Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

記憶に残る風景

2005-11-30 12:33:51 | つぶやき
 記憶に残る風景というものを、自分の頭の中で思い出してみると、さまざまなものが浮かんでくる。しかし、どうだろう。子どものころの思い出というものは、意外にも色彩が乏しい。たとえば昔の写真を引っ張り出してくると、中学生くらいになるとカラー写真が残っているが、それ以前となると、カラーはまれである。子どものころの白黒写真をながめていても、何色だったか思い出せないし、ましてや同じような風景に、現在みる色を、その写真に彩らせることはできないのである。それほど昔の色を覚えていない。また、たとえカラー写真であっても、色あせた写真からは、それらしい色を認識できるだけで、その色がとくべつ意味を持っているとはかぎらない。だからこそ、記憶の中にあるイメージとか風景には、色彩が乏しいのである。特別記憶に残るものが、色をイメージしているものであれば、その記憶が強く残るかもしれない。トマトの色とか、りんごの色などのように、個別の一物体を印象としてもっていれば、けして色彩が乏しいわけでもないが、色を強く意識しないような記憶は、どうみても霧の中に包まれている。
 わたしの家にはカメラというものがなかった。昔はどこの家でもカメラがあったわけではない。教員には必需品だったから、家族に教員がいると、古い写真が多く残る。しかし、農家がカメラを持っているということはなかった。わたしがカメラに興味を持ち始めた中学のころ、親戚からもらったレンジファインダーのカメラが初めての我が家のカメラだった。当時は今と違って、白黒写真の方がカラー写真より、現像するにも焼付けするにも安かった。そんなこともあって、中学のクラブでは写真クラブに入って、自ら印画紙へ焼き付けるということもやった。その後10年くらいは、白黒の方が安かった。そんな時代の写真を知っている者には、現在のデジタル環境は想像すらできないものだった。携帯で写真が撮れるのだから、かつてのめったにカメラがなかった時代に比べれば、変化は大きい。とすれば、それだけ多くの人々が写真としてさまざまなシーンを保有しているわけで、映像資料は昔にくらべれば莫大である。
 わたしは記憶にある場面に色彩が少ないといったが、こうした現在の映像氾濫時代の子どもたち、あるいは若い人たちには、記憶に残る映像に色彩があるんだろうか。常の環境が変化していけば、ひとの認識機能、記憶機能というものも変化していくのかもしれない。
 「モノクロの彩り」というホームページを開いた。更新もしなかったHPを久しく更新するようになったら、たとえば容量の問題もあったりして、従来から保有していたページには、重いデータはたくさん置けない。そんなこともあって、先にも紹介したが、音声データは「音の伝承」で、画像データはこの「モノクロの彩り」で公開していくことにした。まさしく、わたしの記憶は、どちらかというとモノクロである。でも完全に白黒ではない。何かしらの色が少しではあるが、記憶には残っている。白黒ではなくてモノクロなのである。
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高校再編問題から

2005-11-29 08:13:49 | ひとから学ぶ
 長野県では高校再編案が地域ごとに議論されていている。県教委は、全日制89校を再編して75校に、定時制23校を再編して13校にする予定で、今年になって県教委としての再編案を提示して、たたき台をもとに地域で議論してきた。簡単にいえば高校を削減するわけで、たたき台である県教委案がいきなり提示されたときには、県内が大騒ぎになった。「なぜいきなり対象高校名を出すのか」と。削減されるとされた高校には、まだ歴史の浅い学校もあれば、伝統校もあった。とくに伝統校にあっては、卒業生も多く、地域を担っている人たちの母校もある。削減ありきで進められた県教委のやり方に、不満は続出したとともに、もちろん在校生からも「おれたちの高校をなくさないでほしい」という意見が出て、先行きを案じる声が多かったが、いかんせん人口が減少しているとともに、子どもの減少はさらに顕著で、将来を考えれば致し方ないという雰囲気があった。そのため、たたき台ありきではなく、改めて地域ごとの再編を議論してきている。
 実は県教委再編案によるところでは、わたしの母校は廃止ということであった。わたしは高校時代がとてもつまらない3年間だったということもあるが、母校に対して特別な気持ちもなく、なくなっても仕方がないという気持ちはあった。伝統校であるから、卒業生がたくさんいる。ましてや高校野球の優勝校であるから、反発は多いだろうという印象はあった。しかし、予想したほどの反発はなかったように思う。わたしが普段遠い地にいるからそれほど声が聞こえなかったのかもしれないが、むしろ他の地域の方が反対の声は大きかった。さまざまな反論はあったが、冷静に案をみれば、意外にも順当な案であったように思う。校舎が新しく、敷地の広い高校を優先して、その近在にある高校を廃止するという案で、視点を変えれば、そんな理由で廃止するのか、という意見もあるだろうが、経営側にとってみればごく自然な流れである。
 さて、南信地域では、当初上伊那で1校、下伊那で1校廃止という案であったが、縦に長い地域性ということもあるのだろう、諏訪でも1校廃止して各郡1校減という案でまとめようということになった。年内にその検討結果を報告するようにという県教委の指示にもよるが、時間がないということもあって、この23日の推進委員会では、各郡の削減案によって校名を示すというような流れであったという。ところが諏訪と上伊那は対象校名を発表したが、下伊那は発表しなかった。このことに対して発表した地域が、下伊那の対応を批判して、推進委員会がもめているようだ。公開で議論している下伊那のやり方では時間的に間に合わない、という批判なのである。もともと削減対象でなかった諏訪も1校減でいこうと理解したはずなのに、もたもたしていたら、共通認識すら覆されかねないという危惧なのだろう。
 再編に対しては、知事の意向も強かったのだろうが、県教委案が出たときも、口数は少なかった。地域の批判が出る問題なので、知事はあまり表に出てこなかったといえよう。ある意味県教委が悪者になりきってでも、再編せざるを得ないという現実を思い知らされる。県立高校というものはたくさんあるが、経営者はひとつなのである。だから、ランク付けされていれば、まず進学校はその対象からはずされる。あいまいな高校は、先のようにその立地上の環境で削減対象になる。ここが大きな問題なのである。私立のように学校ごと経営が違うのなら、それぞれの学校ごとに特徴を持たせなければ経営が成り立たない。ところが県立高校は、県が経営者だから、特徴はといえば学力のランク付け程度である。私立の佐久長聖高校が、スポーツの名門に加えて進学校としての特徴をすでに見せている。こうした経営感覚は、県立高校にはない。真に高校教育の再編を目指すのなら、統合されようが母校がなくなろうが、これからの子ども達のことを考えて、どうすればよい環境が整えられるのかを考えるべきで、どこの高校を廃止、あるいは統合するかなどという目先のことを考えていてはだめである。おそらく県教委もそのくらいのことは認識して再編しようとしているのだろうが、地域の考えはどうしても目先にいってしまう。なによりわたしが憤慨するのは、意外にもこうした地域の再編の推進委員は、いわゆる進学校の出身者が多く、かれらにとっては対象校に対しては当事者ではないということである。これからの子ども達のことを優先して、よく考えてもらいたい。これは、削減対象校出身者としての気持ちである。
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悪玉と善玉

2005-11-28 08:14:48 | つぶやき
 朝青龍の強さばかりが目立つ相撲である。11/26の優勝決定の際には、たくさんの座布団が飛んだ。座布団が飛ぶのにもいろいろ理由がある。勝って当たり前と思われる強い力士が、どうみても力では弱い相手に負けたりすると、そのふがいなさにブーイングの意味で飛ばされたり、あるいは力不足でも強い相手を倒したことへの祝福の意味もある場合がある。前日の琴欧州との一番では、さすがに大関とりに燃える琴欧州が、前半戦のふがいない負けを取り戻すかのような力のはいった相撲を取った。この場合は、立場上弱者が強者を破ったという一般的な座布団投げの風景であったといえる。ところが、優勝決定の際は、順当に横綱が弱者を倒したのであって、なんら番狂わせでもないのに、座布団が飛んだのである。九州出身の魁皇が、地元でありながら何とか角番をクリアーするのがやっとの状態では、そのふがいない横綱との対戦内容に腹を立てての座布団ならよいが、横綱が負けることを楽しみにしていて投げられた座布団なら、いただけない話である。ついでに千秋楽の千代大海戦においても、若干ではあるが座布団が飛んだ。
 ご存知のとおり、小錦や曙の登場以来、相撲の舞台は外国人力士に彩られている。加えてこのところの朝青龍の強さは、どうにもならず、その気持ちのよりどころが見えずにあがいている姿がある。そんなこともあって相撲人気もがた落ちで、このところの場所の様子をテレビで見る限り、ずいぶん客の入りが悪い。外国人が強いと、どうしてもそうなるのは仕方がないが、良いものには良いという賞賛を与えられない、やはり国民性なのだろうか。それでも、昨年のサッカーアジア大会でもわかるように、自国を応援したいのは、どこの国も同じで、ことスポーツの場合は、政治の力が時には見え隠れする。そういう意味でいけば、自国の選手の奮起を願うしかないが、技というものはそれだけではない部分があることも、理解しなくてはならない。
 朝青龍の場合、どうしても取組み前の顔つきや態度で、悪役(悪玉)になっている。いっそ悪役でもいいので、がんがん悪役として連勝すればよい。きっと、朝青龍がいなくて琴欧州が強者でいれば、おそらく琴欧州は悪役になっただろう。ところが、朝青龍がいて琴欧州の登場だから、ここ数年の間は、琴欧州が善玉として人気を得て、悪役朝青龍に立ち向かっていく場所が続くだろう。いや、誰でもよいのである。立ち向かう相手を望んでいるのである。観客は、外国人だろうが日本人だろうが、そうした役を設定して、対戦を楽しむのである。かつて、北の湖と輪島がいた輪湖時代には、明らかに北の湖が悪役で、輪島が善玉だった。世の中は常にそんな役割を求めているのである。そういう見方でいえば、朝青龍ひとり強いだけではおもしろくない。だかこそ、日本人じゃなくてもよいから強い相手が出てくることをみんな待ち望んでいるのである。
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叙勲から考える

2005-11-27 00:24:20 | ひとから学ぶ
 ひとをけなすことはできても誉めることはなかなかできない。日本人の精神的な部分なのだろう、「はずかしさ」というものが特別今も「らしさ」だとしたら、致し方ないことなのかもしれない。11月24日付信濃毎日新聞特集記事に「叙勲制度の意義は」というものがあった。春と秋におこなわれる叙勲は、2003年に制度見直しがされ、等級付けや官民格差是正が行なわれた。にもかかわらず、制度の意義に対しては異論も多い。長年の苦労を称える、いわゆる誉めることを国が行なうということに意味はあるのだろうが、視点を変えれば、国家意識を強くもたらせるための意図的な制度利用も可能だ。他国ではそうした意図で叙勲されているケースもあるというし、日本の叙勲ももともとはそこに発しているのだろう。
 叙勲の季節になると常に思うのだが、公務員経験者が多いというのは思う。継続するということが大事とされていたかつての流れなら、公務員はおおかたの人が定年まで普通に過ごす。それでいて通常に勤務すれば、そこそこ肩書きもつく。そうした普通の暮らしをしていた人でも誉められるということは、たいへん良いことなのかもしれないが、だとすれば公務員でない人たちはどうなのかということになる。そんな論議もあって官民格差是正されたのだろうが、結局いまだに公務員は多い。今の世の中のように一定の職業に限定せず、職を変えている時代に、継続という意味がどれだけあるのか、という意見もあるだろうし、そのいっぽうで、だからこそ継続を誉めてほしいという気持ちもわたしにはある。しかし、いずれにしても、継続と言う観点でいけば女性の対象者は減るだろうし、もっとも問題とされる民間人の対象者の基準とは何かということにいきつく。
 叙勲に対応するための事務量が大変なものだろうし、お金もかかる。意義はあっても誰でも受けられるものではないし、いっそもっとわかりやすい活躍している人を対象に、という意見もある。地道な活動への誉め言葉なんだから、活躍している、あるいは目立っている人という観点は芳しくないとわたしは思うが、そんな論議があるのならば、やはりいっそ叙勲などない方が平等だとわたしは思う。あるいは公的な部分で危険な仕事をされている人たちを「危険業務従事者叙勲」として新設されたというが、叙勲制度を維持するがためにそんな制度を新設する意味があるのかとも思う。そうした仕事で苦労されている人たちもひっくるめて叙勲を正当化してしまうことには納得できない。ご破算にして必要な国の褒章制度を検討するという方法もあるのではないか。
 話は戻るが、冒頭で人を誉めることが苦手である国民であるといった。だいぶ変化はしてきたのだろうが、わたしもどちらかというと苦手であり、そりゃ批判する方が得意である。しかし、こんなことが会社であった。先行きがなくなって、人員整理という段階で、若い社員の数人は、はなっから対象とされても仕方ない、あるいはもちろん対象にされる人間だとまわりの誰もが納得しているような状況があった。それは、入社してからそこまでの経緯のなかで、どう同僚が、あるいは上司が指導してきたかということにあるはずなのに、自らの指導力不足はたなにあげている。わたしは自分もその仲間なのか、どちらかというと、そんなダメ社員とは割合仲がよかった(自分が思っているだけで相手が思っていたかは別だが)。確かに仕事上で不足している能力が彼らにあったが、それを納得したうえで、彼らに何をやってもらうか、あるいは彼らの何を引き出すかという部分を見極めるのは、同僚であり、上司である。すべてがダメな人間なんていないし、また、そうでない人間が完璧だなんていうことはない。そうした視点を持ち合わすことができないことは、誉めることができないという国民性とは似ているようで別のものと思う。息子に対しての自分の対応も、妻には「あんたは言い過ぎ」とよくいわれる。やはり誉めることがなかなかできないからだ。会社でダメといわれていた彼らに、直接「お前すごいじゃないか」とはなかなかいえなかったが、良いところがあるんだということは何度か言ったことがある。しかし、まわりの目があまりにも厳しくて、結局彼らはことごとく会社を去った。わたしの仲間はいなくなり、次は自分か、と思うこのごろである。
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自分でできることは自分でする

2005-11-26 00:12:23 | ひとから学ぶ
 結局、マンションやホテルなどの耐震構造偽造の理由は、建設費を下げるためのものであって、大雑把にいえば、安物買いはあとで付けが来るということをまざまざ見せつけたわけである。ただ、建物、それも層状に何軒も重なっているとあっては、地震がおきれば人名にかかわる。そんな大事なことだから、「価格と人命のどちらをとりますか」と聞かれれば、当然「人命」とこたえるのが常識だろう。だから、ものの比重がどこにあるかということを考えれば、安物に成り下がったとしても、欠陥であってはならない。ただ、欠陥はなくならないものだし、マンションなどの大規模建造物だから問題視されるわけで、小型であったり、ごく身のまわりの小さな品物であったなら、「あら、これ欠陥品なのね」で終わって、ゴミと化しておわる。それが出来ないだけ問題が大きくなるのは、仕方のない話で、だからこそ、お役人が「建築確認」をしてお墨付きを出すわけである。そのお役人ですら確認とはいえ、構造計算はチェックできない。もともと偽造しているという前提に確認申請される、とは誰も想定していない。国の補助金で造られる工作物なら、会計検査というものがあって、ある程度信頼度は高いだろうが、民間が民間のために造る工作物とあっては、結局自らその判断をしたのだから、まったく買った当事者に責任がないとはいえないだろう。ものを買うということは、それだけ簡単な行為ではないということである。
 そんな高級なものを買うことができないわたしだから、そんな程度しか言えない。ただ、やはり安物買いは安いだけに、どこか裏がある程度の疑いを持つしかないだろう。とくに、世の中がこれほど低価格競争をしているのだから。何度も言うが、トータルに考えれば、食べるものは自給自足がもっとも安全である。それは食料に限らず、自分ですべてできれば自分の責任だから、人のせいにはできない。世の中にはいろいろなことを自分ではできないといって、代行してもらっている部分が大変多い。役所が建築確認をやりきれないからといって、民間確認機関に出すのもしかり、もっといえば、役所が所有する構造物なら、自ら設計して自ら管理監督すれば、責任は役所自らになる。しかし、人手がないとか、専門職がいないからといって、民間に委託すれば、役所が知識がなければ信用するしかない。それを競争入札して安く安くとたたくのだから、自ずと民間の構造に歪みがくる。問題が起きたとしても、税金を使って自らの責任ではない人たちに委託、あるいは発注しているのだから、責任の所在は曖昧となるし、施工者に振ることができる。
 結論はこうだ。自分たちでできたこと、あるいはしなくてはならないことを民間に垂れ流ししていけば、責任逃れはできる。しかし、そうした分野を目指して民間の力がついていくと、民間同士の今回のようなケースで問題を派生させる結果となる。自分のことは自分で責任が持てるよう、自分でやりぬく、そんな社会を見直して欲しいものである。
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落ち葉の季節

2005-11-25 08:15:03 | 農村環境
 銀杏の並木の葉が落ちて美しい色を見せているが、この葉っぱの処理が大変だろうと、通りながら心配してしまう。とくに道路際にある木々の葉は、落ちると自動車に踏まれて、アスファルトにくっついてしまう。掃こうと思ってもなかなかうまくいかないことが多い。長野県あたりには、街路樹はそう多くなかったが、近ごろは、まわりに木々がたくさんあるのに、やたらと植栽をする世の中になってしまった。したがって、このごろはそんな街路樹のせいで看板がよく見えないなんていうことも多い。さきごろ上高井郡高山村の役場に行こうと思って須坂市から急な坂を登っていったところ、役場入り口に看板があると聞いていたこともあって、それを目指して行ったのだが、どんどん山の方に行ってしまい、「これは来すぎた」と引き返したことがあった。引き返しながら再び看板を探して降りていったわけであるが、今度は降り過ぎて「須坂市」の看板が見えてしまった。しかたなく、道端で聞いてみると、その先のカーブのところに看板があるというのだ。行ってみると、街路樹に隠れて確かに役場入り口の看板があった。長野市内の道路でも、看板を隠すように街路樹が大きくなっているところもある。そこまでして狭い道路に木々を植えなくてはいけないのか、そう思ってしまう。加えて冒頭に述べたような、落ち葉の処理である。
 東京でもたとえば調布市の国道20号なんかには、長ーい街路樹の通りがある。延々と続いている。よそから行ったものには、看板を探していると、木の枝ばかり気になって、肝心の看板が見えにくかったりする。東京なら緑が少ないから仕方ないか、なんて思うが、長野県はまわりに木々がたくさんあるのに、なんでよそから持ってきた木を植えなきゃいけないんだ、と、そんなことを思うのはわたしだけだろうか。
 仙台の青葉通りは、ケヤキ並木が有名である。このケヤキの落ち葉の処理について、街路樹(落ち葉)対策清掃業務として、10月末から12月上旬までの期間中に約15回の清掃作業を行っているという。業務委託された民間業者が歩道に積もった落ち葉を手作業で集めるという。平成14年度には、街路樹(落ち葉)対策の清掃作業だけで3tトラック26台分もの膨大な量の落ち葉が集まったといい、集めた落ち葉は、収集後に業者で処分するようだ。この落ち葉処理は、日本に限られたことではなく、街路樹を植えている国ではどこでも処理に苦労しているようだ。
 さて、わたしの家にもサンシューの木が何本も植えてあって、この時期になると葉が落ちる。小さな側溝があって埋まってしまうので、これから年末まで、落ち葉処理が続く。街中では処理ができないので、ごみ袋に詰めて償却ゴミとして出す姿をよく見る。もちろん落ち葉だけではなく、雑草や剪定木なんかも街中では償却ゴミとなることが多い。緑を増やすのも考えもの、といっては叱られてしまうかもしれないが、あとのことも考えて行動してほしい、あるいは、行動しなくてはならない、といったところだろうか。
 ちなみに、わが家ではこの落ち葉で毎年、焼き芋を焼く。息子が小学生のころはとくに友達が来たりしていると焼いてあげたが、息子は喜んで食べるのだが、いまどきの子どもは、焼き芋なんぞ「なにそれ」程度で食べやしない。
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収穫祭

2005-11-24 08:23:54 | 農村環境
 勤労感謝の日、家から妻の家までの間、あちこちで「収穫祭」なる看板を見た。そして、りんごの木オーナー制度を導入しているところが多いようで、あちこちにオーナーさんたちの収穫祭的なイベントが見られた。まさしく、収穫祭なのである。この日妻の実家でネギを掘って採り入れをした。畑のうちの約1アール程度に育ったネギを収穫したのであるが、たくさん掘り出してその量の多さに、まだ他の畑にも植えてあってこれで半分だというので、「こんなに誰が食べるの」と妻に聞くと「あんたが食べてるでしょ」といわれた。確かにネギは好きで「ネギ入れないの」と食卓で料理に注文をつけることもある。しかし、いくらなんでもこんなには食べていない。人にあげるものなどを含めると、このくらい必要なのだという。
 ところで、妻の料理はやたらと野菜をたくさん使う。典型的なものが味噌汁である。結婚した当時は少し控えめな味噌汁だったが、慣れたころには汁よりも具の多い味噌汁になっていた。わたしがわりとあっさりした味噌汁が好きだったこともあり、「もっと汁の多い味噌汁にしてほしい」という愚痴は絶えずこぼしていた。いまでもそれは変わらない。10年以上もたって、こちらがそれに慣れてきたこともあるが、単身赴任先で味噌汁をよく作るが、まさしく妻の味噌汁同様の味噌汁を自ら作るようになってしまった。味噌汁はたくさん食べると塩分のとり過ぎはわかっているが、味噌汁がないとご飯が進まない、古いタイプの人間である。このごろは、具たくさん味噌汁だけ作ってご飯を食べない、という暮らしを赴任先でしている。妻は、ふつうの家の食卓ではこんなに野菜を豊富に使わないと自慢する。そんな暮らしに慣れてきたからか、わたしも野菜だけはいくらでも食べる。レタスの時期には、大きなお皿にレタスを山盛りにして一人で食べる。贅沢な食事だと妻は言うが、金はかかっていない。贅沢だという言葉に納得はいかないが、肉を食べるよりその方が好みなんだから、贅沢というよりも満足な食事ということになるだろうか。このごろはあまりに野菜ばかり食べるから、肉を食べなさいとか玉子を食べなさいと口やかましい。
 ネギを掘った後、キャベツを採ったあとのクズを田んぼに運んでまいた。肥料にするように田んぼにまくのだが、近所のほかの家ではあまりそういうことはしない。妻の家の田んぼだけ、柿を剥いた皮や野菜のクズなどたくさんまかれている。それだけよい土ができているのだろう。キャベツの横にあったブロッコリーとカリフラワーもクズだと思って田んぼにばらまいたら、妻がいくつかその塊を拾って帰ってきた。「どうして」と聞くと、「カリフラワーはまだ三つ残っていたんな」という。よく見なかったからもう採ってあるものと思い込んで田んぼに捨ててしまったのである。三つにしてはえらくたくさん拾ってきたと思ったら、ブロッコリーもカリフラワーも鶏が好んで食べるというのである。妻は残ったクズを縛って鶏小屋に吊るした。すると、鶏は盛んにつついて食べるのである。その玉子は、わたしの毎日の弁当のおかずとなる。農家に食べ物のクズは出ないのである。わたしも農家の生まれだからそのくらいのことは承知していたが、あらたらめて思い出す1日であった。妻の実家で赤飯を炊いて収穫の祝いをした。かつては収穫の祝いに赤飯を炊くということが普通に行なわれていたが、いまではそんなことをする家は少ないのだろう。

 『音の伝承』というホームページを開きました。
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建築構造計算の改ざん問題

2005-11-23 00:13:32 | ひとから学ぶ
 姉歯建築設計事務所の構造計算改ざん問題で、マンションなど多くの建物に、地震時における倒壊危険があると報道されている。建築物については、建築確認を都道府県知事に対して提出する。その際に検査するのは、都道府県である。それが阪神淡路大震災を契機に、1999年から民間の指定検査機関が代行することが可能になった。これがどういう意味を持っていたか、本当のところはわからないが、民間への解放という意味であったなら、行政の検査放棄ということになるのかもしれない。実際、確認申請書類にある構造計算を理解してその改ざんを指摘できる行政担当者は、ほとんどいないだろう。それほど建築物の構造計算は高度で、コンピューターで計算される内容は、簡単には理解できない。わたしも建築物にかかわるなかで、構造計算書を目にすることはあるが、コンピューターの計算そのものが改ざんされていると見ることはない。ついていれば、計算がOKとするしかない。昨日のHNKのクローズアップ現代で、どう改ざんされたかを報道していたが、正規な入力データのページと、改ざんして入力したデータの計算結果の二種類の計算書を印刷しておいて、計算OKのデータとNOの入力データを組み合わせて報告すれば、確かに計算書だけ見ても、専門家は容易には気がつかないだろう。再度コンピューターソフトで、同一入力データを入れて計算してみて、始めて気がつくのだろう。
 しかし、今回の改ざん問題を聞いていて、正規の計算値の30%程度の構造力しかもっていない建物が建築されているというではないか。わたしは建築物の計算は素人だが、そうはいっても30%程度の構造力だったとしたら、鉄筋量は極端に少ないはずで、検査機関のような建築物に慣れた専門家が見れば、異様なまでに設計内容に対して安全すぎていることに気がつくはずである。それもひとつやふたつではない。常に他の建築物にも目を通している者なら、姉歯建築設計事務所が提出した構造計算と図面をみれば、不信感を持つのは普通のように思うがどうか。そして、指定検査機関だけではない、建築工事の施工者だって、常に施工しているのなら、他の建築物との違いに気がつくはずである。そのあたりがどうもわたしには理解できない。
 もうひとつ不思議に思うことがある。姉歯建築設計事務所は、誰に頼まれたでもない、というようなことを言っているが、構造計算だけを専門に行なっている会社だとすれば、設計事務所からその部分だけを請け負っているわけで、1件の構造計算に対していくら、という請負をしているはずである。だとすれば、改ざんしてもしなくても、ただ、構造計算プログラムに入力して、計算はコンピューターが行なうだけである。改ざんする意図が見えないのである。むしろ、改ざんするために、2種類の計算書をプリントアウトしているわけだから、よけい手間がかかっているわけである。構造計算のみを請け負った者が改ざんしても、メリットなど何もないはずである。とすれば、何が見えてくるのかといえば、100%誰かに依頼されて改ざんしているとしか考えられない。とくに、ここまで述べたように、若干の改ざん程度ならともかく、壊すしかないという判断をするほど強度がない改ざんなら、検査機関や施工者が気がつくはずである。それがなかったというところ、そして構造計算者にメリットがないということを総合すると、絶対施主などの意向があったに違いない。
 さて、検査者や施工者が気がつかないほど常識的な設計だったとしたら、氷山の一角ということになりかねない。もっとも問題なのは、国土交通省が、なぜ今問題を指摘したのかということだ。どこからか情報を得てのことかどうか。30万人いる一級建築士のうち、構造専門家は1万人という。数は少なくても、その1万人が今までどういう計算をしているのか、業界に対しての大きな波になりうるかもしれない。
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アクリルたわしを使おう

2005-11-22 08:14:28 | 農村環境
 会社で女の子が茶碗を洗っているのをみて少しびっくり。せいぜいお茶を飲むだけの茶碗を、洗剤を使って洗う。きれいにこしたことはないが、ちょっと行き過ぎという感じである。家庭で油モノを使ったときに洗剤を使うことはあっても、普通の茶碗を洗うのに洗剤を使ったことはない。昔はものを知らなかったこともあるが、盛んに洗剤を使っていた。その洗剤が水を汚すということも知らなかった。しかし、今では生活排水こそ水を汚すものだということは、誰もが知っている。無知であるがうえに、世の中の水を汚してきた。洗剤が水を汚すことがこれほど知られてきても、洗剤は多用され、コマーシャルは多い。それでもかつてにくらべれば、環境にやさしい洗剤が普及してきた。
 近年まで知らなかったが、アクリルの毛糸をたわしにして洗うと、汚れがよく落ちる。ふと気がつくと家のシンクに毛糸がおかれていた。それに気がついたのは5年くらい前だろうか。それまでは固形石鹸を使っていて、いわゆるコマーシャルで宣伝されているような洗剤ではなく、環境配慮型のものであった。それは、環境配慮で使ったわけではなく、手荒れをがひどいのでそれを防ぐために使っていた。その洗剤が姿を消したころ、「なぜ洗剤を補充しないんだ」と妻に質問したことがあった。わたしは、めったにシンクで洗い物をすることはないが、それでも時折洗おうとすると洗剤がなく、「なんで」とはいつも思っていたのである。妻は質問に対して「毛糸を使って洗えば油も落ちるよ」という。「嘘だろ」と思いながら毛糸を使ったところ、確かに落ちる。それからというもの、毛糸を使って洗い物をするようになった。きっとどこかの本かなにかに出ていて、妻も始めたことなのだろうが、だからといって、毛糸のたわしで洗うことが世の中の常識にまではなっていない。それも不思議なことではある。
 「アクリルたわし」で検索するとたくさん出てくる。やはり認識は高い。メリットとして、①先剤を使わないので洗剤代の 節約になる、②洗剤による手荒れがなくなる、③洗剤を流さないことで、環境にやさし、ということがだいたいどこでも言われている。節約はともかく、一般洗剤を使うと手荒れはひどい。コマーシャルなんかでも手荒れがないということを宣伝するものが昔から多い。それだけ手荒れ=洗い物という式が成り立っていた。手荒れが起きるということを普通に考えれば、身体によくないということになる。それほど影響するものが洗剤には混入しているということになる。だから、三つのメリットに加え、わたしが最も重要視することは、洗い物をする人の身体にやさしいということと、洗っても洗剤が完全に洗い流されずに茶碗に残れば、それを微量であっても口にする可能性が出てくる。したがって、身体に対して安全であるということが第一なのである。プラス、洗剤を使うと洗い流すために水を大量に消費するが、洗剤を使わなければ、水の使用量も減少する。どう考えても洗剤を使うよりメリットが大きい。にもかかわらず一般化しないところに、経済社会の構図があるのだろう。
 単身赴任をしていて、洗い物をすることは多い。不精だからシンク周りを掃除しないと、掃除しないところがネチャネチャしてくる。それをきれいにするにもアクリルたわしを使うが、それでも急ぐ時のために、粉洗剤を用意しているが、時折使う程度で、ほとんど洗剤いらずで1年を暮らしている。白い茶碗には茶渋がついて茶色くなってくるが、時折アクリルたわしで手間をかけてこすると、不思議なくらい、それも落ちる。むかし、飯台を使っていたころは、引出しがついていて、食べ終わるとお湯を入れて飲んで、そのまま引き出しにしまった。めったに洗うということがなかったし、今のように油モノを盛んに作ることもなかった。食生活の大きな変化は、水利用を大きく変えていった。
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長野県縦断駅伝から

2005-11-21 08:18:40 | ひとから学ぶ
 昨日は、長野県縦断駅伝に息子の同級生が出るということで、中学生男子区間の中継点である駒ヶ根市玉屋前まで行ってきた。息子に同級生が出るんだからクラスで応援に行くという話をしなかったのか、というと、しなかったという。母が行ったらどうかという提案にうなづいて行く程度だから、もともと息子の積極性はいまいちである。それでも声をかけたら、という話はあったが、結局一人で行くことになった。中継点の近くには、家族みんなで行っている美容院があったりして、行ったついでに顔をだしたら、「昨年上伊那は伊那中の子どもが走って、横断幕を出して応援していたよ」という話。やはりクラスで少し考えたほうがいいよなー、とはわたしの思いである。2年生だから、おそらく来年も走りそうだから、来年こそはそんな企画をしたらと、早めに声をかけることにしよう。彼の結果は区間6位だった。
 男子中学生区間は、全20区間中、1区間のみで、その飯田下伊那の代表である。昨年もこの間は息子と同じ小学校から進学した同じ中学の生徒が選手で出場したから身近な話だった。その子は駅伝の有名校、佐久長聖へ進学して、やはり飯田下伊那の代表で昨日走った。女性の走る区間も同校の卒業生と在校生が走るということで、長距離の強豪と最近はいわれる。つい先日あった長野県中学駅伝でも男子は優勝して全国切符を手にした。息子の同級生も卒業後の視野に佐久長聖があるという。陸上にかぎらず、このあたりからスポーツのできる子は、佐久長聖へ進学する。妻のいとこも野球をしに佐久長聖へ行っていたが、選手層が厚く、レギュラーにはなれなかった。しかし、ゆいいつ得意だった野球で、名門といわれる学校を卒業できたのだから、幸せだったのかもしれない。今は、地域の野球のヒーローである。
 さて、第54回ということで、伝統の大会である。結局上伊那が33回目の優勝を飾った。かつてのマラソンランナー、伊藤国光を輩出した上伊那である。縦断駅伝から輩出した選手といえば、中山竹通がいる。あの甲高い声で、じょう舌に話した姿をみんなどこかで覚えていないか。池田町の出身だが、当時長野市に勤務していて、長野チームで出場していたことを思い出す。しばらくの間は、長野県から長距離ランナーが出るということはなかったが、近ごろ高校駅伝で常連となって、駅伝の長野というイメージが少しではあるが定着し始めた。そんな基礎となっている縦断駅伝であるが、こんなところにも合併の波が訪れている。もともと、どういう枠でチームが編成されたのかよくわからないが(陸協の数か)、15チーム出場している。合併で郡が小さくなってしまって手が出せなくなる可能性があるという。まだまだ合併の余波は、あちこちに現れそうである。
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オンナの身体論

2005-11-20 00:11:24 | 民俗学
 昨日は、長野県民俗の会総会が行なわれ、公開講演として、女性の身体の変容という捉えで鈴木明子氏の「オンナの身体論」が行なわれた。日本女性の出産や月経が重くなっているといわれるなかで、月経を捉えてその具体的な変化を発表された。重いといわれる理由は、初経年齢の低下、月経痛(生理痛)の重い女性が増えている、月経持続日数が長くなっている女性が増えているといったものという。初経年齢については、日本だけでなく世界的に低下がみられるようで、一般的には発育がよくなったために低下しているというようなこともいわれているが、かならずしもそうではなく、例えばスポーツ選手の場合は、初経年齢が遅いといわれ、いっぽう肥満の女性は早いともいわれる。このことから、むしろ発育障害のために初経年齢が遅いという理論は違うのではないかという。また、月経持続日数については、とくに日本の女性が長くなっているという。短いエジプトでは2から3日程度であるのに対して、日本では2005年に女子大生にアンケートしたところ、5日とか7日という回答が多かった。しかし、1961年に刊行された志摩の海女を調べた「海女」のデータでは、6日という人が一人いたが、ほとんどは3日程度であったという。ちなみに初経年齢は、2005年の女子大生のデータでは、小学6年生という回答がもっとも多く、1961年の海女のデータでは早くて15歳、多くは17歳から18歳であった。月経持続日数については、松本清一氏の『日本の女性の月経』(1999)によると、1~3日が6.6%、4~5日が55.0%、6日以上37.4%という。このような月経に関するデータというものは、民俗学のなかでは触れられておらず、たいへんデータが少ないという。
 鈴木氏は、身体技法として、出産はもとより女性として月経に対してなんらかの身体技法があって、親から伝承されていたはずであるという。そうした伝承が途絶えてしまった要因に、昭和36年に出てきたアンネナプキンがあるという。それ以前には、月経や出産を迎えるために、座り方や労働の所作、あるいは安産のための伝承などがあったのではないかという。だからこそ、腰が発達した女性はよく働くといわれ、そういう女性が好まれたわけである。また、そうした身体技法のひとつとして、「しゃがむ」あるいは「かがむ」という動作を、より女性には特有なものとされたという。日本が欧米化するとともに、このしゃがむ、かがむということができなくなり、結果的に出産や月経が重くなることにつながっていくということなのだろう。鈴木氏は、歩行姿勢から、欧米と日本人の違いを述べた。腰を左右に振って歩く日本人に対して、欧米人は腰を振ることはないという。推論になるが、腰帯を必要とした日本女性はそんなところに起因するともいう。欧米化するとともに、日本女性も体型は変化してきているが、出産・月経という女性のもっとも基本的な部分では、まだ欧米化していないともいえる。だからこそ、欧米の生活様式に慣れるまでには、まだ時間がかかるということなのだろうし、いっぽうで、まだ時間がかかるにもかかわらず、身体技法が伝承されないがために、出産や月経が重くなってしまったというところに行き着くのだろうか。
 質疑のなかで、身体技法として取り入れたことで、しゃがむ、かがむを意識的に取り入れたのか、あるいはしゃがむ、かがむという行為をせざるを得なかっただけで、そうした仕方ない動作が、たまたま出産や月経という行為の助けになったのか、というところで異論はあったが、いずれにしても日本の女性がしゃがむことをしなくなったことは事実で、そうしたことが要因となって、女性への影響があるのか、そう考えさせられる問題提議であったとともに、そうした視点で捉えられた民俗調査がないということが、また新たな視点を与えてくれた。
 ところで、思ったことは、確かに普段の生活では女性の方がしゃがむことが多い。もちろんトイレに入るときは女性はかならずしゃがむ。そして、掃除も主には女性がすることが多かったのが今までだから、確かにしゃがんでいただろう。会社の事務所にいても、男性がしゃがむことはほとんどないが、女性がしゃがんでいる姿は時折見る。これは、わたしの会社が女性に対して対等ではないということを露見しているが、いっぽうで、女性が対等になればしゃがむことが減少するわけで、女性の身体に変化が現れることとなるのだろう。質疑のなかで、トイレの話が出て、かつては女性が立小便をしたという話が出て、そうなると、トイレで必ずしもしゃがんでいたとは限らなくなるが、その辺も含めて検討の余地はある。今は、トイレも便座式となって、しゃがまなくてもよくなった。今の親は、膝が飛び出ないように、畳の上でも椅子に座らせるという。そして、しゃがむ姿を見て、「オンナがそんな姿勢をして」とウンチングスタイルを嘆くという。かつてのオンナの姿勢はもとより、ライフスタイルが否定されているようで、その方が嘆かわしいかもしれない。
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ハクビシンのこと

2005-11-19 00:08:09 | 自然から学ぶ
 ハクビシンの生息域が長野県内で広がっているという新聞記事があった。長野市でも住宅侵入による被害が増えているという。ハクビシンはジャコウネコ科の動物で、体長が50~65cm、尾長が60cmほどのもので、白鼻芯と漢字が当てられているように、白い鼻筋と目の下の白い斑紋が特徴的である。分布域は、インドのカシミール地方、中国、台湾、マレー半島、スマトラ島、ボルネオ島、日本であって、山地や丘陵地帯の雑木林 に住む。夜行性であって、単独で木の上などで過ごし、果実・昆虫等が主食という。鋭い爪は、猫の爪のごとく出し入れができ、後足の第3指と第4指の一部がくっついていて、物をつかむ力が強く、木登りが上手という。日本古来の動物なのか、外国からの移入によるものなのかは、よくわかっていないが、移入種であるという説の方が有力である。日本では昭和18年に静岡県浜名郡で捕獲されたのが最初の記録といわれるが、それ以前からハクモクテンとかタイワンタヌキ、あるいはライジュウなどといって飼育されていたともいう。
 実は長野県でも天龍村など県境に近い地域で確認され、たいへん珍しい動物とされていたため、昭和50年に県の天然記念物に指定された。山梨県でも昭和23年に県天然記念物に指定されたという。その後農作物への被害が相次ぎ、害獣として扱われるようになり、生息数の増加ということもあって、平成7年に天然記念物から除外された。昭和50年に指定が始まって、平成7年に解除ということは、約20年間で解除に至るほど生息数が増えていったということになる。そして、今では北部の長野市で被害が出るまでに至った。
 平成15年に伊那谷でわたしがかかわった生態系調査において、聞き取りを行なった際にも、たくさんのハクビシンに関する言葉を聞くことができた。すべて下伊那郡高森町山吹で聞いた話であるが、次のようなものがあった。

①キビを食べにハクビシンがよく来るが今年はこなかった。50年ほど前ニワトリを飼っていたら、ハクビシンに捕られたことがあった。(下町)
②今年は作らなかったが、トウモロコシを作るとハクビシンに食べられた。
③ハクビシンが入母屋の隙間から入って住んでいた。ハクビシンは15、6年前から増えてきた。30年くらい前には平岡あたりにいた。ここらにはいなかった。広域農道で去年二頭死体を見た。ハクビシンは電線を伝っていく。ビニールハウスのてっぺんに糞があった。春先の夜つがいでいたハクビシンが枝を伝って屋根に入ってしまった。7月ころ追っ払ったら枝から伝って逃げていってしまった。(中島)
④トウモロコシを明日とろうとしているとハクビシンに食べられてしまう。(中島)
⑤最近豚小屋を壊したらハクビシンの死体があった。(中島)
⑥以前は学校の脇にある桃をハクビシンに食べられたが、巨峰をまわりで作るようになったら、あまり食べられなくなった。(駒場)

 トウモロコシを作るとハクビシンに採られるという言葉は、上記以外でもたくさん聞くことができた。ニワトリをハクビシンが採るという話は、わたしの実家でも聞いたことがあった。また、電線を渡って家に入るという話もこのほかにも聞いた。そして、天井裏に住み着き、長期になると糞がたまり、天上が落ちるという話もあった。上記の中で面白い話は、桃のときは食べられたが、巨峰が増えてきたらあまり食べられなくなったという話である。人が美味しいと思うものは、意外に動物たちも美味しいと思うもので、時には憎らしいこともある。今年妻の実家でサツマイモが何者かに盗られた。それも芋干し用のおいしくない芋には手をつけず、普通の食用の芋だけを盗っていくのである。そんな見方をすると、桃と巨峰、どちらが美味しいのか、好みはあるが、巨峰にはハクビシンが嫌う何かがあるのだろうか。そういえば中国ではハクビシンが食用とされるという。SARSウイルスの感染源などといわれたが、その後ハクビシンも昔のように、あまり知られない動物に戻ったように思う。なにしろ夜行性であるということから、身近でたくさん被害の話を聞いても、実際その姿を見るということは意外に少ない。
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飯山市の大規模店の印象

2005-11-18 08:17:26 | 農村環境
 長野県内の建設業関連の記事を載せる新建新聞の編集後記に、飯山市入り口にある大型店と市中心部にある地元商店街のことを扱った記事がみえた。「飯山市を訪れたことがある人ならご存知だろうが・・・」と始まる両者の対比についての扱いは、つい先日訪れた飯山市の第一印象とまさしく一致していたため、人事ではないという印象をもった。何を言いたいかというと、先日久しぶりに訪れた飯山市の印象を、同行した同僚に、こう語ったのである。市街地南にある大規模店が連なる姿をみて、「人口が2万人余の市に隣接する村々も、けして大きな村ではないのに、この大規模店群にどこから人が来るんだろう」と。そして、平日の朝方だというのに、大規模店の庭にたくさんの車が止まっているのをみて、ますますその気持ちを繰り返したのであった。昨年の中越地震の際には、整備された道を利用し、長野県内の北端にあるこの町へ買い物に訪れた被災者が多かったともいう。現在もそうした範囲からの集客があるとはなかなか思えないし、県境近くにある町へわざわざ長野ではなく、北の飯山市へ買い物に向かうということは、あまり考えられるものではない。加えて、冬は豪雪地帯であって、その豪雪地へわざわざ小雪地域から足を向けるということはないだろう。そんな条件を知っているからこそ思った、意外な大規模店街の姿であった。
 そして、新聞記事では、その大規模店の姿とは対照的な中心市街地のことを記述している。もちろん「人影は少なくその差は歴然としている」という。そして、「徳の市というキャンペーンが張られ、街頭でお惣菜を売っている女性がいた。人通りがない中での健気な姿をみてかわいそうになった。お店に立ち寄り、千円ぐらい買い物。・・・」という具合に哀れみとも思える記述が続く。わたしはこの日、町の中を通らなかったが、かつて飯山に暮らしたわたしには、町の中の印象は強い。最初に買ったカメラは、飯山の商店街の親父さんと話しているうちに買ったもので、当時でもマニア向けのカメラであった。当時の中心街には大きめなスーパーがあって、もっとも集客能力があった。その店も、わたしが住まなくなって10年もたたないうちに、市街から撤退した。すでに人口減少に歯止めのかからない状況にあったと思う。
 同じ新聞の別の記事に、「日本の秋を思う」という見出しのものがあり、やはり大規模店のことを扱った記事が踊る。大規模店が撤退することによって、周辺商店街が「困る」と騒ぐが、もともと大規模店がやってくるといったときには反対したのに、いまさらなくなるといって何を矛盾なことをいうのだ、というような記事である。まったくその通りである。まったくその通りであるがうえに、だとすればなぜ、大規模店の誘致が現在も繰り返されるかである。優良農地をつぶして、大規模な店舗をつくることは、何を意味しているのか。目先の集客や、経済効果だけを計算しての行政の判断も間違っているだろうし、それをあてにする地域の有力者の価値観に行き着く。このごろ盛んに言われる費用対効果というものも、計算の視点をどこに置くかによって、結果はまったく異なる。ようは計算などどうにでもなるということである。しかし、行政は、対住民の目をくらませるがごとく、費用対効果に敏感に対応する。つまるところ、目先の効果に振り回されがちだということである。ここで価値観とは何かということになるだろう。簡単に言えば、自給自足で経済は停滞しても、自らの足元をかためて行くのと、外部資本に頼り、とりあえず今の栄光にすがろうとするかということになる。よくいわれることに、「ここは何もなく、発展しなかった」を理由に、遅れてしまったとか、置いていかれてしまったという形容である。果たしてそうした地域が本当に後進地域と化してしまうのか、長いスパンで見たときにはどうなのか、そんな捉え方で価値の原点を見てもよいのではないか。
 数年ののち、このとき見た飯山の入り口が、姿を一変していないことを願ってやまない。
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親の口癖

2005-11-17 08:07:43 | ひとから学ぶ
 子どものころ、親から盛んに諭される言葉というものが、誰にもあっただろう。「人にあったら挨拶をするように」とか「好き嫌いをしてはいけない」というものは、一般的なものである。そうした教えというものは、今でも時折思い出すことはあるが、必ずしも子どものころ諭されただけではない。大人になってからも、同じようなことを何度も繰り返しいわれた。親はいつまでたっても子どもが外れたことをしていないかと、気をかけていた。「何度もいわれなくても、そんなことはわかっている」と言ってしまえばそれまでだが、何度言われようと、ただただ「はい」と答え、親に対しても、自らに対しても、安心してください、と問いかける。若いころは、「うるさい」と思いながらも、そんなことをいわれるには良い歳になっているのに、今では、自然とうなずくだけである。親子の間とはいつまでたっても親と子である、そんな間がらであるように思う。
 もう20年ほど前のことになるが、兄が結婚して、嫁さんが同じ家に住むようになると、それまでの母親の口癖に変化があった。嫁さんが家に入り、うまくやっていくために、とくに弟であるわたしが、それまでの親子関係で好き勝手な振る舞いをしては、兄嫁がやりずらいということを意識してのことであった。「人にあったら挨拶をするように」が「お姉さんに挨拶をするように」と変わり、「お世話になります」と言うように盛んに口にした。いっぽうでは、時がたつにしたがい、町場の非農家から来た嫁に対してのわだかまりは大きくなり、愚痴をこぼすことも多くなった。しかし、自分の老後を看取ってもらうという事実はまぬがれないわけで、いずれ家から出て行くわたしには、「姉さんにお世話になるんだから」と口癖のように気を使っていた。そしてわたしも結婚して家を出ると、実家を訪れて返り際には、ささやくように「お世話になります」と声をかけるように、毎回のように言われるのである。あるときは愚痴をこぼしながらも、時によっては正反対のように姉さんに気を使う。母は、戦後の嫁としての厳しい条件下で子どもたちを育てた。しかし、今の嫁には、そうした厳しさを無理強いしない。それでも、嫁が思うようにいかないと、家を出て暮らすことを夫に提案する。農家ではそんなケースはめずらしくない。母は、嫁が家に入ってくれたことだけでもありがたいと思っている。愚痴はだれでもあるもので、父も言葉には出さないが複雑な思いを20年近く持ってきたにちがいない。それでも、そうした緊張感がありながら、看取ってもらうという決定的な事実を想定しながら、家族が成り立っていることを、家族ではなくなった弟に何度も諭すのである。
 親が何を教えようとしたか、そして自ら子どもに何を教えていくのか、難しいことではないが、そんな難しいことではないことを当たり前に諭すことができるのか、それが親となった証なのかもしれない。そんな意味で、安易に親子の間がらを面倒だからと敬遠してしまう今の家族関係には、危うさを覚えるわけである。果たして自分はどうなのか。
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ドウソジン祭りの準備

2005-11-16 08:12:42 | 民俗学
 昨日、久しぶりに仕事で飯山市を訪れた。飯山市蓮の水田地帯のなかに、ススキが刈り取られ固められている姿をみた。これは、小正月の火祭りのために集められたススキだという。小正月までにはまだずいぶんあるが、今のうちにススキを刈り取っておくのだという。そこから少し北へ進むと、千曲川の河川敷内に、すでに火祭りのためのやぐらが作られて、いつでも火祭りが行われる段階まで準備が終わっていた。
 同行した木島平の同僚によると、この火祭りのことをドウソジン祭りというらしい。『長野県史』民俗編より火祭りの呼び名をみてみると、中野市と木島平村境にある高社山から北の、岳北といわれる地域では、ドーログシン、あるいは一般的によくいわれるドンドヤキと呼ばれていると記載されている。木島平もこの岳北地域にあたるが、有名な野沢温泉の祭りもドウソジン祭りといわれることから、必ずしも長野県史の呼び名が一般的ではないようである。
 飯山市街近くの千曲川河川敷に作られたやぐらは、ススキなどで固められて円錐状に作られている。対岸の飯山市木島の河川敷内にも親と子の二つのやぐらが作られていた。すでに完全な形に作られているということは、他の地域と異なり、正月の松を火祭りに利用しないということになる。小正月に行われる火祭りのほとんどは、正月飾りを下ろす正月明けに飾りを集め、小正月前にこの松を主に使ってやぐらを作るのが一般的である。松飾りだけでは少ないところでは、共有山から松に限らずひのきなどの葉も集めてやぐらをこしらえるところもある。飯山でみるようなススキなど、秋に刈り取られた野のものでやぐらが作られるところは少ないだろう。木島平の同僚の話では、雪が多いため、飾りでは燃えないという。乾ききって火が点火しやすいススキなどを利用するのは必然的なものともいう。飯山市蓮ではまだやぐらの形にされていなかったが、すぐわきに焼け焦げた棒が何本も寝かされていた。昨年使われたやぐらの燃え残りのようで、芯柱は新調されるが、前年の燃え残りを横木などに利用するのだという。同僚の木島平では、横木も含めてすべて新調するという。ススキを刈り取る場所は、地域によって毎年だいたい決められた場所があるようで、同僚は千曲川の支流である樽川河川敷に毎年取りに行くといい、すでに今年は刈り取ったという。こんなに早い時期に、火祭りのやぐらの完成品を見るとは思わなかったが、20年以上前、この飯山に住んでいたときには、気にも留めなかったことである。松飾りはどう処理するのか、はたまた飾りはしないのか、そのへんを確認しなかったが、豪雪地帯らしいドウソジン祭りの準備の姿である。
 ところで、この地域でのドウソジン祭りの特徴に木の人形を作って祀る風習がある。飯山市の北にある栄村の箕作のドウロクジン祭りでも、雪の洞が作られ、その中に木の道祖神像が祀られる。この箕作では、1月15日の未明から始まる道陸神祭りで、15歳以下の男の子達によって勧進が行なわれる。「ドウロクジンノカンジンヨーイ」と大声を上げて村中をまわり、午前4時ごろになると、小さな男の子も加わり、手にハチンジョウのシデをはさんだオンベを持ちながら各戸をまわるのである。そして、この1年に嫁をもらった家では、このオンベで嫁の背中を子どもたちがつつくのである。写真はその祭りのもので、15年ほど前に撮影したものである。現在も当時のように、15歳以下の男の子だけで行なわれているのか、そのへんはわからないが、子どもたちの減少とともに、男の子だけでの行事も難しくなっているのではないか。

補足
 木島平の同僚に再度聞いたことを補足します。
 やぐらには空洞があって、そこに集めた松飾を詰めるという。昔はその空洞に子どもたちが入って番をした。それは、ほかの地区の子どもたちに火をつけられないようにしたもので、火の付け合いのようなことをしたという。この火の付け合いというのは、長野県内のほかの地域でも行なわれたもので、このやぐらの中で寝泊りをして番をしたという話もある。
 このあたりでは松飾といってもそれほど大きなものではないので、飾りを集めてもそれほどの量でないようだ。だから、今はやぐらの空洞に燃えやすい豆がらなどを詰めて空洞を残すということはしないようで、集めた松はまわりに挿し込む程度だという。
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