Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

真っ暗な国道

2008-03-31 12:31:27 | 農村環境
 国道だというのに一つの明かりも見えない。午後11時ともなればそんなものなのか。田切駅から見下ろす国道は、暗がりの中にあって、外灯もないところでは真っ暗闇である。今日の電車も飲み助たちの帰りの空間とあいなる。終電に乗っていると気がつくのは、少しばかり派手な女の子たちである。必ずそんな女性の姿が1人か2人はいる。飲み屋に勤めているには帰りが早すぎることから、何をしているのか、などと詮索することもないが、普通の勤め帰りという雰囲気ではない。

 近ごろ暫定のガソリン税が本気で消えるという話しになってきて、これでマジに車だよりの人たちには安心なことだろう。一度下げてしまえばこっちのもの、という感じで、いきなり25円も税金を取るなんていったら国民は許さないだろう。先日も報道番組で、道路特定財源が必要だといいながら、その財源が有効に使われているのかどうか、などという検証をしていた。高規格道路なるものが造成され、一部供用開始されたようなところの報道で、地域住民は「こんな道いらない」などという言葉を発する。短い時間に報道の意図通りに編集すれば、皆が「いらない」と言っているようにも聞こえるが、そんなことはないだろう。しかし、現実的に開通した道路を車が走っていなければ、「こんな道はいらない」と証明しているようなものだ。造る前はそれほど「いらない」などという言葉が聞こえなくても、意外に開通後には「なんでこんな道造ったんだ」みたいなことを言ったりするものだ。できた以上は地域が必要と判断されたもののはずなのに、手はずを踏んだはずでもそんなことは珍しいことではない。極端な世の中だけに、少しでも渋滞すれば「渋滞解消」などという言葉を口にする。夜になれば車のライトすらまばらな道だというのに、再び広いバイパスを造ろうとするのだから、バカげた話しである。

 とそんなことをメモをした数日後の休日である。同じ田切駅に真昼間に到着した電車から、その国道の様子をうかがう。田切駅はかつて漫画のR人間の舞台にもなった駅だが、今はそんなカーブから移動して、駅は見晴らしのよい高盛土の上にある。だからその下を通る国道を数百メートルにわたって見晴らすことができる。この国道が見晴らせるようになって駅に電車が停まり、また国道が見えなくなるまではものの1分もあるかないかといったところであるが、その間通過した車は5台程度。ほとんど車が走らない。わたしにもその光景は意外であった。確かに休日ということもあるから少なくても仕方ないのだが、これほどとは思わなかったのだ。朝の通勤時は、この先の信号機から駅の辺りまで渋滞する姿を見るが、本当に一時だけのことなのだろう。それをもってして渋滞を解消するためにバイパスを造ろうなんていったら笑ってしまう。発想を間違えているとしか言えない。なぜ解消する方法が「道を造る」なのだろう。渋滞しないような地域連携が絶対できるはずなのに、それをせずに「道が欲しい」などという考えはバカげた話しを超えている。そして現実な話しとして、この駅から見えるところにバイパスを造るという。真っ暗な田切駅の下の道は、おそらく10年余で幹線道路の役目を終えることになる。こんな真っ暗な道路で昼間も真っ青になりそうな道路なのに・・・。
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最近の観光パンフレットから

2008-03-30 13:22:58 | ひとから学ぶ
 最近は駅員のいる駅そのものが少ないから、駅舎にフリーなパンフレットが置いてあるような駅は、飯田線にはほとんどない。先日「駅のある風景」で触れた駒ヶ根駅も、夜間に無人になることから、そのようなものは置いてはあるが数は少ない。やはり人のいない空間では、何が起こるかわからないから、そのようなものをフリーにして置くにはリスクを負うことになりかねない。であるならば無駄なリスクを負うこともないたろうから、自然と置かれなくなる。しかしである。このあたりでは駅員が常駐する伊那市駅にはいつもラックにパンフレットが並んでいる。わたしがここを通過する際にそんなパンフレットを探っている人の姿はあまり見ないものの、電車に乗ってからパンフレットを開いている姿をよく見かける。そうしたパンフレットは、地元の行政や観光協会の発行したものもあるが、JR関連のものも多く並ぶ。このごろ複数並んでいて目立っているものが高山線のものである。そしてそうしたパンフレットは、一枚ものとか数枚ものではなく、ページ数もそこそこ多い。分厚いということもあって、手にするとそこそこ高級感とまではいかないが、いかにも読んでみようという気にさせるのである。だからこそ、駅に並んでいるそうしたパンフレットを手にして、ローカル線の時間つぶしにしようという人も現れるわけである。

 県の行政機関や市町村役場などにも前述したような行政が関わった同様のものが並んでいるコーナーがある。待ち時間があったりすると、あちこちのそうした機関でパンフレットを手にするもので、気に入ったものがあるとそのままいただいてくる。積極的ではないが、軽いコレクターのひとりである。人気のパンフレットは行政でも増刷することもあるが、そうしたものはそう多くはない。先日駅に並んでいた「飯田線70周年」というパンフレット、もう何部かほしいと思っているうちにラックからは消えてしまった。前述したようにパンフレットを置いている駅そのものがなくて、とくにこのパンフレットはこのあたりではこの駅にしかなかった。さすがにわたしが欲しいと思うようなものは、ほかにも欲しいと思う人がいるようで、なくなってしまう。全線の駅の開設年月日などが記載されていて、歴史が見えてよいパンフレットてあった。そんな最近のパンフレットを広げてみよう。

 市町村ごとに作られているようなものを見ていて特に思うのは、いつ印刷されたものかという発行日どころか発行年すら分からないことである。「消えた村をもう一度」で紹介したようなものも、ほとんどはその発行日が明確ではない。いつごろ手に入れたというあたりから推定するしかできないわけで、新聞の折込チラシ程度の認識ならともかく、ストックしておくにはそのあたりの表示はして欲しいところである。そういう意味では毎年定期的に近いかたちで発行される広域圏のパンフレットは、日までとはいかなくても発行した月くらいは表示されるようになった。長野県版ということは県の観光連盟などで発行しているのだろうが、毎年刷新して発行するから最低でもそのあたりは意識しているようだ。そのいっぽう広域版においては、最後に関係市町村の観光関連の窓口が羅列されていて、それが問い合わせ先ということになるのたろうが、これがけっこう目障りである。発行日に比較するとそういう部分は詳しい。こうしたパンフレットがどのように利用されているかという意識調査はされているのだろうか。

 何十年も昔のものに比較すると、できばえは良く見える。印刷技術の向上や写真の美しさに関したらまったく世界が違う。しかし、そこに写されている対象物に関してはまったく変化のないものもある。ご存知のように目くらましであることに違いはなく、かつてのような文字面が支配するようなものは少なくなった。いや、文字が並んでいるかと思えば、連絡先や料金ばかりということで、コンセプトをもってまとめられた印刷物として捉えられるようなものは、よくみるとほとんどないといってもよい。「消えた村をもう一度」で紹介した望月町のようなものは本当に見なくなった。
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外食・中食の裏技①

2008-03-29 12:38:15 | ひとから学ぶ
 外食産業の裏技ともいえるものが、『生活と自治』(生活クラブ事業連合生活組合連合会)の3月号に掲載されている。意外な裏技を認識している人も多いのだろうが、あらためてその技から納得の世界を見てみよう。

①業務用ソース
 いわゆるソースと定義されていればその内容物として知られる野菜や果実の搾汁が入っているという印象なのだが、業務用ソースにはそれらがまったく入っていないものが使われるケースも多いという。調味料を調味料を材料として同じような味に作るわけで、野菜などが使われないだけに安いということは分かる。それが安いから使われるということもあるだろうが、その理由の根底には違う理由もあるという。家庭用のものには保存料が使われなくなったものの、業務用には使われるというように、その理由には食中毒を起さないための品質の保持化というものがあるのだろう。その背景をこんなように解いている。まず、複数の、しかも調理の専門家ではないアルバイトなどのスタッフが従事することが多く、二つ目として厨房での保管状態が常に適切であるとはかぎらないということ、そして三つ目として惣菜売り場やコンビニメニューの場合、調理されてから消費者の口に入るまでの時間が比較的長いということ、というものである。調味料を食べに外食に行くわけでもなく、弁当を買うわけでもないから、その付属であるソースにこだわることもないのだろうが、世の中が安全に突き進むとともに、こうした業界もまたまたいろいろ考えてはくると思うが、我々の食事もゲージの中に閉じ込められた鶏と変わりがないほど、画一化された「安全」に囲われていくに違いないと察する。

②フライの現実
 誰しも家庭で作られるフライが身の縮んだ貧相なものになってしまっても、それは仕方ないことと諦めるものだろうが、店頭に並んでいる惣菜、もっといえば外食においてそんな代物が出てきたら、二度と「この店には来ない」という意識になっても不思議ではないはずだ。そういえば昔に比較すると、外食産業のフライはずいぶんと痩せたものが少なくなった。それはけして素材が良くなったわけではなく、裏技というものが使われるようになったからだろう。国民生活センターの一昨年のデータでは、具と衣の比率は、スーパーで並んでいるもので76%が衣というものがあったという。五分五分ならましな方というらしい。容姿を整えるために使われるのは、バッター液というものらしいが、その裏技は「食品素材」とあるだけでその成分はよく分かっていないという。縮んだ身と衣を分離させないために使われるものといい、人間社会にも欲しい、いや必要なテクニックなのだが、さすがにそんなものはない。食品業界には、カネがかからなくて、人を騙すことのできるテクニックが繁栄していてけっこうなことである。
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終電

2008-03-28 12:35:41 | ひとから学ぶ
 送別会のシーズンである。会社の中でも最近は比較的大きな部署にいたことから、毎年のように退職者を送り出す。定年退職ならよいが、そんな退職者のすべてが中途退職である。わが社には定年退職というものが今はない。誰もが「依願退職」なのである。55歳以上の社員は会社のトップをのぞけばいない。だから年齢層は高いのに、意外と平均年齢は上がらない。わが社ばかりではないのだろう、このごろは定年(勧奨で辞めることをそう解釈した場合)というものがかなり低年齢化しているような気がする。60歳前に職を変えざるを得ない人をたくさんみる。そしてそういう人たちのその後の年収は200万とか250万とかいった具合にかなり低いものになる。同僚にも遅くに子ども授かった人がいて、子どもが二十歳になるころには60歳をとっくに越えることになる。大変なことである。それこそ子どもが複数いたら、生活はたやすくない。そんな現実を背景に、それでもなかなか路線を変えられずに会社にしがみつく。格好など悪くても、最善の策は現在をとりあえず生きるのみだからだ。どれほどレベルの低い生活が見え初めていても、とりあえず月給が入ることに安堵する。

 誰しも低落した自らの心持を、どうあがいても復活しないレベルだと気がつくと、際立って悩みは深まるものだ。しかし、それを消化しなくては先の人生は楽しくない。そういう意味でも、人は割り切りができないとダメだということになる。生活のことばかりではない、日々悩みを抱えるのも同様に、割り切らなくては自分の人生を見捨てることになる。なかなか納得いかなくても、どこかで整理しなくては低落した意識に明かりを射すことはできないのである。

 いつしか人影が皆無となる終電に毎日のように乗っていると、そんな割り切りがわたしにはできるようになる。いろいろ考えていても、みな周りからいなくなるのだ。詰まれば自らのみ。それをどうあがこうと人生の切れ端だと思わなくては、明日はやってこないような気がする。だからわたしは終電が嫌いではない。身体に応えるから毎日そんな電車に乗りたいとは思わないが、素面で乗る終電はわたしに似合っている。そこに紛れ込んでくる酔っ払いは、歌舞伎者のようなものである。素面の自分を隠すように酔いしれる顔は、きっとはったりと捉えられるほどに異なった世界を繰り広げる。そして、その終電に新たな客はやってこない。去る人ばかりなのだ。まさにわが社は終電のようなものである。

 まだまだ若い上司たちが、身を奉じて去っていく。そして数年後には、上司ばかりではなく、若い年代もそうした去り際に立つことになる。すでにわが社の終電は発車したのだ。
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駅のある風景

2008-03-27 12:31:23 | つぶやき


 駒ヶ根市内広小路を久しぶりに訪れる。もちろんいつものように髪の毛のカットのためである。日々、ほとんど会社の中に住んでいるわたしにとって、久しぶりの日中のプライベートな行動である。伊那市駅から乗って駒ヶ根駅まで約25分。やはり30分未満という時間は、中途半端な時間で、慣れないとこの時間内で何かをしようとしても中途半端になるのは分かりきっている。やはりこ時間では本を読むとか新聞を読むのが良い時間の使い方なのかもしれない。

 用事を済まし、駒ヶ根駅で次の電車を待つこととなる。すでに暗くなった広小路に、音楽が鳴り響くが、人通りはいつものごとくまばら、というよりはほとんどない。土曜日の夜ということもあって、それでも飲み屋を目指す人影が視界に入る。駅で約30分ほど待つことになるが、ふらふらといろいろ見学することになった。なぜかといえば、待合室に入ろうとしたら、電気は点いているのにドアに鍵がかかっている。この駅、切符の販売は午後6:20までである。それに合わせたように、駅員もいなくなるし、駅そのものがほかの無人駅と同等に変化する。以前にも触れたように、わたしにとっては駒ヶ根という街は、子どものころからの〝目指す街〟だった。だから昔の面影を抱いているが、すでにそんな思いははかないものとなっている。「夜間の進入お断り」というような紙が貼られている待合室。それなら電気を消せばよいのに、煌々と明かりが点いている。一応市の中心駅なのだから、イメージというものもあるのだろう。

 ところで、このごろの駅は駅舎に時計などというものはない。駒ヶ根駅くらいの大きさなら当然あるものだと思って見回すがそんなものはどこにもない。時計すらない駅。わたしは腕時計をポケットにしまい込んでいるからよいが、待合室に駆け込んできた客が「54分発の宮田行きはいつですか」とわたしに聞く。まるで駅員のごとく「今来ます」と応えるわたし。見ているとけっこう間際に駆け込んでくる乗客がいる。きっと焦っていたりすると、時計を見たくなると思うのだが、そこに時計はない。これも赤字線だからしかたないと思えばそれまでだが、客にとってはどこか不安である。そんな不安な様子がほかにもうかがえる。やってきた乗客が、券売機の前で立ち止まっている。切符を買おうとするのだが、「あれっ」という感じなのである。ふだん飯田線の駅で切符を買うことがほとんどないわたしには知らなかったことであるが、前述したように6:20には券売機が停止する。したがってそれを知らない客は、立ち止まってしまうのである。駅を見回すと、そうした説明もあれば、ワンマン電車の乗り方、あるいはボタン式でドアが開閉することなど説明されているが、焦って駆け込んできた人たちには、認識できない世界である。ふだん電車に乗らない人たちにとっては、ますます電車が遠のいてしまうことは確実である。

 さて、ようやくやってきた午後7時の電車に乗る。客は5人ほど乗ったが、まもなく降りてゆく。まるで平日の飲み会帰りの客がいない終電のごとく、電車内は空っぽである。だれもいない車内でひとときの自由時間を過ごす。

 追伸 行きつけの本屋に立ち寄ると、またまた前回より本が減っていた。いよいよ、という感じになっていて残念至極。この街はどこへ行く。
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節分と巻寿司

2008-03-26 12:29:34 | 民俗学
 節分におけるこのごろの風景を捉えた「節分の恵方巻・丸かぶり寿司」という論文を『西郊民俗』の最新号に見た。具体的な商品を扱いながら、民俗学的視点に立つと大変興味深い現象であると執筆した長沢利明氏はいう。恵方巻については昨年の節分のころに触れた。盛んにコマーシャルに「今年の恵方は○○」などいうフレーズが流れ、頭を離れなかった。この地域にまったくそんな風習もなかったのに、まるでクリスマスやバレンタインデーが大衆化したのと同様に、そんな空気がやってきていた。節分といえば豆を食べるくらいだったのに、そこに寿司というまったくわけのわからない食習がやってきた。ハレの食という捉え方をすれば、それも不思議ではないのだが、まったくの新しい前者のような行事ではないのに、行事そのものを乗っ取ったように現れた風習なのである。

 加えてその理由を聞くと楽しい。その年の恵方に向かって、無言で巻き寿司を食べることで、開運招福が約束されるというのだ。その背景に信仰心があるはずもないのに、なぜかそのうたい文句に同乗するのである。恵方という言葉の意味も、この風習が改めて教えてくれたに違いない。この単純なる行動の背景にはポイントがある。ただ寿司を食べるというものではない。一つとして「巻いてある」ということである。ここには福を巻き込むという意味があるという。二つ目にとして巻寿司を切らずにかぶりつくということで、切ってしまうと縁を切るということにつながり、ようは開運招福も途切れてしまうということになる。三つ目として無言で食べるというもので、これは例えば神送りをしたら振り返らずに帰途につくという考えに通じるものがあり、その際に人に会っても口を聞かないなどというものも意味合いは同じだろう。けして送った神に戻ってもらわないためにも、振り返ることでなごりを感じさせてはいけないのである。このようなポイントが、この風習の原点にあったかどうかは知らないが、いずれにしてもそういう付加価値でいくらでも飾ることができる「福の神」なのである。節分といえば「鬼は外 福は内」といいながら、鬼の姿はイメージできるものの、福の神のイメージはなかなかできないし統一したものが節分には存在していない。そういう意味では「福」をイメージ化するにはうまい具合に商法にはまったわけである。

 ということで、調査は2007年に東京都内西部地域で行われたもので、販売実態からみると、すべてフランチャイズ・チェーン店あるいは本店・支店関係に連なる業者・店舗群であって、個人営業店舗の例は見られなかったという。ようは、生き残りをしようと激しい競争をしている業界だからこそ、こぞってその商法に乗り遅れないような対応をしているということなのだろう。確かにそこの背景に伝承の様相はあるものの、果たして企業のはかりごとが民俗たりえるのだろうか、などと思う。

 そしてチェーン店がしかけるわけだから、全国的なものと広がる。この地方でも紛れもなく、節分の巻寿司が広がっている。大々的な展開だから、クリスマスケーキのように予約をとる。予約をとるということは「売り切れる」という印象を与えるから、欲しくなくともなぜかその動きに乗ってしまう。知り合いがコンビニに勤めていれば、「予約しませんか」と連絡が入る。その雰囲気は、まさに現代の会話だと感じる。身近であっても、わたしたちは第一の主義は、ぬけめのないわが身なのである。

 さて、長沢氏によると「セブンイレブンが最初に恵方巻寿司を売り出したのは一九八九年のことで、当初は広島県内のみでの地域限定商品であったが、同県内のフランチャイズ加盟店の店主の発案でこれを始めたところ、売れ行き好調であったため、西日本一帯に販売を拡大した」という。全国展開はその後1998年のことというから、すでに10年も経過しているのだと知る。そう考えると、わたしの地域へ広がったのは近年のような印象があるから、全国的にも遅い方ということになるのだろうか。いや、すでに展開はされていたが、テレビコマーシャルで大々的に展開するまで認識していなかっただけなのかもしれない。

 太巻きを売るだけではなく、おまけとして方位磁石を付けたり、太巻きではない丸かぶりロールケーキや節分そばなるものも始まっているという。そこへゆくとコンビニではないスーパー系のダイエや西友では、多用な食料品市場となるから、「節分」という日にちなんで多用な商品を売るという、従来の形に近いなかで、太巻きを展開しているといった方がよいのだろう。いずれにしても、この風習は、業界関係者の展開してきた企画が上手に波に乗ったものといえ、人々の伝承の中に育まれたものという印象は低い。長沢氏によれば、やはり関西にあった風習ということになろうが、それを裏付けるような民俗調査での報告は少ないようだ。「恵方を向いて食べれば福を呼ぶ」という考えは、節分に限らず、たとえば初物を食べる際にも同様のことを言うわけで、「節分」と「寿司」というキーワードが必ずしも一般的に重なった形が伝承されいたかは、少し疑問でもある。業界の展開してきた食文化ともいえるものが、今後どんな展開をし、また新たなものを登場させていくのか、これほどの事例はそうめったにお目にかかれない事例に違いない。
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伊那高校駅伝

2008-03-25 12:14:28 | ひとから学ぶ




 伊那市内のメイン通りを往復して行われるようになった春の高校伊那駅伝、参加校130校あまりで3/23に行われた。男子の場合は、昨年の全国高校駅伝の上位から6校のうちの優勝をした東北高校以外の5校が出場した。駅伝シーズンはひとまず終わりとい最後を締めくくるかたちで、かつ新年度の顔ぶれで行われるわけだから、次の全国高校駅伝への目安ともなる。

 相変わらず休日も仕事というなか、通過する時間に気持ちばかりの応援に出かけた。すでに最終区間ということもあって、勝負は明らかについていた。1位の佐久長聖が通過すること3分10秒ほどで2位の世羅高校がやってくる。次いでそこから約40秒後に西脇工業高校と続く。もともとここまでの3校が有力校といわれていて、その通りの上位の顔ぶれということになったわけである。最終区は、小黒川の橋を渡ると、山本の信号機まで上り尽くめである。伊那市の陸上競技場がゴールとなるわけであるが、ゴール時点では佐久長聖と2位にあがった西脇工業高校との差はさらに開いて4分20秒ほどになった。大会記録を2分も縮める大会新記録を記録したように、全国大会以降の佐久長聖の強さは際立っている。だからといってこの年末の全国高校駅伝も安泰とはいえないだろう。だからこそ駅伝ということになる。5Kの持ちタイムの平均ではせいぜい10秒程度の差だというのだから、それほど大きな差になるとは限らない。もちろんその日の調子でいくらでも変わってくるものだろう。

 さしあたって、佐久長聖の目標は昨年あと少しのところで逃した全国優勝となるだろうが、昨年のタイム2時間3分55秒というタイムの大幅更新だろう。昨年のメンバーが5人残るという今年の布陣は、勝って当然といわれるほどのものである。したがって全国高校駅伝での目標は、2時間1分代の大会記録更新ということになるのかもしれない。あくまでもベストメンバーで挑めた場合でかつ更なる強化が図れた場合だろうが・・・。強い3年生の布陣となるのだろうが、さらに次の年に向けて、層を厚くしてくれるのだろう。そして何度もいうように、その中に地元から行った仲間たちが入ってくることに期待している。
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湧き水もいろいろ

2008-03-24 17:28:20 | 農村環境


 南箕輪村の水田地帯に、日々新しい家々が建ち進んでいる。広大な西天竜用水で潤っていた地域も、農業よりは都市化の方が良いに決まっている。以前犬の糞の話をしたが、その際に掲載した写真の建物の脇をまた仕事で歩いた。農業用水路の脇に、マンションの擁壁が立ち、その高さは4メートル以上あるだろうか。そのまた上に高層の住宅が立つ。大きな地震でもきたらひっくり返りそうなほどのノッポさである。その脇の水路の端に、緑色の水が、擁壁の根元から湧き出ている。湧水ではない。どうみても下水の色である。4メートルも低い位置の基礎部から湧出しているその水は、いったいなんなのだろう、と頭をかしげる。擁壁上は駐車場になっている。建物に地下があるのかどうなのか知らないが、この高さの位置に下水のような水が湧出することじだいが不思議でならない。そして、その水が湧出している擁壁の脇は、長靴で踏むとフワフワとしている。飽和状態なのである。そんな姿を見ると、ますます地震なんかあったらどうなんだろう、などと考えてしまう。そのすぐ脇には、水田に水を掛ける水口がある。もともと西天竜の水は諏訪湖の水だからそれほどまっさらにきれいな水ではないが、そうはいってもこんな水が水路に入りこんでいるのだから適わない。

 住宅地ができるのはよいが、水田の耕作者には迷惑なことも多いだろう。この地域、水田の大きさが小さいから、水路の数がいたって多い。網の目のように水路が走る。そんな水路を管理してる人たちは、耕作者である。このごろは耕作する人も集約してきて少なくなっている。そんな人手で、水路の管理もままならないという。にもかかわらず、隣接地ではこんな緑色の妙な水を水路に入れる。下水道整備時代だというのに、なんとも不可思議な症状である。現在では非農家が水路の整備にかかわることはそうないというが、果たしてそんな現実を見ても、農業の将来は難問だらけである。国は、こうした水路の維持管理に、一般住民を関わらせろという。それも良いだろう。しかし、そんなことでまた農家は頭を悩ますわけである。無関係な人たち、それも一般人にはいろいろな人たちがいる。そういう人たちと関係を持っていくということたけで悩ましい上に、どう理解してもらえばよいというのだろう。限界集落も悩み、山間地域の獣の害も悩み、だからといって新住民ばかりの耕作地も悩みだらけである。

 この緑色の水が流れ込んでいる水路、実はずいぶん古い水路に違いない。西天竜の用水路が開削されたのは、大正11年という。それ以前にも湧水や沢水を使って水田を作っていたところあるが、このマンションの脇にそうした水田を耕作するための湧水を求めた横井戸の跡がある。真新しい石碑が建っていて、「上河原横井」という用水路があったという。石碑には「宮の上の畑を開田して、食糧米の確保をすべく、水を求めて大正4、5年に此の地に横井戸を掘った」とある。「御井神」という碑を見ながら、まったく違う光景が今から90年前にあったことを知る。
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墓に入っても仲間だ

2008-03-23 14:59:43 | ひとから学ぶ
 中日新聞をたまにのぞいてみたら、またまたお墓のことが書かれている。どうもこの新聞、お墓に深入りしている。わたしも深入りしている方だからちょうどよいが、なかなかそんな記事がいろいろ考えさせてくれる。「結いの心 市場原理と街」という連載なのだろう、ちょうどお彼岸の中日の記事である。それによると、「都費で社会福祉法人が取り仕切る火葬は、棺がごみごみとした倉庫のような場所に置かれ読経献花もなかった」という。独り身の者が多くなるに従い、遺骨を供養してくれる身内もいないということは珍しくはない。こうした仏を無縁仏というのが正しいのかどうか知らないが、わたしの認識も無縁仏というと、供養する身寄りのいない仏だと子どものころは思っていた。しかし、実際聞き取りをしてみると、無縁仏とは不慮の事故で亡くなったような仏様で、いわゆる一人前でない仏様のと捉えられていることが多い。そして、そうした無縁様は、一人前で亡くなった仏様と異なり、供養の仕方が違ったりすることも、聞き取りをするようになって知ったことである。

 今や3人に1人が1人暮らし、などという見出しをどこかで見た。どういう枠組みでの比率なのかは確認しなかったが、そんな時代が少しも不思議ではないこのごろである。にも関わらず記事でも触れられているが、

「妹に、おれは無縁仏になるからって話してある。誰にも迷惑かけたくねえんだ」。(自分達の)墓を持つ計画を持ち出したとき、そう答える人もいた。だが、仲間が真意を代弁する。「みんな『共同墓地』でいい」『誰も来てくれなくていい』って言うけど、本音はそうじゃないって」、「お墓の中に入ってからも、みんなとあれこれ話せたら、うれしいな」

と無縁様でありたくない本音を語るという。

 必ずしも身寄りがないわけではない。身寄りがあってもさまざまな事情で遺骨が引き取られないということも当たり前のようにある。墓の現実、そして墓の考え方の変化、加えてそれをだれが供養するか、などなど墓の周辺は暗い事実ばかりだ。記事では、死後を予測した上での安心感を求めての真意だと捉えているが、それほど死後の自分に安心感が必要なのかどうなのか。身よりもないと認識している人たちの死後とはどんなふうに写っているのだろうか、などといろいろ考えがめぐる。非婚率が上がり、人口が減少する中、死者はしばらくは増え続ける墓に関わる問題はきっと緊急なものだと思うのだが、例えば葬儀社は、あるいは寺院は、どう考えているものなのだろうか。
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分県もありうる

2008-03-22 20:20:15 | つぶやき
 東は早川町、西は大鹿村でリニアの地質調査が始まった。もちろん両者を結ぶラインをリニアで結ぼうという意図が見える。議論になっている長野県内での不協和音。そろそろ飯田市長は歓迎の意を発表しそうなところに来ていて、県内の統一見解は崩れていくのだろう。何度も触れてきているように、飯田というところは、もともと北を向こうとはしない。どうしてかといえば、それほど北の人たちに相手にされてこなかったということもあるし、県庁がとても遠いという現実がある。加えてこのごろは三遠南信という枠組みでいろいろ試みている。どう考えてもき北向きではないし、、南へのアプローチを欠かさない。

 伊那市の小坂市長は「どうぞご勝手に」と今回の地質調査の件には、勝手にとは言うものの不信感を露にする。わたしも懸念していたことではあるが、「世界遺産登録を目指す南アルプスのどてっぱらに穴を開けていいのか」という疑問を投げている。おそらく今後も登録を目指した動きはあるのだろうから、そこに賛同している飯田市がどう応えるのか楽しみでもある。本気なら、そのくらいのことを考えて「歓迎」をするのだろう。まあこれも何度も書いていることであるが、早川町と大鹿村を結ぶラインでリニアを結ぶと、飯田市のど真ん中を通過する。本気にそんなものがやってきてよいのかそして、そんなところに駅ができたとして、停まる余地があるのか疑問は多大である。

 ところでもっと気になるのは、あの静かだった釜沢が地質調査で賑やかになっていることだ。大河原でも最も奥の集落である釜沢は、わたしにとっても印象深い土地である。釜沢にはよそから移り住んだ人達もいた。そして外人さんも住んでいた。中世南北朝時代からの歴史ある地であるが、一躍こんなことで賑やかになっている。それもまた気になることである。

 さて、県内で理解していた諏訪ルートに対して、直線ルートが現実的な話になって、すぐに顔をほころばせた飯田地域。飯田らしいといえばそれまでだが、こんな動きを見ていてつくづく思うのは、もし道州制が現実味を帯びてきて、この県がどっち付かずの議論になったとき、今の流れでいけば、伊那谷の真ん中で県が分離する可能性もあるということである。このことは、あらためて考えておかないといけないのだろうが、それこそその分離される接点に住んでいる人たちは、自分たちにとってどうするべきか、そろそろ考え出さないといけないのではないだろうか。どう考えても飯田市というところは南を見ている。そこと同一生活圏として生きてきたそこより北に住んでいる人たちもそれでいのだろうかということである。同僚がこんなことを言った。「伊那市の市長はいまだにそんなことを言っている」と。彼は松本の人である。しかし、現実味を帯びてきている直線ルートは、ごく自然なものという捉え方をしているようだ。ここて問題なのは、伊那市長の言葉はともかくとして、それ以上にこの地域が一つではないという現実であり、しいては、そこで暮らしている人たちにとっては、さまざまな要因が過去から積もっていて、なかなか一つになれない背景があるということなのである。
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自家用車の選択肢

2008-03-21 12:22:15 | つぶやき
 以前にマニュアル車が少なくなった話しをした。オートマ車の燃費性能もあがり、それほどオートマ車が燃費が悪いという印象はなくなったのだろうが、それはマニュアル車と比較しようがないということもあるに違いない。同じ車種で両者がなければ比較は不可能である。それでも両者を備えている車種のカタログ値をみるかぎり、いまだマニュアル車の方が当然燃費はよい。にもかかわらず、そんなことへの税制上の恩恵もなければ、そうした車種を選択するユーザーがいないから、メーカーもそんな特殊な車を選択肢に置くはずもない。ユーザーにとっては意外に意識しない部分で車は大きく変化してきた。

 「町の自動車屋さん」でも触れたように、整備工場との付き合いは激減した。故障経験がなくなれば、自動車のこともほとんど解らなくなる。もちろん昔ならオイル交換を自分でやった人も多いだろうが、今や廃油の処理ができないこともあるし、簡単に交換できないほどガードされていて、一般人でそれをする人は少ないだろう。わたしもオイルを自分で交換したのは、もう20年ほど前が最後である。オイルはもちろんフィルターを交換するのも自分だし、エアフィルターとかプラグとかいろいろ交換をしたものである。今ではボンネットを自宅で開けることもほとんどない。せいぜいワイパーを使おうとしてウォッシャー液か出ないときくらいで(自分でしようとしたら、とてもできる範疇ではなかった)ある。9年乗った今の車も、昨年スモールランプか切れて交換したくらいで、バルブが切れるなんていうこともほとんどない。整備の際に知らず知らず交換しているのかどうかも認識していない。今のようにめったに乗らなくなればそれこそ気にならないわけだが、昨年まで長野暮らしをしていた際でも、ほとんどそんなトラブルもなく3年を過ごした。みごとなまでに品質が向上したといえるだろう。

 しかしである。マニュアル車の選択肢も少なくなったが、このごろは5ナンバーの車も少なくなった。かつてなら2000CCを境に税金が大きく異なったため、3ナンバー車はごく限られていたのに、その税金体系が変わってからというもの、自動車は大きくなり続けた。道路事情も良くなって、自動車が大きくなってもそれほど気にしなくてもよくなったということもあるたろうが、それにしてもよくもというくらいに3ナンバーが多くなった。現在のマイカーは、5ナンバーである。ところが同じ車種の現在は、すべて3ナンバーである。わたしにとっては横幅が広いという車は似合わない。なにより狭い道を好むということもある。加えて気に入らないのが重量である。今の車を購入する際、同じ車種の半数は1.5トン以上だった。1.5トン以下のものとなると、マニュアル車くらいしかなかったのである。もちろんマニュアル車を望んでいたから、わたしには幸いのことであったのだが、メーカーオプションをつけたりすると、1.5トンを越えたりしたのである。この重量は、購入する際はもちろん、車検をとる際にも重量税として毎回影響してくる。現在重量税は、乗用自動車(乗車定員10人以下)2年て車両重量0.5tごとに12,600円が課税される。したがって、1.5トンを上回ると、12,600円上がるわけである。これがけっこう世の中の乗用車をみると、この1.5トンあたりでうろうろしている車が多い。いっそずいぶん越えていればともかく、微妙な場所にいれば、1.5トンより軽いに越したことはないのだ。ということで、現在の車を購入する際にも、その境目あたりにあったことから1.5トンを視野に入れて購入したわけである。ところが現在の同じ車種に、1.5トン以下はない。3ナンバーしかないというところにもかかわっているのだろうが、性能は上がったものの、重量は重くなっているのである。それはマニュアル車で比較しても同じである。 そんな変化を目にしていると、次に同じ車を選択しようという気が少しばかり遠のいてしまう。同じメーカーの少し小ぶりの車を調べても1.5トンを上回っており、何がそんなに重くさせているのだろうということになる。

 どれほどのユーザーかそんなことを意識しているかは知らないが、性能があがり、運転しやすくなったはものの、車との付き合いは遠のくばかりである。
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日々と自らを思う

2008-03-20 18:19:09 | つぶやき
 毎日が短いというか長い。こう毎日のように終電をめがけて乗っているのに、間もなくその終電ですら帰るのが早すぎるというような情況になってくる。自宅でも可能な仕事でも、そうはいかないこともある。そんな季節がやってくるのだ。どうあがいても、我々の仕事の所在が見えない。それを「甘い」と言ってしまえばそれまでなのだろうが、多くはお役所の下支えのような仕事で、つまるところそんな仕事をしていながら収入はない。にもかかわらず、今年も55歳で定年してゆく。頭数が減るのだから、収入のない下支えを減らしてくれればよいのだが、そうはいかない。

 人間はいくらでも働けるものなのだろう。よく過労死ということを言うが、よほどのことがなければ身体を壊すことなどない。節制していれば、そこそこは持つものである。むしろ精神的な部分の方が身体には応えるだろう。はけ口のない日々が連なり、心は晴れないものだ。加えて家庭内に問題があったりすれば、心も重い。よくも同僚たちが日々過ごしていると思えば、まだ幼い子どもたちがいれば、そんなことも言っていられないだろうし、子どもたちの顔でも見れば、それは晴れるのかもしれない。一時的な人生であるならば、それもよいだう、などと飛ばすこともできるが、日常的な苦痛は、どうしてもその路線から外れたいという気持ちへ誘う。いかにその気持ちを晴らすか、などと思うが、毎日は繰り返される。身体を壊さない以上、毎日が普通にやってくるのである。

 さて、そんな日々を過ごしていると、こんな短い日記を綴ることもままならなくなる。かろうじて電車を利用しているから日記を書いているが、そうでもなければ日夜仕事が頭から離れない。こんなオープンな日記でなければ、仕事にかかわる悪口や役所に対する悪口を五万と書くのだろうが、どこかで差し控えている自分がある。そう考えてみると、もし懐に納めている日記なら何を書いていただろう。半分は人の悪口なのか、それともその日に起きた出来事なのだろうか。いずれにしても今までそんな懐に納めるような日記を書いてこなかった。自分の人生に悔いはないものの、果たして良い生き方をしてきたのかと問われると、なんともいえない。心中は蜘蛛の巣の張ったように荒れ果てた廃屋の中である。1ヶ月20日程度と言う役所の勤務日数で割ると、年間にしたらどうだろう、6ヶ月分くらいよけいに働いているが、この下支えのために、わたしは一銭も報酬をもらっていない。そんなことはちまたでは当たり前だといわれるかもしれないが、いけないのは、役所の下支えだということである。役所がそんな仕事は自分でするといえば、わたしたちは廃業となる。それでも仕方ないと思っているのに、いつまでたっても、そう言わない。だから廃業すればよい会社なのに、なかなかそれができないのである。不安な心持でありながら、我々は誰のために働いているのだろうと常に心の中で葛藤を続けるのだ。そんな曖昧な心持で手を抜いたりすると、すぐにしっぺがいしがくる。自業自得といわれれば、それもその通りである。しかし、それが毎日の現実である。それがためのこのところの終電暮らしであり、その先に見えてきた、終電以降への足掛かりなのである。
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町の自動車屋さん

2008-03-19 12:42:44 | ひとから学ぶ
 先ごろ車検に出して懇意にしている営業さんと話しをする機会があった。わたしにとって現在乗っている車は、6台(代)目である。今の若い人達なら初めから新車に乗るのだろうが、わたしの時代にはそんな若者はそうはいなかった。「最初は中古車」という合言葉のようなものまであった。当時なら中古車で100万円は高級車。買えるのはせいぜい4、50万といったところだった。ということは中古といっても5年落ちくらいのもので、当時としては故障が出始めるころになる。わたしなどは昭和48年車だったからそれ以上経過していた車である。今も地元にある中古車を中心にした販売会社で購入したものだが、すでに下回りには錆が出ていて、後にそこに穴が開いたものである。海岸端で利用されていた車なのかどうかは解らないが、当時ちまたに走っている車をみると、けっこう錆びの浮き出た車は多かった。そして当然のようにマニュアル車のわけだが、今のようなスムースなギアのチェンジはできず、そのたびに車に衝撃が走ることもしばしばだった。ようは今の車のように誰でも運転上手のように感じる車は少なかったといえる。それだけ個々の運転の仕方で違いが出るわけで、運転の上手下手ということが言葉で聞こえる時代だった。

 今のように5年以上経過した車でも故障をあまりしない時代ではなく、そのくらいになると頻繁に故障することも当たり前だっただけに、いわゆる町の自動車屋さんというのは身近になるわけである。当時豪雪地飯山に5年暮らし、車との生活の始まりをそこで暮らした。まだまだ駆け出しのドライバーは、「故障」と日々付き合いながらの5年であった。当然のようにそこに町の自動車屋さんとの付き合いが始まる。そしてその自動車屋さんは住んでいたアパートへの帰り道にあって、特別な用事がなくとも立ち寄っては世間話をしていたものである。故障はもちろんのこと、消耗品の交換といえば、部品を購入しその交換の仕方を教わったり、また故障の詳細を聞いたりと、ずいぶんと当時の車はシンプルで、今とは違いわたしにも理解できる世界であったわけである。そんな付き合いがあっただけに、車をきっかけにした付き合いは深いものになっていた。

 そして飯山を離れるとともに、そんな町の自動車屋さんとの付き合いはいまだにない。しばらくの後、新車を購入してそうした故障とはとりあえず無縁な時代に入った。それでもかつてのそんな付き合いが欲しくて、新車を購入したディーラーさんにはたびたび足を運んだものである。会話をするからお互いのことも知る。ところが、やはり町の自動車屋さんとは違う。それは営業さんと整備屋さんを兼ね備えていた町の自動車屋さんに対して、ディーラーの営業さんは、整備屋さんではないのだ。したがって故障に対する技術的なことは解らない。もちろんその理由や経緯、そしてどういうことをするとそういう現象が起きるということも、営業さんにはあまり知識はない。もちろん故障しないからそんなことを聞くこともないのだが、どこかそんな関係は、かつての町の自動車屋さんとは違うわけである。

 さて、車検での営業さんとの会話で、整備工場の窓口には行きづらいということを話した。縦割りされた空間では、営業という顔と、整備だけを担当する顔にはどうしても違いが出てくる。もちろん営業さんの顔が冷たければ、その営業さんは実績を上げられないだろうから、そんな顔をすることはない。いっぽう整備屋さんにとっては、指示された通りの仕事をこなしていくのだから、あまり顔を気にすることもない。そんな分けられた空間、ようは落差のある空間がわたしには馴染めない。それは今のディーラーさんだけではなく、これまで経験したいくつかのディーラーさんに共通する。もちろん、もっと安くやってくれるチェーン店など今はあるが、あくまでもわたしには町の自動車屋さんとのかかわりが欲しいのである。そんな付き合いをかつてしてきたことを、営業さんと話しをしたわけである。現在では、そういう苦情もあって、整備フロントでは気を使っているということだが、どうしてもわたしはかつての付き合いと比較せざるをえない。

 ちなみにかつて世話になった飯山の自動車屋さんを検索してみたら、現在も営業されているようだ。わたしよりは10歳以上は年上だったから、だいぶ年をとられたこととは思う。
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河川の姿

2008-03-18 12:23:01 | 自然から学ぶ
 「河川レビュー」2008WINTERという雑誌を知人からいただいた。始めて聞く名前の雑誌ではあるが、季刊で140号を数えるというのだから、35年もの間発行されているということになる。その名前から、いわゆる行政機関が絡んでいる団体などの発行するものという印象を受けるが、「河川」というからには国土交通省絡みという印象を覚える。そんな雰囲気がぷんぷんするにもかかわらず、お役所の名前はどこにもない。しかし、一冊1900円という価格からしても、絶対お役所絡みとは思わずにはいられない。でなければ、そんな本が長期間発行されるということはないはずだ。

 と、そんなことを思いながらもその詳細を調べてはいない。知人がそこに執筆者として加わっていることもあって、いただいたしだいである。そんな雰囲気はともかくとして、内容は大変興味深い。特集「河川風土記」は北陸を扱っている。河川の姿は誰しも思い浮かべることができるだろうが、そこを流れる水量を意識する人は、一般人にはまずいない。土木関係者や釣りをする人くらいではないだろうか。もちろん、農業用水は河川から取水していることが多いから、昔のように水争いの絶えなかった時代には、農民にとっても河川の水量というのは気になったのかもしれない。もっといえば水道というものが普及する以前には、暮らしの中で水に対する意識は明らかに違いがあったはずで、河川の姿を気に掛ける人は多かったはずである。ところが、水がなくては生きていけないにもかかわらず、人々は暮らしから水を遠のけてきたような気がする。そんななかで、河川との親しみなどといって、川の水量を維持しようという流れがあるが、果たして誰のために維持しようとするのか、わたしにも解らない。かつて河川の水を農民が奪ったかのごとく言う人もいるが、どうだろうか。そして農民がいなくなり、農業も衰退するなかで、いよいよ農民の水がお上に取り上げられようとしている。それを「返上」というか「取り上げ」と言うかは判断が分かれるだろうが・・・。

 さて、そんな水量のことを「北陸地方の風土と河川」において玉井信行氏が触れている。北陸の河川は、雪解けの季節に水量が最も多くなるという。手取川・信濃川の小千谷での水量は全く同じ傾向で、4・5・7月の順に流量が多いという。雪解け時の流量の方が、雨季や台風期の流量より多いというのだから、一般的ではないスタイルである。日本の河川の多くは、降雨時、いわゆる梅雨や台風のやってくる季節に流量が多くなるという印象がある。わたしも天竜川水系に暮らしていて、冬は渇水期で、雪解けの季節に水量が多くなることは解るが、一年を通してその季節に最も水が多くなるという印象はまったくない。ところが流域に豪雪地帯を持っていると、春先の流量が最も多くなるわけである。

 玉井氏は減水区間のことについても触れている。手取川の河口から19kmにある中島水位観測所と、同じく14.3kmにある鶴来水位観測所の流量に触れ、上流の中島水位観測所に対して、下流の鶴来水位観測所での年総流出量が三分の二になるという。これは、河口から16.7km地点にある白山合口堰堤より農業用水と発電用水が取水されているためである。近接していてもこれほど環境は変わる。この減水について、地域の人たちは、江戸時代より慣れてきたという。こうした事例とは違い変化の大きい事例もあるのだろう。いかにそれは生態系に影響があるか、などという発想に当然なる。玉井氏はこんな大きなことも言う。「河川流況を監視・評価してゆけば流域の人間活動の変化を知ることができる」と。確かにそうかもしれないが、現代にはあまり当てはまらないかもしれない。
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上下伊那の違い

2008-03-17 12:17:13 | ひとから学ぶ
 本当に暖かい休日だった。「ところ変われば」でも述べたように、南へ向かえば、梅の花の香りが漂う。そしてわが家のあたりでも付近を歩いてみると、土の香りがしてくる。土手を焼く光景も見えて、枯れ草の焼かれた臭いもやってくる。野に人々の姿が見えるようになると、気持ちも和らぐものだ。

 土曜日は南へ、日曜日は北へ電車を利用した。わたしもこんなに毎日のように電車を利用するようになるとは、一年前には少しも思っていなかった。通勤は「車で」が当たり前だと思っていたから、その通りに車で伊那市まで通勤を始める。ところが渋滞があって、約1時間という車中は、いらいらの繰り返しであった。もともとがせっかちな方だから、渋滞は好まない。どうしても裏道裏道と右左折を繰り返す。まあ昔からのことで、どうということでもないのだが、たまたま飲み会の際に乗った電車。乗っている時間はちょうど1時間。車と変わらない。駅がそう遠いわけではないのだから、「電車でも充分」という印象を持った。加えて電車であれば運転しているわけではないから、車内で本を読むこともできるし、仕事もしようと思えばできる。それほど長い時間なのである。そしていよいよ電車を利用することになったわけであるが、おそらく伊那市ではなく飯田市へ通っていたら考えもつかなかった策である。それはどういうことかといえば、飯田市への通勤はそれほど混まないということなのだ。もちろん、距離も伊那市に比較すれば近いが、何より渋滞しないということは、安易に車を利用することになる原点なんだと自分の行動から察知したわけである。

 さて、土曜日の飯田への電車。3両編成ということもあるのだろうが、車内は短距離客はほとんどいない。なんとなくであるが、やはりという感じに長距離客である。したがって停まる駅での昇降客は極めて少ない。ローカル線いいてころで、これでよく「廃止」という言葉が出ないと思うくらいに客は少ない。飯田より南はもっと少ないのではないか、などと思うが、もしかしたら逆で、北側の方が高校生を除いた一般利用者は少ないのではないだろうか、などと思わせる。ふだん北へ向かっていると意識しなかったことなのだが、たまたまなのかもしれないが、この日の利用者の顔を見て、南行きの電車の現実を知ったような気がした。いっぽう北行きはどうだろう。天竜川の支流のためにU字状に蛇行する伊那福岡あたりまではともかく、その北ともなると、利用者は多い。もちろん沿線の人口に比例するのは当たり前のことだろうが、それを差し引いても、上下伊那郡境から南の人影が少ない。高校生そのものも飯田下伊那では利用者数が少ないのではないだろうか。それは何を物語っているかといえば、安易な車に頼る高校生が多いということである。もちろん自分で運転するはずもないが、「交通不便=親頼み」という図式が背景にあるような気がしてならない。そんな中で育つ子どもたちが、また車に頼った社会に出て行くわけである。この地域の悪循環は、そんなところにある。自分もそうだったわけだから言う資格はないかもしれないが、まだそれに気がついたことだけでも感謝である。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****