Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ツボ採り

2005-10-31 08:18:21 | 民俗学
 先週は、妻の実家の裏にあるため池管理の日であったが、今日はさらに奥にあるもう一つのため池のツボ採りの日であった。こちらは、先週のため池の上にあるため池で、関係者は4人である。下のため池ではツボ(タニシ)が小さくてツボ採りと言えなくなったことを先週も触れたが、こちらは、ツボが採れるため、ツボ採りという。本当はツボ採りが目的ではなく、1年に一度ため池を干すことによって、ため池の様子を確認する、いわゆる管理目的なのである。最近ではこのようにため池管理のために1年に一度干すという作業を行なわないところがほとんどである。そうした管理を行なわなくなった理由には、さまざまな理由がある。かつては用水をとる斜樋といわれる施設が木でできていて、痛むことが多かった。そうした施設もコンクリートで整備され、同時に泥栓といわれた底樋も整備されて取水施設が傷まなくなった。加えて堤体の法面も波除の護岸が整備されたりして、ため池そのものに対しての管理する意味合いがなくなったともいえる。そうしたことによって、ため池を干して様子を伺う必要がなくなったわけである。
 また、ため池には泥が溜まるが、かつてはこうした泥を取って耕土として利用した。ため池の泥は栄養分があって、乾かせば貴重な耕土となった。
 ごたぶんにもれず今日の作業をツボ採りというように、かつてのような管理目的にはほど遠い作業である。それでも泥栓を抜いて水を出すことで、泥栓の詰まりを防いだり、ここのため池はパイプラインで取水していることもあって、その取水口のスクリーンを掃除したりしている。ところが、今年は泥がずいぶん溜まっていた。普段は10月上旬に行なうツボ採りが、半月ほど遅れたということもあって、例年と比較するには条件が異なるが、ツボも少なかった。寒くなっていることで、ツボが土の中に潜っていたとも考えられるが、いずれにしても泥が多かったことは確かで、ここ数年とは雰囲気が違った。モロコやメダカも採って4軒で分けたが、泥が多かったこともあってか、窒息して死んでしまう魚が多かった。こうした魚は、泥栓の下流側を堰きとめてすくうのであるが、そこへはさまざまな水生昆虫が流れ出てくる。最も多いのがヤゴの類で、種類は多い。また、写真にもあるようなゲンゴロウがけっこう流れてくる。
 さて、今年は主目的のツボが各戸バケツ一杯までなかった。泥のせいもあるかもしれないが、来年の様子次第である。毎年見ているが、微妙な変化があったりして、ため池の環境を維持していくことはなかなか難しい。もともと人為的に造られたものではあるが、そこから自然の様子や変化がよくわかるというのもおもしろい話である。
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ホームページの更新

2005-10-30 20:08:40 | 民俗学
 以前にも少し触れていたが、ホームページを長い間更新せずに、休止していた。2002年5月からだから、もう3年以上になる。その間、更新しようとは思っても、既存のページで更新を続けるにはものたりなさというか、イメージの違いを感じていた。もちろん、当初はまだまだホームページが一般的ではなかったこともあり、シンプルなタイトルで、人受けしやすいものをと考えていた。そして、その内容が民俗中心ときているから、希望とは裏腹に、なかなか一般には受け入れられないような内容であった。
 今日から、心機一転とまではいかないかもしれないが、タイトルを変えて更新を始めた。とりあえずは既存の内容を整理しただけであるが、構成をシンプルにして、やりたいことだけを掲載していこうと思う。ほとんど訪れる人のいないページだったかもしれないが、今までのデータをけっこう削除してもいる。利用されていた人がいたら申し訳ないが、更新せずにストップしていることを思えばましかと思う。
 アドレスはここへ→ http://www.janis.or.jp/users/mitsu/

 さて、昨日自民党の新憲法草案が出された。賛否さまざまだろうが、もっとも恐れることは、やはり国民の多くに安易さがあることである。新聞の街のコメントを読んで少数の意見かと思うと、そうでもないのが、自衛軍の保持への肯定論である。信濃毎日新聞に掲載されたものに、「戦争をするしないを判断するのは、結局世論」という自衛官のコメントがあった。今回の総選挙で、異論を発した自民党員を排除したような流れがあると、世論で決めるには危険が多い。矛盾の多い現在の自衛隊のあり方というが、では、今までの憲法ではやっていけないのかどうか。もともと言葉には曖昧さがあって、どんなに改正しても異論は出る。今の憲法で問題な部分を、改憲論者にあげてもらうと、その先で戦争が可能な憲法にいきついていくように思う。
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長野より近い県庁

2005-10-29 01:29:40 | つぶやき
 甲府の少し先まで行った。甲府市内から東へ10km余走って走行距離は家から140km程度であった。わたしの家から飯田市まで約20kmである。ということは飯田から甲府まで、約150kmという位置にある。以前書いたが、名古屋までは家から140km程度で、飯田から130km程度の位置になるだろうか。道のりからいけば何をもって尺度とするかということもあるが、最短時間で結ぶことができる道といえば、高速道路となる。高速道路での家から長野ICまでの距離は140km程度である。単身赴任している長野までは、高速道路ですべてを走るとお金がかかるため、一般道を半分近く利用する。その道のりで県庁まで行くと、160km程度ある。
 さて、何が言いたいかといえば、やはりその距離感である。「市町村合併の後に」で名古屋と長野の現実的な時間でみた距離感について触れた。明らかに飯田圏内は名古屋が近い。そして、「三遠南信」で地域にとっての枠組みとはどうなのかについても触れた。この地域は明らかに県庁所在地に遠いのである。そして、人々の視点という面でも、県庁が北に片寄っているため、目は常に北を向いているのである。したがって、南を見るときは自ずと「下を見る」ような雰囲気すらある。その現実が、わたしにはこたえられないほど面白くも見える。しかし、その位置取りを無視するかのような、飯田という地域の存在は、大胆な行動をしてもよいのではないか、とも「三遠南信」で触れた。
 ここでもう少し前文のことに触れる。実は、長野市よりも甲府市の方が飯田市からは近い。また、高速の最寄のインターチェンジを利用するといい勝負だが(最寄というと岐阜羽島ICあたりが最も近いかもしれないが)、距離ということだけで判断すると(土岐や瑞浪ICから一般道を利用)、長野市よりも岐阜市の方が近い。ということは、飯田市からは長野市より近い県庁所在地が三つもあるのである。長野県には、県の出先機関が10箇所にあり、それらを現在地方事務所といっている。この地方事務所所在地から県庁までの距離を計算した場合、長野市より他の県庁所在地へ行った方が近いケースがいくつかある。飯田市の3箇所はもちろん最高であるが、このほかにも、伊那市と諏訪市は甲府市が近い。木曾福島町は現在はかろうじて名古屋や岐阜市より長野市が近い。佐久市もけっこう高崎市に近いが、長野市には負ける。ということで、長野県内で他の県庁所在地へ行った方が近いという地方事務所所在地が10のうち3あり、いずれも南信といわれる地域(県内を四つにわけて、東信、南信、中信、北信といっている)にある。ここから、あらためて県庁所在地が片寄っているということが理解できるだろう。三遠南信道のことも以前触れたが、この道が開通すると、あの東西に長い静岡県の県庁所在地の静岡市まで、約180km余という位置になる。もちろん長野市よりは若干遠いが、飯田市も合併によって現在は静岡市と隣接している。そして、飯田市の長野県境域から(合併する前の旧下伊那郡南信濃村)の距離は、長野市より静岡市の方が近くなる。
 冗談ではないが、県境域の根羽村が、豊田市域の合併に参加できるものなら、何度断られても、何度でも合併申し入れを繰り返した方が将来のためになるような気がするのは、根羽村から北へ50kmも離れているのに思うわたしだけだろうか。
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棚田の保全

2005-10-28 00:33:46 | 農村環境
 少し前であるが、地元のテレビで飯山市福島の棚田の収穫祭を報道していた。ここでは保存会が棚田の保全を行っているが、いつまで続くか不安が大きいという。収穫祭にはよそからの参加者を含めて多くの人が集まるが、実際の水田管理には手がかかっているという。とくに水廻りなどに要す手間が大きい。そして今年は、棚田の保存はできたものの、秋の例祭に獅子舞が舞えなかったという。若き舞手がいないということも原因だろうが、棚田という地域の目的がありながら、伝統的な行事は継続できなかったわけである。どちらが大事かといえばどちらも大事なのだろうが、棚田を保全しようとしている他の地域でも、同じような問題は抱えている。そして、よそからの人を受け入れながらイベントを行うことが、自分たちのためになるのか疑問を感じている人たちもいないわけではない。
 ある村の職員が言うには、イベントを村として行い、都会などを中心に大勢の人たちが来るが、それが村の将来のためになるとはなかなか思えないという。村が、村人が負担する手間は、すべてがボランティア的なものである。そうした手間をかけて、村に返ってくるものがあるかというと、今はほとんどない。たとえば将来、そんなイベントに参加した子どもたちが、この村に住んでくれる可能性など極めて少ないし、リピーターとして村の行事に参加してくれたとしても、結局広がりは固定化してきて、より多くの人を呼び込んでいくとは限らない。そして、受け皿としてそんな大きな器ではない。どこでも同じようなイベントを行っているが、似たり寄ったりで、都会人の慰安所になってしまっては意味がない。いや、意味は若干あっても、そんなやり方では長続きはしないし、地域が力尽きてしまう。棚田とはいうものの、聞こえはよいが、地元の人たちの負担を増加させているだけかもしれない。
 千曲市姨捨の棚田は、長野県内でも最も著名な棚田である。ここではオーナー制度が取り入れられており、すでに10周年という。そして、一部は文化庁の指定も受けて、荒らさないための整備も行われている。しかし、必ずしも景観を保つために整備されているわけではない。棚田をまじめに生かしながら、景観もかつてのように保全しようとするのなら、畦塗りをするべきだろうが、畦シートを利用している。また、水管理においても県内ではここだけで採用されている水位調節器を設置しており、たとえば生き物が住みやすいように、水路と田んぼを行き来できるような構造にはなっていない。学者さんたちが集う管理委員会なるものがあるが、認識していてこういう整備をしているのか、はたまた認識していないのか、まるで理解に苦しむ。結局、保存会の方たちが管理していくには、あまりに不利益地なだけに限度があるということになる。文化庁の文化財指定地域でなければわかるが、指定されているところですらこんな状態なのだから、たかが棚田百選などといって名づけられたくらいでは、現実的にそこで管理している人たちには、むしろ迷惑な話なのかもしれない。
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絶望する子どもたち

2005-10-27 08:21:13 | ひとから学ぶ
 「以前なら、全ての生徒について進学なり就職先なりを定め、目標に向かって努力しようということができた。ところが、最近は自分の将来について中3にして投げてしまっている生徒がいる。」というブログ「絶望する子どもたち」を読んで、つくづくどうにもならないこの世の中を垣間見たが、絶望している子どもたちも個々皆違うんだろうと思う。その言葉だけですべての絶望している子どもたちをくくってしまってはならないし、まわりもそうした見方をしてはいけないのだろう。考えてみれば、わたしの中学時代は、まさしく「絶望」の中にあったかもしれない。まず人間不信に陥っていた。多感な時期だけに、自分の意見がなかなか通らなくなると、投げやりになる。けっこう投げやりになる性格であった。けして勉強すればできない、というとんでもない馬鹿ではなかったが、その勉強をやらなければならない、という意味を理解できなかった。「将来などどうにでもなるさ」程度に捉えていて、何になりたいとか、何をしたい、というような希望はなかった。まさしく「やけくそ」な日々であった。先日、中学の生活記録が一冊だけ保存してあって開いてみた。そこは最初から最後までほとんど白紙である。そこに担任の赤い字が躍っている。「○○、返事をしろ」とか「○○」とただわたしの名前を呼ぶ先生の言葉があった。考えてみればとんでもない生徒であった。しかし、別に先生が嫌いであったわけでもないし、何を考えていたのか、開きながら思い出しだが、思い出せない。それが中学3年の時の生活記録なのである。人間不信から少し回復傾向になった要因は、まず自分の好きなことだけをした。まずもってやたらに詩を書いた。ほとんど社会批判的なものであったが、しだいに田舎の暮らしとか、風景を扱うようになり、今で言う「環境」への興味というか、保全意識は強かった。しかし、いずれにせよ勉強ということに嫌気がさしていて、とても進路をまじめに考えるという心理状態になかった。「あわてることはない」と自分の中で思えれば、もう少し間近に迫った進学という質問の回答にあせることはなかったかもしれない。
 また、人間不信からの回復初期には、今でははやらないことだが、文通というのを盛んにやった。「ひとり旅」でも紹介した京都の石仏の知人は、そのころの文通仲間であったし、当時からのつきあいは今でもけっこう続いている。そんなさまざまな人たちの言葉をもらいながら、大人社会の矛盾は矛盾として、良い面も捉えなくてはいけないと思うようになった。しかし、少し遅いというか、あわてなければ、期間をおいて進路を見直せばよかっただろうが、すぐそこに迫った進路をかなり投げやりで選択したことを今でもよく覚えている。なにより「人とは違うところに行けば(進学)よい」というのが選択理由であった。今では珍しくないかもしれないが、当時としては、大人の言うことはきかないし、好き勝手だし、それでいて、不良とは違った。意外にも現代でも子どもとしてやっていけそうな、先進的な人間だったのかもしれない。まさしく進路に対しては、絶望的な捉え方をしていたことは事実である。

 そして今、わたしの会社で働く人々の顔を見ると、やはり望みを絶たれてしまった様子が伺われる。絶対的に将来の展開はないし、いずれ不要となって閉鎖せざるを得ない業務を扱っている。「今をなんとか」と思えるだけ、絶望に打ちひしがれる子どもたちよりはましなのかもしれない。しかし、大人がそんな世界にいて、子どもたちに何を望めといえるだろう。そしてもっと厄介なのは、絶望している子どもたちの親が、子どもたちに何も示せないほど何も考えていないケースがほとんどである。わたしとしては、「好きにすればよい」としか言えないだろう。いずれ10年後は、あるいは20年後は明るい未来があるなどと、今の状況からいえるわけがない。ただ、大人の絶望を子どもたちに与えてはならないし、子どもたちが自ら決断していくしかないわけで、大人の悪い世界をどんどん教えてやればよい、とは、わたしの経験からである。
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普段の気づかい

2005-10-26 08:14:49 | ひとから学ぶ
 なんのことはないことであるが、人それぞれ、考え方も、また行動も違う。多様である、という言葉は、昔はそれほど使われなかった言葉である。なぜかといえば、世の中にそれほど選択肢が多くなかったことにも起因する。ところが、まさにいろいろである。本屋に並ぶ雑誌の多様さ、住宅街に建ち並ぶ家々の多様さ、テレビに映るチャンネルの多様さ、どれをとってもかつてにはない選択肢の多さである。それでも採算性を重視すれば、消えていくものが多く、どんどん変化していく。その速さは、私たちの体感する移動のスピード感よりも、重要な視点かもしれない。どんな分野でも、客にどうすれば受け入れられるかを問う。例えば田舎に活力を出すがために、いろいろ模索するのも、まさしく多様な人々の心をどう捕まえるかという、ある意味商売気風である。限定される環境で、多大な金をもたらせることは不可能なはずなのに、どこか先に光を見出そうとする。けして否定するものではないが、どこかわたしのイメージとは違う。
 以前にも書いたが、会社にいる女性のほとんどは、正規社員ではない。したがって、男性が受け持っている仕事をいかにサポートするかが仕事の出来不出来となる。会社は技術屋さんの世界だから、現実的にそのサポートの量で、男性は女性を判断する。それは女性に限らず、正規社員である男性も同じ視点で、仕事の出来不出来が見えてくる。しかしである。何度も言っていて「またかよ」と思うが、そんな採算を前面に出した視点だけで人々を見てよいものか、と思う。わたしは「甘い人間」かもしれないが、人を人として見るなら、それだけではつきあわない。だから言葉と、行動が伴わない人間ほどわたしは拒む。いや、言葉を出さなくても、行動を見ればさまざまなものが見えてくる。そうした数字で見えないものを大事にしたいし、また、ひととのつきあいには、もっと違うものもあると思う。
 たとえば、気がつくと必ずごみを拾う人がいる。そのごみを気がつくか気がつかないかというのは、日ごろの個人の考え方によって違ってくる。なんでもないことであっても、気がつくかつかないかというところで、また、それをなにごともなかったようにできることに、わたしは尊さを覚える。ひとつの事例に過ぎないが、そうした事例はいくつもあるように思うが、果たして会社の人々が気がついているかどうかは知らない。
 多様さのなかで、人々は個人を尊重するようにはなった。しかし、そのいっぽうで「人は人」という意識が強まり、事件のない穏やかな時間の中では、ものごとに気づかなくなった。どんなに災害や事件の時に人情を見せても、普段の暮らしでものが見えない人間にはなりたくないものである。
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こたつを入れる日

2005-10-25 08:12:25 | 民俗学
 彼岸が過ぎると急にすずしくなり、それから一ヶ月もしないうちから、寒いと感じるようになる。すると、暖房具を使いたくなる。長野県でも差はあるが、標高が高ければ、1年中こたつを開けておく家もある。もちろん年寄りがいれば、こたつがしまわれずに置かれることも多い。わたしも、毎年寒さを感じるようになると、家で「こたつを入れないか」と妻に問う。ところが、こたつにはかけ布団や下掛けなど必要で、出す側にとってはすぐにOKは出さない。妻も納得するほど寒さを感じてくると、ようやくこたつを出してくれる。そんなことを毎年繰り返すのである。しまうときも同じようにかけ引きがある。
 こたつを入れる日については、下伊那郡天龍村坂部では11月下旬の戌(いぬ)の日に入れ、4月下旬の戌の日にあげる。また、午の日に出し入れするのを嫌ったもので、炭がまの口を午の日に開けることも嫌ったという。その日に開けると炭がいくら黒くてもまた火がおきて燃え出すという。同じ下伊那郡阿南町新野では、未の日がよいといった。この日に作ると火事にならないといった。東信の小県郡丸子町坂井では、10月の戌の日につくる。申の日は忌むという。また、北信の上水内郡三水村(現飯綱町)でも戌の日に作るという。犬はずくがあって、こたつなどに入っていないからだという。いっぽう長野市栗田では、戌の日にこたつをつくるなといった。戌は元気がよいからという。このようにまったく正反対のことも言われているが、戌の日に作る、という話はよく聞く。松村義也著『山裾筆記』には「亥ごたつといって十月の最初の亥の日を選んだり、壬(みづのえ)、癸(みづのと)の日がいいなどさまざまなことが言われる」とある。戌の日というのは一般的かと思うと、けっこういろいろ言われているようである。
 いろりがあったころには暖房具がいらなかったということもいわれる。こたつそのものが古い時代にはなかったわけであるから、こたつが現れてから戌の日というものが当てられたわけではなく、もともと火に対して戌が意味をもっていたということになるだろう。今では電気を使うため火事の心配は少ないが、かつてのように火を使うこたつの場合は、火事への心配がつきまとった。そうしたことから、火を使い始める日を選んだわけである。
 掘りごたつの時代には、こたつの縁の回りに渋紙を当てて鋲で止めた。畳が擦れるのを防いだり、オキが落ちたりして畳を傷めることを防いだ。
 ところで、今でこそ「入れる」というが、よく考えると、昔は「こたつを明ける」といった。掘りごたつの場合は、こたつを設置する場所にそれ用の畳がはめ込まれていて、畳と床板をはずしてこたつを準備した。明けるというのは、こたつの扉を開ける、あるいは明かりを入れるというような意味もあるのだろう。さて、わたしの家でも「こたつを入れてほしい」というと、「戌の日に入れる」と返答される。あくまでも口実で、入れるのが面倒だからである。
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牛乳の中を泳ぐモロコ

2005-10-24 08:11:26 | 自然から学ぶ
 日曜日に妻の家の裏のため池を干した。一年に一度の管理の日である。10年ほど前までは、ツボ(タニシ)を採る日ということで、「ツボトリ」といったが、ため池を少し改修してからツボが大きくならず、採って食べるということはここ何年もしていない。だから自然と「ツボトリ」とは言わなくなった。そのかわり、池に生息する魚を採って食べるのである。メダカが多いため池であるが、今年はメダカが減ってモロコが増えていた。モロコが増えたことで、メダカを食べてしまって減ったのではないかといっている。そんなこともあって、今年はモロコをたくさん採って、関係者で分けた。
 煮ようとして洗ってザルに入れてしばらく置いておき、煮たわけであるが、妻が台の上にあった甥が飲みかけた牛乳の入ったコップの中で泳いでいるモロコを見つけた。どうも煮る寸前のザルから飛び跳ねてコップに入ったのではないかという。ザルからコップまでは、そこそこのジャンプでは移動できない。よほど煮られるのが嫌だったのだろう。そんなことで、妻は、牛乳の中を泳いでいたモロコを洗って、ため池まで行って返してあげたという。命拾いをしたモロコの事件であった。
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労働の価値観

2005-10-23 00:31:46 | ひとから学ぶ
 内山節は他人の労働をあざ笑う社会を説く。信濃毎日新聞10月22日朝刊「哲学の構想力」で、「郵便局の人たちの労働を尊重する気風など全くなくなり、郵便局員を既得権にあぐらをかく公務員に仕立てることによって、他人の労働を非難の対象にして、それを選挙の道具にしたのが、いまの首相である。それを改革というのなら、改革とは他人の労働をあざ笑う社会をつくることなのだろう」。そして、選挙で指示されたということは、そうした風土が明らかに、この国に定着しつつあることを示しているという。まさしくその通りなのだろう。もっといえば、労働の価値観が変化してきたし、労働=汗水たらす、という式は適合しなくなったといってよい。このことについては、わたしが、このブログを開設した時に真っ先に触れた(「生業」参照)。
 少し前のことであるが、ある役場の人と災害現場で話したことである。「昨年災害がたくさん発生したが、現場で働いている主な人たちは年配の人たち。この人たちがいなくなったとき、もしこんな災害が出たら、建設現場は対応できるだろうか」というものであった。技術や管理という部分では、かつてとは比較にならないかもしれないが、こと、現場で実際に働く人たちがいなくては、モノはできない。ようは口、言葉だけではモノはできないのである。近年、モノつくりのことがよく取り上げられる。わたしが危惧しているような点を、報道や行政も気にしているようである。かつてのやり方が正しかったとはいわないが、危険な現場でも、それをクリアーするだけの技や経験があった。ところが、今は安全第一という視点のなか、すべての現場は共通な指針をもとに管理されるようになり、危険にさらされるようなことをことごとく排除しようとしている。当たり前のことといえば当たり前だが、融通がきかず、そして、かつての経験が生かせなくなってきている。
 汗をかかずとも稼げる仕事は、「よい仕事」ということになる。そんな仕事はないものかと、みんなが考えている。ご多分に漏れず、わたしも先がない自分の会社をいつ辞めることになるか不安を抱きながら、仲間と「何かよい仕事ないかなー」と会話をする。もちろんこのときの「よい仕事」とは、少しくらい給与が少なくても、楽な仕事、あるいは、よい賃金を稼げる仕事に該当する。結局、今の現状をみながら、そうした比較がされるわけで、苦労さえすれば「なんとかなる」はずなのに、そうした選択はできないのである。今に慣れてしまえばそんなものである。そりゃ労働時間が少なく、体に負担のない仕事があればそれにこしたことはない、と思うのは現代人である。
 オフィースなんてきれいな言い方をすれば聞こえはいいし、格好もよいかもしれない。よその者には見えないわけだから、どういう手口なのか、何をどう動かしているのかわからない。かたちが見えないのだから、外部のものが労働を尊重するというようなことはできないだろう。もし、子どもに職場を見せても、そこで働く親の具体的な姿は見えない。「労働」から何をとらえればよいか、今は見えないのである。そんな世界で稼いでいる人たちには、例えば郵便配達をしている人たちに、「ありがとう」という言葉をいえないだろうし、まさしくあざ笑うこととなるのだろう。労働の価値については、「親の仕事」や「人員削減」でも触れた。体を動かす仕事は多くを稼げない。昔なら人に嫌われる仕事は賃金が高かったが、今はどうだろう。ろくに汗を流さずとも高額な稼ぎができる人たちが多くなり、そんな姿が見えてきたからますます価値観は変わる。
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悩み、それとも迷い

2005-10-22 01:31:40 | ひとから学ぶ
 今年会社へ入った女の子が、コンピューターの前でピタッと止まったまま動かないでいる。何を悩んでいるのか、そんな問いかけをするまでもなく、わたしの顔を見たら、何か質問したいような顔をする。しかし、なかなか質問の言葉が出てこない。何をどう聞けば良いかがわからないでいる。悩んでいるのか、考えているのか、はたまた迷っているのか、そのへんはわからない。でも、目が合うと、いつもニコニコしながら、迷いの表情をする。現場に出る車の中で彼女に、こう質問した。「あまり悩みはないかな。そんなことはないか、甘いものに目がないから、食べたい、そうは思うけれど、太るのが気になる、それは悩みかな」。彼女はいつも甘いものが好きなことを、自ら話していた。でも、夜にはひかえなくてはいけないと思って我慢することあるともいった。そんな会話を思い出しながら、彼女にこんな質問をしたのである。彼女は運転しながら「そうですね」という。「それって悩み、それとも迷い、どちらかなー」なんてわけのわからないことを言ったら、ますます話ははずんだ。悩み、それとも迷い、・・・考えているのか、どれもよく似てはいるが、果たして彼女はどういう状況なのか、コンピューターを前に、指も動かず、画面に見入って止まっている姿を思いながら、そんなことを話した。
 悩みと迷いは違うのか。あるブログにこんなことが書いてあったことを思い出した。
「迷いの根本は臆病である。結果を出す事への逃げなわけだから考えがまとまらない。必要なのは覚悟であり精神論。悩みの根本は向上心。自己の限界への挑戦であるからあとは行動。大事な事は努力。この違いは大きい。100メートルを10秒で走ってどうなるのかを考えている奴と、100メートルを10秒で走るためにトレーニングを積んでいる両者には「やる気」に違いがある。だから迷う者は成長が鈍く、悩む者は成長が早いと考える。つまり「悩み」は人生においてその人個人の成長のためにはなくてはならないものであると考える。」
 うーん、なかなか難解である。悩みは向上心か・・・。希望や望みといったものが悩みで、迷いは単純なものということになるだろうか。そう解けば、確かに、悩み多いことは人の成長をもたらす、ということになり、納得できるような気もする。いろいろ検索してみても、ほとんど悩みと迷いは混同して使われている。都合よく「悩み」と使ったり、「迷い」と使ったりしている。広辞苑から拾ってみよう。
 悩み―①なやむこと。くるしみ。思いわずらい。②やまい。病気。わずらい。
 迷い―①まようこと。まどい。②まぎれること。まぎれ。③乱れること。乱れ。④成仏の妨げとなる死者の妄執。悟り得ぬこと。・・・
 考えていて、その過程で苦しみがあれば患いとなる、そんな解釈が悩みといえるだろう。そして、選択肢から選ぶことができない、あるいは決断できないといった、考えがをそれほど伴わないものが迷いになる。そう考えれば、テストで選択肢があるマークシート方式なら、考えなくとも選択はできる。ようはそれほど勉強しなくても選択くらいはできるということで、より勉強してない人ほど迷いは多くなる。地道な努力なくして迷いは晴れない、ということになるだろう。ところが悩みは、どれほど努力しても晴れない。このへんが明確な違いだろうか。
 さて、彼女の解説では、悩みは深さがあり、迷いは浅い、という。違いが明確ではないが、印象としての捉え方である。こんなことを考えてみたこともなかったが、彼女の迷い、悩み、それとも何なの、という顔を見ていて思いついた疑問であった。きのうも停止した姿を見て、「悩んでるの、迷ってるの」と思わず聞いてしまった。
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首相靖国神社参拝から

2005-10-21 08:23:08 | ひとから学ぶ
 小泉首相の靖国神社参拝が波紋を呼んでいる。「中国とか韓国の言うことに耳を傾ける必要はない。日本の神社に、日本のために参るのは当然だ」とは、昨日の新聞に掲載されていた大学生の言葉である。最近は、靖国神社に参拝する若者が多いという。明らかに靖国神社は、国民の間で象徴化してきているように思われる。意外にも、多くの新聞や報道が、靖国神社参拝問題を負の遺産として取り上げながらも、世論は、それら報道の影響をほとんど受けていないかのように、小泉参拝を正当化しようという意見が多い。参拝した10月17日のニュース23で、該当インタビューを扱いながら、アナウンサーは「意見が拮抗している」ことに、意外だというニュアンスで報道していた。報道がこれほどまでに小泉参拝を否という印象で捉えながらも、世論は「どうもそうでもないぞ」と認識したに違いない。
 日本は、かつての戦争において隣国に与えた傷を、表立って反省することを避けてきた。それがために、同じ地域にありながら、批判を被ってきた。そして、国民にも多くを語らず、隠された事実は多いと聞く。わたしのようにすでに半生を過ぎた者であっても、戦争の事実に疑問が多く、また、知らないことが多すぎる。たかが、戦後10数年後に生まれたというのに、まったく戦争の雰囲気がない世界で成長した。それほどに、戦争経験者は、戦争を語らなかったわけで、自ら負の遺産を認めてきたわけである。にもかかわらず、現代になって、戦争を知らない者が、日本のために参る、などという言葉を発すると、驚きを覚える。ニュース23の該当インタビューを聞いていて、アナウンサーが意外という言葉を発する前に、わたしはこの国の変化に不安を感じていた。
 果たして国のために英霊は散ったのか。戦争が不可避であったという判断は、国がしたことであって、戦争に行った人たちが判断したものではない。戦死者を弔うことは否定しないが、靖国神社という国が神格化した象徴に、戦死者の魂が宿っているとは思えない。戦死した人たちに、言葉はないのだから。
 1975年を最後に天皇は靖国神社を参拝していない。A級戦犯合祀問題によって参拝しなくなったというのに、なぜ首相は参るのか。そんな主張をするから、認識もしない若者や国民が、靖国参拝を正当化し、また、いずれは戦争すら正当化することになっていくのである。どんどん日本人らしくない姿に変容していくことが憂鬱であり、100%とは言わないが、かなりの確率で、いずれ「戦争放棄」を放棄することになるだろう。どうみても損な行動なのに、あえてそれを行うということは、そこに別の採算があるのか、あるいは大きな意図があるとしか思えない。郵政民営化に反対した党員を排除した直後ということもあるだろうが、チルドレンはもちろん、次期政権周辺にある者から強い批判が出ないのも、今を物語る。
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遠い川

2005-10-20 08:19:05 | 自然から学ぶ
 「川で遊ぶ」において、川で魚を採るのに鑑札が必要だ、ということに触れたが、数年前、天竜川で特別採捕許可申請をして、魚の生息調査をしたときのことである。ある先生が、「生息調査であっても、トラブルを嫌って、漁協がうるさい」というようなことをいわれた。ようは、調査しているからといっても、一般の釣りの愛好家にとっては、まだ投網が解禁になっていないのに投網を使っていたりすると、苦情があるという。場合によっては、その場で口論になってトラブルになるケースもあるという。トラブルがあったことで、漁協も神経質になっていて、調査側に対しての要求が高い。先生いわく、「川は漁協のものではなく、みんなのものなんだから、川を使わせてやる、というような態度はおかしい」と。
 わたしもこのとき、特別採捕の申請をしながら、漁協によって対応がまったく違うことに気がついた。天竜川では、上伊那郡と下伊那郡の境で漁協が異なる。上流は天竜川漁協。下流は下伊那漁協である。左岸から合流する小渋川合流点と、右岸から合流する片桐松川合流点を結んだ線で、この管轄が分割されている。下伊那漁協で話をしていると、特別採捕の許可は漁協が出すんだというような言い方をする。ところが天竜川漁協では、許可は長野県が行うもので、漁協は特別採捕を認める(あるいは同意というような意味)というようなニュアンスであった。それほど意味に違いはないかもしれないが、片や許可は漁協が、片や同意と、重さが異なるのである。実際は許可を出すのは漁業調整規則を定めている長野県であり、漁協には同意してもらうという天竜川漁協のイメージが正しいのだろうが、下伊那漁協は強いのである。全国でも組合員数が大規模な方といわれるだけに、その権力が強く、「県が認めてもうちは認めないぞ」というような声が聞こえてきそうなのである。事実天竜川漁協は、夏から冬というような長期間の採捕を明記して申請しても同意してもらえるが、下伊那漁協はそれではだめで、期日指定をして、それもその都度申請するよう指示されたのである。本物の特別採捕申請は長野県に、どちらも長期間の申請をだしたものの、下伊那漁協に対してだけ、別に採捕申請を行わなくてはならなかったのである。そして、期日を指定したからといっても、必ずしもOKは出ないのである。釣り客が多い時期は認めてくれないし、土日も制約がある。「川は誰のもの」という気持ちは、釣りなどをしない一般の者には強く感じられる。こうした住み分け理論が、人々を、とりわけ大人たちを川から遠ざけた理由の一つにもなっているのではないか。
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川で遊ぶ

2005-10-19 08:10:33 | 民俗学
 信濃毎日新聞の特集記事「天竜川と生きる」にヤナ漁が掲載された。現在天竜川でヤナ漁が行われているのは、紹介された上伊那郡中川村の天の中川橋近くで行われているものだけである。10年ほど前、中川村三共で天竜川漁協の組合員で、ヤナ漁をされている方に話を聞いたことがあった。本人も漁協の組合員であるが、昔のことを思い出しながら、かつては誰でも天竜川で魚を採ることができたといい、今では漁協の鑑札がないと採れなくなってしまい寂しいというようなことを話された。とくに特殊な漁法については、長野県漁業規則なるものがあって、規制が多く、誰でもできるものではない。新聞記事でかつての経験談を話されている40代の男性は、わたしの高校の時の同級生である。彼が言うには、「小学校二年生ころから、地域『川は危ないから遊びに行ってはいけない』といわれるようになってしまった」という。そして、「川に行くと学校で怒られた。そう教えられたから、同世代は今も川には来ない」という。こういう規則のようなものは、今も変わらずあちこちにあるが、わたしの小学校のころのことを思い出すと、そんな規則があったかどうか思い出せない。中川村のすぐ近くであったが、よく天竜川に行って遊んだことを思い出す。以前にも少し触れたが、わたしの家は支流の与田切川の氾濫原にあった。だから、伊那谷を襲った昭和36年の梅雨前線豪雨災害では、床下浸水をした。その後も子どものころには、雨が降ると堤防が決壊する心配がしばらくはあった。現在では河床が下がって、そういう心配はなくなったが、かつての暮らしは川とのかかわりがずいぶん深かった。もちろん、新聞で同級生も触れているが、氾濫後には河原に流木が流れてきていて、それを拾って来てたき物としたものである。その与田切川には、毎日のように遊びに行ったものである。そして、天竜川の合流点までの間は庭のようなものであった。合流点のことを「吐き出し」といったもので、吐き出しの天竜川には島があって、その島によく登ったものであった。その島と対岸の中川村南向との間は、川が比較的緩やかになっていて、深い淵があって、夏にはそこへ泳ぎに行ったものである。天竜川で泳ぐのは禁止だったのかもしれないが、明確には覚えていない。
 新聞の記事を読む限りでは、かつての子どもたちが寄り集まる姿が、本来の川の姿であったように記述しているが、それほど深い意味があったわけではなく、遊びといえば、とくに男の子には「川」か「山」が対象の空間であったように思う。それは、稲作の時期には田んぼは遊びの場としては利用できなかったし、今のように荒地というものが少なかったわけで、自ずと川とか山という空間が空いている空間だったといえる。天竜川右岸の片桐田島の大正14年生まれの男性は、天の中川橋の向こう(左岸)に小さな店があって、子どもたちの遊び場だったという。小さな小屋にヨシズを立てかけて歳をとった爺さんが投網を編んでいたもので、その人をみんなアミリキサと呼んでいたという。子どもたちはそこへ集まっては網を編むのを見ていたが、左岸側の大草や葛島(かつらじま)の子どもたちも来たという。集まって見ているだけで、何も買わないものだから爺さんに何回も追い払われたという。川が地域の境界にあるということもあって、よその子どもたちと共有する場所でもあった。三共の大正8年生まれの男性は、右岸の片桐と左岸側で水あびの場所を争って喧嘩をしたという。泳ぐ場所は自然と別のところで分かれていたが、泳いでいるうちに近くに寄っていき喧嘩になったという。天竜川という空間をはさんだ両岸の子どもたちが争うということはよくあって、そうした時に石を投げたり悪口を言い合ったりしたという。
 このように、川は①遊びの場、②境界域にあることが多く、ほかの地域の人とのかかわりを持つ場であった。そして、川の中だけが対象域ではなく、川を渡ることで、冒険心を広げていったようである。互いの地域から川を渡り、段丘を登り、よその土地のスイカなどを盗んで食べるというようないたずらもしたという。さて、わたしはどうだったかといえば、与田切川も天竜川も対岸は絶壁になっていて、対岸を越えてその先まで足を伸ばすということはなかった。もちろんそんな環境だったから、対岸からよその子どもたちがやってくるということもなかった。それでも、対岸の絶壁の中でも少し緩く、でこぼこがある場所を狙って、その崖を登ったこともあった。高さにして30mくらいはあっただろうか。そういえば崖を登りきるあたりの地層に、土器が埋もれていて掘り出したことを思い出す。中学、そして高校となるにしたがい川への興味はなくなり、また忙しくなって遊びに行くということはなくなったが、近年、兄の息子が、よく川へ行って虫を採ったりしている姿を見て、いかに自分の住む空間を、子どもたちが上手に利用できるかは、子どもたちの創造性にゆだねられるものであって、けして、現代の子どもたちが規則で川を身近に感じなくなったとは思えないのである。
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独居老人世帯のタクシー代

2005-10-18 08:11:08 | ひとから学ぶ
 ある村の話である。独居老人世帯に対して、どこかへ出かける際のタクシー代を村が負担するという。この村は合併協議で自律を選択した村で、おそらく合併するとこのシステムはなくなっていただろう。その負担の内容の詳細は知らないが、冷静に考えると矛盾も多い。独居世帯といっても子どもたちがいないわけではない。例えば近在に住んでいて、家からそれほど遠くなくても独居世帯といえば独居世帯になる。地域のつきあいの際に、息子たちが帰ってきて対応する。そういうケースでも村は面倒をみる。細かい環境をどうのこうのといったら、不公平感が出てくるので、事務上それほど手を掛けないように補助金を出すには、仕方のないことである。では、同じ村の中に別居している場合はどうなのか、あるいは、同じ村の同じ地域に別居していたらどうなるのか、そのへんはわからない。補助をもらおうと思えば申請するし、それを不公平感と思えば、申請しない人もいるだろう。結局、システムを認識していること、そして、そのシステムに矛盾があること、さらには、そのうえでも自分が申請者となり得るのなら申請する、そんな個人の責任上のことである。ここで、わたしはそうした細かい矛盾だけを問題にするのではなく、さらに奥の深い課題があるだろう、そう思う。
 独居世帯に子どもがいないというのならわかるが、例えば都会に出てしまって帰ってこないという場合は、明らかに独居世帯となるだろう。しかしである。都会に子どもがいても、そうした環境を選択したのは親であろう独居老人である。過疎で人がいなくなり、田舎に多大な援助をすることを適正ではないという理論が飛び交うなか、田舎は自ら自分の首を締めてきた。もちろん、個々の住民の判断だから、「そんなことは勝手なことだろう」という意見は当然である。しかし、このような状況のなかで、どう田舎が生き抜いていこうと思案しているというのに、子どもたちは生まれた故郷のことをあまり意識しない。まるで、都会人になりきっているケースをよくみる。村がこうした補助をすることが適正かどうかにも疑問はあるが、でも、村で生活する人々を支援しなくてはならない。あたりまえといえばあたりまえであるが、大行政体が、地方を支援するのは、そうした背景もあるはずなのに、理解はない。
 どうも地方もそうだし、中央もそうだが、公務員といわれる人々に、そうした現実を認識していながら口をつぐんでいるのではないかという感じがする。もちろん、守秘義務といわれるものはあり、何でもオープンにはいかないだろうが、これほどまでに地方が成り立たなくなっている現在、もう少し本当のことを言って欲しい、というのがわたしの気持ちである。いや、そういう場があっても、それほど深く考えていない人ばかりなのか、そのへんはわからない。
 わたしの会社は、わたしのように転勤で遠隔地に行っている者が何人もいる。数年前までは、こうした単身者も含めて、遠隔地に赴任している人に自宅までの旅費というものを、ケースによって違うが月に何回分か払ってくれた。しかし、会社運営が良くないため、多くの補助がカットされ、これもなくなった。小さいなりにも組合というものがあって、こうした不公平な転勤がある会社にあって、この補助だけはけしてカットされてはならないものである、と当時は自宅から通っていたわたしは意見をしたが、だめであった。その代わりといって、組合が組合費の中から遠隔地赴任者に年間一律2万円を払うようになった。しかしである。たかが50km程度に家族で別居して、それも自分の都合でそこがよいといって住み着いている人にも、そして、150km以上離れていて、単身赴任者にも同じように支払っている。これは当初の村の独居世帯の申請と同じだが、認識として、自分がそこに該当するのかという個人の判断になるわけである。これほどまでに不公平感があっても、当事者が何も思わないとしたらどうだろう。いや、金をちらつかされれば、誰でも欲しいものであるから、人のことなど考えないのが当たり前かもしれない。そんなことを考えているわたしが、一番損をするのかもしれない。
 独居世帯のタクシー代の話は、妻との口論であった。現実的に車を運転できない老人世帯では、絶対必要という理論はわかるが、果たしてその背景は奥深い。
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花粉症

2005-10-17 08:22:42 | 自然から学ぶ
 秋も花粉症で苦しみ、という新聞記事を見て昔のことを思い出す。10年ほど前まで数年間、上伊那郡飯島町の公営住宅に暮らしていた。町の中心部から少し外れた畑地帯にあったが、6畳くらいの庭付きの住宅で、周辺にも荒れた土地があった。庭の草を取っていた妻が、目がしょぼしょぼしてくしゃみが出て、何だろうという話になった。妻は杉の花粉症にもかかるタイプで、症状は明らかに花粉症であった。調べてみると、夏場から秋にかけてはブタクサが花粉症の原因になるということがわかり、それまでブタクサというものを知らなかったが、庭をみてみると、そのブタクサがすごい勢いで生えているのである。杉花粉より症状がひどいということで、それからは妻は庭の草を取るということはしなくなった。もちろん、夏が過ぎて涼しくなる季節であっても、窓は締め切りですごした。わたしもブタクサというものを認識していなかったが、よく見ると、その住宅の周辺は、ブタクサだらけで、雑草の王様のようにどこにでも生えていたのである。周辺の荒れた畑を除くと、背丈ほどになったブタクサがびっしりと生えていて、これでは花粉症になるさ、とあきらめたものであった。わたしは杉の花粉症は大丈夫で、このブタクサにもそれほど花粉症の症状が出なかったため、それ以降は、この時期の庭の草取りはわたしの仕事となった。公営住宅の敷地内でブタクサを取るということもしたが、いかんせん、隣接地は人のものであるから、そうした土地の草まで刈り取るというわけにはいかず、この住宅を去るまでは我慢するしかないというのが現実であった。
 それからというものブタクサは常に認識するようになり、同じ町内をまわった際に、ところどころでブタクサを見ることがあった。人のあまり立ち入らないような荒れた土地にもそうした草が繁殖している姿を見て、知らないうちにずいぶん広がっていることを知った。数年前、天竜川の小渋川合流点で植生調査をした際、はじめてオオブタクサというものも知った。ブタクサに比べるとさらに背丈は高く、花粉はブタクサより少ないだろうか。河川では普通のブタクサよりはこのオオブタクサが多く見られた。
 この9月に仕事で中条村を訪れた際、同行した会社の女の子がくしゃみや鼻水が出て大変なことになった。わたしも若干くしゃみが出たりして、周りを見回したがブタクサはなかった。どうもヨモギの花粉が原因のようであった。わたしは杉もブタクサも気にはならないが、初夏に花が咲くアカシアの時期にはけっこうくしゃみや鼻水が出る。それほど花粉に対して敏感ではないが、花粉がたくさん舞っている中に自ら入っていけば、もちろん症状が出る。伊那谷では梨の栽培が盛んで、梨の場合花粉付けという作業がある。俗に「花つけ」というが、この作業は、梨の木の下で梨の花に向かって花粉を付けるもので、上を向きながら作業をするため、当然花粉が自分の顔に向かって舞ってくる。さすがにわたしもこの作業は苦手で、妻も息子も手伝いに行ったことがあるが、ひどい状態になる。息子の学校では校外活動としてこの花つけを行なうが、花つけではない作業にしてもらっている。
 このようにひとくちに花粉症といっても、1年中花粉が飛んでいて、敏感な人には住みにくいことになっている。
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