Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「電車は夜空の美学をもとめて」

2007-05-31 20:08:33 | 

 昭和37年国鉄に就職。「石炭をくべ、湯を沸かす。その蒸気がシリンダーを押すと動輪が回り、結果として機関車が動く。単純にいえばこれだけのことである」と始まる『電車は夜空の美学をもとめ』は、東京で生まれ戸隠に生涯の土地を選んだ和田攻さんの何冊目になるのだろう、このごろ出版されたエッセイ集である。冒頭で盛んに「石炭をくべる」という言葉が登場する。「くべる」という言葉を聞くと、身近な雰囲気を覚える。国鉄の中で通常使われていた言葉だったようだ。この言葉はてっきり方言なのだと思っていたのは、あまりほかの人が使わずに、身近な年寄りが使っていたからそう思うようになった。ところがどうも共通語らしい。ということで、石炭は「くべる」がとても似合っている。「機関士・機関助士は三ヶ月から半年を同じコンビで乗務する。相手の人間性・人生観・家庭状況、ほとんどを知り尽くす。勉強に励む人、組合活動に傾注する人、多彩な趣味で退職後は、師匠格として地域で活躍の人。そんな生き様を吸収しながら多感な青年は生きる術を探す。」和田さんもまた、そんな多彩な生きる術を表現している。かつてお付き合いさせていただいた京都の方も国鉄マンだった。退職後は写真の趣味を生かされていたし、弓もされていた。みなそれぞれに多彩さをみせているようで、今のサラリーマンにはそんな余裕がなく、ひたすら日々を追っているだけで人間味がない。

 さて、冒頭の文のように機関車は単純に動くのだろうが、そこで働く人たちにとっては、大変な技術を必要とするようだ。たたき上げられて、日々の職場で繰り広げられる常識が、読みながら頭に浮かんでくる。それほど書き出しの「青春をSLに乗せて」は詩情豊かに展開されてゆく。「新井駅の次ぎは二本木といい、今では珍しいスイッチバックの駅である。そこから次の関山駅までの中間辺りに差し掛かると、屏風を広げ岩肌を剥き出した妙高山、二四五四メートルの火山が突如現れる。その時の驚きは一瞬目を疑う。山の頂に空が広がるのではなく、星空の下にパッと山が差し出されたと。山間地というのに、この一帯は見渡す限り障害物がなく、妙高の天空から天の川が滔々と日本海へ流れ出て行く。楽しみの醍醐味は三○秒間、線路の両側は一面の田んぼである。空を見上げても苦にはならない。星との距離が縮まっているのだろうか、かなり下段で明るさを競っている星たちに遭遇する。」信越線の上り、二本木駅と関山駅間の夜空の美学だ。まさに詩人だからこその表現で、わたしにはとても真似のできない世界だ。第1部の「JNR(国鉄)&JR Story」には、こうした鉄道マンの日常がふんだんに歌われている。

 そしてそんな美学もあるいっぽうで、運転士たる所以とでもいえるのだろう、人身事故の話がつづられる。近頃は鉄道に飛び込んだという話はあまり聞かなくなったが、わたしの子どものころには、子どもたちの間でも「あそこで飛び込みあったってよ」なんていって噂がすぐに立ったものだ。通学路の近くだったりすると、近くまで行ってみたりしたものだ。背筋が「ぞくぞくっ」とする経験は何度かある。それほど珍しいことではなかった。そんな飛び込み処理をするのも鉄道マンの仕事だ。「散乱した細切れの塊も丁寧に線路脇に安置しなくてはならない乗務員」なのだ。「乗務員は定年まで、普通は一人か二人をあの世へ送り届ける」という。「二人抱き合っての心中、往復にての飛び込み、都合七、八人なんて、昔の人は桁が違う」と、時をさかのぼるほどにこんな経験をいくつも体験したようだ。自ら体験したそんな飛び込み処理が、俄かに自殺の世界を呼び起こす。自殺者が多くなったというのに、鉄道への飛び込みが減ったのは、賠償金が高いという認識が広まり、自殺後の身内の苦労を察知してのことだろうか。

 電車通勤を始めた初日の電車の中でこの本を手にし、目的地までゆっくりと電車の美学を読み解く。すぐそこに運転手の姿があり、きっちりと電車はホームに停止する。確認の合図が客席にまで響く。それぞれの美学があると気がつく。和田さんは一昨年、長野県詩人賞を受賞された。多くの方に、電車の美学を広げてもらいたいし、また、あらためて電車の良さを多くの人に気がついてもらいたいと願う。

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ゴミを捨てるという行為

2007-05-30 08:27:39 | ひとから学ぶ
 「ゴミゼロへの誤った理解」で触れたように、ゴミを捨てないというのが当たり前でありながら、わざわざそういう意識を高揚させるような運動が展開されるところに、この国がいかにゴミ問題に揺れているかということがわかる。「鳥居のご利益」のように、そんなモラルの下がった国民に対してのだましの手が意外に効いているという話を聞くが、はたしてそんなレベルなのか、なんて思ってしまうわけだ。

 先日(5月25日)NHKの特報首都圏という番組で「街にあふれる持ち込みゴミ」というテーマをやっていた。最近高速道路のサービスエリアや、コンビニのゴミ箱に家庭ごみを持ち込む人が多い、と始まった番組であるが、「最近」という時間を表す言葉は適していないとわたしは感じた。もう昔からのことだ。ゴミ袋を有料化してもっと高くすればゴミが減るかといえばそうでもないという。むしろよそへ持っていっては捨てる行為が横行して、ちまたには不法投棄が増えるかもしれない。正直言って、本来のゴミ箱の趣旨とは違ったゴミ箱利用をしたことのある人はほとんどだと思う。「そんなことは絶対しない」と言い切れる人はいないと思う。高速道路のサービスエリアにあるゴミ箱に、高速道路のサービスエリア意外で購入、あるいは持ち込んだゴミを少なからず経験しているはずだ。同じようにコンビ(同系列ではない場合も該当するだろう)によそで買った空き缶やゴミを捨てることはあるはずだ。それでもこの場合は、あくまでも分量的にいけば、あくまでも持ち合わせていたゴミを少し整理した程度だと思うが、問題にされているのは、家庭で処理できるはずのゴミを持ち込むというケースだ。以前にも触れたが、上司が単身赴任先から自宅に帰る際に、「高速のサービスエリアに一週間分のゴミを捨てる」と平気で言っているのを聞いて、「あんたがおかしい」と言ったがらちが明かなかった。

 サービスエリアでは、しばらく前からゴミ箱の数を減らした。広大なエリアからゴミ箱が減ったから、ゴミ箱に行こうと探しても「えーあんな遠いところなの」なんて思うことがよくある。わたしのような面倒くさがりやには、それだけでめげてゴミ箱まで行くことをあきらめてしまう人もいる。そういう意味では不用意にゴミ箱をいくつも置くことも無いのだろうが、それでも持ち込む人は多い。ただ10年ほど前よりは少し改善されているのではと思うことも多い。かつてサービスエリアやコンビニのゴミ箱といえば、ゴミが溢れんばかりになっている姿をよく見た。もちろん、それだけコンビに側が気を使って、いっぱいにならないうちに処理しているとも考えられるが、それでも見苦しいほどに満タン状態という姿を見なくなっただけ、大量のゴミを持ち込む人がいないということなんだろう。

 ゴミを捨てるという行為は、けして昔はなかったわけではなく、土に返るという意識なのか、大昔から盛んに捨てられてきた。ところが土に返らなくなったから、そこらで捨てるわけにはいかない。もうひとつ、捨てても捨てても湧き出てくるからそのままそこいらに捨てていたら大変なことになると気づいたわけだ。一応見えないようにしまいたいわけだ。ゴミをなるべく出さないことが一番なのだが、ゴミは次から次へと湧き出てくる。そういえば、自分の捨てるべきエリアではなく、よそのエリアに行ってゴミを捨てる人もいる。大量だと中を調べられてへたをすると捨てた人が割り出されるが、わずかなら気がつかない。そんなゴミといえば、できればこっそり捨てたいような怪しいものだったりする。けっきょく自分の空間から見えなくなればよい、なんていう代物なのだ。
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ウツギ咲く

2007-05-29 12:09:40 | 民俗学


 ウツギという言葉を聞くと、南駒ケ岳をはじめ中央アルプス南部の山々に親しみを持つものにとっては、空木岳をイメージする。この空木岳の山の名が、ウツギからきているということは、若いころは知らなかった。空木という山の名は、伊那谷でウツギの白い花が満開のころ、空木岳の頂上だけ雪が残っているのが見え、それがウツギの花のように見えることに由来する。

 ウツギは卯の花といわれるもので、唱歌「夏は来ぬ」において「うの花のにおう垣根に、時鳥早もきなきて、忍音もらす 夏は来ぬ」と歌われることから意外に知られてはいるが、その卯の花がどんな花なのか、今や若い世代の多くの人が知らないかもしれない。初夏に小さな花をたくさんつけるということはよく言われることで、卯の花が咲けばもう初夏ということになる。まさにその卯の花が盛んに咲いていて、いよいよ衣替えの季節となるわけだ。北海道から九州まで、ごく普通にみられる落葉低木である。

 ウツギの木は、畑の境界の目印として植えられることが多かった。すでに荒れ放題の山の畑で、境界を確認したりすると、意外にもウツギの木があったりして、境界木としてのウツギを実感することを何度か体験した。また、次のような目安ともされていた(『長野県史 民俗編』より)。

 うつぎの花が咲いたら豆をまけ、という。(下伊那郡清内路)
 うの花が咲くと田植えに(昭和25年ころまで言われた―下伊那郡阿智村大野)
 うの花盛りが豆のまきどき、という。(下伊那郡泰阜村金野)
 うの花が咲いたら田あぜの豆をまく。(木曽郡旧山口村峠)

 [撮影 2007.5.26]
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ゴミゼロへの誤った理解

2007-05-28 07:51:19 | ひとから学ぶ
 5/27は全国のあちこちでゴミゼロ運動なんていってゴミ拾いがされたのだろう。わたしの住む町でもそうした運動で、各自治組織ごとに分担をしてゴミ拾いなるものをした。ここに住み始めて何年にもなるが、この催しは真新しい。記憶では去年からのような気がする。よそではやっていたのかもしれないが、おそらく町が主導で「みんなでやろう」みたいになったのは、去年からなのかもしれない。ゴミゼロ運動で検索すると、自治体主導で5/27の内容がたくさん掲載されている。そんな内容を見てみると、その実施方法にたとえば「市内全域を対象として、市民による散乱空き缶等の一斉清掃を行い、市が回収を行なう」なんて書いてあったりする。わが町も同じ内容なのだろうと予想するが、なにしろ自分が隣組長だったときには無かった催しのため具体的にはわからない。

 自治会では、隣組ごとその範囲のゴミ拾いをするということで決まっている。田舎であるから隣組といっても広い場合が多いが、そうはいっても数軒から10軒くらいが隣組になっているから、広いといってもびっくりするほどではない。加えてゴミの捨てられそうな幹線道路沿いならともかく、田舎の道沿いだからそれほどゴミなんて落ちていない。ゴミ拾いに集まった近所の方たちの中には、「こんなおおげさなことをしなくても、それぞれが家の周りのゴミを拾っておいて、隣組長のところに持ち寄ればよい」という。同感だ。しかし、みんながそうとは思わない。ゴミゼロ運動という主旨からいけば、こうしてみんなで拾い合うことが大事だと思う人も多い。まして、それほど時間がかかるわけではないから、隣近所がひとつの目標で集合するということも意味あることかもしれない。その主旨にも共感はできる。

 しかしである。5/30がゴミの日からなんだろうが、そんな日にあわせて全国が一致して行動するのはいかがなもんだろう。それぞれの自治組織に任せて良いことだと思うのだが、どうも日本人らしいというか、みんなでやらないとやった気がしないのだろうか。さらに前述したどこかの市の例のように、「市が回収を行なう」なんていうことが必要なのかと思ったりする。確かに個人では処理不可能というか金銭がかかってしまうというのなら、回収する必要も出てくるだろうが、まだゴミを有料化している自治体は少ない(袋代で課しているという判断もできるが、「有料化」というほどの意識はない)。ということは、ごく普段利用しているゴミ袋に回収すればよいことで、そのゴミ袋にお金がかかるというのなら、それを自治体が配布すればよいことだ。初めて拝見したが、わざわざゴミゼロ運動の協議会かなんかの袋を作って「これに回収するように」なんていうのもわざとらしいというか、それほどモラルが落ちている日本人に、一斉のゴミゼロ運動は救いようのない哀れみを感じたりする。回収してこれだけ成果があったと、どこかに報告でもするのだろうか。地域は明らかに行政の配下に沈んでしまった、とそんなことを感じるわけだ。これもまた、自治会の会計年度を市町村の会計に合わせろといって、無理強いしたのもこの2年ほどだ。だれも文句はいわないが、「これでいいの」と思うのはわたしばかりなのだろうか。「みんなでやることに意味がある」なんていうきれいごとをいっても、自治会に入っていない人たちだっている。意識としてどうゴミを捨てない社会を作るか、というところをどこか間違った方法で浸透させようとしているようで、振り返ると違和感が多い。

 「快適で清潔な環境は、町内で生活する皆さんの連携と協調によって作り出され、守られています」と広報にこの日の運動へのスローガンのようなものが掲げられていた。しかし、よく読むと、この言葉はゴミをなくすための主旨とはちょっと違った、当てはめられた文章のように見えてきてならない。「どういう意味?」と聞きたくなってしまう。
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「伊那谷の南と北」第4章

2007-05-27 10:25:14 | 民俗学

第4章 諏訪と伊那

 上伊那郡を対象にした地域新聞がいくつかある。ずいぶん昔からあった伊那毎日新聞や、近ごろ盛んに購読されている長野日報はそんな新聞である。後者を発行している長野日報社は諏訪市に本社があり、諏訪は諏訪で同じような新聞を発行しているようだが、その新聞を読んだことはない。この長野日報のスタンスがすべてそういうものなのかは解らないが、郡内の市町村をページごとにまとめている。ほぼ毎日12ページで組んでいて、1面は郡内の広域的なニュースや、代表的なニュースを主に扱い、2面以降6面まで市町村ごとのニュースを掲載している。2面に登場するのは辰野町と箕輪町で、3面は伊那市、4面が南箕輪村と宮田村、5面が駒ヶ根市、6面が飯島町と中川村である。この新聞があることを知ったのは、もうずいぶん前のこと、生家を訪れた際に生家で購読している新聞を見てからである。わたしが生家に住まなくなって20年ほどになるが、そのころには購読していなかった。初めてみたころと新聞のイメージは変わっていないように思う。ようは新聞の前半は、地域ごとの記事だから、よその記事にまったく興味を持たない人は読みもしないかもしれない。それでも購読したいのは、意外にもそうしたページごとに地域の話題を必ず掲載しているからかもしれない。『ウィキペディア(Wikipedia)』では、この新聞について「紙面の特徴として、地域の行政や人々の暮らし、年中行事などの細かな話題を中心に掲載し、政治的な主義主張の展開はあまりみられない。亡くなった人の葬儀日程などを告知する通称「お悔やみ欄」は詳細な記述で知られ、本人の顔写真、来歴はもとより、配偶者や子どもの来歴や現在の仕事の内容に至るまで紹介される」と紹介している。市町村別に枠を区切るからこそ、生き残れているのかもしれない。

 ところで前述したような掲載順は、わたしが見た限り、長い間変わっていない。もちろん高遠町と長谷村が合併する以前は、両者をセットにした面も用意されていた。北から順に南へ向かってページが進むわけだが、この流れがこの地域を物語っている。その内容は後に譲るとして、まず、なぜページごとに地域を扱わなくてはならないのか、ということである。もちろん、中央の新聞であっても、地方へ配布するものは、その地方版をかならず設けているから、とくに長野日報が特別なことをしているわけではない。しかし、あえて地域を区切って記事を構成する必要性はそれほどないと思う。比較する良い例が、下伊那郡域を対象として発行している南信州や信州日報と言われる新聞である。こちらは、ページごと、あるいはページのどこかに必ずその地域を対象にした記事を載せることはない。そうならざるを得ない要因として、市町村の数が多くてすべての自治体をスペースを設けて記事にするには環境が整っていないということもあるだろう。しかしながら、この新聞のスタンスが、地域性を物語っている。飯田市という絶対的な中心を持つ下伊那郡域と、伊那市という中心はあるものの、南部には駒ヶ根市があり、そればかりでなくそれぞれの町村がそれぞれの地域を色濃く出しているからだ。そんな地域だからこそ、わざわざ区切った報道が、わかりやすいということにもなるのかもしれない。加えてこの長野日報の地域性というものもうかがえる。長野日報のホームページがある。そこに展開される話題は、諏訪と上伊那地域を対象にしている。どう考えたって両者は異空間であるものの、両者は少なからず関係を持ち始めている。それは、かつて工業地域として栄えた諏訪地域から、人々が上伊那へ流出したことにもよる。伊那市から北部地域は、明らかに諏訪の通勤圏域である。狭い空間の諏訪、対照的な伊那地域。両者はどこかでお互いにないものを補っているという印象がある。とはいえ、釜口水門から川岸、辰野までの狭隘な地は、両者をつなぐには今ひとつという感覚はあるが、同一空間にありながら異空間である伊那地域と飯田地域の比較(ここで上伊那と下伊那とあえて表記しないのは、上伊那と下伊那という対象と伊那と飯田という対象には違いがあると考えているからだ)とはまた異なるものだ。

 そして、その市町村の掲載順である。北から南へ順次掲載していく。ここまで言い切るのはわたしだけかもしれないが、ようは、北から南へ諏訪からは遠くなる。この地域は北へ行くほどに先進地域という自負を持っているに違いない。それは県庁所在地に近くなるという立地条件も加わる。もちろん東京に近くなるという条件も同様だ。北が上で南が下という地図上の立地がそのままこの地域の意識を形成している。おそらく新聞を作る側も、この掲載順がごく普通の順番だと認識しているだろうし、それを逆さまにしてしまったら、読者が減るかもしれない。そんな伊那地域の意識が、いっぽうで飯田地域の意識に対して影響しているとわたしは考えている。そして、その狭間で諏訪ともそれほどかかわりを持たない立地の上伊那南部(駒ヶ根市など)が、曖昧に両者の中間にあって伊那や飯田ほどの独自な他地域への展開ができないでいるわけだ。


 「伊那谷の南と北」序章
 「伊那谷の南と北」第1章
 「伊那谷の南と北」第2章
 「伊那谷の南と北」第3章

「伊那谷の南と北」第5章

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植え直し

2007-05-26 20:06:12 | つぶやき
 昨日妻のおじさんが田植え機を持参してきて妻の実家の田植をした。それほどたくさんの面積ではないが、田んぼが小さいから機械を操るのも大変だろう。そんなこともあって、田植えは済んでも、その植え直しが大変なのだ。転作するのが当たり前の時代だから、田植え機で植えられないような場所(田んぼの隅っこや角っこ)は無理をして植えることもないし、もっといえば、田んぼの1/3くらいを植えずに転作面積にカウントする、なんていう方法もある。作業時間を短縮するとなれば、なるべく機械だけで作業が終了すれば、確かに簡単である。

 「田植え 植え直し」で検索すると、田植えの植え直しの記事が拾える。「田植えに行くと人にいうと「今は機械だから楽でしょ」とよく言われるんですが、機械で植えただけでは終わらないんですね。もちろん全部手植えするよりはるかに楽だとは思いますが。」なんていう言葉を聞くと、まさにその通りなんだけれど、世のなか植え直しなんかしない農家も多いと聞く。3反区画とか5反区画なんていう大きい田んぼはもちろんだが、1反区画ぐらいでも整形な田んぼなら、植え直しが必要な場所は限られてくる。確かに20センチくらいの間隔で植えられていく株が、時にはひとつ、いや二つや三つくらい飛ばしてしまうこともあるが、そんなケースは多くはない。ところが、わが家の田んぼのように曲がりくねっていたり、整形でない田んぼでは、足跡がへんなところについてしまって、その足跡に植えてしまう、なんていうこともけっこう多い。足跡は凹んでいるから、植えても土に植わらず、浮いてしまうわけだ。

 もちろんそんな田んぼは山間地の田んぼであるから、いかに山間地の田んぼは無駄が多いかということになってしまう。ところが、山間地の農家ではそんな植え直しが当たり前のように行なわれる。平地の農家の人たちには馬鹿らしく映るかもしれないが、ただでさえ小さいのに畦畔が大きいから、実際に植えられる場所は限られる。とすれば、できる限り手で植えなおしたくなるわけだ。

 生家の田んぼは、妻の実家の田んぼとは異なり、整形なものしかない。それでも整形にした当時は、昔からやっていたように、田植え機で植えたあとに、畦畔との間の一条くらい植えられるスペースに、手で植えていったものだ。そんな場所のことを「クロ」と言ったのだが、母に「クロを植えてくれ」なんて頼まれて植えたものだが、たった一条ではあるが100メートルもあるから嫌な作業だった。今ではそんなクロを植える家は、山間地でもない。稲つくりの思想もずいぶんと変わったものだ。

 さて、苗も良くなかったのか、田植え後の様子がいまいちだ。そこで折れ曲がった苗や、倒れた苗を拾い上げては、再度植えていく。妻に「これじゃあ、最初から手で植えたほうが良くない」と言ったら「そうかも」という。田植えは1日で終わったが、植えなおしは1日で終わらなかった。
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伊南バイパスの姿

2007-05-25 08:23:23 | つぶやき




 写真は陣場形山から、天竜川の支流である中田切川の周辺を捉えたものである。川の向こう側が北側で駒ヶ根市福岡、こちら側が飯島町田切になる。写真の説明の図を見ながら説明すると、山付けに示した横のラインが中央自動車道。国道153号とこの中央自動車道の間に示した赤いラインが、伊那谷断層にあたる。国道153号の下に茶色く、そして白く横に走っている部分が、現在盛んに整備されている国道153号の伊南バイパスである。高速道路並みに幅が広い区間をいじっているから、山の上から見てもこんなに目立つ。現地に行くと、ちょうど写真の右端あたりの橋を作っている。その橋から現在の国道153号に接近しているあたりまでが、とりあえず整備される区間で、このあたりの水田地帯を真っ二つにしながら、優良農地を潰している。現地に行ってみればその広大さが解る。

 先ごろ伊南バイパスの飯島町区間の起工式があったと報道された。写真の駒ヶ根市福岡の区間を整備した後は、今度は南側から整備が始まる。飯島町区間では、この写真の中央に横たわる中田切川と、与田切川というふたつの大きな川があって、バイパスはその川を高架橋で飛び越える。駒ヶ根市区間は莫大な用地補償費がかかったのだろうが、飯島町区間では長大橋の工事費に経費がかかるのだろう。

 現在開通している駒ヶ根市の一部区間は、片側二車線の道路であるが、真ん中に大きな分離帯が残っている。場合には四車線化できるように、用地が取得してあり、分離帯として残されている。そんなこともあってか、せっかく整備はされたが、けしてスムーズな交通の流れを生んでいない。「こんな道いるの」と言われても仕方ないほど、あまり時間短縮にはなっていない。喜んでいるのは、そんな道ができたことによって、郊外店が出店して、買い物が楽しくなったと思っている消費者と、出店してきた人たちくらいだろう。ただでさえ寂れていた駒ヶ根駅前の中央通は、ますます閑散としてきた。日記でも何度も綴ってきたように、この方式は誉められない。そんな整備を喜んでいる住民が、もっともあとで困ることを、いまだに認識していないということなのだろう。
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鳥居のご利益

2007-05-24 12:07:19 | 民俗学


 中央自動車道の端を犬を連れて散歩をすることがある。まじまじそんな大きな天井道路の土手を見たこともなかったが、もう何十年もこの大きな土手ができてから経過しているが、そこにずいぶんと伸びた木々が生えていたりして、けっこう道端には緑が多い。道を走っていては気がつかないのだが、垣根のようにびっしりと植えられた道端の木々の幹は、みごとに真っ黒である。排気ガスで黒くなるのだろうが、それでも木々は、わが家の垣根の木よりずっと元気で、感動ものだ。そんな土手を見ると、ゴミが落ちている。側道との間に高いフェンスが張られているから、わざわざ側道を走っている人が捨てたとは思えない。おそらく高速道路を走っている人が捨てるのだろう。田舎の管理しきれない道とは違って、高速道路は草刈をしたり剪定をする専門の方たちがいるから、人の目にゴミが目立つほど放置されることはないのだろう。ずいぶんと高速道路には縁があるが、車の窓からゴミが投げられるという光景は見たことがない。だから、さすがに高速道路を走る車からゴミが捨てられるということはないのだろう、と思っていたのは甘いようだ。

 近ごろ一般道を走っているとよく目立つのが、赤い小さな鳥居である。自宅から会社まで、ほぼ30キロの道のりで、そんな赤い鳥居を10基ほど見る。とくに多く立てられているのが飯島町と伊那市である。立てられている場所はたいがい路肩がちょっと広くて空き地のようになっていて、車を乗り入れようとすれば乗り入れられるような場所や、沢沿いのカーブである。飯島町で立っているものは、鳥居が単独に立っているが、伊那市で見かけるものは、たいがい横に立て看板が並立している。冒頭の写真も伊那市の小出二区で見たものだ。お解りのようにゴミを捨てないようにという意図がある。

 「不法投棄禁止」の看板だけでは効き目がないから、こうして鳥居も並立しているのだろうか。鳥居を立てることでゴミ捨て防止になるという話は、時に新聞などにも話題で報じられることもあった。確かにただの看板と、鳥居のどちらが捨てにくいかといえば、その背景に神様が存在していると認識すれば、看板の方が捨てやすいだろう。しかし、防止目的で立てられていると知れば、それほど鳥居が水戸黄門の印籠のような大それたものには見えないのだが、ゴミを捨てようとする人間には〝怖い〟存在なのだろうか。ちょっと不思議な感じである。『ウィキペディア(Wikipedia)』の鳥居の項でも、「住宅街や空き地などに高さ10~15センチほどの小さな鳥居が設置されている場合がある。簡素なものは薄い板きれをコンクリートブロック塀に貼り付けただけものや、塀に赤ペンキで塗られただけのものである場合もある。このような小鳥居はゴミの不法投棄を避けるために設置されたもので、鳥居を聖界の入り口として恐れ敬う人間心理を利用したものであり、不法投棄が激減したという実例があるという。ちなみに実際の鳥居をそのまま模するのは恐れ多いという理由で、下の横棒(貫)が上の横棒(笠木)よりも長くなったものを利用することもあるという。」なんて書かれている。本物の鳥居に似せてしまうと恐れ多いから形を変えるなんていうところをみると、やはり神様がいない鳥居なんて怖くないと思うのだが、どうだろう。ご利益があるのは、まだゴミ捨て防止に立てられているという認識が少ないからで、あちこちに立ってしまったら効き目は薄れるだろう。

 わたしの感覚では、伊那市のように鳥居と看板が並立しているものより、飯島町のように単独に鳥居だけが立てられている方が、意図がはっきりわからないから効き目があると思うのだがどうだろう。鳥居とゴミで検索すると、けっこうよその同じような取り組みが登場する。そういう例も、けっこう看板とまではいかなくても、張り紙と併用している例が多い。なかには鳥居に「ポイ捨て禁止」なんていう張り紙をしているものもある。気持ちとしては本物の鳥居のように雰囲気を醸し出している方が、意図がはっきりしないからご利益があると思う。
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絶滅危惧「文房具屋」

2007-05-23 08:15:06 | ひとから学ぶ
 昨日、伊那市内の昔からある文房具屋さんに寄ってみた。その店は、かつて会社で事務用品を頼むときによく利用していた店である。その当時はあちこちの会社の事務用品などを取り扱っていたのだろう。今もけして扱ってないことは無いのだろうが、店内を見回して、かつて生まれ育った町にあった今はない文房具屋さんよりも、さらに品物が並んでいない。その店の現実を、なんとなくではあるが感じたわけだ。かつてよく聞いたそんな文房具屋さんの名前を、会社で聞くことは今はない。今や事業所において、地元の文房具屋さんを利用しているところがどれほどあるのだろう。わが社だって通販利用で、宅配ですべて送られてくる。特殊なものはともかくとして、消耗品にいたっては届けてくれるのはすべて宅配屋さんである。これでは地元の文房具屋さんが落ちぶれるのは当たり前である。いかに経費を節減するかが問われているから、安いものに皆が手を伸ばす。地元から店が消え、閉じられた家が並ぶのは目に見えている。安ければよい、税金は無駄に使うな、という世界がこんな空間を作り上げてきた。「矛盾」という言葉を上げるまでもない。

 以前に筆記具のことについて触れたが、わたしはマイペンをいくつも持ち歩く。けして高価なものではなく、使いやすいものを買う。だから文房具屋にはしょっちゅう訪れる。前述のような文房具屋は、町に必ずひとつやふたつはあった。学校があれば、子どもたちが毎日のようにそんな店を訪れていたものだ。そういう意味で、学校の存在も大きかったのだろうが、今や学校でもそんな文房具屋さんをあまり利用しないのだろう。子どもたちだって親が買い与えれば、それほど文房具屋へ足を運ぶこともなくなるし、今や買い物といえば車だから、郊外の安売りの店に行ってしまう。それでも昔から町にあった大きな文房具屋さんで、今もしっかりと営業している店もある。飯田市銀座にあるキング堂なんかは、マニャックなものもいろいろある。だから時々足を運ぶ。大型のホームセンターなんかでも文房具を豊富に置いているところがあるが、品数の多さでは、今も盛んに営業している専門の文房具屋さんには負ける。だからこそ、わたしもそうした店へ足を運ぶ。生家のあった町にもそんなに大きくはなくとも楽しい文房具屋さんが何十年も前にはあったが、今ではない。そうした店は、すでに絶滅危惧と言ってもよい。駒ヶ根市にある森文具も、けっこういろいろ品を揃えているが、なかなか車時代には合わない交差点脇の店ということもあって、顔を出すが、他にお客さんがいることは最近めっきり減った。残念でならないが、絶滅しないことを望むばかりだ。

 長野市にいた際、事務キチに何度か足を運んだが、確かに安いが、文房具屋さんという雰囲気ではない。ホームセンターはだいたいどういう品が揃っているか予想がつくから、たまに事務用品を置くスペースに立ち寄るが、期待を裏切ることが常だ。そんななか、松川町にある「すまいる」という店は変わっている。大量に品を揃えているわけではないが、よそに無い、とくにわたしがたまに足を運ぶ文房具専門店にも無いような不思議なものを売っている。そんな店を見つけると、裏切られることが常でも、さまざまな文房具売り場を歩いてみることが必要だと気がつく。
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通勤という浪費を考えたい

2007-05-22 08:21:04 | つぶやき
 転勤して初めて飲み会があって電車で会社まで通った。電車を毎日のように使ったのは高校時代のことである。およそ30キロほど離れていた高校まで、電車を利用したわけだが、その時間は1時間以上を要した。当時はまだ国鉄時代で、赤字が常に話題になる飯田線であったから、「こんなに乗っていても赤字なんだ」と思うほど、朝晩の通学時間帯はお客さんが多かった。とくに朝方といえば、ギューギューという状態で、都会のラッシュとそう変わらないほどだったことも記憶する。その後飯田の事務所に勤務した際にも、飲み会というと時折電車を利用したわけだが、さすがに高校時代にくらべると、だいぶ空いてきていたが、すでに現在の民営化された会社運営となっていた。おそらく地方のこんな空いている路線は赤字なんだろうが、ドル箱の新幹線なんかが補ってくれているのだろう。

 それでも通勤通学の時間帯ともあれば、そこそこ満員なのだろうと伊那市まで電車に乗ったのだが、その空き具合に拍子抜けという感じであった。確かに飯田に向かうよりは間に駒ヶ根市があったり、高校も分散していたりする上伊那地域は、飯田に向かうとともにどんどん混雑していくという環境ではないことは解るが、それにしても向かい合いの4人がけの座席に半分くらいしか座っておらず、立っている人もいるが、全員腰掛けようとすればできないこともないほどの乗客数である。もっとも混雑するのかと思う伊那市周辺でも「少し混雑」程度の乗客数で、そのほとんどは高校生である。もっと通勤の人が乗っているのかと思うと、まばらである。伊那市といえば県の出先機関もあるから、そうした人たちが降りるのだろうと思いきや、10人余程度である。今や飯田線が通勤の足になっていないことがよく解る。

 この空き具合をみて、ふと頭に浮かんだのが、電車通勤である。これだけ空いているのなら電車通勤もいいじゃないか、と思ったわけだ。一人ひとりが自動車を使うよりは環境にも良いし、なにより「通勤の疲れ」でも触れたように、片道1時間近く車に乗っていることを思えば、さほど変わりない時間で通勤できるのなら、電車でも十分じゃないか、と思うのだ。くわえてわが社の通勤手当は、燃料費は出ても消耗品費はもちろん、自家用車の償却費は出ない。毎日60キロ走れば、年間1万4千キロ、5年で7万キロ近くなる。10年同じような通勤をしていれば、1台終わりである。考えて見れば今までこうして車で通勤した時代は、すでに20年近い。くわえて遠隔地で勤務した時代も、自宅に帰るために車を利用したわけだから、車はほとんど会社のために使っていたようなものだ。そう考えれば、いかに世のなかが温暖化のガスを無駄に排出しているかが解る。それほど人口の多い地域でもないのに、毎朝渋滞に悩まされることを思えば、ちょっと不自由ではあるが、電車を利用するのは自然のようにも思う。もともとわが社の場合は、残業による帰宅時間が想定できないことがあって、ほとんどが車通勤である。しかし、毎年赤字を累積しているような会社だから、そんなむやみに遅くまで仕事をする必要はないはずだ。公共交通機関を利用する方策を、会社でも考えるべきだろうし、「そんな時代」というのならそういう取り組みが必要ではないだろうか。もちろん、無駄なエネルギーを利用しないような人の配置は当たり前である。

 と、そんなことを思ったとき、環境がどうのこうの言う前に、車を多用することは避ける取り組みを田舎もしなくてはならないだろう。そして、意外に思った県の職員の車通勤だ。それだけではないだろう。市町村職員もほとんどが車通勤である。このへんの考え方を変えずに、「環境」なんていう旗を振るべきではないだろう。もっといえば、郊外にどんどん出店していった大型店や工場。田舎では車社会を助長している。コンパクトな街づくりとは、移動距離の少ない生活空間を形成することに始まる。それなのに、田舎はどんどん郊外に人の足を向けさせてきた。企業も含め、その責任は大きい。

 さて、若いころには格好も気にせずに、気楽に通勤できる車はとっておきの道具だった。加えてかつては仕事を持ち帰るとなると、けっこうな荷物だった。ところが、今はデータがあればさほど資料はいらない。歳をとって、人の目が気にならなくなった今、「電車で通ってもよい」という気分に素直になれるようになった。社会に出て初めて、そんな通勤を始めようと、今思っている。
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すっとぼけた飯田市の対応

2007-05-21 08:21:41 | つぶやき
 新緑の季節だから都会からけっこう人も入っている。喬木村九十九谷ではクリンソ草祭りが行なわれていて、村中心から妻の実家まで行く途中は大混雑。道路が駐車場になってしまって一般の行き交う住民は迷惑、というところである。実はこの道がそこそこ混雑していることは予測していて、この日は本当はこの道を通る予定ではなかった。

 一度妻の実家に行く際に、大鹿周りで最近気になっていることを調べながら行こうと思っていた。天気が良かったこともあってそれを20日に実行したのだ。予定ではふだんの道なら30分程度かかるが、大鹿回りなら1時間ちょっとと踏んでいた。代掻き後の梯子引きを頼まれていたので、午前中に一仕事はしたいと思っていた。さすがに天気が良いということで、大鹿へ向かう県道には他県ナンバーの車も走っていた。中川村渡場から小渋川をさかのぼるのだが、約20分ほどで大鹿村役場までたどり着く。地元の者だからこのくらいの時間で到達するが、よそ者では30分はかかる。それだけカーブが多く、狭いところも多い。大鹿村役場前の国道152号の脇に立て看板があった。「通行止」というものである。「えっ」と思って停車して確認すると、「しらびそ高原ヒルクライム大会のため、しらびそ高原入口からしらびそ高原まで通行止め」とある。この看板だけでは国道152号が通行止めとは判断できない。わたしはしらびそ高原までの区間が通行止めだと思い、車を進めることにした。大河原から小渋川を渡って青木川の谷に入るところにも立て看板があったが、役場前のものと同じものだと思って停車せずに進んだ。下青木の集落を過ぎた辺りで、おじさんたち2人が道端に立っている。車を止められるので「まさか」と思って話を聞くと、この先前述の大会のため、午後1時まで通行止めだという。どうみても頼まれて立っているようで、大会の関係者ではなさそう。ちょっと頭にきたので、「わたしは松川の方から来たけれど、渡場の信号機のところには立て看板無かったですよね」ときつく言った。すると、「そうかもしれない」とすまなそうに言う。大会の詳しいことはほとんど知らされていない様子で、あくまでも午後1時までの交通規制の整理に村あたりから頼まれて立っている様子。「この大会どこが主催なの、村ですか」と言うと、大鹿村はまったく関係ないという。「飯田市」というから主催は飯田市なのか、悟った。

 ここまで来てただ引き返すのも頭にくるから、中央構造線安康の露頭が、昨年7月の豪雨の際に埋まったということを聞いていたので、そこまで行って見てくることにした。停止された場所から約5キロほど登って戻って来たのだが、その間何台か県外ナンバーの車が地蔵峠方面に上って行った。引き返してきて再びおじさんたちに「県外ナンバーで入っていった車がいたけれど」と言うと、「規制が終わるまで待っているから」と言って入って行ったという。この道、地図で見れば解るように、大鹿村から遠山谷へ向かう一本道で、迂回するとなると、天竜川沿いまで戻らなければならない。どう考えたってふざけている。よその人がこの道が通ろうと入ったとしたら、おそらく2時間くらい迂回でロスする。

 渡場まで引き返しながら、いったい看板には何が書いてあったのか、と改めて確認しながら戻った。大河原の小渋橋にあった看板が写真のものである。ここには午後3時まで通行止めとある。おじさんたちが言っていた午後1時と違う。「なんで」と思いながらよく見ると、看板の下に紙が張ってある。その紙を確認すると、確かにわたしが通る予定の場所も通行止めだとわかる。しかし、いくらなんでも大河原まで来なければそれがはっきり解らないという規制看板がいけない。大鹿村役場前の看板まで戻ると、その看板はこの看板とちょっと違って、前述のような書きぶりだ。地図など張ってない。もちろん渡場の信号機に戻ったが、そこに看板はない。大鹿にはもう一つ、松川町生田から上る県道があって、そこの分岐でも確認したが、看板はない。もっと言うと、ずっと南下して、喬木村阿島の県道上飯田線の入口にもそんなものは一切無い。さらに、喬木村九十九谷を過ぎて富田というところの辻にも看板はない。自転車で町づくりなんていっている飯田市に「ふざけるな」と言いたくなってくる。

 帰宅して検索して見ると、大会の主催者は「しらびそ高原ヒルクライム大会 事務局 (有)アール・アンド・アイ」とある。飯田市市制70周年記念行事だという。当初予定していたルートが、土砂崩れのため、ルートを変更し、短くして大会を開いたようだ。当初のルートだったら、わたしが通ろうとした道が通行止めになることはなかったようで、距離も長いから午後3時まで通行止めだったのかも知れない。とすると看板は、いつ用意されたものか、不思議な話となる。こんな対応のまずいことをして許されるのか。

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通勤の疲れ

2007-05-20 08:36:41 | つぶやき
 転勤してまもなく2ヶ月になる。自宅から会社まで30キロを車で通勤するのだが、これがなかなか厄介なのだ。通勤時間帯の7時ころに自宅から北進することも今まで何度もあったことから、駒ヶ根市を中心に混雑することは解っていた。しかし、毎日ともなると「なんとかならないのか」と思うことは毎日である。よくも毎日、こんな通勤をしているものだと、ほかの車通勤の人たちに問いたいくらいである。

 わが家は伊那谷でも山付けの方にあたるから、中央を走っている国道153号線よりも、上段を走っている広域農道が身近な道である。だから通常は、この道を北進して駒ヶ根市や伊那市、さらには辰野町へと道をたどるのが一般的である。通勤時間帯でなければ、この道以外の道を通って見ようなどと思うことは、まずない。ところがこの道、通勤時間帯になると渋滞は激しい。とくに朝方ともなれば、駒ヶ根市以南からすでに交差点ごとに渋滞は始まる。その原因は、明らかに通行量の多い本道に対して、交差する道を優先しすぎている信号設定である。飯島町七久保でも、いくつかある信号機を通過する際、青になって10台も通過すると赤になってしまうというケースが多い。もちろん小学生の横断する交差点もあるから仕方はないが、そうではない交差点でも、交差する反応式の信号が盛んに青になるため、本道はなかなかスムーズに進まないのだ。ようは、反応すると間もなくこちらは赤になる。1、2台本線に流入してくると、交差する側の道路に滞留する車はもういない。本道ばかり混雑して、交差する側の道は空き空きなのだ。そして、青になったかと思うと、次の車がやってきて反応してまた赤になる。そんなことの繰り返しだから、市街でもない本当の田舎なのに、なぜか渋滞するのだ。そんな様子は、飯島町区間では当たり前のように起こる。そしていよいよ駒ヶ根市である。時には駒ヶ根インター下交差点から、駒ヶ根市南端まで渋滞することもある。すべて飯島町の例と同じで、交差する側の道路の青が長いのだ。とくにいけないのは駒ヶ根インターから降りてきた道が、広域農道と交差する場所だ。確かに広域農道側は、管理上は市道になるし、そこに交差する側は県道であるから、そちらが優先されても仕方はないかもしれないが、交通量は明らかに広域農道側が多い。にもかかわらず、交通量に適応していない信号機なのだ。通勤時間帯ばかりではなく、通常でも渋滞する交差点である。飯島町も駒ヶ根市も、いずれも駒ヶ根警察署管内である。

 とまあ、こんな具合に走り始めてすぐ渋滞になるから、車に乗っている時間は1時間にも及ぶ。そこで考えた短縮作戦。駒ヶ根市へ入ると広域農道かをおさらばして、国道153号まで降りる。一旦は降りるものの、伊那市沢渡の渋滞を避けるために、一般道をさまざまに多用して伊那市内へ到達する。本来なら一旦広域農道に出れば、2、3度右左折すれば駐車場まで到達するルートを、20回以上右左折を繰り返して到達する最短ルートを今は走っている。とはいっても1時間の所要時間が10分程度短縮するだけである。気の短い性格上、ひとつの信号機を2度も3度も待つのは許せないのである。こんな朝方の格闘は、会社に着いた途端に疲れを覚えるわけだ。わたしが通過してくる地域の総人口は、せいぜい5万人程度。道が1本しかないわけではないのだから、それぞれに分散しているとは思うのだが、渋滞しすぎという感は否めない。
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猫神

2007-05-19 08:33:10 | 民俗学


 「霊諍山のドラえもん」と題してドラえもんのような猫の神様を紹介したことあったが、それは風変わりな石神石仏があることで知られる千曲市郡の霊諍山にある。ドラえもんがげんこつを落とそうとして小さくなっている猫の像が並んであるが、同じような雰囲気を持つ猫神が、伊那市小出二区の山本にある。山本公民館の裏手に、三体の猫神が間にほかの石仏を挟んで並んでいるのだが、こちらの猫神の彫り方は稚拙である。しかし、その稚拙さが猫らしさをよく現している。その猫神の一体が写真のものである。

 口元に何かくわえているように見えるが、単純にひげを現しているだけなのだろう。でもちょっと見は魚でもくわえているのだろうか、と思わせる。そのひげと前足の間がふっくらと膨らんでいるが、他の猫神も同じように彫られている。猫のあご下ってこんなにふっくらしていたのだろうか、とあらためて本物の猫を眺めたりする。碑の高さは30センチちょとと小さなもので、裏手にあるこんな石像に気がつく人はなかなかいないだろう。不思議なのは、霊諍山の猫もそうなのだが、わたしの見た猫神はすべて左へ向いた猫ばかりだ。猫の姿と言うのは、人に対していつも左に頭を持ってきて丸くなっているのだろうか、なんてまた本物の猫を観察してしまうほどだ。

 何の目的で彫られたものかというと、猫を祀ることによって、鼠を防ぐ意味があるようで、蚕を荒らす鼠除けを願ってのもののようだ。世のなか猫を飼っている人も多いだろうが、こんな珍しい神様を頼って猫好きの人がお参りしてもよいように思うのだが、以前見たときも、今回も、人目に触れているという雰囲気はまるでない。検索してみると、実はけっこう猫神様が登場する。それでわかったのだが、近くの高森町瑠璃寺に最近薬師猫神様が祀られるようになったという。瑠璃寺の本尊が薬師様だということで、そこへ猫様を迎えたからこう呼ばれるのだろうか。そこにも「かつて養蚕が盛んであったこの地方では、お蚕様をねずみから守ってくれる猫を「猫神様」として、大切にしていました」と書かれている。


 参考「飯島町清水坂お不動様の猫神
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元気づくり支援金

2007-05-18 08:20:33 | つぶやき
 田中知事時代に始まったコモンズ支援金を、名を変えて継続している元気づくり支援金というものがある。このごろその一次分の選定が行なわれて、地域の新聞などに選定された事業が紹介されている。選定とはいっても内定であって、事業内容の確認とヒアリング、そしてさらに選定委員会の審査を受けて決定となるという。全県での予算総枠は10億円だという。いったいどんな主旨なのかというと、「豊かさが実感でき、活力あふれる輝く長野県づくりを進めるため、市町村や公共的団体が住民とともに、自ら知恵と工夫により自主的、主体的に取り組む地域の元気を生み出すモデル的で発展性のある事業に対して、支援金を交付する」という。誰に対して交付されるかというと、①市町村、広域連合、一部事務組合と、②公共団体等(県内に事務所を有し、公共的活動または地域の活性化に資する活動を営む団体)になる。②に関しては「公共団体等」とちょっと曖昧だから、内容しだいではどんな団体でも良くなってしまいそう。さらに曖昧になるのはその対象事業だ。①地域協働の推進に関する事業、②保健、医療、福祉の充実に関する事業、③教育、文化の振興に関する事業、④安全・安心な地域づくりに関する事業、⑤環境保全、景観形成に関する事業、⑥産業振興、雇用拡大に関する事業(特色ある観光地づくり、農業の振興と農山村づくり、森林づくりと林業の振興、商業の振興、その他地域の特色、個性を活かした産業振興、雇用拡大に資する事業)、⑦その他地域の元気を生み出す地域づくりに資する事業、以上⑦項目が該当する。何でもありという感じでそんな内容だから交付される金額もさまざまだ。上限が定められていない。

 上伊那地方事務所管内の一覧から、その事業の雰囲気を捉えてみると、「そんなものもあるのか」、あるいは事業名だけでは内容のよく解らないものも多い。前者のものとしては、「保育園保護者用メール配信事業」「ふるさとの昔話第二集編集出版事業」「防犯灯整備事業」など。そして後者のものとしては、「飯島町「早ね・早起き・朝ご飯・テレビを見ないで外遊び」町民運動」「「伊那谷ジグザグ隊」活動」などである。後者の何だかわからないものはともかく、前者の内容を見ていると、県費でわざわざ補助しなくてはならないのか、というようなものもある。交付対象事業例にも「花いっぱい運動」なるものがあるが、そんな小規模なものを大勢で審査して手間をかけて交付金を出す必要性があるのか、と思うわけだ。本来ならもっと身近な市町村などにそんな事業に対する補助があってしかるべきなのだろうが、これでは本来の県が担うべき仕事が解らなくなってしまう。住民に身近な県政なんていうから、確かにそんな身近な交付金を渡せば住民は喜ぶだろうが、10万とか数10万の交付金の事業を、それもどこでもやっていそうな地域の活動に対して、交付金を出すための手間をかけるのはいささか無駄なエネルギーの消費に見えるが違うだろうか。市町村もなりふりかまわず、自らが施せないから県にアプローチさせるのも見境なく見えるがどうだろう。どこか筋が違い、皆が金の成る木に群がる。

 とはいえ、「こんなのもありか」と思うのは、飯島郷土研究会が申請した「ふるさとの昔話第二集編集出版事業」である。事業なんて冠しているが、ようは郷土の本を作るというものだ。もしかして、地域研究の団体が地域の報告書みたいなものを発行するにも、こんな事業申請が可能なんだと知る。わたしの関わっている会でも、課題になっている出版の案件がいくつかある。そんな出版の手助けになるのなら、ひとつ申請してみて損はないのではないか、なんて思ったりするわけだ。とまあ、こんな具合になんでもありなのだが、やはりちょっと支援する場面が違うんじゃないかと思うが、申請したもの勝ちみたいな雰囲気もあって、平等性に欠けるようにも感じるわけだ。
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時間ぴったりに始まらない番組

2007-05-17 08:21:33 | つぶやき
 このごろというか、しばらく前からそうなのだが、テレビのニュース番組があてにならない。何があてにならないかと言うと、いわゆる7時とか8時といった時間を知らせるポイントが不明瞭なのだ。この4月からなのだろうか、NHKのニュースを点けていて朝7時の時報がないのだ。独特のオープニングを知らせる時報というものがないと、朝の忙しい時間にいろいろしながら支度をしていて、なんとかならないのか、なんて思ったりする。最近は、地方局のニュースを6時52分ころから57分ころまで放送しておいて、メイン番組に戻る。6時57分ころからおもなニュースの一覧を紹介して、7時となるのだが、音による時報はない。最近はそんな報道番組が多い。たとえばTBSのニュース23は、新聞のテレビ欄には、10時54分と表示されている。また、報道ステーションも同じように9時54分からだ。なぜどこも54なのか、その理由もあるのかもしれないが、こんな中途半端な始まりだから、時報にならない。

 5/14の地方新聞のテレビ欄から、そんな中途半端な番組を追ってみる。信越放送の番組を見ると、午後4時54分に始まるキャッチ、テレビ信州では、午後3時50分にゆうがたゲット、午後5時50分にリアルタイム、午前10時54分にZEROと、やはりニュース番組がのきなみぴったり○時という時間をまたいで時間単位の番組を組んでいる。長野朝日放送も同様で、午前11時25分にスクランブル、午後4時54分にJチャン、午後6時17分にabnステーションとぐちゃぐちゃである。5分単位ならともかく、4とな7とかなぜこうも中途半端なのか。それも○時から数分前に始まって1時間単位の番組が始まるから、1日中時間が少しずれたような暮らしになる。しいていえば、まだNHKは00分とか5分といったまだ中途半端さは少ない。

 平成3年のサンケイスポーツのテレビ欄があるので、それで時間を追って見るとどうだろう、ニュースステーションもニュース23も00分スタートである。1時間単位の番組で00分スタートでない番組は見受けられない。記事を作る人もこの方がありがたいだろう。なにしろ最近のテレビ欄は、時間軸の横線が少ない。そりゃーそうだろう、時間をまたぎまくっているから、線が引けないのだ。毎日24時間テレビをやってるみたいに番組欄が横にすっきり並ばないのだ。

 その日の番組を頭に記憶するのも簡単ではないし、何より冒頭でも書いたように、時報がないから「ながら視聴」する者にはまったく役に立たないニュース番組だ。見事に5で割り切れる時間で時を刻んでいるNHK教育が、まさに昔の番組欄である。今のテレビ欄には、そうした中途半端な時間に始まる番組は、何時なのか間違いにくいためか、わざわざ5.50とか、6.17などと時間の数字も部分的に示している。そこにゆくと、平成3年のテレビ欄には、そうした時間を表示しているものが少ない。世のなかは、いまだに●●時という区切られた時間にさまざまな目安が持たれているのに、なんでテレビはこんなめちゃくちゃなのか。とくだらないことを言う人がいないのだろうか。
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**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****