Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

林立する防霜ファン

2007-04-30 14:22:58 | 農村環境


 おとといの夜、霜予報が有線で報じられていた。そして翌朝、みごとに霜が降りた。ことしの4月期、霜の降りそうな朝が多かった。今までならそんなことに気がつかなかったが、犬の散歩をするようになって、朝方の様子を毎日のように感じながら、今までここに暮らし始めてあまり意識していなかった世界を見ることになった。

 わが家のすぐ隣は果樹園である。いや、わが家のある場所も、十数年前までは果樹園だった。それだけではない。隣接するどの土地も果樹園であった。しかし、南も西も、そして北も東も、今ではどの土地も空き地となっている。先日も梨の花が盛んに咲いているなか、今年の花つけの準備が始まるのかと思っていたら、いきなりチェーンソーの音が1日中鳴り響いていた。何を切っているのだろうと思いきや、花の咲いた梨の木を伐採しているのである。この時期に伐採するほどだから、よほどの理由があるのか、切る時期を逸していてこの時期になってしまったのか、定かではないが、花つけ寸前の伐採のというのも痛々しいものである。果樹農家ではないわたしにはその心持はわからないが、こうして周辺の果樹はどんどん消えてゆく。

 そんな切られた果樹園にもたくさんの防霜ファンが立ち並んでいる。数年前まではそんな防霜ファンが、この季節時おり夜中に鳴り響くことがあった。すぐ近くで回る防霜ファンは、けっこうな騒音である。霜が降りる兆しを、そんな防霜ファンの音で感じ取っていた。しかし、その防霜ファンも、今年は一度も回ることはなかった。当たり前といえば当たり前で、果樹が切られてしまえば、回す必要もない。木々は切られても、防霜ファンだけは林立している。切られたあとの果樹園がどう利用されるかによって、いずれまた利用される時がくるやもしれない。だから撤去費もかかりそうなそうした施設が取り除かれることはない。

 犬の散歩に行きながら気がついたのは、わが家から聞こえる場所で防霜ファンが回ることはなかったが、そうではない場所では毎日のように防霜ファンが回っていた。それほど防霜ファンが有効に回る年は多くはないだろう。わたしの記憶では、ここに住むようになって防霜ファンが毎日のように回り、「うるさいなー」と感じたことはなかった。もちろん果樹がまだ切られる前のことではあるが。さすがに果樹園が多いだけに、見通しのよい場所に出ると、防霜ファンがたくさん立っていることがわかる。林立したたくさんの防霜ファンが、わけもなくたたずんでいる場所が多くなった。果樹の町として売り、また知られてもいるが、いつそんな看板が降りるとも限らないの現状が、この姿から読み取れる。
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全国学力テストから

2007-04-29 09:38:36 | ひとから学ぶ
 世の中どこでどんな商売が儲けているともかぎらない。先日行なわれた全国学力テストには、77億ものお金がかかったという。どういうところにどれだけの金がかかって77億なのだか知らないが、金額だけを聞くと「そこまでしてやるの」という印象もわく。しかし、受けた生徒の数233万人で割ってみれば、1人当たり3300円ということで、驚く金額ではない。一般に行なわれている資格試験などの費用や、漢字検定や英語検定などの試験費とくらべて高いというものではない。ところが、事務的な部分を国が行なっているのだから、そして試験会場も必要ないし、試験当日の人件費も必要ないのだから、簡単に言えば問題作成の手間と、配送費、そして試験後の回収費程度だと思うのだが、そう考えると少し1人当たりにかかるお金が高いのかもしれない。千円安ければ23億円下がるという巨大な市場だ。試験というからには、問題用紙を何社で印刷したか知らないが、印刷屋さんは儲かるだろう。話によると発想と採点、集計などはベネッセコーポレーションとNTTデータが行なうという。同じ規格で採点集計するには、そうしたひとつの民間会社に負わなくてはならないのかもしれないが、なぜそうしなくてはならないのか、というところは、疑問は湧く。そんな下世話な話題にしてはならないが、統計上同じ問題でなければ「何」が解らないのか、と問えば、つまるところ学力レベルを推し量る術のなにものでもない。通常行なわれていた試験が1回減って、その分が全国共通試験に変わる、程度に思えばよいのだが、世間はなかなかそう簡単ではない。

 いっそすべての試験問題を全国一斉でやればよいのにと思ったりするが、なかなかそうもいかない。今回だって試験当日、修学旅行中で試験日を遅らせた、という学校が上伊那郡内をみただけでもいくつもあったようだ。さすがに全国共通ということで、翌日の新聞に試験問題と回答例が示されていたが、後日遅らせて試験を実施する学校では、新聞に掲載されているという事実に対してどう対策したのだろう。調べてはないが、この時代だから、インターネット上にも問題が公開されたかもしれないし、されなくてもその関連ページはたくさんあったかもしれない。あくまでもこの試験がどうということがないのならそんなに意識することはないが、学力のレベルで推薦枠が変わるなんていう話が現実化してきたら、試験に対して関係者はシビアになるだろう。

 学力テストの狙いを文部科学省は「現状を把握すること」(初等中等教育局)といっているが、関係者はそうはいかない。そうした試験があると聞けば、そこから発展的に儲けようという人たちがたくさんいる。毎年行なわれるというが、それがわかればその対策に応じた試験問題集やら、統計書、あるいは分析書まで登場してきて、教育関係業界は楽しさいっぱいだろう。巷にささやかれている教員免許更新制度も、そこにたむろする教育関係の稼ぎ屋が控えているだろう。教育関係業界は、国がそこに力点をおけばおくほどに盛況となる。なり手のいなくなる学校の先生、なんて思ったりしていると、そこをついて儲けようとする人たちがたくさん登場する。子どもたちのためにがんばってきた先生たちや、学校関係者に余計な負担というか戸惑いを与えることは必死で、ただでさえ時間に余裕がない空間からさらに時が奪われる。子どもたちの学力が上がることは良いことだろうが、その背景で「教育」という印籠をかざしてボロ儲けしようとしている人たちがいるとしたらちょっとかんべんならないことでもある。教育の画一化は良い方向とは思えないのだが。
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分離式信号機の危険から

2007-04-28 09:57:09 | ひとから学ぶ
 「気をつけたい分離式信号」という投稿を目にした。どういう信号機かと言えば、交差する道路ののどらかが青になっているのではなく、両者とも赤になって歩行者だけが青になる時間がある信号機である。歩行者と自動車が分離されているから分離式というらしい。わが家の比較的近くにもそんな分離式の信号機がある。信号機が設置された当初は普通の信号機だったのだが、保育園がその交差点に隣接してでき、そんな環境から分離式が導入された。交通量が多いと言うのもそんな信号機が導入されるきっかけになったのだが、導入されて間もなくは、それまでよりも危険だとという話がよく聞かれた。なぜ危険かといえば、普通の信号機ならどちらかの車線が青になるから、交差する側の信号が赤になれば、本線側が青になると思い込んで発進してしまうから危険なわけだ。とくにそれまで普通の信号機の動きを経験していた運転手にとっては、よけいにそんな行為を自然にとってしまったはずだ。

 投稿では、「いかに運転者は、自分の前方の信号を確認するのではなく、左右の車が止まれば前方の信号が青になると思い込んでいるかが分かる」と述べ、注意しなければならないと戒めている。確かにそのとおりで、本来なら自分の進路を示している信号機の変化を確認して進むのが当たり前だ。しかしながら、おおかたの信号機は分離式ではなく、加えて歩行者用の信号機が併設されているものが多いから、そうした歩行者用信号機の点灯具合をみて発進の準備をするものだ。それに慣れていれば、当然反対側の信号が赤になれば、いよいよこちらが青になると予想するのは当たり前のことで、それをあまり批判することもできない。いっそすべてが分離式なら慣れるだろうが、数が少ないのだから致し方ない。こうした分離式信号は、通学路に多い。そんな信号機の場合、歩行者用の信号機が「青が点滅して赤になる」という動作をしないため、車道が青なら常に赤いから、通常の信号機に慣れていると、「間もなく赤になる」と思い込んで、はるか彼方から減速してしまう、なんていうこともある。

 通常の信号機の場合は、歩行者用信号機が自動車用の信号機でいうところの黄色の信号機の役割も果たしている。ようは歩行者用の信号機が点滅を始めれば、まもなく黄色になり、そして赤になると想定できる。だから、歩行者用の信号機が点滅を始めれば、交差点と自分の車の位置を測りながら赤になると捉えれば、自ずと早いうちから減速していくものだ。もちろん中にはそれを想定して、加速する車もいる。いずれにしても、歩行者用信号機は、運転者にとっても目安とされてきたから、分離式が導入されると危険因子も現れてくるのだ。歩行者用の信号機がない信号機で、いきなり黄色になると、すぐさまブレーキをかけて止まるというわけにはいかない。黄色になっている時間なんていうのはわずかである。そのわずかな時間で止まるか進むかという判断をするわけだから、けっこう一瞬の判断となる。そこへゆけば、歩行者用信号機は都合がよい。

 分離式の信号機かどうかは、常にその道を走っている人たちやそこを歩行している人たちだけがわかることだ。だから、無知な者がそこを通ったりすると、危険度はさらに上がる。やはり、通過する車両がその交差点の信号機が分離式であると判断することは難しい。そう考えれば、誰でも分離式かどうかを判断できる方法を導入する必要があるだろう。そしてそんな信号機での事故回避のためにも、黄色の時間を長くするとか、黄色になる前に青を点滅させるような配慮が必要ではないだろうか。わざわざ交通量の多い交差点に隣接した場所に、保育園を設置した方もした方で、建設場所の選択間違いともいえる。
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玄関の柱

2007-04-27 08:17:56 | ひとから学ぶ
 玄関の柱なんていうものは、家の中の柱とは違う。もちろん材質も違うが、なにより太さが違う。玄関だからその家の顔みたいなものだ。だからこそ、家の中の柱とは違う、なんていうことは言うまでもないことだが、わが家のように玄関を通常の出入り口に家人が利用していないと、機能上から考えればどうでも良い世界だ。和風の住宅で、金のかかっている空間といえば台所や風呂といった水周りにあたる。ところが、居室で金がかかっているとなると、座敷という空間になるだろう。そんな無駄な空間はいらないと思えばなくしてしまう人も多いだろうし、和風にこだわらなくなった家が今や主流なんだろう。そんな使わない空間に金をかける無駄な象徴みたいだった座敷であるが、わが家では同様に玄関も同じような空間になってしまっている。車社会だから、家からの出入りは駐車場のある場所が優先される。家の裏に駐車場があれば、当然裏口から家へ入るようになる。だから玄関が使われなくなる。ふだんの出入りも玄関からした方が良い、なんていうことをよく聞いたことはあるが、そうはいっても裏からわざわざ玄関に回って出入りをするなんて機能的じゃない。

 お客さんが「こんにちは」とやってくるだけに使われる玄関である。農村地帯ではあるが農家ではないから、ふだんの暮らしでお客さんがやってくることはない。加えてこの時代、人とのかかわりが薄くなってしまったし、家族も少ないからますますよそとのかかわりはなくなる。家そのものにとって玄関とはなんだろう、なんてくだらないことすら考えたくなるものだ。通常の暮らしの中でやってくるお客さんといえば、隣組や地域の人たちくらいだ。週に一人来るかこないかである。そう考えればこの時代、押し売りやら怪しい宗教の勧誘にやってくる人が来るから、いっそ玄関がなくて、「この家入口どこなんだ」と思わせるくらいのほうが、人が来なくて良いかもしれない。

 さて、通勤途中に歩いていると、伊那市内の玄関先で盛んに立派な柱に向かって何かをはたいている。よく見ると、掃除後のモップの先を手にして、玄関の柱にはたきつけて埃を落としているのである。はたくのを止めたので、そろそろ終わるのかと思うと、持ち直して何度も埃を落としている。通勤途中の人通りがそこそこある玄関先ではたいているからけっこう目立つのだが、わざわざ立派な柱に向かってやらなくても良いのに、なんて思ったりする。しかし、冷静に考えてみれば、わが家みたいに玄関先が形ばかりの空間になってしまっている家にとっては、ちょっとしたヒントになった。どうでもよい立派な柱だが、こんな利用のされ方があれば役に立つなーなんて気がついたわけだ。ただし、それを教えてくれたこの家の様子を見る限り、わが家とは違って玄関が通常の出入り口のようだ。ところで、わが家ではモップを使っていないので、この家のようなわけにはいかない。さて何に使おうか…。
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流されてきた神様の話

2007-04-26 08:18:08 | 歴史から学ぶ


 伊那市美すずの下県の大正坂の途中に、濡千様という神様が祭られている。そこに由来を記した石碑が建てられている。

 「その昔御神体が三峰川上流から流されてきて水に浸かっていたものを拾い上げ丁重に干し上げて下県と川手の堺の上川手字矢塚にお祠りしたものと伝えられている。祭神は諏訪明神の神霊をお祭りしている。古くは湖水の神であったと信じられ洪水除にもお祭りされた。後に二地区に分祠され下県は現在の地に川手は諏訪社へ合祠した。」

 下県区で建立した碑である。大正坂は三峰川の氾濫原から段丘を登る坂である。美すずは大きくこの三峰川沿いの旧氾濫原と、段丘上の六道原に空間は二分される。しかし、実際はその両者に挟まれた形で段丘の中段地帯があって、下段が氾濫原であったということから考えても、古い家々はこの中段に展開しているのだろう。今でこそ三峰川沿いの旧氾濫原にたくさんの家が立ち並んでいるが、この碑文にもあるように、洪水によって悩まされた地であったはずだ。濡千様のように、上流から流されてきたという神様がいくつかある。かつて7月7日に行なわれたというサンヨリコヨリという川手天伯社で行なわれる災厄を払う行事も、そんな流されてきた神様に由来する。応永年間の大洪水の際に、上流の藤沢村(旧高遠町藤沢)の片倉天伯が流され、川手裏の河原で止まったという。それで対岸の桜井の片倉天伯社と川手の天伯社にそれぞれ祀られたものといわれ、祭りでは両者の間を神輿が渡御する。いかに三峰川流域が荒れる川であったかを想像させる。

 そんな三峰川も、三峰川開発によって上流に高遠ダムや美和ダムが造られ、今では川幅のほどには水の流れない川になってしまった。夏場の通常時は、川を歩いて渡れる程度しか水が流れないことも珍しくない。水が有効に利用されているから川に水がない、ということなのかもしれないが、そんな姿に寂しさを覚える人も多いだろう。ダムが上流にあって多目的に水が利用されているような川は、おおむね下流で枯渇していることが多い。

 さて、大正坂から登りきった場所に石碑がたくさん並んでいる。「道祖神」と刻まれた文字碑の横には、自然石の奇石が八つほど並んでいて、珍しい。その石碑群の中に、半ば地中に埋まったような馬頭観音が立っていた。「寛政二年」と銘文が見える。ちょうど1800年に建立されたものである。
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美味しい弁当になった

2007-04-25 08:19:20 | つぶやき
 単身赴任時代は、自ら弁当を作っていた。だからだいたい同じようなおかずが毎日のメニューとなる。それでも、それまで自宅から通勤していた時代に比較すれば、自分にとって美味しいようにおかずを選ぶから、それなりに満足できる内容だった。とはいえ、それらおかずも、自宅で調達できるものが大半だから、それまでとそれほど変わるわけがないのだが、なぜ雰囲気が違うのか、なんていうことを思いながら、自分なりに弁当を詰めたわけだ。何が違うかと思い出すと、その違いは具体的にはわからないのだが、幾種類かのおかずがごちゃ混ぜに混在していないところぐらいであった。性格上異種のおかずがくっついていることが好きではなかった。だから自ら弁当を作るようになると、おかずが各々別の空間にあるように分けたのだ。小さな紙でできたおかず入れを多様するから、ゴミは出るものの、隣のおかずの味が染みてしまう、などということはなくなった。こと、食べるものに関しては神経質であったということなのだろうか。

 昔の人たちは、一つの皿に幾種類ものおかずを取るのはなんとも思わなかっただろう。ところが、最近の人たちはそういう行為があま好きではない。外食が増えるとともに、料理はあくまでもそれぞれ別の器、という意識が当たり前になってきた。昔ならいくつもの器を使えば洗う手間が増えるし、無駄が多い。だから昔風な妻は、わたしが皿をいくつも出して使おうとするとクレームをつける。もちろん、女たちにとってみれば洗う器が多くなる。それなら自分で洗うから、というと「水がもったいない」と納得はしない。わが家にはそんな悩みを解消する皿がある。大きめだが、一つの皿に隔壁のように山があるものだ。だから一つの皿で何枚かの皿の役目をもつ。まるで学校の給食用の皿のようなものだ。

 自宅に帰ってからというもの、かつての弁当と今の弁当は違った。なぜ違ったのか、どう違うのか、それもまた具体的には解らない。ただ言えることは、今は妻が作る弁当は一つではないことだ。息子の弁当とともに作られる。だから、中身が違うのだろう。と、そんな話を妻にすると、こんな話をする。知人が「だんなが息子の給食をなくして欲しい」と言うらしい。なぜなくして欲しいかというと、時折息子の弁当を作る日はだんなさんの弁当が豪華だというのだ。そう言われれば、わが家も同じことなんだと気がつく。当初は自宅に帰っても自分で弁当を作ろうか、なんていう話をしていたが、今ではそんな気はさらさらない。赴任先で自分で詰めていた弁当よりも美味しいからだ。息子のおかげである。
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コブシ咲く

2007-04-24 12:45:32 | 民俗学


 コブシはモクレン科モクレン属の落葉広葉樹の高木である。モクレン科というほどだから遠目は確かに似ているのだが、実際花の姿はだいぶ違う。まだ芽吹きもこれからという時期は山に色気がないから、こうしたコブシの花は目立つのだ。別名「田打ち桜」なんて言われるとうから、農作業の目安にされたりする。コプシという名の起こりは、つぼみ、あるいは果実の形が、幼児の挙(こぶし)に似ているところからという。

 こんな話をネットで探した。「壇ノ浦の決戦に敗れた平家の落武者が逃れ逃れて、熊本の山奥まで来たとき、ある朝目を覚ますと、あたり一帯、全山に源氏の軍勢の印である白旗がはためいていました。落人たちはこれを見て、もはやこれまでと全員が自決してしまいました。しかし、実はこの白旗と見えたのは、コブシの花だったのでした。」というものである。

 さて、先週木曽谷を南下した際に上松町で中央アルプスの牙岩を撮影したが(「木曽の谷から見る駒ケ岳」参照)、滑川の川端からこのコブシの花が見えた。写真がそれであるが、長野県内あちこちでこのコブシの花は見ることができる。そんなコブシの花を農事暦として利用している事例を拾ってみた。

『上伊那郡誌』民俗篇
 ○コブシの花が咲かない時は凶作。
 ○コブシの花が下向きになると凶作。

『長野県史』民俗編南信地方
 ○コブシの開花を農事の目安とする。(高遠町東高遠)
 ○コブシの花が咲くころいもまきをする。(飯田市上久堅越久保)
 ○コブシが咲くころが田仕事(田植え)を始めるのに最適といった。(S10-根羽村小川)
 ○コブシが咲くと田打ちを始める。(阿南町和合)
 ○コブシの花が下向きに咲いたときは遅霜があるから注意しろという。(諏訪市豊田上野)
 ○コブシの花がよくつけばその年は豊作という。(天龍村坂部)
 ○コブシの花が多いと豊作という。(茅野市金沢大池)
 ○コブシの花が上を向いて咲くと豊作、下を向いて咲くと凶作という。(富士見町葛窪)

『長野県史』民俗編中信地方
 ○コブシの花が咲いたら豆を植える。(小谷村千沢)
 ○コブシの花が咲き出したら田にかかれ、という。産土神様に大きなコブシの木があった。(松本市今井下新田)
 ○コブシの花が咲いたら苗代をつくる。(南木曽町三留野)
 ○コブシの花が上向きのときは陽気が良くて多収、下向きのときは陽気が悪く減収である。(松川村板取)
 ○コブシの花が下を向いて咲くと雨が多く、横を向いて咲くと風が多い。(S初-穂高町新屋)
 ○コブシの花が上を向いて咲くと晩霜がなく、下を向いて咲くと晩霜がある。(S25-塩尻市洗馬)
 ○コブシの花が多いときは作物がとれるといった。(王滝村下条)

『長野県史』民俗編北信地方
 ○コブシの花が咲くと麻まきの時期である。(戸隠村上野)
 ○コブシの花が咲くと豆まきをしてもいい。(戸隠村追通)
 ○コブシやクリの花が多く咲き、雨量の多い年は豊作である。(大岡村芦ノ尻)
 ○コブシの花が咲いたら豊作である。(長野市大田原)

『長野県史』民俗編東信地方
 ○コブシの花が咲けばじゃがいもをまけという。(真田町真田)
 ○コブシの花が咲いたら田植えだという。(長門町宮ノ上)
 ○コブシが咲いたらもみ浸せという。(望月町茂田井)
 ○コブシの花が咲けば豊年の前兆だという。(御代田町豊昇、小諸市与良)
 ○コブシの花がよく咲く年は苗田のできがよい、咲きの悪い年は苗田が悪い。(佐久市横根)
 ○コブシの花が上を向いて咲いたら豊作、下を向いて咲くと凶作だという。(北相木村京の岩)


 以上であるが、同じように農事暦として利用されている花がほかにもたくさんある。ところで、今年はコブシ、下を向いて咲いてるような気がするけれど、果たしてどうなることか。
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団塊世代とは

2007-04-23 08:19:13 | ひとから学ぶ
 1965年から75年生まれの母親を「史上最低、最悪の親」と言ったのは、農民作家の山下惣一氏である。生活クラブ長野が松本市で行なった講演会で語った言葉である。この枠にわたしは入らないが、年代からいけば妻がその世代でもちっとも不思議ではない。わたしの世代は、数年生年が違うだけで意識がだいぶ異なる。加えて地域格差ということを最近盛んに言うが、むしろわたしの育った時代の方が、経済成長時代で地域によって環境は大きく異なっていた。だから地域格差はその当時の方が大きかっただろう。ただ、地域格差を縮めようとしていた時代と、地域格差が広がろうとしている時代では、明らかに後者の方が深刻だろう。山下氏は、「自分のの得意な仕事に就き、稼ぎ、プロのサービスを買うのが豊かなことと育てられたのか皆さんの世代。金にならない農業や家事は経験しなかった。だから勉強はできても生活力がない。生きるための知恵を子どもに伝えられない」という(『生活と自治』4)。金さえあれば自分は何もしなくてもよい、いわゆる自分のことは自分でする、というそれまでの流れを転換した世代ということになるのだろう。山下氏のいう生年世代がそれに正しく合致するかはともかく、わたしの印象では1975年以降の世代がそうでないとはとても思えないわけで、その後もその傾向は続いていると思うわけだ。

 この山下氏の言う世代が、いわゆる団塊世代の子どもたちの走りになるのだろう。団塊世代をターゲットにした〝10年後の「人口減少社会」〟(『文芸春秋』5)は、わたしの想定していることとほぼ同じような将来を描いている。いや、10年後の想定というよりは、すでにその現実は日々進んでいるといえるだろう。まず結婚と少子化、そして孤独死への流れである。詳しく説明するまでもなく婚姻願望はあっても婚期は遅くなり、遅くなれば少子化は進む。そしてよりリスクの高い出産、またそうした悩みへ誘う。疲れきっているそうした課題を持っている世代は、ますます踏み出せない世界が広がる。データとしてその数字を見せなければ結実しないこの世の中だから、あえて記事はデータとしてそれを証明するが、真新しい将来像ではない。

 先ごろ「他界した母の言葉にみる時代」という日記を書いたが、そこに展開された子どもや孫たちへの「ありがとう」は、これからの世代の感覚だとわたしは思ったが、少し疑問も湧く。〝10年後の「人口減少社会」〟では、「あてにならない団塊ジジババ」と言う。団塊世代が孫を抱く時代に入り、大量団塊祖父母が出現するが、果たして子育てのバックアップを期待されてもそれに応えられるだろうか、と疑問を投げかけている。団塊世代は自分の生活を大事にする世代だという。たまに孫との時間を持つにしても、子育てに積極的な世代ではないという。わたしにとって団塊世代は少し世代的に離れているため、つき合いの少なかった世代とも言える。会社に入って仕事を教えてもらったのは、とっくに退職してしまった世代である。自ら仕事を実践するようになると、それほど上司の助言がなくても仕事は回った。だからあらためて思い起こすと、わたしは団塊世代といわれる世代とはつき合いが少なく、会社の中でも親しい人はほとんどいない。だからその世代の考えていることが、いまひとつ解らないのである。子どもや孫のことをアルバムに整理し、楽しむ世代ではないのかもしれない、とそんなことを思うわけだ。加えて、日ごろ団塊世代をターゲットにした商売や帰農、あるいは田舎で暮らそう、みたいな企画が溢れているが、果たしてこの団塊世代の退職は、社会にどんな現象を与えるか不安さえ覚える。

 記事の最後で、「本気で少子化を止めたいと考えるなら、むしろ団塊を含めた高齢者の年金や医療保険をカットして、その分を子育て支援の財源に回してもよい、ぐらいに構えてしかるべきだろう」と述べている。同感である。団塊の世代は大量にいるから、こんな発言は瞬く間に消されてしまうだろうが、団塊世代はどちらかというともっとも恵まれた世代だと思う。今までの流れから、次世代のことを考える世代でもないのかもしれないが、孫たちの時代に安定した社会を継続させてやるには、そうした策はあって当然だと、現状からは思うのだ。ただし、そんななかでもリストラなどにより団塊世代にも格差が生じている。いかにまともに定年を迎え年金受給資格のある人たちがそう思えるかであると思うがどうだろう。
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他界した母の言葉にみる時代

2007-04-22 10:19:39 | ひとから学ぶ
 世の中いろいろである。こんなテーマの記事欄があるものなんだ、そう思った。中日新聞の火曜日の特集欄なのだろうか。「人生これから」というページに「ラストワード」というものがあった。記事は4/10朝刊のものである。平井さんという80歳で亡くなられた方の娘さんが投稿したものであるが、母の言葉を紹介している。遺品整理をしていたら娘3人の結婚式や孫の写真を母自身の手で整理され、何冊ものアルバムに仕分けられていたという。ダンボールに納められ、その一番上に天国への旅支度をしていたかのごとく、真っ白な和紙に「楽しませてくれてありがとう」という言葉が書いてあったという。

 わたしがこの投稿記事に目がいったのは、まず①「アルバムを整理しながら、本当に母は楽しんだのだろう」と共感したこと、そして②顔写真付きのこの記事に「うーん、企画はなんとなく解るが写真まで載せるの」とちょっとした違和感を覚えたことだ。

 男もそんな干渉に浸ることはあるかもしれないが、とくに女親ともなれば、口にはしなくても子どもたちの歴史を蓄積することは楽しみでもあるはずだ。そして写真がごく普通に庶民のものとなったのは、そう昔のことではない。わたしにしても自分の子どものころの儀礼ごとの写真があるかといえば、ほとんどない。せいぜい小学校入学の際に、自宅で親戚の方に撮ってもらった写真くらいが残っているだけである。もちろん学校で撮影された入学式とか卒業式、あるいは遠足とかキャンプという写真はあるが、親が撮影した写真はない。当たり前である。親はカメラを持ったことはないのだ。おそらく、わたしの世代の親あたりから、カメラというものがしだいに普及し始めていったと思う。ことわっておくが、それは「田舎」という環境(ほとんどの親の職業が「農業」であった時代のこと)であって、サラリーマン化していた地域では該当しないだろう。今では当たり前のように写真が残り、その写真は、子どもたちの成長を振り返るには充分なほどに歴史を語っている。わたしが親になったころには、「第一子の時はたくさん写真を撮ったが、第二子以降はしだいに写真を撮らなくなった」という言葉をよく聞いたが、カメラがデジタル化した現在、そんな言葉も消えそうなくらいに簡単に写真は撮れ、残せるようになっている。アルバムなど保存の仕方は様々なのだろうが、これからの時代、写真というものがどう家族の歴史を綴っていくか注目である。

 さてそれはともかく、この記事を投稿された方は、40代後半ということで、わたしとそう変わりない世代である。アルバムを整理する楽しみを、わたしの母は持ち合わせていない。前述したようにカメラを持っていなかったから写真を撮る楽しみを知らないし、わたしたち息子が小さいころの写真を自ら保存することはなかったはずだ。投稿された方が名古屋市ということから考えれば、わたしの環境とは異なる。だから、この「楽しませてくれてありがとう」というメッセージを残して他界する親は、数少ないと思う。共感したと思ういっぽうで、考えてみれば「わたしの母にはわからない感覚なのだろう」と気づく。加えて、投稿された方は姉妹だった。息子の場合は、孫の写真をきちんと母親に渡すほど気は回らない。娘たちだからこそ、母に写真をことあるたびに渡すのだ。嫁に行った娘たちが実家へ帰ることが容易にできる時代を反映しているわけだ。
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ナマコブームの背景

2007-04-21 09:42:28 | ひとから学ぶ
 「生活と自治」4月号の「現場の真相」という記事でナマコのことが触れられている。「現場の真相」なんていうタイトルを見ると、どこかのテレビでやっていそうなタイトルだ。さすがに生活クラブ連合の記事だから、ウソではないと思うが、この記事に日本らしい現象を見て納得してしまうとともに、いつまでたってもこの国は救えない国だ、と思ってしまうわけだ。

 記事によると4、5年前には浜値で1キロ300円だったナマコが、今では2500円を越えるという。未曾有のナマコブームの背景は、もともと中国に輸出されてきた日本の特産品であるが、中国での富裕層増加に伴い、ナマコの消費が増加している①ためだという。もちろんそんなことだから、暴力団の密漁が始まり②、そうした密漁に必ず漁師が関わっているといい、ナマコで生計を立てようとしている漁師たちも疑心暗鬼となる③。そしてナマコは育つまでに5年以上かかることから、小さいものは海に戻すという配慮があったのに、乱獲状態で減少してきている④という。減少の対策として北海道漁業組合連合会は、ナマコの品薄をカバーすべく近縁種のフジコで代替輸出を企てた⑤というが、味は似ているものの身が薄く堅いという意見が輸出先から届いているようだ。さらには、絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際会議でこのナマコが検討されているというから、漁師たちはますます笑ってはいられない。

 ここに動きについて①から⑤のナンバーを振ったが、こうした流れはナマコに限ったことではなく、ほかのものにも現れている現象だろう。とくに「富裕層の増加とともに消費増加」というケースは、かつては国内の動きだったかもしれないが、最近は中国の動向に左右されるわけだから、さらに怪しくなってくる。海外がらみには密漁がからんでくるし、加えて稼ぎになるからといって見境のない商戦となってゆく。動植物には限度というものがあるから、人間の食事量に合わせて捕る量を合わせていたら絶滅する種だって出てくるだろう。以前にも書いたが、マグロを中国人が食べ始めたら日本人の食べる分なんてなくなってしまうだろう。マグロを食べるのが日本の食文化というのなら、いずれは文化の格差が生じてくるわけだ。食を文化なんて言っているうちはまだ平和で、先々を見渡す限り、「食の文化」という言い回しは世の中の流れに迎合していないのではないか、なんて思えてくる。

 さらに問題なのは、銭になるからといって道漁連がナマコの代用品を持ち出したことだ。ブランド化しようとすることを優先するからそうした行動に出る。もちろんそうでもしない限り、地域ブランドを売り出せない、という悩みはあるかもしれないが、このごろの地方は、何でもいいから銭になることを画策しすぎている。地方が活発になろうとする限り、①から⑤という同じようなパターンは、全国あちこちで起きるはずだ。
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馬籠宿を訪れて思うこと

2007-04-20 17:23:45 | 歴史から学ぶ


 「木曽の谷から見る駒ケ岳」で触れたように先週末に木曽谷を北から南へ縦走した。目的地は馬籠宿である。現在の南木曽町にある妻籠と、旧山口村にある馬籠はどちらも中山道の宿場町で、両者の間には峠がある。長野県側からこの両者を訪れるには、当然この峠道を通って連絡するが、今回は馬籠を目指していたこともあって、国道19号を南下し、旧山口村の役場がある側から馬籠へ入った。あまり今まで意識したことはなかったし、長野県民でもこの山口村を通る人は少ないだろうから、位置的なイメージはほとんどの長野県民はわかっていないだろう。あらためて馬籠へ向うことを意識したことから、その立地がわかったしだいで、県下くまなく走っているわたしにも認識不足の地であった。国道19号を南下すると、役場のある集落に至るよりも早く、旧坂下町の街並みが、木曽川の対岸に見えてくる。対岸に見えている地域は、もともと長野県ではなく、岐阜県だったわけで、山口村そのものが、どちらかというと南へ向いて展開しているムラである印象を持った。役場のある集落から尾根を越えて馬籠に入ったわけだが、この地に足を踏み入れたのは初めてであった。恵那山がそびえ、その麓に展開する中津川の集落が日差しに映えている。まさに「ここは木曽谷といえるのだろうか」と錯覚を覚える。

 さて、妻籠へ向って峠に向う傾斜した地に、約600m余りの「坂に開けた宿場」が整備されている。着いたのが、すでに午後5時過ぎということで、整備された石畳の道を歩く人も少なかった。土産屋はもちろん食べ物屋さんも閉じている店が多く、そんな店を少しのぞこうと思っていた妻には残念だったようだ。そこへゆくと、宿場を見ようと思って選択した息子やわたしにとっては、人通りがなくてなかなかの風情であった。写真でもおわかりのように、約600メートルの坂を登り、峠への車道から引き返してくるころには、すでに人影はなかった。まったく人影のない馬籠宿を撮るのも、なかなかできるものではないと思い撮影した。

 かなり整備された宿場であるが、石畳もまわりに建つ家々も古いものではなく、ごく新しいものである。そこに中仙道があったということは確かなようであるが、古き時代の姿はどこにもない。にもかかわらず統一した整備をする、そして知名度があるという事実は、大観光地と成り得ることを知る。明治25年(1882)に木曽川沿いに国道が開設され、さらに明治45年(1912)に国鉄中央線が全線開通したことにより、それまでの中仙道沿いは全く人通りが絶えてしまったという。とくに馬籠や妻籠のようにそれらの路線から奥まったところにある地域は、かなり寂れてしまったのだろう。戦後脚光を浴び始めると、地域外よりの資本が入って乱開発が進み、昭和45年ころから俗化が進んだようだ。その後保存行動が活発化して現在のような整備が行なわれてきたわけだ。明治28年(1895)と大正4年(1915)に大火があって、古い町並はすべてを消失したというから、古き時代はそこにはない。わたしに言わせると、古き時代を現代の観光趣向に合わせて見事に復興させた家並みという印象だ。実はまったくの現代の整備地域とは知らなかった。かつてこの坂道が石畳だったのかどうなのか、資料館などを散策してみればわかるのだろうが、多くの観光客はそんな風には捉えないだろう。
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六道堤の桜

2007-04-19 08:22:11 | 歴史から学ぶ




 仕事で伊那市六道の堤を訪れた。散り始めた桜ではあるが堤のまわりにある何本もの桜の木は、まだまだ賑やかな様相である。昼時を迎えて、堤の土手で弁当を広げたわけだが、その間もけっこう見物の人がやってくる。見れば地元のナンバーではなく、長野や県外のナンバーが多い。「奈良」なんていうナンバーを見て、「なんでここの桜を知っているのだろう」と不思議に思うくらいだ。すぐそこが高遠だというのに、県外の車がやってくるのだから驚きである。このあたりではそこそこ大きなため池で、その周囲をぐるっと桜の木が取り巻いているから、遠くからも目立つことは確かだ。加えて、高遠の桜並みに花はピンクがかっている。今年の高遠の桜を知っているものが見ると、高遠の桜より赤いのではないか、と思うほどだ。

 わたしも冒頭の写真で捉えているが、池の端の桜の場合は、桜の木が水面に逆さに映るからそんな写真を狙っている人も多い。昼時にやってきた人たちのほとんどは、本格的なアマチュアカメラマンていう感じだ。そんな人たちだからどんな環境の桜なのかは、十分承知で来ているのだろう。この日は風が強かったから水面に波ができてしまって、なかなか水面に写る桜はうまく撮れなかった。また、もう1枚の写真は、堤の土手から水田地帯を望んだものだ。このため池のある場所は、六道原と呼ばれていて、かつては原野であった場所である。水の便が悪かったため、水田にはなかなかなりえなかった地といえる。そのため、下段の水田地帯を耕作する人たちにとっては「草刈場」として利用されたのだ。このため池ができるとともに、水田が増加していったという。

 ため池へ導水している六道井は、旧高遠町の野笹で藤沢川の水を揚げていた。この六道井の造営が始まったのは、江戸時代の嘉永元年(1846)という。高遠藩の直営事業として行なわれた。六道原のことを古くは安陀師野(あだしの)と呼んだと言う。同じような呼び名では、京都のあだし野がよく知られているが、六道とあだし野ということで、京都のあだし野と同じように、火葬場があったのだろうか。前に「六道地蔵尊」で触れたように、この六道堤から西へ行ったところに六道の地蔵堂がある。新盆に霊迎え(精霊迎え)の人たちが集うことで知られる。
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自生ハナノキの個体数

2007-04-18 08:20:59 | 自然から学ぶ


 昨年「紅葉の芽吹き」で紹介したハナノキ。今年は花の進みが早いからとはいっても、まだこのハナノキの紅葉は始まっていない。カエデ科カエデ属のハナノキは、日本の固有種で、長野県・愛知県・岐阜県・滋賀県にのみ自生しているという。ところが植栽されたハナノキがあることから、意外にも知らないうちに目にしていることもある。愛知県の県木に指定されていて、環境省のレッドブックでは絶滅危惧II類に指定されている。

 植物の90パーセント以上が同じ個体に雌雄両性といわれるが、このハナノキは、雄木と雌木に分かれる「雌雄異株」で繁殖する。種子をつくるためには近くに雌木と雄木がなくてはならない。加えて湿地でなければだめだということで、生育環境は厳しい。開花して種子を付けることができる雌木は、全国で約50本しかなく、そのうちの20本が下伊那地方にあるという。


 「ハナノキ湿地」というはなのき友の会が発光したパンフレットには、興味深い記述がある。同じようなことを以前の「紅葉の芽吹き」でも触れたのだが、「1990年からの10年間に、長野県の代表的なハナノキ湿地にゴルフ場、大規模な埋め立て、道路、堆肥センター建設などの開発計画がもちあがりました。もし保護活動をおこさなかったら、そのほとんどを失っていたことでしょう」という。開発の地として持ち上がる理由は、現代においてハナノキの生育できる環境は有益ではない空間だったということになるのだろう。凹地というのは埋めれば利用価値は上がる。だから日本の国土のあちこちで、そんな行為が長い間繰り返されてきたわけだ。それに伴って湿地はなくなるし、そこに生育した植物は消えていったわけだ。「広いところはなんとか残せたものの、その中には焼却所、産廃など、ゴミ処理場が6ヶ所もあります」とも記述されている。どう考えても「廃棄物の空間=人目につかない、あるいは不要な空間、苦情の出ない空間」という捉え方になってしまうわけだ。だからこれまで、多くのそうした空間は異論なく消されてきたわけだ。

 さて、このパンフレットは、息子が先日あるサークルで行なわれたハナノキの見学会でもらってきたものだ。ハナノキを見に行くというから「写真を撮ってきて」と頼んだが、どうもへたくそだから上手に写っていない。息子いわく「そんな撮る余裕がなかった」と言うが、単純にへたくそなだけだと思うのだが…。そんなボケたようなはっきりしない写真が冒頭のものだ。自生のハナノキの個体数は、飯田市山本に209、阿智村に81、阿南町新野に3、木曽郡大桑村に10、同南木曽町柿其渓谷に3、旧山口村馬籠自然植物園に13、大町市居谷里湿原に48、合計長野県には367個体(2002.7.13現在、胸高で周囲15cm以上のもの)だという。
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虫倉山の懐で思ったこと

2007-04-17 08:22:25 | 農村環境


 つい先ごろまでたびたび訪れていた虫倉山のある風景が、今や遠いものとなった。長野からそう遠くない中条という地で何を学んだのか、そう思うすきもなく、次の暮らしに追われる毎日だ。なかなか歴史を振り返るなどという悠長なことを言っている暇はない。が、本当はそんな思いを持って、新たなる暮らしに生かしてゆかなくてはならないのだろうと思う。

 中ほどにそびえる山こそ、虫倉山である。夕方の薄暗くなった逆光に浮かんだこの山は、この地域の人たちの象徴的な山として存在してきた。頂のある場所は中条村の内である。しかし、この山を望める地域は、中条村以外にも広範にある。そういうこともあってか、信仰の山としてこの地域に存在してきた山でもある。手前の尾根から念仏寺沢の谷へ落ちる傾斜地に点在する集落は、日下野の桜出である。虫倉山を望む周辺地域には、こうした条件下に家々が点在することが多い。そして岩盤上にある表土が「抜ける」ことが多く、地すべりという現象を起す。長野近郊でありながらとてつもなく田舎である。おそらく何年か後に、この地は長野市になっているのだろうが、果たして人々は継続的に暮らし続けることができるのだろうか。そんな厳しい条件下だからだろうか、この山を中心とした地域には大姥伝説が分布する。鬼女紅葉伝説で活性化しようとした旧鬼無里村は、名前からして雰囲気を持っていた。内容は若干異なるものの、似たような伝説を各地に残している。そして、木食行者の存在である。虫倉山が念仏聖たちの聖地であったともいう。

 写真でもわかるように集落から虫倉山は直接見ることはできない。しかしながら、尾根へ登るとそこには山の姿がある。同じような家々が点在しているこの地域にとって、象徴的にそびえる山とはいかほどのものだったのだろう。もっといえば虫倉山とは別に、北アルプスの一年中残雪を残す山がその向こうに見えていたはずだ。それらの山とこの山がどう位置付けられていたのか。あるいはどう人々に映っていたのか、ついぞそんな問いを村の人たちに一度も問う機会がなかった。

 長野近郊でありながら田舎を体感する村々が、ここに限らず多い。長野県内のどこよりも「田舎」を印象付けられたのは、ここには県外ナンバーの車がやってこないことだ。平日の姿しか見ていないから、休日がどうなのかはわからないが、例えばかつて観光地としてみるべきものがなかった伊那谷でも、今や平日の山間でも県外ナンバーの車が走っていたりする。名古屋とか東京という地と、その地がどういう距離にあるかということも影響するのだろうが、そんな空間にいると「田舎」を忘れてしまうこともある。おそらく観光目的でなくとも、伊那谷の山間でみる県外ナンバーは近親の者であることも多い。そこへゆくと、この地には外部と遮断された空間という印象がある。なぜそういうことになるのか、地域性と簡単に片付けられない何かがあるとわたしは思う。それほどこの地に、わたしには惹かれるものがあった。
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歴史から何を学ぶ

2007-04-16 08:22:32 | 歴史から学ぶ
 内山節氏は、「かつての日本には、自然や森や木を大事にする共通の意識があったという通俗的な節に、私は同意しない」と信濃毎日新聞連載の「風土と哲学」のなか、「ともにある自然⑤」(4/14朝刊)で述べている。そして「村で自然とともに暮らした人たちの発想と、国家のなかに自己を位置づけた支配者たちとの自然観は、古代から同じではなかったのである」と続けている。両者は乖離していて、それぞれが捉えていた自然とのかかわりや考え方には違いがあったというのだ。自然とともに暮らした村の人々は、自ずとそこにあるさまざまな暮らしは自然とのかかわりであっただろうし、そしてそこには神々が存在していた。現代人が神様を拝むのとは違うものであっただろう。いっぽうで支配者は、神々を利用していたのかもしれない。崇拝すべく神々を置くことで、民をわが手中にしていったのである。あくまで支配するためにそれは必要だったのかもしれないし、拠りどころとして神は信用できるものだったのかもしれない。

 そうした過去の支配者たちとは異なり、今や支配者もそうでない者も、さして変わらない自然観に陥っている。言い方を変えれば支配者は自然の怖さを認識したのかもしれないし、神を利用しても支配できないことも知ったのかもしれない。それをもっとも解らしてくれるのは、流行の地球温暖化である。地球上の異常気象は、どう考えても神のいたずらではない。人間の行為が地球上に異変を起してきたことは、誰しも認めることである。だからこそ、自然は脅威であっても、神々の脅威ではないことを知ってしまったのだ。自ら招いたことなのだから、どう進もうと自らの選択だと、どこかで認識しているに違いない。しかしながら、いざその脅威に触れれば、支配者にその責任を課せることさえ当たり前だと思うようになった。当然のように支配者との乖離した自然観ではなくなる。

 さて、温暖化による影響は、わたしたち人間に待ったなしの選択を迫っている。それを口にする報道も目立つようになった。いかなる行動に出ればよいのか、わたしたちはそうした厳しい現実を迎えている。しかしながら、根本的な思想の転換はできないと思っているし、それは文明の後退だと考えている節がある。いまだに政治には前進を望んでいるのだから、思想の転換などできはしない。選挙の争点は経済の前進であって、それがなくしては政治ではないと言えるだろう。都知事選において、立ち止まれといった浅野氏の思想は、とうてい受け入れられるものではなく、前進のみという雰囲気を持つ石原氏の思想の方が、どんなにか頼もしいことだろう。ことに景気が形の上では上向いている以上、今更ながら後退しようとする意見などもってのほかなのだ。ひとり勝ちとも言われる東京だからこそ、その誇りにおいても否定できない前進思想なのだ。選挙後の石原語録を通して、その言動こそ「石原らしい」と言う意見は多い。首都として君臨する「東京」に勝てる地方はないのである。とすれば、支配者である東京に、石原氏の方針で増やされるだろう緑は、いかほどに意味をなすものなのだろう、とそんなことを思うわけだ。内山節氏は支配者の精神との乖離は風化したというが、その要因は人々に信仰というものがなくなってしまったからに相違ない。かつて思っていたわたしの捉える信仰という現実は、民間の中にさまざまに存在していたが、あまりにも早急にそれらの意識は風化していった。やはり自然が人の手によって変化してしまったという現実が、風化の原点にあるように思う。形ばかりに行なわれている信仰的儀礼が、あまりにも信仰の伴わないものとなってしまったことにも驚かされる。

 人間は破壊しながら文化を育んできた。歴史的遺産として掲げられているものも、つまるところは自然破壊の後の産物である。そうしたものを世界遺産だといって保存していくのだから矛盾は底なしである。わたしたちは自らの歴史をどう評価するべきなのか、わたしにも解らないが、改めて歴史は自らを問い直す知識でもある。それをどう捉えてゆくのか、そうした方向性は敷かれているものではない。
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