Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

葬儀の急変

2008-05-31 10:08:12 | 民俗学
 葬儀のことに触れて遺骨に対しての意識に変化があるのではないか、などということを「いつまでも残る遺骨」で書いた。そんな流れがあって変化してきたかどうかは定かではないが、葬儀そのものがずいぶんと急激に変化してきていることに驚かされる。

 先日、いとこの葬儀に関わった。前々から少しは知識としてあったが、次のような点に以前とは違う風景をみた。

①帳付けも名ばかり。ようは香典をいただいた人の名やその金額を記録していく役割であるが、典礼社の担当が専用のスキャナーを使って記録していく。一応組合から長付け役が決められているが、典礼社の補助といった具合に、読み難い字に振り仮名をつけたりする程度である。きっと筆字にに自信のある長付け役は、仕事がなくてがっかりするだろう。
②葬列の役付けもなくなる。このごろは葬列も作らなくなった。葬祭センターで行うから葬列を組んで墓地に行くこともなくなった。それでも役付けだけは発表されていたものだが、それも行われなくなる。
③葬儀当日には埋葬しない。これがわたしにはもっとも違和感がある。葬儀の日に埋葬するのが当然だとおもっていたのに、最近はこのあたりでも埋葬するのは四十九日だという。きっと四十九日の法要の折にするのだろう。

 このほかにもしだいに変わってきた内容はたくさんあるし、わたしの認識していないものもあるだろう。なにより組合の仕事は激減している。もちろん葬祭センターで行う場合と寺院で行う場合、また、集会施設で行う場合では異なるだろうし、今では稀になった自宅ともなれば葬祭センターとはかなりの差が出るはずである。それでも自宅とはいっても、現在は料理など準備は専門の業者に依頼するだろうから、かつての組合の役割は格段に減っているはずだ。最も最近かかわった隣組の葬儀は、寺で行われた。そのさいにわたしは帳付けを仰せつかったが、まだ自ら字を書く仕事があった。正直いって、役だけ仰せつかってほとんど仕事がないよりは、仕事があった方がありがたい。それだけ隣組のかかわりとして役に立てたという実感ももてる。今回の葬儀を見る限り、これでは組合の立場としてほとんどかかわりがない。確かに「お組合の衆に手をわずらわしてはいけない」という意識は持つものの、せっかくの組合なのにぶらぶらしているようでいて、喪主の挨拶で「お組合の衆には大変お世話になって」などと口上を述べられても気分は優れない。最低限達成感のようなものが欲しい。そのくらいなら、組合衆という立場など取り払って欲しいものだ。いや、これほど葬儀が変化している姿を見るにつけ、近いうちにすべてを葬儀屋が担うときが来るかもしれない。

 前述した埋葬しないというのもどうなんだろう。わが家のように葬儀は行わない、そして骨もいらない、などと言っている者はともかく、普通に葬儀を行い、普通に埋葬するというのなら、よそに倣うことはないだろうに。「四十九日間の彷徨い」で述べたが、祖父母が亡くなったとき、母は毎日墓参し、七本塔婆を七日ごと墓地に持っていって立てたような記憶がある。正確には七日ごと裏返したのか、それとも立てたのかわからないが、いずれにしても墓地に埋葬されているのだから、墓参することになる。四十九日まで自宅に置かれるということになると、この七本塔婆は必要なくなる。確かに四十九日までは亡くなった人の霊が家の屋根棟にいるなどということが言われる。それはあくまでも霊としているわけであって、遺骨に霊が残っているわけではないと思うのだが、このあたりが遺骨への意識の変化のように思う。

 さて、生家のあたりでは葬儀に来られた方に「ござり」というものを出す。ようは昼食である。こうした弔問客を「ござりの客」という。ちゃつへ赤飯・しいたけ・里芋などを盛って出すのだが、下伊那ではしないと言うが、そうでもなく、場所場所によって違う。それにしてもずいぶんとあっさりとなった葬儀を見て、寂しさが漂う。
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定時終了

2008-05-30 12:17:43 | つぶやき
 毎日、会社を出るのは6時前である。こんな生活は今までにあっただろうか、などと記憶をたどるが思い出せない。続けることほぼ1ヶ月。一度都合で6時以降ということはあったが、それ以外は一応定時で終っている。そして毎日のようにまだ人影は多くない駅で電車を待つ。もともと一般人で電車を利用している人が少ないから、人影のまばらなホームに毎日のように立っていると、暇人のようである。繰り返しているうちに、「わたしは窓際?」などと感じるようになる。年度末から年度始めにかけての終電三昧が嘘のようである。

 いっぽうでいまだに夜遅くまで毎日働いている部署もあるのだろうか、などとどこかで思うから、自らはいらない人間?、などと頭をよぎってしまう。割りきりが良いといわれるわたしも、実はけっこういろいろ考えるタイプではある。もちろんそう思うのは、みなが定時で帰るわけではなく、わたしだけいつも「お先に」と帰るからでもある。収支の合わない会社にあって、残業などすることじたいが気に入らない。それも無報酬であるならばそれもありなんだろうが、限度はあっても報酬がある。ということで残業をなくせないのか、と考えているわたしの年収は、同じ社員より1割以上少ない。だから「その分仕事もしない」、ということはない。ちまたで問題になっている正規と非正規の報酬差にくらべればゴミのようなものだろう。

 実は、かつてのように自動車で通勤していれば、このところの毎日定時終了はなかっただろう。ところが電車を利用するようになるとその時刻表に合わせることになる。運転本数の少ない飯田線に乗っていれば、時には1時間以上あくことがある。したがってひとつ遅らせば必ず1時間という背景があるから、時間を意識するようになる。自動車の通勤にはそういうことはない。だらだらと続けてしまうことも多い。そういう意味では、毎日終電を続けたころも、一応最終の時間があったから、最大でそこまでと自ずと決まる。時間に制約されることはストレスにもなるが、いっぽうで目安の中で納めるという日常を体感することになる。かつての自分ならそんな制約がとてもできないと思っていたが、今や慣れたものである。

 もうひとつ、意識の問題もある。人の顔色を見て仕事をしていれば人に合わせることになる。若いころはもちろんそういうこともあった。しかし、今や自分は年老いている。そんな人間がだらだらと毎日仕事をするのも、時間を意識させるには良くないことでもある。だから時間外に仕事の打合せをしようとするのも、休み時間に仕事の件で言葉を交わすのも避けることを前提にしている。時間外の仕事は、わたしにとっては趣味なのである。だから人には声を掛けてほしくないのだ。善悪明確化の時代にあって、そんな整理のできない人も多い。「言うこととやることが一致していないよね」、とまた言葉を発してしまうわたしは、ますます窓際存在である。
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中央リニアのベストな構想

2008-05-29 12:24:15 | 農村環境
 厳密にどこでボーリング調査をしているか確認していないが、早川町新倉の標高は600m、大鹿村釜沢の標高は900m、その間の距離約20kmだろうか。「南アルプスNET」によれば、「調査地域は、トンネル両端の有力な候補地とみられる」という。そうなのだろうか、と?を付すとともに、本当にそうだとしたら、やはりこの計画にとって地方は都会の踏み台ということになるのだろう。ちなみに標高差からみると、ちょっと勾配きつすぎる。

 「伊那谷自然友の会報」の最新号である137号の「自然通信」の欄に、「リニア中央新幹線計画に想う」という投稿を読んだ。この伊那谷自然友の会は、単純な自然保護団体だと、わたしは思っていない。それはこれまでこの会の会長を務められた北城節男氏にしても堤久氏にしても、話を聞いたかぎり、単純に自然保護を主張しているわけではなく、現在の社会の実情、とくに地域の実情を理解した上で、どう自然と付き合っていくべきかというところを自ら悩みながら研究されていた。明確な答えを大声で主張されないあたりに、そんなお二人の人柄のようなものも見た。それだけ地域の実情にも悩んでおられると感じたわけだ。とはいえ、こうした団体には自然保護一点張りの人がいないわけではないだろう。さまざまな人たちが会話を続ける。それで良いはずだ。そんななか、前述した投稿には、リニア構想によるボーリング調査が始まったことに触れ、疑問を呈している。その疑問とは、

 ①この狭い日本列島でなぜ時速500kmの超高速列車が必要なのか。
 ②停滞する経済の中で膨大な建設費を生み出すことに疑問。
 ③沿線地域の自然破壊。
 ④電磁波・騒音の問題。
 ⑤沿線地域の開発が望めない。
 ⑥地方財政が逼迫している中、リニア飯田駅をつくる余裕があるとは思えないこと。

以上6点をあげている(投稿者 飯田市片桐晴夫氏)。

 中央リニアについては、「中央新幹線建設報道にみる」でも触れた。造るなら直線、それはごく普通の考え方である。そして今回の投稿を見て改めて調査ボーリングの位置関係をうかがったものが冒頭のものである。そこから改めてこの計画を考えてみよう。投稿にある6項目は、こうした流れから指摘するには問題外のものがある。それは①②⑤⑥である。①に関しては基本的な構想の原点に、大都市を結ぶ交通として現在の「東海道新幹線に代わるものが必要」という主旨があるだろう。災害時の対応というものはとくにその原点にあるだろう。②に関しては採算性、経済性があると判断してJR東海が自ら進めるというのだから問題はないだろう。⑤に関しては、①と同様であって、沿線の開発などは必要ないのである。あくまでも大都市を結ぶ、それが原点。⑥は⑤の観点でいけば、造る側はどうでもよいことである。ということで答えは見えてくる。③と④という公害的なものが問題になるだけなのである。早川町新倉、そして大鹿村釜沢、どちらも山間の奥まったところである。ここにトンネルの口ができたとしたら、確かに自然環境に対しては負荷が大きい。本気でこんな計画をするというのなら、考え物である。それを長野県内の多くのリーダーが望んでいるルートに当てはめたら、そんなルートは辞めた方がよいに決まっている。まじめにそれが良いと思っているリーダーたちの頭の中は、まともとは思えない。

 ということで、この構想が実現するとなれば、直線になる可能性が高い。それでもって③と④を解決するには、南アルプス市あたりの標高300m地帯でトンネルに入り、恵那市あたりの標高300m地帯でトンネルを出るという長大トンネルで建設してもらうのが最良の策と思うが違うだろうか。もちろん長野県内はすべてトンネルである。どうしても駅が欲しいというのなら地下トンネル駅である。そのくらいのことを頭に入れてどこかの市長は期待しているんだろうなー、などとわたしは考える。違うとしたら「人の血を吸って〝環境都市〟なんて言うな」なんて言いたくもなる。投稿された方も、推進しようとする方も、わたしの構想をJRに陳情する方がよいと思いますが・・・。
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平谷の教え

2008-05-28 17:21:14 | 歴史から学ぶ
 清内路村が恋焦がれて合併を申し込んでいる阿智村。その阿智村の合併に関する住民意向調査の結果が知らされた。賛成43.2%、反対20.7%、議会に委ねる24.1%、分からない12.0%がその結果である。どうもよくわからないのが、村長の「50%を切ったのは厳しい判断。強力に合併を推せる数字ではない」という答えである。だいたい、「議会に委ねる」なんていう回答が選択肢にあることじたい?である。「分からない」とどう選択肢上に違いがあるのか、議会とは何なのか、などと?が積算してしまう。賛成と反対以外の人には「何を意図しているか」という部分を記述してもらえば、意向は分かるのではないだろうか。そういう住民意向調査はされないものなのだろうか。そもそも内心、村長は合併したくないのかもしれない。とまあそんなことを思わせる報道が、本日の新聞に掲載された。


 小池筆男さんの『山村の今昔』の言葉から、前回「失敗は結局取り返しがつかないほど大きいものだったと暗示」していると述べた。その失敗が本当に「失敗」というものなのかどうかは、ひとそれぞれ受け止め方も違うのだろうが、村に生まれ育ちその中での小池さんの思いは、どこか「失敗」という現実の中で思いがめぐっているようにも思う。それは過去の歴史を知っているからこそ強く思うのに違いない。

 平谷村がかつて現在は阿智村と合併してしまっている浪合村(かつては「波合」といった)と合併していたことがある。このことはふつうの人たちはあまり知らないことだろう。平成の大合併も国家が仕組んだもので、そこに暮らす人々の多くは「このままでよい」と思っていたはずだ。しかし、常にそうしたわたしたちの暮らしは国家の意向に沿って歴史を刻んできた。したがって、たとえば合併したからといって、またしなかったからといってその選択の良否の判断はなかなか難しいわけだ。自立を公言して独自政策をとる首長がいかにもその選択が正しいと口にして結果を出したからといって、果たしてそれが将来にもその選択が正しかったと言えるかどうかはなんともいえないものである。もちろんその逆もあって、合併したことによって地域がすさんでいく例は数え切れないほどあるだろう。近代国家を目指す日本政府においても、そんな現代と同じようなことが行われ、それが何度も繰り返されてきた。明治8年に戸数300戸以上の1村にするようにという指導のもと、平谷村と波合村は合併した。その名を「平浪村」といった。こうした村があったことは以前から認識していて、もともと両村のなかにはそれほどの関係(のちに分村したりまた合併したりしていることから縁のある関係)があったという印象を持っていた。ところが小池さんの合併にかかわる内容を読んで、両者の間には二度と合併の機運はないというほどの関係が育っていたことを知った。

 平成の大合併の最中、平谷村が中学生以上を対象に「合併をするかしないか」という住民投票をした話題は、全国ニュースにも流された。その結果が飯田市への合併意向であった。不思議なことに周辺との合併という意思、あるいは選択すらそこにはなかったように記憶する。このあたりが明治以降にあった合併問題と関係していたのだろう。合併はしたものの役場の位置は波合におかれ不自由な暮らしを被った。度重なる分村願いがかなって明治17年に分村。とこが翌年に政府が出した連合村制度に従って、再び波合との連合村となり、再びその中心は波合に。のち分村の火種はつねにくすぶり、「天下の難治村」と言われるほどの大騒動にまで至った。そんな騒動を治める為に役場が移転されたわけで、明治42年に両村の境にある治部坂峠から少し波合よりに下った治部坂に役場が移転されたのである。民家はあったものの、それぞれの村の中心からは遥か遠いところに役場が置かれたという稀にみる難治村だったことはよく解るわけである。そんな役場は25年の間続き、結局度重なる分村運動が続き、昭和9年に分村、以後平成の大合併まで再び合併することはなかったわけである。寒原峠から中心部まではしばらく距離にある阿智村と合併した浪合村、離れていても飯田市に合併しようと考えた平谷村、どちらにもかつての難治村の影が残っていたに違いない。村の起源からまったくかわらずに今も同じエリアで村を構成している自治体は全国でも稀なのだろう。そんな村にとって、明治期の波合とのかかわりの失敗が、現在も村に残っていると、小池さんは考えているようだ。

 平成の大合併は、かつての歴史など失せさせるような大きな流れであったと印象を持つのだが、現実的にはそうした大きな流れにも沿えないほど、深い過去を持っている地域があることを小池さんに教えられるのである。
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自制意識の低下

2008-05-27 12:21:52 | ひとから学ぶ
 しばらく前のこと、自治会の総会が行われたものの、わが家はまったく開催されることを認識していなかった。自治会の集りなどを開催するにあたり、どう連絡して参集するかは地域によって異なるのかもしれないし、同じ地域にあっても詳細はそれぞれなのかもしれない。わが家の周囲では、とくに連絡はない。いわゆる有線放送というものがあって、その放送で流れるお知らせを聞いていないと逃してしまうのである。今回は、忙しくて家にいなかったために聞き逃したわけではない。有線の放送でふだん得る情報もないことから、音量を小さくしてあるのである。だからわが家には放送が流れないのである。有線電話が廃止され、放送だけを聴くシステムに変わってまだ間もない。その際にほとんど聞いていないこともあって、有線を辞める?という会話もあったが、ただでさえ地域のことを知らないわが家がますます無知な家になってしまうため、とりあえず加入を続けた。続けたものの、音の流れないただの置物に化しているから、大事な放送も聴けずじまいということになる。

 ふつうは有線放送に加入していない人もいるだろうから、別の連絡方法をとっているのが当たり前なのかもしれない。ところがわが隣組はとくにそうした連絡はしない。認識してないで欠席したことは今回初めてというわけではなく、今までにも1、2回あった。そのたびに「電話でなくても回覧板などで通知するべき」などと思っていながら、そのまま変わらずにいる。総会そのものも稀、加えて知らずにいたということも稀で、隣組の集まりでそんな提案も忘れていてできなかったわけだ。回覧板は頻繁に回ってくるのだから、そんな方法もひとつなのだろうが、とはいっても開催日が間もないと、回り終わらないうちに総会などということもあるだろう。もちろん組長がそのあたりを判断して連絡方法を変えることも必要なのだろう。

 さて、こんな連絡方法のひとつ電話。通常の電話ならそのつど通話料がかかる。ところが携帯電話登場以来、定額契約という方法が取られるようになって、通話してもしなくても電話料が変わらないということになってきた。「使った分を払う」という。時代では競争激化にともなってなくなってきた。もちろん通常の電子しかなかった時代にこういう競争があったら、定額利用料というものが設定されたかもしれない。今や飲み会といっても「飲み放題」というものがあってよく使われる。何度使っても値段は変わらないというサービスはごく当たり前にちまたに氾濫している。しかし、よく考えてみると消費の垂れ流しのようなもので、歯止めの無い消費
生んだり、懐を考えながら自制するという意識が低下する。ときおりそんな自制意識の低下による不合理を感じることがある。そんな自制意識の低下は、明らかに「使い放題」社会の生んだものだと思う。
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最期を見つめる

2008-05-26 12:44:31 | ひとから学ぶ
 この春、職員組合を脱退した。今までにも職員組合については折々に触れてきた。「損をしている馬鹿なやつだが」は2005年の日記である。「当面は辞めるつもりはない」と語って3年、すでに保険としての価値もまったくない。会社の変化も、そして意識の変化も余儀なくされているなかで、本来組合(以後そう呼ぶ)というものは、労働者に平等でなくてはならない。ところが組合内部にそんな主旨に沿うかたちの理念もなければ、差別は容認されたものである。むしろ違う意味で変わらなくてはならないのに、意識は昔と変わらず、口にする言葉だけは変わっている。「信用のおけない関係」ということになる。その後「わが社の職員組合」を書いたのは2006年である。読み直して思い出したのは、組合費のほとんどが会議費に使われているということである。無駄な会議と内容のない会議のために使われる費用と思うと、そんなものに負担をするのは馬鹿げているということになる。そして「労働組合組織率」を書いたのは2007年の初頭である。「〝辞める〟はもう言うのはよそう」と書いたにもかかわらず、辞めることにあいなった。不思議なもので働く空間の雰囲気で、わたしの考えは振り子のように振れた。しかし一貫していることに違いはない。ようは形骸化したものを続ける必要もないし、必要であるならば必要な部分だけを小さく継続すればよい。ところがどちらにも向かない組合の流れは、もちろん解っていたから、辞める季節を待っていたということになる。その季節が到来したから辞めた、そういうことなのだ。組合トップに主旨を解っている顔が立たなくなった。その走りは前にも触れたような同じ顔が何度も繰り返し立つようになってからだ。組合に限らずわたしが何度も言うように、体制は新しい顔で更新していくものだと思う。それをできなくなると、いよいよ活力は低下し、いずれ消えざるを得ないのだ。その道をたどるようになぞってきた以上、必然の姿と言えるだろう。

 先日、同じ部署の先輩が「脱退届け」の書き方を聞いてきた。かつて組合の役員をしていた先輩にとっては、もっと早く辞めたかったに違いないが、わたしとは違い、そんな大胆なことはしない堅い方だった。常にわたしに「そういうもんじゃない」と戒めてくれた方だ。しかし、そんな先輩ですらこの会社の現状と、さらにはなんら価値のない活動を続ける組合に身銭を払う必要はないと判断したのだ。権力がないとなんら口にしてもたわごとになってしまう環境。「最悪のシナリオへ」に登場したかつての委員長のような権力者がかき回す姿は、見るに忍びないという印象を持っている。だからといって会社も辞めるなどということはできるはずもない。そうしたなかでの判断なのだ。わたしを戒め続けた先輩のこの判断、実はわたしにとっては大きなものである。それほど疲弊している景色を、おそらく誰もが感じているのだろうが、実は組合になんら疑問を持たない人たちは感じていないということになるのだろう。かつて疑問をぶちまけ、そして投げかけた以上に阻害されてきた事実を思い浮かべ、わたしの指摘はけして間違いではなかったということと、その歩みが堅実な人たちをも奈落の底におとしめてしまったということが歴然としてくるのである。
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わたしにとっての日記

2008-05-25 10:49:03 | つぶやき
 地元のブログをときおり目にする。とはいっても意図的に探し出して閲覧しているわけではなく、地域に関するキーワードにヒットしたもので、気になるものがあったら芋づる式に閲覧してみる程度ではあるが…。

 そんななかの一つにヒットした。Iターンで農業を始めたというくらいだから、地方にはいないタイプの人である。けっこうわたしと同じようなこと(道路のこととか)を指摘していて目がとまった。行政批判に政治批判、そしてけっこう多いのが県政批判、というよりはそうした自治体のトップを市民オンブズマン的視点で批判し、最期はそんな人を選んだのは国民だ、あるいは県民だ、市民だと結ぶ。

 わたしと大きな違いは、知識量の差だろうか。それが文末にやってくる。わたしの場合は疑問符的な締めかたをするいっぽう、彼は結論的な締めかたをする。似ているものの大きく違う。もちろんわたしの知識が少ないのは言うまでもない。別の日記のタイトルにもあるように、「世の中いろいろです」というのがわたしの本音。きっとこれは間違いだろうと思っても、それを選択したりそれを推し進める力がある。加えて正論だけでは成り立たない社会。けしてそれは日本だけのものではなく、どこの国の人たちにだってあることなのだろう。どんなにグローバル化したとしても、それぞれの風習の違いまで考えて行動したり、考えたりしていくには、人間の力では無理がある。きっとそれをもクリアーできるほどの能力を持つ人はいるだろうが、そんなのは一握りの世界。加えてよそのことを気にするほど、余裕もなければ、それじたいを必要と思わない人たちだっている。結局狭い話に立ち戻り、自分たちは暮らしていかなくてはならなんい。本当に小さく、ささいなことからわたしたちは生活を始めるのである。そんな意味でも「平谷のゆくえ」で取り上げた小池筆男さんの話は、なかなか身近で親しみが持てるとともに、そこに実は大きなものが横たわっているように思う。だからこそ、あくまでも個人的な物言い、そしてそこからどう自分の生きる道を、方針を決めるかということになる。あくまでも自分のための学習なのである。

 さて、そんな目に留まったブログは、わたしのように必ず毎日更新されている。ちなみに違和感を感じたからここに記すことになったわけであるが、そんな違和感のひとつを記録しておく。前述したようにかなり政治的指向の強い意見を書かれている。そんななかにCO2削減についても頻繁に書かれているのだが、「2050年の目標である70%削減を前倒しするために一番必要なことは、自民党を政権から引きずりおろすことだと思います」「長野県は、CO2の削減は度外視して、森林吸収量だけに頼った内容となっています」と定量的にかなり詳しい指摘をされていながら、デシタルカメラが壊れて買い換えるにあたって、「ヤマダ電機のポイントは詐欺的」と批判している内容を読むと、「ふーんそこから(なぜ地元の店じゃないの)ヤマダ電機やらキタムラやら何度か足を運んでいるけど、どこかチガクない?」と思った。
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平谷のゆくえ

2008-05-24 13:08:59 | 歴史から学ぶ
 「尾根を挟んだムラ」で紹介した小池筆男さんの『山村の今昔』から教えられるものをまたひとつ。

 小池筆男さんはその本の中で平谷村のことに多く触れている。もちろん「すこやかひらや」という村の診療所の通信に寄稿されたものだから平谷村のことが多くなるのは当然なのだが、村のことといっても自治とか行政といった根幹の部分で触れているものが多い。そんな視点の一つに「観光」というものがあり、昭和から平成とい時代に入って今後の村がどういう方向に行くのか、そんな部分を不安を抱きながらもひとつの考えを持っておられたようだ。とくにそんな自治・行政、そして人々の意識の現実を踏まえながら、その背景的な村の歴史を紹介してくれていて、こんな旨い構成の本は、なかなか他に例をみない。読めば読むほどに平谷の人たちには、自分たちの意識の根幹を見透かされたように思うだろうし、平谷のことを少しでも知っている人たちには、小さな村ではあるもののそんな小さな村に展開した歴史と、またそこに暮らしている人たちの難渋の日々が見てとれるよな気がするのだ。

 観光を記した冒頭、どこにでもあった過疎の村の戦後の変化が綴られる。昭和28年から昭和36年にかけて何度か襲った災害により、離村者が増加し、1600人いた人口は半減していったという。そこに高度成長という波がさらなる摩訶不思議な意識を生んだわけで、観光立村という旗印に都会の人たちを招きいれようとしたわけである。これは平谷だけのことではなく、県内、そして国内の地方のどこでもしようとしたものだったはずだ。ただ、わたしの記憶には、そんな最中にこの「平谷」という名前はかなりニュースを賑わしていたことも事実である。とくに平谷湖を中心にした平谷開発なるものが、営業不振に陥って彷徨っているという報道は、子どもだったわたしの記憶にずいぶん大きく存在している。一度や二度の報道ではなかったはずだ。都会の人たちから経済的な恵みを、という焦りで「観光の根本的なことを考える余裕は村人にはありませんでした」と言う小池さんは加えて次のようなことを述べている。


 観光とは何か-観光によって村はどう変るか-村民の意識・文化はどんな影響を受けるのか-。などの基本的なことを考える余裕はなかったのです。
 ただただ都会からの客を呼び入れて、財政的な恵みを受けることが観光だと錯覚してしまったのです。これは平谷だけに限らず多くの村が陥った弊害でもありました。
 これを悪い言葉に替えて言えば、「女郎の身売り観光」に落ちてしまったのです。
 都会人の顔色をうかがいながら、都会人の所望に応じて、施設や物を作り売ってその場の金を儲ける。都会の人々の要求のままに、山の人々は犠牲になって都会人を喜こぼせ、金さえもらえば観光事業は成功だと錯覚してしまいました。
 山村ならでは出来ない観光資源の開発を忘れて、金を沢山置いて行ってくれる客ばかりを尊重しました。
 都会人が国道を大勢通る。この人々の客足をどぅ止めるかが、観光の力量と考えました。浮き身をやつして都会人の呼び入れに苦心し、都会人の顔色をみて右往左往する金もうけ主義の観光だったのです。


 このごろの田舎体験やグリーンツーリズムの考えは、そうした地方の空虚を見直そうとしたものであることは言うまでもないわけである。小池さんは、「本当の山村の観光事業を立ち上げようとした事例として浪合村のトンキラ農園のことを取り上げている。小池さんにとっての観光の失敗は、トンキラ農園のような山村そのままを利用してもらおうというものではなく、見世物的な施設建設に走った高度成長時の過ちが、実は後の村の風景を変えてしまう結果になったわけで、失敗は結局取り返しがつかないほど大きいものだったと暗示しているのである。このことは、次回に触れようと思っている「合併問題にもつながるものである。ちなみに小池氏がこの〝トンキラ〟農園の名付け親だという。そんな思いもあるのだろう、小池さんは「村のゆく方―観光」での暗示を、自治について触れた別の部分でも何度か記述することになる。

 続く
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大人たちの社会性の欠落

2008-05-23 12:20:13 | ひとから学ぶ
 信濃毎日新聞5/19朝刊教育版における「コンパス」のなかで、数学者の秋山仁氏が「勉強より大切なこと」と題して寄稿している。そこにとりあげられた杉並区の中学校が、学校の放課後に塾代わりのようなことをやっていることはよく知られている。まあそれはともかくとして、秋山氏はそんな学力第一主義が、勉強より大切なことを認識しない子どもたちを育てることになるのではないかと憂いている。秋山氏は自らの中学時代のことをこう記している。


(前略) 中三の十二月ごろのこと。夕方、担任から家に突然、電話がかかってきた。「大切な話がある。クラス全員今すぐ学校に戻るように」。何事かと、煌々と明かりがともる教室に戻ってみると、クラスの半分くらいがもう席に着いていた。先生は教卓に無言で突っ伏していた。午後七時をすぎ、最後の一人が戻ると、先生はおもむろに口を開いた。「みんな床を見てみろ。今日は三班が掃除当番のはずだが、サボって帰ってしまったようだ。私が代わって掃除しておいた。受験勉強で忙しいのは分かるが、勉強よりもっと大切なことがあるぞ。みんなで決めた約束事はきちんと守ることだ。人間は大変なときにその本性を発揮するものだ。こういうときにこそルールを守ってほしい。(後略)


 帰路での同級生の受け止め方はさまざまだったというが、秋山氏はここで「人生にとても重要なことを教えてくれたと思う」と言う。そしそ「モラルの低下した昨今の社会は、多くの人々にとって、とても住みにくいイヤな世の中になっている。かつて学力が世界一だったとされる大人たちの社会性の欠落だ。子どもたちの学力を向上させるだけで本当に世の中は良くなるのだろうか?杉並区の中学は、親のニーズ、生徒の希望、生徒を受け入れる日本の社会システムすべてを考慮した熱心な学校である。だが、その熱意の方針の前提がそもそも正しいのか?」と続ける。

 悩み多いわが家において、子どもたちへ何を与えるのか、そんなことを思うと、果たしてわが家の教育がこれで良いとは思えない。農繁期の忙しいおり、果たして家業を手伝わずに勉学に励んでいる(姿だけで実は遊んでいるやもしれない)のが良いのだろうか、などと考える。できる子どもたちは、よそのことをしてもできるものだ。ところができの悪い子どもは、勉強ばかりしていてもできる限界がある。当たり前のことで、仕事をの早いやつもいれば遅いやつもいる。何が適正かは、それぞれが考えることなのだろう。限度内で勉強に差が出るというのなら、それは仕方のないことで、それよりももっと大事なことを覚えていかなくてはならないのではないかと思う。

 秋山氏の言う「大人たちの社会性の欠落」がこの世の中をどんどん非常識な社会にしている。言葉では言ったとしても身体が覚えていない。別の日記で電車に乗る際のマナーについて何度も述べている。つい先日も「不合理の導いたもの」でも書いたのだが、休日の伊那市駅で電車に乗ろうとすると、ドアの前に乗車しようとする客が集る。ドアが開いたらすぐにでも乗ろうというのだ。そして停車した電車のドアを開けると、降車しようとする客を圧倒するようにすぐさま乗り込んでいく40歳くらいのおじさん(わたしより若いとは思うが)がいる。もちろんその後を追って高校生も、大人も矢継ぎ早に乗り込んでいく。降車する客は降りれずに、いったんそんな乗客の途切れるのを待っている。そんな光景を昨日も見る。大人が率先して子どもたちに「乗る客が先」という間違いを見せている。今までにもそんな光景は何度も見てきたが、最近とくに目に付くとともに、大人が率先している。腹が立って仕方なく、いよいよわたしも「ふざけるな」と言う時がきそうである。妻曰く「あんたの言い方きついから気をつけた方がいいよ」。そうはいっても伊那市駅の風景はちょっといただけない。まさに大人たちの社会性の欠落なのである。
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尾根を挟んだムラ

2008-05-22 19:12:09 | 歴史から学ぶ
 少し前に書かれた本を読むのも、当時の予測と現在がどう違うかを知る上にも興味深く楽しいものである。小池筆男さんは下伊那郡平谷村生まれで長野県内の小中学校の教員をされた方である。小池さんが平成2年から約10年間に渡り、無医村だった村にやってきた假家医師が発行した通信「すこやかひらや」に寄稿したものをまとめた『山村の今昔』は、平谷村のことをごく身近な言葉で教えてくれる。平成5年8月通信の「区制と学校の独立」の項にこんな文が書かれている。


(前略) 明治二十四年から三州街道(県会では第四路線と呼びました)の大改修が始まりました。今までの谷川沿いの中馬街道から離れて、運送車の通れる平坦な道に大改修をしたのです。平で道幅も広くはなったが、波合までの里程はむしろ長くなりました。この時、新道とか大曲りとか七曲りという地名も付けられたのです。
 歩いて役場に通う人たちは、以前の谷川沿いの道を、「近道」として利用しました。いまでも「近嶺(ちかね)」という地名の名残りがあります。(後略)


 近代化するなか、道の勾配は緩くとられ、それまでの急坂ではなく、迂回するものとなったようだ。それに伴って「波合(浪合のこと)までの里程はむしろ長く」なったわけだ。そのいっぽう、まだ人々は歩くのが当たり前だったから、近道を利用したわけである。運送を通す必要のなかった時代には、尾根を越えてもその方が近接しているという立地はいくらでもあったわけで、今ではなかなか想像しがたいことが普通に見られたわけである。

 先日伊那市新山の県道西伊那線を駒ヶ根市大曾倉方面へ上った。新山峠道に入る最も上が上新山というところなのだが、そのまた最も上の集落で「ここは何という集落なんですか」と聞くと「場広(ばびろ)」だという。わたしの認識では場広は尾根を越えた小松川沿いの方を言うものだと思っていたから「ここも場広なんですか」と聞くと「東場広」だという。ようやく新山地籍の集落が頭の中で整理できてきたところだったのに、「???」状態に陥ってしまった。聞いてみると、かつての場広というところは、尾根をはさんだ西と東がひとつの集落だったという。ようは今でこそ東場広の下の和手上集落に隣接しているように見えるが、むしろ尾根をはさんだ西場広の方が直線では近いということになるようだ。運送以降、さらに車社会が到来し、徒歩で家々を連絡するということが激減した。加えて尾根越えともなれば、現代の人々には隔世の感がある。同じ「場広」という地名を持つものの、かつてとは大きな環境の違いを見せているのである。ヤマを中心に展開した集落がたくさんあったわけで、同じ上新山では現在の伊那エースカントリーをはさんだ東西にも、今とはくくりの違う尾根の両側で一つの集落を形成していたムラがあったと聞いた。川は今も昔も隔てる壁になったが、山は隔てる壁ではなかったわけである。そう考えると、人々は川で得るものより山で得たものが多かったということがいえるだろう。そうでなければ、川を隔てて争うということはそれほどなかったはずである。川は大きな壁なのである。
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フデリンドウ

2008-05-21 12:29:06 | 自然から学ぶ


 長野県の花というとリンドウであるが、もちろん秋の花である。ところが春に咲くリンドウもあって、何種類かそんなリンドウがある。フデリンドウ、ハルリンドウ、コケリンドウなどがそうしたもので、どれもみな秋のリンドウに比べるととても小さい花を咲かせる。この花は、先週下伊那郡阿智村の伍和(ごか)の里山を歩いていて見つけたものである。まだ昨年の枯葉が目立つ木々の下は、目線を上げれば真新しい緑、下げればすこしばかり冬模様、というバランスになる。そんな空間だと、あまり目線を下げることはない。おおかたの人は真新しい緑に向くはずである。だから地面に小さく顔を出しているこうした春のリンドウは、意外に目に留まらないものなのだ。

 フデリンドウは花茎10cmほど、その頂上に20~25mmの青紫の花を1輪~数輪つけるというが、実はフデリンドウとハルリンドウの区別がとても難しいようだ。わたしが見つけたこの花を見てハルリンドウという名を知っていたこともあって、それと踏んでいたものの、家でこのあたりに咲くこの季節のリンドウを調べていて、一概にハルリンドウとは言えないことに気がついた。ハルリンドウは比較的低い山里の土手などに、またフデリンドウはもっと高いところにまでのエリアに咲くという。開花エリアにそれほど差がないということである。大きな違いは、フデリンドには他の2種のように根生葉がないという。ところがこの花を見つけた際、そんな詳細なところを見るほどの余裕はなかったし、そんなことを知らなかったので見るすべもなかった。ということで写真とわたしの現地での印象から、この花はフデリンドウだと思っている。

 検索しているとこんなコメントが目に入った。「ちょっと気をつけて足元を見ていれば、草丈に比べて大きめの花は枯草の中に青い星をばらまいたようで、意外に目につく。遠慮がちに花を開く秋のリンドウに比べ、春のリンドウは花は大きく開くような気がするが、夕方や曇りの日にはやはり花を閉じる」というものだ。前述したわたしのコメントと違う。ようは「秋より大きめな花を開く」とか「意外に目立つ」というあたりである。けしてこれは両者に隔たりがあるわけではなく、印象の違いといった方がよいのだろう。秋のように草丈が伸びた草原のようなところに咲く花と、まだ草丈の伸びていない、あるいは枯れ草がまだ目立つ中で咲く花ではその背景が違うのだ。もしかしたら、春に咲く花の方が、それまでの季節感からくる印象で大きく映ることもありえるわけだ。いずれにしても花の大きさは明らかに秋のものよりは小さいことは事実で、このあたりに住む人でも、春のリンドウをイメージできる人は少ないだろう。それほどリンドウ=秋というイメージもあるし、リンドウの咲く風景の記憶にも秋に咲くリンドウがあるはずである。とはいえ、秋にリンドウの咲く風景もあまり見なくなった。おそらくおおかたの人はリンドウの姿を忘れ始めているに違いない。春のリンドウときたらさらにイメージできないはずだ。事実わたしもこの年になって気がついたくらいだ。野に興味もなかった時代から、そこが見えるようになった自分は、明らかに年老いたということなのたろう。

 撮影 2008.5.15
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荒廃する農村

2008-05-20 12:33:48 | 農村環境
 わたしの家の周囲は、元は果樹園、そして今は荒地という風景である。いや、元は果樹園というのも正しくはないかも知れない。大元は山だったと言ったほうが正しいかもしれない。そしてここで言う山とは、いわゆる遠くに高くそびえる山ではなく、平地林のことである。この言い回しも、最近は地方においても説明しないと理解されない。だからヤマと表示した方が良いのか、それとも平地林と表示した方がよいのか知らないが、わたしにとっては「山」である。

 先日隣地の荒れている土地の草が刈られたことに気がついた。隣地の境界付近には石が集積されていて機械(このあたりでは機械といっても手持ちの草刈機ではなく、常用の除草機である)では刈れないため、そのまま刈られずに残ることになる。その延長線にわたしの家があるのだが、わたしの屋敷も、こちらは裏側になるため、あまり除草に手間をかけない。ということで草が見事に生えている。隣地の草が刈られると、この境界あたりがみごとに草が生えていて目だってしまう。ということで、この機会に草取りをすることになる。わが家が先に草を取るか、隣地が先に草を刈るか、いつもどちらか、という感じなのである。荒地があちこちにあるなかには、こうした管理もされない土地は多い。まだ隣地を刈ってくれるだけ、こちらもありがたいことなのである。刈るのはその家の主が刈るのだが、忙しくて手が出せないと、その家のおばあさんが鎌で刈り倒してくれる。わが家の方は宅地であるから刈るのではなく、草を取るのである。隣地の草の影響か、こちらの草はみごとな勢いである。そんなこともあって、隣地側の残った草もわたしは手で取る。その方が次の草が伸びてくるまでに時間を要す。

 草を取るとともにその間にある小さな用悪水路もさらったりする。わが家のあたりではこうした水路の管理を共同ですることはほとんどない。果樹園地帯ということもあって水路が少ないということにももよる。だから最寄りの水路は最寄りの家が管理するということが必要なのだろうが、なかなかそんな手間をかける人はいない。果樹園地帯の農村社会で生活上のつながりの無さを現す一つの現象である。ようは水田地帯では同じようなサイクルでで農業を営むため、かつての社会組織が継続するが、比較的新しい考え、ようはそれぞれの農家が換金作物へどう転換していくかとしのぎを削るようになると、そこに「共同施設」、あるいは「共同空間」という意識が薄らいでいくわけである。わたしの印象では、おそらく水田主体地域に比較すると、果樹、あるいは野菜主体地域は明らかに共同作業が少ないと思っている。

 わたしが水路を浚った翌日、隣地を持つ家の老夫婦が、その土地の反対側を流れる、やはり用悪水路を暗くなるまで浚っていた。若い者は忙しいということもあるのだろうが、ちまたで働くのは年寄りばかりである。通勤途中にある家は、毎日おばあさんが朝も、また暗くなった夕方も畑を耕す。草一つない畑は、除草剤で草がないわけではない。だいたいがそうした人たちの年齢は、70代後半以降である。ようは昭和一桁生まれ以前の人たちなのである。畑を鍬で、あるいは草掻きで耕したり除草する風景は珍しくなるとともに、こうした働く風景は絶滅寸前といえるのだろう。いや風景だけでは、その精神も・・・。
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わたしの考える農業のこれから

2008-05-19 12:24:57 | 農村環境
 中国の地震で少しばかり気がかりになってきているのが、更なる食料の高騰である。このごろは日本の食料自給率は何度も連呼されるから、けっこう認識している人も多いのだろう。そんななか報道番組などでは、農業への企業進出を口にする人も多く、今や国民の中にもそんなイメージを持っている人が多いのかもしれない。しかし、わたしはその方法を広めるべきとは少しも思わない。農村という広大な空間維持と、そこの集落維持、いってみれば「文化だの伝統だの」簡単に口にする人たちの矛盾をここにトレースするとさらに矛盾だらけで、それぞれの視点が一人歩きしているだけに過ぎない。もちろん北海道とか○○平野などという広大な地域はともかくとして、おおかたの農村は狭い農地に暮らし、生産をあげてきた。そしてそうした空間に現在大きく立ちはだかっているのは、山林縁で起きている獣害だろう。せっかくでき上がった作物は、収穫間際に見事に獣に採られてしまう。そうした地域は生産を辞める、という方針もあるだろうが、多様な生産物を多様な文化で生産してきた日本の農業を重視するなら、そうした課題をクリアーしなければ、生産以外の多様なものを継承することはできない。

 そこでわたしの考えている農業、いや農業というよりは日本の生き方とでもいった方がよいだろうか、描いてみよう。

 どれほど自給率と騒いだところで、それを生産する人々は激減している。たとえばわたしの住んでいる空間に漂う空気は、どう考えても次世代は農業をする人は減る。減るだけならよいが、そこに比例したように、水田農業の文化はなくなる。文化財とでもいって形骸化したものを残すに過ぎなくなり、精神的なものはなくなる。世の中の定年は、一般的には60歳である。しかし、年金支給年齢が上がり、いずれは公務員などには65歳という話しにもなるのだろう。そして企業などもそうした流れに沿っていくのだろうが、現在の農業は定年した人たちにかなりの労働力を期待している。そのいっぽうでそうした定年後の人たちだけではなかなか農業を活気付かせるには危機感がない。ようはサラリーマンとしてそこそこの収入を持ちえた人たちにとって、農業はあくまでも食い扶持であって、それは主たる生業ではないのである。もし定年が延長されて、長々とサラリーマン稼業に従事する人が増えていけば、ますます農業をする人はいなくなる。今でさえ、定年後、あるいは早期退職した人たちは、次なる仕事へ就いていく。そうした考えをまず改めることが必要で、考えを改めるというだけではそれは追いつかないわけである。そこでさまざまな施策と合わせた形での大規模なシステム変更が必要となるわけである。

 まず一つ目として、年金の一元化である。サラリーマンと農業者の枠組みの大きな壁を取り外す必要がある。そのためにも年金は個人営業者に対しても同じ環境を持たせなければ、サラリーマンを仕事ができなくなるまで続ける人がなくならない。ようは、サラリーマンから農業就労への変化が容易にできる仕組みのためにも年金はひとつの土俵にする必要がある。そしてひとつになれば、二つ目の施策となる。新規就農者も、また自家で農業を土日に営んでいる者も、農業へ転向した人の年金支給年齢は、サラリーマンとは別体系とする。ようは農業へ転向しやすいシステムを作ることだ。早期に転向するほどに、そのメリットがある体系を何らかの形で示したいものである。いずれにしても、少しでも農業を継続しようとする環境を作らないと、人事のように「自給率」を連呼するだけになってしまう。

 そんなんで農業従事者が増えるのか、という意見もあるかもしれないが、画一化した体系の中では、どう考えても農業の選択肢は消えてゆく。それはわたしがそういう現実的な選択をしたいと思っているからに他ならない。
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「わたしのこと覚えていますか」

2008-05-18 08:46:29 | ひとから学ぶ
 あなろぐちっくさんの日記に「なんでも忘れるのだ」というものがあって、こんなことが書かれていた。「先日銀行の窓口の綺麗なオネエサンに「私のこと憶えてます?」と訊かれた。(中略)昨日は帝国データバンクの調査員が調査に来たのだけど、名刺交換して「初めまして」というと、「おひさしぶりです。憶えてますか?」と切り出されたのに、これまたわからず。(中略)先々月は健康診断でもお久しぶりと声をかけられて曖昧な笑いで誤魔化したし、今日は役所で何人もの職員が歩み寄って話しかけてくれたのに顔がわかるのに名前がわからない」というものである。この方、自ら会社を経営されていているのだろうが、それだけに大勢の人たちと関わることが多いだろう。地域では著名人なのかもれない。それだけに、相手の顔を忘れてしまっても仕方のないことだろう。

 そもそもそうした地域において著名な人に対して、「わたしのこと覚えていますか」などと口にするのはいかがなものだろう。もちろん頻繁に顔を合わせているような関係で忘れてしまっていては問題だろうが、例えば「話を聞くと、僕がカヌーを教えたらしい」というような具合に過去のことで、さらに間が空いているとしたら、相手にそういう言葉で切り出すのは自信過剰とまでは言わないが、後のことを考えると控えた方がよい言葉ではないだろうか。

 しかし、こういうことは誰でも頻繁に経験することかもしれない。とくに年老いてくるとそういう経験は多くなる。それを「歳をとった」といってしまうのは簡単であるが、歳をとるということはそれだけ多くの人と関わってくるのだから引きこもっているのでなければ当然関わる人の数が多くなる。加えて過去に遡る年数も長くなるのだから、忘れることは積み重ねている年齢とはそれほど関係ないだろう。それでも記憶が消えやすい人は、少しばかり記憶力の衰えを意識してもらってよいのだろう。

 ということで、わたしは記憶力の低下というよりも、もともと人の顔を覚えるのは苦手な方である。したがって、若いころから、よほどの知人でない限り、前述の「わたしのこと覚えていますか」などという言葉は使わないことにしている。でなければ、覚えていますか、と聞かれた方もとまどうし、それを口にした方はもっと落ち込むこともある。あらかじめ「わたしのことを覚えていないかもしれない」と思っていた方が、本当に覚えてもらっていない場合に落ち込まないものだ。そもそも「覚えていますか」と聞くことじたい、少しばかりそういう不安を持ちながら聞くのだろうが、わざわざ使う言葉としては、メリットのある言葉とはとても思えないわけである。しかし、わたしのような考えでいると、損なことも多い。「どうせわたしのこと覚えていないだろう」ということになるから、相手が覚えて目が合うと、必ず相手方からアプローチされることになる。これもまた、失礼な話しで、そのあたりは雰囲気で察知しなければならない。
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南牧村の選択

2008-05-17 11:24:42 | ひとから学ぶ
 南佐久郡南牧村が全国で初めて出先の出張所の窓口業務を民間委託した。その理由は○○の一つ覚えのように「経費節減」という。1から3人程度の職員でまかなってきた従来の人件費は、年間17,000千円ほどかかったという。先ごろお役所の非正規雇用について触れたが、非正規雇用だけで無責任な業務を担うよりも、責任転嫁ができる民間を利用したということになる。それでも世の中の人は誰も怒らない。民間の力を借りるということであればそこに雇用の機会が与えられる。しかし、雇用という部分だけをみれば、むしろ民間に委託するよりは自ら行った方が地元の雇用が生まれる。そして何よりも住民の安心感という面では、民間というものでは弱い。いつ顔が変わるとも解らない。加えて変わると同時に責任の所在も変わる可能性がある。長いお付き合いはとてもできそうにない。そんな視点で見れば、大合併を続けることで、身近な役所が遠い存在になっていくのもそれと変わるものではないのかもしれな。いずれにしても同じ行政というくくりの顔と、民間という誰でもオーケーという顔では明らかに違う。

 ふつうに考えてみて、17,000千円という人件費を削減できなかったのか、というのが感想である。それを責任転嫁型の聞こえだけの民間へ委託する方法は、今後増えるだろうといわれているるものの、まともな考えだとは思えない。流れではこうした行政サービスの聖域のような部分も、民間へという雰囲気があるが、それに拍手を送る国民がいたとしたら笑える。お役所だからといって、昔ながらに胡坐をかく感覚も十分に残るが、それはそれとして、無駄な経費を使うことは許されることではなく、それをなんとかしようとするのはよいが、あくまでも合理的なシステム、無駄のないシステムを構築するなかでのものであって、経費節減を前面に出した民間指向は、どこか逃げにしか見えない。世の中は、民営化という流れなら許してくれる雰囲気がある。加えて随意契約は悪という考えから、ますます役所の投げだした業務まで誰でもオーケーという感じになりつつある。世論も報道もその流れを誰も止めることはない。しかし、役人の尋常ではない乱暴な金使いが、こんな信用のおけない行政と国民の認識差を生んだ。だからこそ、行政に権利主張するわがままな国民も増えていく。収拾がつかないほど、理性を失った国に突き進んでいるようでならないし、それは役所が招いたことであることは事実である。

 国や県はともかくとして、身近な役所がこんな具合になると、自治地域の知識を持たない人たちが行政を執行するようになる。例えば「○○はどこにあるのですか」と聞くと、「さあー?」てな具合にだ。そのいっぽうでお上から下ってくるお触れには詳しい。ようは住民やその地域、組織のことは無知で、法律は詳しいという感じで、住民が望んでいる答えは返ってこなくなるのだ。もちろんその逆が良いとは言わないが、どこへいくんだろう行政は、という感じである。
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