の整備をこころみた話しをした。主に明治時代以降のものであるが、そこには荒れ果ててはいるものの、多くの石碑が存在する。長野県内には明治時代以降に建てられた不思議な信仰の跡があちこちに存在する。ちまたに存在する石造物と同様に判断できる像容のものもあれば、その名称を明確に断定できないような石造物もこうした中には数多く存在する。これもだいぶ前に触れたものであるが、千曲市郡にある霊諍山の石碑群も名称が不明なものも多く、加えて判断できたとしてもしそれは通常の名称であって、果たして建立した者にとって正確なものかどうかは解らないわけである。文字で刻まれたものはともかくとして、像容だけのものではなかなか判断が難しいわけである。



 この玄向寺の入り口に播隆上人(1786-1840)の石像と六字名号塔が建つ。播隆上人の像といえば、松本駅前に建つものが有名である。この播隆上人は、槍ヶ岳を開山した人である。播隆上人は富山県の生まれで、修行の場として槍ヶ岳を目指したわけである。当時玄向寺には曼荼羅の研究家であり僧侶の学問所で講義をしたほどの高僧の立禅和尚がいた。上人は立禅和尚を訪ね、槍ヶ岳開山の相談をしたという。開山の道案内として和尚から紹介された中田又重に支えられ、山頂に岩を集めて祠を作り、三体の仏像を安置したのは、文政11年(1828)のことである。播隆上人43歳のときである。播隆商人は自らの修行だけに生きた念仏行者ではなく、里にあっては念仏の普及につとめたという。播隆が岳都松本の顔となっているのも解るような気がするわけで、播隆をテーマにした祭典がこれまでにも何度となく開かれているという。第9回の播隆シンポジウムは、この5月25日に松本市Mウイングで開催される。玄向寺の裏山調査を企画した木下氏も「槍ヶ岳開山と松本平の足跡」と題した討論会にパネラーで登場するという。
コメント

労働力という商品

2008-04-21 12:19:29 | ひとから学ぶ
 再び内山節氏の「風土と哲学」シリーズから貨幣の精神史(信濃毎日新聞4/19朝刊)である。「昔の貨幣経済は貨幣を使う主人は人間だというかたちを保っていた。そして貨幣を使うのし人間だというかたちが維持されているかぎり、人間たちの考え方に貨幣の使用は従属した。いわば商人道徳とか、商家の家訓といったものが、貨幣の使用法を規定したのである。何よりも商人としての信用を大事にし、貨幣を増やすことだけに専念したりはしなかった」と内山氏はいう。かつてと現代を比較して大きな違いは、「人間が労働力という商品」になっていなかったのがかつてであるという。「丁稚は奉公の数年間は基本的に無給で働いていたから、一見するとひどい搾取のようにみえる。ところが彼らは年季明けのときには、独立することが約束されていたのである。しかも商家の主人は年季あけまでに一人前に育てなければいけなかったし、独立のために必要な費用もすべて主人の負担だった。(中略)すなわち人間を労働力として扱うのではなく、将来の独立を前提として仕事を教えながら、店のためにも働いてもらった。労働力として安くパートを集めるといった今日の雇用とは、まるで性格が違う」といい、流通の世界が人間を労働力とみなしてから健全さがなくなったと解く。

 なぜ労働力という商品になったかと問えば、グローバル化と一口にまとめられるかもしれない。無神経にも伝統的な社会にも土足で入ってきた現代の貨幣経済は、労働力をそうした価値で見なければ競争できなかったわけだ。それは現代がそうさせたのではなく、人間がそうさせてきた。理想郷とはそんな「かたち」だと思ったからこそ、コストダウンのために、自らの労働を商品化したわけである。簡単に言えば、自ら招いたことということになるが、それを解ったところで、現代の病はふっきれない。

 さて、かつての商家の丁稚の話を聞いていると、似たものが浮かぶ。わたしの住む地域の近くには、かつて親方被官というものがあった。簡単に言えば親方は地主、被官はその小作人ということになるだろうが、実は簡単ではない。戦国時代でいう親方様と同様の親方であり、親方様の奥方は御方様となる。被官は従属した家来だったわけである。それが百姓になってからも関係が継続されたのである。戸籍上でいけば一人前でない者が被官になるわけで、簡単に言えば子どもたちのようなものである。先の丁稚は年季明けで一人前になるが、こちらには年季明けがない。もちろん一生抜けられないわけではなく、足抜けのために金を用意すればそれも可能だった。この親方被官については、だれも良い風習とは言わなかった。抜けることはできないが、丁稚同様に親方は被官の面倒をみてくれた。時代劇に登場する悪代官や悪奉行のように、悪い親方もいただろうが、必ずしもみなそうであったわけではない。福澤昭司氏はある親方被官のことについてこんなことをいった。「地主に比べれば小作の人々がどれだけ苦労したかは計り知れない。しかし、地主には地主の苦労もあった」と。ようは、小作料だけではなく、墓掃除から自らの農業の働き手として被官に課したとしても、そうした被官たちを責任を持って暮らさせる必要があった。小作勘定をしたとしても借金がたまると、悉皆勘定にしてあげることもあったという。被官のための全責任を負っていたわけである。
コメント

廃村をゆく人⑪

2008-04-20 12:58:04 | 農村環境
廃村をゆく人⑩より

 HEYANEKOさんとのかかわりから、旧高遠町の廃村芝平が話題になった。芝平の下の集落に近ごろ何度か訪れていたこともあり、芝平について触れているのに最近の情況を知らないのもいけないと思い、久しぶりに芝平を訪れてみることにした。「廃村をゆく人」で紹介し、かつてウェブ上にも公開していた「高遠町芝平地区の民俗(民俗の変化と変容を中心に)」
の調査に入って以来、10年ぶりの入村である。

 HEYANEKOさんの印象にも「廃村」とは言うものの廃村にあらずというコメントがあって、気にはなっていが、10年ぶりの芝平はさらに雰囲気を変えていた。その第一の印象は、以前にも増して人の気配が多くなったということである。山室川沿いの道を走っても、外で農作業をしている人、山菜を物色している人、など何人もの「人」を見るし、家の構えも住人がいることはすぐに解る家が何件もある。加えてとくに目を見張るのは、ログハウスに代表されるような新規住宅が目に付くことである。簡易なプレハブの家を含めると何件もそうした家が増えている。この地の住人だった人とは思えないわけで、どこから来た人々かはしらないが、そんなアンバランスな風景は、廃村にあって廃村にあらずという印象をますます深めるわけである。これはどう考えても「廃村」の部類には入らない。にもかかわらず、芝平というムラは、すでに別のところに継続されているのである。

 もちろんかつての家が朽ち果てている姿もあれば、比較的管理されてしっかりと住める状態の家屋も残る。そしてその周囲のわずかながらの庭や畑には、見事に丈の長い草が枯れ果てている。どう説明したらよいだろう、ムラはそこにはないが、人は暮らす、そんな印象だろうか。10年前とどうなのかと聞かれれば、10年前の方が、まだ旧芝平の人々による管理された空間が残っていたように記憶する。ということは、旧芝平の人々にとっての芝平は明らかに衰退しているようにも受け止められる。その印象を例えば神社の周辺から察知したりする。10年前の神社周辺は、もっと明るい印象があった。ところが今は朽ち果てた印象はないものの、どこか過疎の村悩みを抱えているような風景を見せる。もちろんすでに廃村になったムラなのだから当たり前のことではあるのだが、10年前にはそれを退けるような周辺の息遣いがあった。アンバランスな新住民の空間が、こんな印象を持たせるのかもしれない。もちろんかつての民家とともに、畑がきれいに管理されている空間も見受けられるが、廃村は明らかに廃村になっていくが、住人は増えていくという、まったく正反対の現象がここにはあるのだ。



 道端にはいまだ多くの石碑が残る。信仰が継続されているという印象ないが、石碑はいつまでも芝平の止まった時間を後世に残すのだろ。



 川沿いから一段上った下芝平の空間は、川沿いの印象からすればまったく別空間である。ここからさらに上り詰めると、農業を営む集団が暮らすこれもまた平らな地がある。下芝平の空間は、かつてに比較すると明らかに朽ち果ててきている。火の見櫓の鉄塔に絡みつくように雑草が上り詰め、櫓を覆っている。周辺の平地も見事に雑草の空間となり、わずかばかりの平らには廃村の趣をみる。芝平と一口に言うが、けっこうこの地域は広いのである。

コメント

「伊那谷の南と北」第6章

2008-04-19 20:51:23 | 民俗学
 最近昔のものを探していて、ふと開いた冊子とそこに挟まれていた参考にいただいた手紙を読んで、再び「伊那谷の南と北」について触れたくなった。日記を書き始めたのが2年ほど前だから、その冊子の発行はさらに2年ほどさかのぼる。すっかり以前「伊那谷の南と北」について触れた際には、そのことを忘れていた。「地域文化」67号(2004/1/1・八十二文化財団)の特集は「天竜川」てある。その中で飯田市にある柳田國男記念伊那民俗学研究所の4人が対談をしているのであるが、「天竜川」という特集、そして伊那谷という範囲を想定してこの川を捉えている以上は、テーマを踏まえた対談にしては偏りがあるということを、当時この特集を担当されていた方に感想を述べたことがあった。その方から、やはり同特集を仕事の面からサポートされた方のこの特集記事に対するわたしと同じような感想をもらったといって、その方の感想を綴った手紙をいただいたのである。

 その方は伊那市駅の近くに生まれた方で、駅にほど近い天竜川が遊びの舞台であったという。ところが対談には、ほとんど上伊那のことが登場しないのである。「天竜川」というテーマにははまらず、強いて言えば「飯田より下流の天竜川」といった方が正しかったかもしれない。この対談のメンバーを決めたのは、同研究所の所長になられたばかりの野本寛一氏であり、そんな対談になるとは予想もしていなかったに違いない。いや、野本氏にしてみれば、上下という伊那がそれほど意識的に違いのある場所という印象を持っていなかったのかもしれない。だから、研究所の野本氏にしてみれば伊那谷を代表する民俗学の研究をしている人たちなら、天竜川をめぐる民俗を語るには十分だと思っていたのだろう。いや、対談後においても、そこに展開されたものが天竜川を現す民俗だという認識は変わらなかったかもしれない。

 ところが、この手紙を書いた方も、そしてわたしも、それでは片手落ちだという印象が残ったのである。「少し残念に思ったのは、お集まりになった皆さんが飯田の方たちだったためか、伊那市をはじめ上伊那の話題が少なかったことですか」という。まさにわたしの印象もそのもので、上下伊那をフィールドにしている人がメンバーにいないのだから当たり前のことで、人選そのものに「誤り」、いや、予想された内容がそこには展開されていたのである。驚いたのは、地元の三者より野本氏がより上伊那のことに触れていたことである。いかに地元の三氏にとって上伊那が薄い地域かということがよく解るわけである。いや、三氏になとっては上伊那だけではなく、長野県そのものに対しても大変薄さを感じたわけで、片手落ちどころか庭の中の対話という感じがしてしまったわけである。

 手紙を書かれた方がこんな文を書いている。「そういえば自分の子どものころを考えても、諏訪方面には行きましたが、飯田に行くことはありませんでした。同じ伊那谷でも外から見て思われるほど上伊那と下伊那は交流がないように思います」という。ようは伊那のあたりの人にとっては、飯田のことはまったく解らない。また飯田の人にとっては伊那のことは解らない。同じ空間にありながら、お互いをまったく認識していない。そんなことは取り上げるときりがないのである。担当され方にわたしは「下伊那南部をもってきて当てはめてしまうのは行き過ぎ」ということを述べた。対談は飯田以南の下伊那を重点的に捉えて、天竜川を総括してしまっていたわけである。人選もそう、そしてそのメンバーから何が語られるかもおおかた解ってしまうストーリー、そんなところに「伊那谷の南と北」が現れるのである。そしてそれがこの谷の大きな弊害であり、特徴なのであるが、少なくとも公に出る印刷物にあっては、最低限それをクロスオーバーさせる配慮が欲しかったことも事実である。

「伊那谷の南と北」第5章
コメント

現代道祖神建立の背景

2008-04-18 12:36:24 | 民俗学
 窪田雅之氏が「現代道祖神碑事情」というものを『信濃』の1月号に書いている。新たに建立される神々をどうとらえるか、という副題のもと、戦後に建立された道祖神について触れている。道祖神のメッカともいわれる安曇野を中心に、道祖神信仰について調査研究されてきた窪田氏は、今まで戦前までに建立されたものと、その後に建立されたものについて一線を画して扱ってきたという。そうしたなか、あらためてちまたに建立される現代の道祖神について、触れずにはいられないほどおびただしくなってきた事情がある。窪田氏は現在建立されている道祖神について、その理由について三点とりあげている。①まちづくりなどの像徴ー松本市浅間温泉・同大手今町通り商店街などの事例、②モニュメント―旧豊科町長野自動車道豊科インターチェンジ・旧梓川村村政40周年記念などの事例、③本来の性格を継承する―松本市芳川の結婚式場・豊科警察署などの事例をあげているが、それと同時に「このような捉え方に疑問を感じていた」という。道祖神そのものが多様な信仰を背景に持ち、それは現代に限らず、戦前までに建てられたものも、信仰が多様であったことによる。もちろん一般的に言われる道の神とか防ぎの神というものもあるだろうし、縁結びの神という所在からの五穀豊穣を意図するものも強い。しかし、なかなか統一したその神容は語れない。窪田氏も同様にそれを感じていて、現代の道祖神建立の意図も、まさに多様であると述べている。

 窪田氏は旧松本市域の昭和後期以降の道祖神建立数を75基と数えている。江戸時代から昭和前期までのもの332基を数え、総数407基のうち、18パーセントを昭和後期以降のものが占める。そして平成になってからのものが40基あり、かつてもっとも盛んに建てられた時代である文化文政時代の建立数41基と並ぶのである。いかに現在の道祖神建立数が多いかを示す。それらの中には、町の広がりというものもあり、より所としての道祖神建立というケースもある。人の心を集める対象物として「道祖神」は象徴的なものとなりうるわけだ。信仰の多様化という歴史上の経過も踏まえると、昔も今もオールラウンドに人々に受け入れられてきた信仰対象といえるのである。いや、今では神しての存在だけにあらず、モニュメント的要素で造られるものも少なくない。窪田氏は文末でこうまとめている。「新たに建立される神々を、変容するドウソジンという神の性格と考え合わせ、従来のように一線を画してとらえることを再考する必要があるのではないか」と。道祖神の信仰の多様性をみるにつけ、いつの時代においても人気のあった道祖神を想像できる。現代における建立背景が果たして伝承というものを持ち合わせているものばかりではないが、建立背景に現代人の心のありようのようなものが見えるわけで、あながち現代の道祖神を別扱いにしてその信仰を捉えるばかりではこの時代へのアプローチができないのかもしれない。そういう意味でも、道祖神に限らず、現代の造塔という背景も含めて興味深いものなのかもしれない。

 窪田氏は、長野県内における昭和後期以降の道祖神建立数を一覧としてあげている。それによると、総数221基のうち中信地域で171基を数え、他の地域に比較すると圧倒的に多いことがわかる。しかし、他地域の情報が少ないためにそうした圧倒的な偏りを見出しているが、実は昭和後期以降に建立されたものはもっと多いと推定する。それは道を走っていて、ま新しい道祖神が目立つからである。そんな現代の道祖神について、今後少し触れてみたい。

 続く
コメント

廃村をゆく人⑩

2008-04-17 12:40:24 | 農村環境
廃村をゆく人⑨より

 HEYANRKOさんが京都精華大学人文学部(文化表現学科,社会メディア学科,環境社会学科)の1回生に講義をしたことについて、「長野県小谷村真木」で述べている。ここで、「学生には「廃村の活用策について,2つ以上提案してください」という課題が出されました」と述べているが、ここに少しばかりひっかかることがあるとともに、廃村を有効活用するという意識が果たしてどうなんだろう、ということを考えることになる。

 前にも旧高遠町芝平で触れたように、行政側が廃村にする意図は、その集落を行政上集落として扱わないことから、そこを管理する必要がなくなるというメリットがある。道路管理においても、住民がいなければ除雪する必要がなくなるし、安全上の施設を設ける必要もない。また道路が崩落したとしても、その崩落がよそにも影響を与えるような大規模なものでなければ、復旧する必要はない。ようは、人が住まない、そして一般人が入らないということを前提にしている。行政サービスは、集中している方がやり易いことはもちろんであり、それはつまるところ住民に還ってくることになる。だからこそコンパクトな町づくりということになるわけで、住民が住みやすく、また使いやすい空間は、自ずと見えてくる。だから廃村を維持しようという意識は、集団移住をしたかつての廃村とは違うのである。仕方なく人が住まなくなった空間を、維持しようという考えには、文化財的な意識がある。つきなみに言えば、農村風景を残そうというものになるのだろうが、それは別の観点である。

 提案については、「映画のロケ地とする」、「自然を体験できる場所にする」、「田舎暮らしがしたい方に提供する」などを上げたという。提案をするということが、すでに「廃村」という対象ではなく、人のいなくなった村をどう維持するか、という前述したものとはかけ離れた意識がある。たとえば過疎問題をどうすればよいだろうか、とか水田が荒れてしまっているがどうすればよいか、といったものと変わらないのである。そこで捉えられている「廃村」は、人が住まなくなってしまった村という捉えかたが見え、何度も触れるが芝平や半対のような集団移住をしたムラとは違うのである。廃村は本来使われないもの、というわたしの考えとは明らかにかけ離れている。加えて「いろいろな活用例が提案されましたが、「現存の家屋はなるべくそのまま残す」、「その土地の伝統を大切にする」という声」が学生からあったというところから、ムラを自然風景のように捉えていることがわかる。 自然も土地そのものは公とは限らない。もちろん家屋も個人のものである。それを部外者がそのまま残したい、という意識はどこか別世界のことである。そしてもっともそれを強く感じるのは「その土地の伝統を大切にする」というものであって、伝統とは土地の人が住んでいて初めて引き継がれるわけで、廃村になった空間には引き継がれないのである。発言の詳細が不明瞭であって、その辺を理解した上でのものなのかははっきりしない。理解したうえで、例えば大平のように伝統的「建造物」として残すというスタイルはあるだろうが、安易に「伝統的」という言葉遣いは適正ではないはずだ。そしてこれはHEYANEKOさんも取り組もうとしているが、芝平のように集団移住先の暮らしを捉えれば、もしかしたらそこに伝統的なものが継承されている可能性はある。

 モノとして部外者に捉えられるムラだとしたら、そんな議論は山間に住む者にとっては論外のように思う。
コメント

ニホンジカの痕跡

2008-04-16 12:26:56 | 自然から学ぶ


 ニホンジカが生息域、生息数ともに増やしているということはよく知られている。オスの体長90~190センチ、メスが90~150センチほど、体重はオスで50~130キロ、メスで25~80キロという。人と同じあるいはそれ以上といったところである。イネ科草本、木の葉、堅果、ササ類を採食する。ニホンジカが川の中を歩けないのは、長くて細い足のせいだという。そういうことから、天竜川の左岸に生息していたものの、右岸では一時生息していないと言われた。ところが、今では中央アルプス山塊においてもその姿を頻繁に見るようになった。川を渡れるようになったのか、それとも水量が減ったのかは定かではないが、橋を渡るということも考えられる。ニホンジカは川だけではない。雪も苦手で、雪深いところには生息できない。高山帯に生息しなかったのは、そういう環境になかったということもあるのだろう。冬季間に低山帯に移動するということもよく知られている。高山では餌がないということもあるが、雪が深いと歩けないということもある。低山帯に降りてきたニホンジカは、樹皮などを食べて冬を越す。豪雪の年には冬を越せずに餓死してしまう個体が多いという。大雪の年には個体数が減少し、暖冬が続くと個体数が増える。

 写真はそんなニホンジカが餌にした木々である。先日旧高遠町の半対を訪れた話をした。山室川沿いの県道から半対への急坂を登ると、遙か下に半対沢の流れが聞こえる。まだ集落は先というところの道端に、こんな具合に樹皮が剥かれた木々が目立つ。尾根伝いにニホンジカが移動しているのか、尾根に沿ってそんな樹皮の剥かれた木々が続く。根元から1.5メートル程度の高さまでがこんな具合に剥かれているのである。こうして餌とされた樹木の中には、枯れ果てるものも少なくない。こうした樹皮の剥かれた木々の下をよく観察すると、ウサギの糞のような丸い糞がたくさんある。当初はウサギのものと思っていたが、こうした木々の下に必ずあるところをみると、ニホンジカのもののようである。

 半対から下り、同じ山室川の支流である宮沢川の左岸を宮沢集落まで上る。左岸側を上る狭い道沿いには、有刺鉄線で囲まれた水田がいくつかある。その道沿いには三箇所の扉があり、その扉を開け閉めしながら上る。かつて水田であったであろう荒地に、笹薮が一面に生えている所がある。そこで扉を開けようと車を止めると、笹薮の中から大きな音がしてニホンジカが飛び出す。さすがに有刺鉄線の嵐のような場所だけに、獣の姿は珍しくないのだろう。半対は廃村であるが、まだ人の住むムラは、見事なまでの獣への抵抗が見える。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****