Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

携帯は手鏡か

2005-09-30 08:22:14 | ひとから学ぶ
 長野県第55回写真県展の入選作品が発表された。モノクロの部の推薦(最優秀)にあがった「メールごっこ」は、いかにもこの時代を映している作品である。友だち同士が接近して携帯のメールを打ち合う姿である。わたしは、このごろ通勤は自転車、赴任先から自宅へは自家用車、それも田舎と高速しか走らない。だから、なかなか人の集まっている空間に接しないこともあって、携帯を持ってなにやらキーを打っている姿はあまり見ない。しかし、長野へ来る以前は、車で通勤していても、信号待ちで携帯とにらめっこをしている人の姿を毎日のようにながめていた。今では珍しくもないし、周りの人も気にしなくなったが、わたしのように古い人間には、そんな光景が滑稽でしかたない。
 数日前、夜9時過ぎまで職場にいて、市内を自転車で帰宅したところ、信号待ちでそんな光景に出くわした。一人ぐらいならなんとも思わなかったが、闇の中で3人ほど、それも皆女性が携帯に見入っていた。闇の中だから、携帯のディスプレイが浮き上がっている。初秋の蛍である。駅とか、バス停とか、そんな待合室なんかに入って、あちこちで携帯をいじっている光景を見ると、なんともいえない空気を覚える。そんな光景も嫌で、ただでさえ人なかに入りたくないわたしであるが、ますます人の集まる場所には行きたくなくなる。そんな光景でもとくに気になるのは、女性が(若い人もおばさんも)携帯を手に持っている姿はいただけない。だいたい、顔の正面に携帯をもっていき、まるで手鏡で化粧でもしているかのような姿である。もしかしたら、女性ならではのスタイルなのかもしれない。男性なら手鏡を持つということは誰でもするという行為ではないので、携帯をいじっていても、少し姿が異なる。かつてタバコを吸う男性は気にならなくても、女性がタバコを吸っていると気になったのと似ている。女性差別だといわれようが、そう思うことは確かである。そう思う自分は、根っから女性が手鏡を持つこと自体好ましいと思っていないのかもしれない。そもそも、手鏡を人前でのぞくしぐさそのものが、昔は珍しい姿だったのに、このごろは、そんな行為も人前ではばからない。まさしく県展の推薦作も、手鏡状態の小学生の女の子である。
コメント

遠山谷の合併

2005-09-29 08:20:19 | 農村環境
 市町村合併があまり進まない長野県であるが、この10月1日に平成大合併のなかでは大規模な方になる安曇野市が生まれる。古くからある伝統的な市域よりも、こうして新たに生まれる市が、従来の市よりも人口的に大規模になることが、全国でもあちこちで発生している。しばらくしてみないと、市のイメージというものはなかなか見えてこないが、地域の中心市域をもっていた旧来の市は、ある意味脅かされることになるのだろう。同じ日に、南部の飯田市に、下伊那郡南信濃村と上村が吸収されるように合併される。本来は、人口の少ない自治体が密集する地域だけに、一郡一市構想というのが前提にあったが、かなわず、飯田市に隣接していた喬木村と、そこを解して伊那山地の向こう側の谷にある南信濃村と上村が一市三村による協議会が設立されていた。しかし、住民投票によって喬木村が離脱した際には、喬木村を通過しないと両村に通じないという隔絶した立地条件から、この合併の破綻が有力視されたが、飛び地に近い形で残った一市二村による合併が成立したわけである。
 いわゆる遠山谷にある二村が、飯田市に吸収されるのには、残念がる人たちも多いことだろう。それほど遠山というところは、飯田とは異なった文化や、立地条件を持つ。とくに伊那山地を超えた向こう側にある村というのは、地図で見る以上に距離を感じる。伊那山地は、標高1800m級の山々で、アルプスとまではいかないものの、木曾谷と伊那谷の村が合併するに近いくらい、隔たれている。そして、その両者が、トンネルで直接つながっているわけではなく、喬木村という村を解さないと行き来できないのである。古くは小川路峠といわれる、飯田市上久堅から上村へ通じる道が、遠山との交易の中心であったが、車社会となってからは、その道を通じた交易はなくなった。そんな環境にある自治体の合併なのである。そんな立地であっても、飯田市にたよらなければならないほど、両村は立ち行かないところまできているのかもしれない。飯田市の面積は、325km2である。いっぽう両村の面積は、合計334km2ある。飯田市よりも大きいのである。そして、人口でみれば現在の飯田市が10万5千人程度に対して、両村合計で2900人程度である。上村に関しては、下伊那郡に5つある1000人以下の村の一つで、700人ほどしかいない。
 まだ三遠南信自動車道の矢筈トンネルができる以前、赤石林道(昭和40年代に喬木村から上村に通じるこの道が開通して、それまで飯田線の平岡駅を利用して遠山を訪れていたルートが大きく変化していったが、当時としては広い道であったかもしれないが、カーブの連続ですれ違いもままならないような道である)を百回以上超えた経験のあるわたしにしてみれば、その険しい道を隔てていた村が天竜川側の自治体と合併するという事実に、感慨深いものがある。松本市に上高地のある安曇村や乗鞍のある奈川村が合併したが、この場合水系は同一だったし、入り口は明らかに松本市であった。しかし、遠山川は飯田市を流れる天竜川のはるか下流で合流する。そして山である。いずれ三遠南信自動車道が開通してさらに両者の行き来は改善するのだろうが、いずれにしてもびっくりするような合併である。
 上村には下栗という集落がある。そこから見える聖岳や上河内岳の風景は美しい。その下栗が、飯田市の下栗(写真)となるわけである。
コメント (1)

田切地形

2005-09-28 08:05:49 | 自然から学ぶ
 伊那谷の西側の山裾に近いところに居を構えるようになって、山側にできた広域農道を利用するようにり、国道をあまり通らなくなった。先日、この農道が片側通行になっていて、珍しく国道を利用した。
 伊那谷中部あたりの国道を通ると、地形に沿って国道がU字状に迂回する場所が何箇所かある。伊那谷は南北に天竜川に沿って展開しているから、一般的に南北方向に国道が走る。しかし、国道を伊那市から南下し、天竜川支流の中田切川に至ると、それまでの南北方向とは異なり、東西方向に約300m程度迂回することとなる。そして、その南にある支流与田切川にいたると、東西に1kmほど走る。かつてはこの支流の谷が深いとともに、荒れる川であったため、橋が少なかった。そんなこともあり、国道が唯一の南北を結ぶ道であったわけで、このあたりに住む人、あるいは通過する人たちは、避けて通ることのできない、「遠回り」であった。この川を迂回せずに跳び越している道がある。中央自動車道である。谷の上をいっきに橋でまたいでいる。同様の道が一般道でほしいといって、10年以上も前になるが、中田切川に広域農道の橋が架かった。公共事業が悪者のように捉えられて、テレビ報道もされた橋であるが、地域にとってはほしかった橋である。
 この迂回は国道に限ったものではない。JR飯田線も同じようにU字状に迂回していて、伊那谷中部を通過するにはけっこう時間を要す。中田切川の迂回を南に過ぎたところに「田切」という駅がある。無人の駅であるが、10年以上前には、マニアに大変人気の駅であった。「究極超人あーる」というアニメの題材にもなった駅で、無人の駅舎に「Rノート」なるものが置かれていたことを、当時この駅から1km程度のところに住んでいたこともあって覚えている。普段は車通勤であったが、時折使うJRの最寄の駅であった。実はこの駅、20年近く前になるだろうか、駅舎の位置が南側に100mほど移動して新築された。もとの駅はU字状に迂回した線路が、再び南北に向き始めるカーブ上にあった。このため、停車すると列車の先頭と後尾はまったく見えなくなる。線路の片側は山になっていて、もう一方は谷になっている。山側にカーブがかかっているため、車掌は、ホームを移動して確認しないと、ホームの人影が確認できないのである。電車に乗っていると、つり革がずいぶんと傾いている。これほど傾くほどなのだから、ホームと電車の間に空間ができる。年寄りや子どもにとっては、その空間がずいぶんと開いて見える。わたしもこの駅から近いところに親戚があって、子どものころこの駅を利用したことが何度かあったが、乗るときはもちろん、降りる時も怖かったものである。そんなイメージから「究極超人あーる」が生まれたのだろう。
 この迂回するということが、常の生活に大きく影響しているわけであるが、このあたりにはこの「田切」という地名がいくつもある。川の名前なら、中田切と与田切以外にも、大田切川、犬田切川、古田切川などがあり、その流域には、川の名前の地名が残っている。一般に水などがたぎり落ちるというようなところに語源があるといわれ、東京の目黒にも同じような語源といわれる「田切」があるという。30年ほど前にもそんな田切に興味を引かれ、新潟県の妙高高原町の「田切」を調べたこともあった。地図を見ると、そこにも川をU字状に迂回している国道18号の姿があった。自ら田切地形の谷底に生を受けて、そこで育った。常に北を望むと約80mくらいあるのだろうか、河岸段丘の崖が露わになった姿を見せていた。この谷の中を東西に風が吹き抜けることが多かった。そんな印象が強かったためだろうか、当時「歴史読本」(現在も発行されている月刊誌)に読者招待席という4ページくらいを占有できる投稿ページがあって、そこへ「田切」地名考と題して投稿したことがあった。その中で、南からやってきたバイパスは、与田切川まではトンネルや橋で南北に最短距離をとったが、ここで新路線は崖にぶち当たって、迂回するしかなかった。さらに北へ国道バイパスが計画されているが、この地形に悩まされるだろう、と記述している。この新路線ができて30年、北側のバイパスは今だできていないが、新バイパス計画が確実に少しずつではあるが進んでいる。いよいよこの崖を跳び越すことになるようである。飛び越してしまえば、通過する人たちにはこの地形に遮られてきたことを忘れていくのだろう。
コメント (5)

顔のない買い物

2005-09-27 08:20:32 | ひとから学ぶ
 子どものころ、通信販売でいくつか物を買ったことがあった。なぜ通信販売であったかといえば、近くに欲しいものを、それも安くて自分でも手に入れることのできるようなものを売っている店が無かったということが第一の要因であったが、そもそも農村地帯での購買力というものは、限度があってマイナーな趣向品を置いておくような余裕はなかっただろう。こんなことがあった。安いレコードプレーヤーを買ったのだが、周波数の認識がなかった。60ヘルツ地域なのに、東京の通販だったためか、何も指定しなかったら50ヘルツの製品がとどいた。認識していれば周波数を確認したのだろうが、動かしてみて回転数が違うのはなぜだろうと不思議がった。安物を買ったからおかしいんではないか、そう思い込んで、分解して自分で回転が合うように改造した。今思えば、なぜ人に聞かなかったのか、あるいは、購入先に聞かなかったのか、そう思うのだが、親にも言わずにひそかに買ったということが、控えめにさせていたような気がする。今では、周波数ごとに製品が異なるものが少なくなり、わたしのような経験をすることはないだろう。そして、都会でも田舎でも趣向が同一で、なによりもいつでも都会と同様になんでも手にいれることができるようになった。時間的な感覚がなくなってきたのもそんなところにあるかもしれない。つい先日のことなのに、ずいぶん前のことのように思ったりする。尼崎の脱線事故で大騒ぎしたのも、まだそれほど前のことではないはずなのに、次ぎから次へと情報が流れ、新しいモノが目に写る。
 通信販売という言い方は古臭いのかもしれない。むしろ今ではネット販売がかつての通信販売と同じてある。かつての通信販売は時間がかかった。頼むにも葉書を送って、それに対して申込書が返送されて、というようにやり取りがあった。直接買うより面倒くさかった。しかし、今は違う。ネット上で欲しいと思えばいきなり注文ができる。そういう安易さもあるが、わたしのように買い物に行くのが面倒くさい人間には、ネット販売は大変都合がよい。加えて、顔を見ずに買い物ができるということは、たとえば、店に行って「どういうものをお探しでしょうか」などと聞かれることもないからだ。面倒くさい人間にとっては、店員にいろいろ聞かれたり、誘導されるのが嫌でしょうがない。そして、田舎者にとってありがたいのは、よそ行きに着替える必要もないことが、また一つの魅力である。農作業をしていると、きれいなものは着ていない。だから、その格好で近くの店に買い物に行けたとしても、マチを、あるいは大規模店の中をそのままの格好で歩くには、人目を気にしない歳になっても、躊躇するものである。
 顔を見ずに売り手とやり取りをする。買い手の顔も見えない。いかがわしい世界といってしまえばそのとおりであり、そこに不正があっても、なかなかわからない。現代人なら、疑わしさを覚えれば、文句を言うかもしれないが、古い人間は、かつてのような顔を合わせて買い物をすることがあたりまえであったことを常識だと思っていれば、顔のない買い物をしたことで起きた禍だと、自分を戒めてしまう。だからこそ、年寄りがだまされる。オレオレ詐欺なんてよく考えたものである。ネット販売だの安売りだの、買い手は「つきあい」とか、地域を重視してモノを買わなくなった。わたしですらそうなのだから、今の年寄りがいなくなったとき、どうなっているだろう。
 昨日の朝日新聞に「コメの60年」という特集があった。1歳半の女の子を育てながら、全国に100人以上の顧客を持つ主婦のことが書かれていた。パソコンと電話でコメの通信販売をしているという。「そんな商売ありか」と思ったりする。同僚と「おいしい(この歳でもよい仕事口がないか、あるいは楽な仕事はないかという)話はないものか」などと話すほど、仕事がなくて、この先いつ会社を追わてもおかしくない状態である。にもかかわらず、けっして仕事が暇ではなく、無料に近い仕事に追われていて、同僚皆が同じように不安を抱えている。そして、今仕事をやめても働き口がない、あるいは同様の給与の保証がない。それがわかっているから、暗闇でひそかにしている。とくに農村地域にあってもほとんどがサラリーマンなんだから、そんな空気が漂っていたら、若い者にも伝染するのはあたりまえで、ますます沈滞していく。自ら選んだ道なのだから、人のせいにしてはいけない。そう認識して自らの日々を過ごしている人がどれだけいるだろう。
コメント

モロヘイヤ

2005-09-26 08:18:33 | ひとから学ぶ
 モロヘイヤはエジプト出身だという。近年になって日本でも盛んになってきたが、まだまだ知られていない野菜である。外食産業でこれを見ることは少ないし、食堂なんかで出される姿も見たことがない(外食をあまりしないので当たり前かもしれないが)。わたしはこのモロヘイヤを十年以上前から食べている、というよりも妻の実家で作っている。最初に食べたときは、うまいといえるものではなかった。元来、糸を引く食べ物は好きじゃない。とくに納豆ときたら、絶対遠慮する。近くで食べられると不愉快、そんな感じである。だから、当初は手を出さなかった。だから、食卓に出るときは、すでにわたしの皿の上にモロヘイヤだけは既に載せられていて、無理やり食べさせられるのである。単身赴任するようになってから、ゆでたモロヘイヤを真空にしてたくさん持たされるので、夕食時に出して、糸がなるべく引かないように削りこ(昔から鰹節のことを「削りこ」といった)をたくさんかけて食べる。ご飯のお供には遠慮するが、ビールのつまみならまだなんとかなる。なかなかうまい料理の方法がないためか、健康によいといわれるものの、あまりメジャーにはならない。
 聞くところによると、ホウレンソウのカリウム740mg/100gに対して、モロヘイヤは920mg/100g。同じくホウレンソウのカルシウム55mg/100gに対して、モロヘイヤは410mg/100g。ニンジンのβカロチン7300ug/100gに対して、モロヘイヤは10826ug/100g。そのほかの栄養素も格段に高い。早ければ6月ころから採れて、霜が降りるまで採れる。息の長い野菜だから、美味しいと思う人にはこのうえないのかもしれない。が、わたしはやはりあまり好まない。ただ、便秘傾向の体だか、最近調子がよいのはそのせいだろうか。食物繊維もブロッコリーの1.1g/100gに対して、モロヘイヤは11.8g/100gという。桁違いの健康野菜である。
コメント

国勢調査

2005-09-25 13:41:49 | 農村環境
 国勢調査がこの10月1日にある。統計法に基づき行政の基礎となる人口や世帯の実態を明らかにするために行なわれる、と標記されているが、人口や世帯の実態は、住民基本台帳上のデータもあるはずで、単純にそういう説明だけではよくわからない。もっといえば、ではこのデータが何に使われているかなんていうことは、一般の国民にはわからない。住民基本台帳には現れないような家族の労働状況や、実際の居住先など、台帳上ではわからないような調査項目があるから、意味はあるのだろう、程度はわかる。
 この調査は世帯別に調査されるわけだが、この世帯というのがなかなか難しい。一世帯というのは、①居住部分が完全に仕切られている、②専用の出入り口がある、③専用の流しとトイレがある、というような三つすべてが当てはまると別の世帯となる。昔の国勢調査の質問を覚えていないのでなんともいえないが、おそらく時代によって質問項目は若干変化しているのだろう。とくに二世帯住宅という言葉が出てきたのは、そう昔のことではなく、同一世帯のようで実は同一ではないという判断をするようになったのは最近ではないだろうか。この点を正確につかんで調査員が各戸を訪問している、あるいは受けようとしている人はそうはいないだろう。わたしも単身赴任だから、その大半を別火生活をしていれば、調査の主旨からいけば、家族とは別世帯となる。しかし、両方でわたしが記述しているのもおかしい。こんな面倒くさいことなら、ひとつにしたい。結構記載欄を見ると、書くのも容易ではない。それはともかく、居住している日数が多い方へ記載するようにということなので、面倒くさいといいながら、1年の居住実績をひも解いてみると、自宅に寝泊りする日数の方が多い。一週間の7日のうち、明らかに金土日は自宅に寝泊りしている。とすると、3/7となるが、実際は祭日があったり、夏休みがあったり、さらには休暇をとっている日数もあって、自宅の方が多くなる。休暇をまったくとらなかったり、休日出勤が多いと逆転するが、したくてやっている単身赴任ではないんだから、用事がなければ自宅に帰る。仕事が間に合わなければ持ち帰る。好き好んで行っている場所ではないんだら、寝泊りする気にはなれない。まあそれはともかく、そんなことで、いろいろ考えていることじたい、くだらない話ではあるが、問題はこの世帯のことである。
 自宅のある地域(区とか集落)で世帯を数える場合は、二世帯住宅であっても1世帯である。したがって、区費を集めるにも、地域のほかの集金をする場合の世帯割にしても同様である。元来同じ家族なんだからあたりまえのことだが、例えば下水道の加入金なんかも当然排水口がひとつなら1世帯である。ところが最近いけないのは、都合の良いときはこういうことを言う人がいる。「おやじはよいといったかもしれないが、おれ(息子)は納得していないからだめだ」と。これもあたりまえといえばあたりまえだが、例えば地域の決め事に対して、1世帯ごとの判断をあおいだとしたら、受け止める側は、おやじが言おうと息子が言おうと、答えは一つのはずである。にもかかわらず、こういうときに自分にとって不利なことがあると、複数を要求したりする。核家族化なんていうのがかつての話題であったが、このごろは、1家族の捉え方が難しくなっている。1家族が1世帯と同一というわけではないが、地域のつきあいと世帯の考え方が同一ではないため、つきあいのなかにも平等ではない現実があったりする。税金で言うところの扶養家族の有無とか、よく考えると矛盾はあるのかもしれないが、詳しくないのでよくわからない。いずれにしても、知識があるほどにさまざまな恩恵を受けることになるのかもしれない。制度の網をどう縫うか、なんていうことを日々考えているから、人々の顔も変わり、田舎も変わったのだろう。
 ちなみに昔は、隠居屋というのが、同じ宅地内に建てられていて、年寄りがそこへ隠居することがあった。この場合別火となっていたか疑問であるが、伊那谷中部の山村で聞いた方は、兄弟が何人かいたが、自分は年寄りと隠居屋に暮らすことがほとんどだったという。そして、年寄りは年寄りで別に生計を維持していて、隠居用の耕作地が分けられていたという。もちろん、耕作地が別ということで、例えば苗代も別に作っていたようである。そんな時代の国勢調査がこういう世帯をどういうようにとらえていたか、調べていないが、今と同じような調査をしていたらおもしろいと思う。
コメント

草刈機の話

2005-09-24 12:27:18 | 農村環境
 新聞の投稿欄にこんなことが書かれていた。公民館の自然同好会でセンブリの花を訪ねていったら、自生地周辺の草が刈り取られ、つぼみが一部切られていたという。マツムシソウやオミナエシ、キキョウなども群生していて、それらの花々も散乱していたといい、草刈の時期を考えてほしいというものであった。その土地がどういう土地で、どういう環境なのか、文面だけではわからないが、関係機関への一考とあるから、公共の土地で、管理者が刈り取ったという設定だろうか。
 草刈に関しては、このページでも何度か触れてきたが、そこに自生している草花を認識していなければ、あるいは管理委託されている業者がかかわるとすれば、なかなか難しい問題である。まず、本当に大事にしてほしいというのなら、新聞に投稿するのではなく、実際の管理者へ提言してみることが第一ではないだろうか。認識せずに刈ったと推定されるから、管理者に負担がかからないような対応なら、簡単にしてくれるだろう。問題は負担がかかる場合である。草刈時期をずらすといっても、たまたまその時期にしか刈る機会をもてなかったということもあるだろうし、草丈を長めに刈ってほしいといっても、長めにすれば再度刈る羽目となる。
 土手の草刈管理については、元飯田市誌編纂委員で、元伊那谷自然友の会の会長さんの北城先生が詳しい。草刈管理についての論考もいくつか書かれている。しかし、現実の草刈はそううまくはいかない。ウンカが発生するとか、カメムシが発生するというような時期には必ず草刈のタイミングがポイントとなる。わたしも気になった草花を残そうと思うが、なかなか一定の時間内にそれをこなすことは難しい。手で刈るのが一番だろうが、それでははかどらない。時間をかけて草を刈れば、燃料を多く消費する。相反するとはまさしくこういうことである。したがって、植相の保全ということも含め、相反するものをどう管理していくかは、管理者の判断によるわけだから、もっと難しくなる。
 先日こんな話もした。最近山間部ではひも型の草刈機が一般的となった。従来草刈機といえば、のこぎり型が普通だったが、事故が絶えない。男性が扱ったとしても、傾斜地の草刈などを行っていると、危ない、と思うことはたびたびある。そこへいくと、ひも型のものはのこぎり型にくらべれば事故があっても程度は低い。そんなこともあって、とくに山間地のように老人や女性が管理の主役になっているところでは、ひも型の草刈機が普及した。妻の実家の周辺でのこぎり型の草刈機を使っている人はほとんどいない。わたしが草を刈る場合、妻では少し危険なような傾斜地や、太い茎の草が対象のため、のこぎり型の草刈機持参で出かける。山間地でほ場整備もされていないような場所なので、なにしろ石が多い。そのため、刃先を痛めることがおおく、また、刃を欠いてしまうこともよくある。「草刈機をつかっていれば、飛んだ刃がどこかに散っているわけだ」「そんなこといえばひも型の場合、どんどん消費していくのを前提に少しずつひもを出していくわけだから、そこらにひもの散ったものがたくさん飛んでいるわけだ」という会話をした。ひもといってもビニール製だから、どうなるんだろう、という話になった。わたしの実家の土手は、ほ場整備されていて、まず不陸が少ない。そして、そこそこの大きさの石は除去されているので、草刈といっても楽である。それでも段差が大きいと「エライ」とか「土手が大きい」なんていう愚痴を家で聞くが、正直いって妻の実家の土手とは大差がある。細かい話であるが、その現実感というのは、あまり語られていないし、たとえば草刈機の刃先のような小さな問題は、認識されていない。

 付け加えて
 こんなこともあつた。ブルーベーリーを数本山の際に植えてあったが、そのブルーベーリーの姿が、草を刈ったのに数本見えない。どうしたんだという話になって、妻は、草と間違えて刈ってしまったというのである。結構苗が高価だけに、父には黙っているという。妻は、正直言ってわたしよりずっと草花を大事にしている。妻の刈ったあとの土手は、けっこう草が残っている。残そうと思って刈っているのだからあたりまえだが、その妻が、草花に気をとられすぎたのか、一番大事なブルーベーリーを刈ってしまったというのだから、唖然。
コメント (2)

コンビニの世界

2005-09-23 12:10:28 | ひとから学ぶ
 コピー機の普及でも触れたが、コピーが一般人に当たり前のもとのいう認識を得たのは、コンビニのコピーサービスの影響だった。とくに、まだ図書館のコピーサービスが1枚20円とか、30円という時代に、コンビニが10円でできるようになって、図書館の料金が高いという苦情も多かったようである。ある図書館でコピーお願いした際、「ごめんね高くて」なんてこちらが思っていないのに先に言われたりして、そんなに気にしなくてもよいのに、と思ったことが20年近く前にはよくあった。当時は10円でコピーするというのは、採算面からきびしい話だったと聞いた。
 コピーに限らずコンビニの影響は大きい。長野安茂里差出の国道19号線沿いにセブンイレブンがある。駐車場は狭く、場所もあまりよい場所とはいえず、おそらくチェーン店のなかでは売り上げは格別に低いかもしれない。通勤途中のルートから少しはずれるが、帰宅の際に時折寄ることがあった。昨年仕事が忙しいとき、午前0時に近いころ寄ろうと思って行ったところ、店が閉まっている。「どうしたんだ、閉店したのかな」と思ったが、次の日に車で通りかかったら営業している。どうも夜間は閉めているのである。セブンイレブンで夜間閉めている店を最近知らなかった。セブンイレブンといえば7時から11時まで開店している、というのが当初の売りであった。オイルショック後深夜の電灯を消そうとか、テレビ放映も深夜は行わない、なんていう時代から、しだいにオールオープンという現在に進行し始める最初のころのことで、それが24時間営業へ発展していった。その始まりのころは、町のセブンイレブンは24時間営業でも、田舎のセブンイレブンには深夜営業をしない店もあった。現在では、山間部にあってもコンビにという看板をあげている以上は、24時間営業しているというのが、営業する側も買い物に行く側も認識している。そんななかでの安茂里のセブンイレブンである。
 このセブンイレブンに入ると、少し雰囲気が違う。店内は狭いが、一角に野菜を置いてあるコーナーがある。どうみても、八百屋さんの野菜という雰囲気で、もっといえば路上の無人販売所に近い雰囲気が、その一角に漂っている。最初それを見たときには、「こういうのフランチャイズ上だいしょうぶなのか」なんてよけいな気遣いをしたが、ほかにはない店であった。コンビにというイメージが確立されてしまって、コンビにといえば「こういうもの」と思い込んでいる自分に気がつく。数日前、千曲市のコンビニを訪れた際、同僚が「このコンビにおかしいんだ。店員の態度は悪いし、店員同士でしゃべっているし、頭にきたんで親会社に電話した」というのである。そこでお茶を買ったのだが、たしかにちょっとほかのコンビにと違う。まず気づいたのは、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という言葉をあまり聞かない。加えて着ている服がほかのチェーン店と少し違う。私服でもなさそうだが、ちょっと違う。つねにこういうものだというイメージをもっているから、違和感があると文句もいいたくなるが、わたしたちはあまりにも同じものを要求しすぎているのかもしれない。同じチェーン店が、上水内郡信州新町にもあるが、この店もちょっと店員の対応が違う。山間部ということもあるのだろう。店員が世間話をしていて、なかなかレジがさばけない時がある。考えてみれば、コンビニの当初はそんな雰囲気があったが、アルバイトを使って一定の教育をするようになってから、全体的に共通化してきたような気もする。
 たまたまそんなことを考えていたら、地方新聞の信濃毎日新聞の9月22日版に24時間営業を扱った特集記事があった。住宅地内にあると、夜間照明のことや客の自動車の音など、周辺住民への気兼ねがある。いっぽうコンビニの繁栄で、スーパーなどの24時間営業への動きもある。あらためて、店ごとの自由な発想があってよいのでは、と思ういっぽう、それが営業不振につながっていくという現代の消費者の要求感覚が、どうしても一致しないだろう。心におおらかさとか、ゆとりがなくなった現象だろう。人を許せない世の中の雰囲気も、その現れである。ただ、これだけは思う。記事のなかのコメントにもあるが、「温暖化」防止のために24時間営業を見直したらどうかという意見である。この意見はさぞ今の流れに即しているが、ここまでわたしがつづってきた人々のこころの問題を、温暖化という決定的な理由で片付けてほしくないし、温暖化という言葉で消費者が納得してほしくもないのである。
コメント

やたらに人の土地には入れない

2005-09-22 08:19:10 | 農村環境
 昨日、千曲市(旧更埴市)森に仕事に出た。森といえば杏で有名なところで、花の咲くころには大変な観光客でにぎわう。その杏園が続く果樹園地帯の中を流れる水路に用事があって行ったわけであるが、市道に車を止めて、果樹園の向こう側にある水路まで、樹園地内を歩いた。すると、隣の畑で働いている年のころ、70歳に近い方だろうか、「おまえたち人の土地に無断で入って非常識じゃないか」と叱られることとなった。樹園地の続きであるから、同じ土地の所有者であることはすぐにわかった。頭を下げてそこの水路の改修の話があって、確認に来たと説明したが、こちらの態度が気に入らなかったのか、一度怒りつけた流れがあったためか、怒りは収まらない。「最近の日本はだめだ。こんな非常識なやつらばっかで」と続ける。日本の堕落の原因はお前たちだ、なんていう言い方をされても、こちらは謝るしかなかった。
 確かに人の土地である。断って立ち入ることは必要だ。しかし、隣接地の水路の改修という、土地所有者にまったく関係のないことではないし、その水路までたどり着くための進入だったのだから、そこまで言わなくとも、「何の用事かな」と聞けばよいのに、あからさまにどなりつけられた。調査とか、あるいは測量などの業務における仕様書に、土地への立ち入りについては、土地所有者の了解を得ること、と明記されていることは確かであるが、水路とか道路という線ものにかかわると、その対象者は多い。ましてや、道路は公道であるから、人間が歩くことは不思議ではないが、水路となると、幅は狭いし、どこを流れているか探しながらいかないとわからない。水路上に個人の所有物が置かれ、まったくその所在がわからないこともある。それを探し出す経路も含めて、あらかじめ所有者を確認し、了解を得るという作業は並大抵なことではないし、そうした作業を発注側が計上しているとは、とても思えない。
 人の土地に入ったといって叱られたのは、今年は2度目である。長野市川中島において、やはり水路の改修にあたり調査をしていて、隣接する宅地に数メートル入ったとたんに家の中から窓越しに「非常識じゃないか」と若い主婦に激怒された。昔はこんなことはなかったが、最近はこんなことは日常的になってきた。もちろん、そうしたことがあるから、同じ場所にとどまって作業を行う(土地をいじったりするわけではない)時には、地権者に承諾を得るようにしている。以前飯田市山本で水晶山のてっぺんで作業するにあたり、その場所にかかわる土地の方に承諾を得ようとしたことがあった。山のてっぺんというのは、ときおり短冊状に所有者が分かれていることがあり、そのときも数人の関係者があったが、一人の方はわかったが、ほかの方の現住所、連絡場所がよくわからなかった。判明した方にそのことを話したところ、「わざわざごくろうさんだなん」「うちはもちろんいいが、その所有者はこのへんにおらんから、なかなか連絡つかんに。だいじょうぶたから・・・」。言葉に甘えて、とりあえず他の方には承諾をえなかった。承諾を得ておけば安心、という程度の作業だからと心の中では、自らを許すしかなかった。
 このように、努力はしている。それでも、急なことであったり、今回のようにただそこまで行くだけ、という時でもこんなことがあるから、けっこう気を使う。ただでさえもとの取れないような仕事で、時間をかけていたら自分の首を絞めることになる。だから、たとえば田んぼや畑の中にある水路などで作業するとき、そこで農作業をしている人たちと、あまり話したくなくなるのである。それは、いったん話し始めると、意図しないようなことまで話したり、人の悪口まで聞く羽目になって、こちらの作業が滞ってしまうからである。
 いずれにしても、田舎の耕作地においても、立ち入るということが、これほどまでに神経質になってしまったことに、住みにくい世の中の進行を予感する。仕事でなくとも、同じようなことを言われたことは何度かある。比較的農村地帯でも、よその人たちが住み着いてきた地域や、よそとの交流が激しい地域にそういう傾向は強い。今回の果樹園も、木は少なく、むしろ花の時期のための駐車場とされているような土地であった。確かに、時期ではないのにロープで囲ってあって、かなりよそ者に対して神経質な雰囲気がある土地だという印象は、叱られてから気がついた。農村部であるから、たまたまわずかな時間に通過して、その時に地権者と出くわすということじたいが、偶然的ではあるが、立ち入ったことは確かなのである。
 風景の写真を撮っている人たち、自然観察をしている人たち、山菜を採る人たち、そんな人たちにとって大変な世の中になっている。ましてや、法務局の公図で確認でもしてみないと、本当に個人の土地かどうかもわからない。公な土地だと思っていたって、個人のものであったり、個人のものと思っていても公の土地である、ということはよくある。住宅地のように、明らかに土地の境が見てとれるようなケースならともかく、今回のような場所で言われると、けっこうこたえるものである。
コメント (3)

コピー機の普及

2005-09-21 08:11:01 | ひとから学ぶ
 信濃町での話であった。地元の水利組合の役員が、昭和35年ころ組合で結んだ協定の写しが役場にないかと聞いてきた。しかし、当時は今のようにコピー機があったわけではないから、複製をとっておくということはおそらくないだろうという。今でこそコピーがいとも簡単に行われるようになったが、考えてみればまだ新しいことである。わたしが会社に入ったころは、青焼きといわれるジアゾ式のコピーのことをいわゆるコピーといっていた。これは現在でも青焼きとして、図面などの複製には使われているが、一般の人たちにはすでになじみのないものとなってしまった。もちろん当時はカーボン紙なるものもよく使われたもので、文書を複数残したいときにはよく使われた。このごろは銀行や郵便局に行っても、こうしたカーボン式の様式に記入するということは少なくなった。
 会社に入った30年近く前は、活字にする文書はタイプであった。漢字を拾って打っていくもので、女性がそうした仕事をしてくれた。文字がないと、作ってもらうという、手間と時間のかかる仕事であった。それでもいわゆる現在のようなコピーがなかったわけではなく、ようやく会社などでも入り始めたころで、高価なイメージがあって、大量にコピーするとか、あるいは安易にコピーするという気軽さはなかった。まだ高校生のころ、東京の知人が訪れた際、地元の図書館に一緒に行った。その際、知人が図書館でコピーさせてもらえないですか、と聞いたのであるが、当時の地元の図書館には、前述したジアゾ式のものしかなく、図書館の方も、コピーというと、ジアゾ式のものと認識していたことがあった。東京でも昭和40年代になるとけっこう今のようなコピー機が出始めていたようであるが、田舎ではまだまだどこにでもあるというしろものではなかった。長野県のような田舎で一般の人たちがコピーを身近に感じるようになったのは、コンビニエンスストアー(長野県ではセブンイレブンの広まりが早かった)でコピーサービスが10円でできるようになってからのような気がする。
 個人的に本などの必要部分を写したいと思うことは、子どものころからあったが、当時はコピーという言葉もなく、手で写すというのが当たり前であった。今でもそのころのノートが書棚にあるが、きたない字ながらよく書いたなーなんて改めて思うものである。その後ガリ版(謄写版)を購入して、一時はガリガリと日々やっていたことを思い出す。教員でもないのにガリ版を使う人は、そうはいなかった。そんなこともあって、コピー機が身のまわりで普及し始めると、コピー機がほしくてしょうがなかった。会社に入って給料をもらえるようになって間もないころ、当時10万円くらいしたのだろうか、湿式のコピー機を購入した。湿式といってもわかりにくいだろうが、コピーしても少し濡れているのである。時間が経過するとともに変色し、字が見えなくなってくるという欠点があったが、それでも手で写すことにくらべれば格段の違いがあった。
 時代は変わったものである。しかし、30年もたてば当たり前か、とも思ったりする。鎖国していた日本が明治維新後、30年程度で世界へ出て注目を浴びるようになっていたというのだから、その当時に比べれば変化は遅いのかもしれない。
コメント

三遠南信

2005-09-20 19:36:43 | ひとから学ぶ
 三遠南信という枠は、昔はなかった地域名称である。その枠を意識せざるを得なくなったのは、三遠南信道といわれる高規格の自動車専用道路が具体化される中で、地域で浸透してきた名称である。そうしたなか、同自動車道は、必ずしも広域な恩恵はなく、長野と浜松を結ぶという印象が強い。文化圏という捉えで、たまたまその地域に共通した芸能や信仰があることから、三遠南信という地域をひとくくりにしてきたが、どちらかというと、道ありきの産物という印象もある。その三遠南信を対象にした印刷物を、飯田市内の書店を訪れるとけっこう目にすることがある。それも、かつては飯田市内を拠点とする出版社が積極的に三圏を対象に発行していたが、このごろは浜松とか県外の出版社が出すものが目立つ。どちらかという、三遠南信という言葉を積極的に使っていたのも、今までは飯田市下伊那地域であったが、最近変わってきたのか、という印象を受ける。しかし、範囲が狭い上に今まであまり使われてこなかった枠だけに、まだまだ地域内はもちろん、地域外に対しては、知名度は低く、加えてこの地域がまったくの山間地域を中心に結ばれていることが、どこか一般には受け入れにくい空間であるという印象をもたれていることも事実である。
 いずれにしても道路が全線開通するまでにはまだまだ時間を要するが、元来こんな道が必要なのか、という疑問も多くあった。自然への影響という部分をみれば、開通してみないとなかなかわからない部分もる。愛知博を契機に、東海環状自動車道が開通し、浜松も前に比べると近くなった。むしろ、お金の必要な大規模道よりも生活道路である国道を整備するのが先ではないかというのが、現実的な話である。その現実的なところを忘れさせるような勢いで「三遠南信」という言葉が流れ出て、文化という名のもとに目くらましをするような行政であったなら、貴重な文化や自然は、思いもよらないところに行き着いてしまうかもしれない。地方新聞である信濃毎日新聞に、「天竜川と生きる」という特集がこのところ週一で掲載されている。三遠南信をテーマにした出版について、きょう掲載されていたが、新葉社の北林さんがいうように、この地域を対象にした出版物には限度がある。採算を考えたら難しい。それでもこの地域名から何かをしようという動きはけっこうある。しかし、わたしたちが、意図的に地域を結ぶ糸につかまろうとしていることに、不安が残る。伊那谷という枠ではなかなか歩調を合わせることができなかった飯田下伊那が、文化というキーワードで県を越えて行こうという気持ちは、長野県内で疎外され気味であったこの地域の選択の一つであったかもしれないが、であるならば、いっそ県を出て、愛知や静岡の枠に合わせていくという大胆な発想も考えてはどうか。
 だいぶ前のことであるが、天龍村坂部で地域起しにがんばっていた関京子さんは、静岡県知事はよく知っているが、長野県知事は知らない、ということを言われた。県境域に暮らす人々にはそうした気持ちが常にあるだろう。それは県境域に限らず、行政区域界には必ずつきまとうわだかまりである。平成大合併は、そうしたわだかまりを押さえるほど大きな波である。その現実の中でも、文化という名のもと、後付けで結び付けようとしてはぐらかされている部分もある。そこで暮らす人々が、自らの中でわだかまりを解消するには、そんな動向がもっとも納得しやすいということもあるからだろう。
コメント (3)

ツマグロヒョウモンのメス

2005-09-19 00:43:44 | 自然から学ぶ
 数年前、動植物の生態状況の調査をした際に家で話していて知ったことであるが、「花などに止まったチョウの写真を美しく撮影してある写真がその筋の専門の本に載っているが、なんであんなに美しく撮れるのか」ということを妻と話したことがあった。なぜそういう話になったかというと、調査の際に専門家の家を訪れたとき、その方が撮り方にはテクニックがある、ということを言ったため、そのことが気になって家で話したわけである。それまでわたしは、写真の撮り方がうまいのだろう、ぐらいにしか認識していなかったが、妻が言うには「あれは見えない針で刺してあって、じつはもう死んでいるんだ」というのである。それで専門家の言ったテクニックというものが納得できたわけであるが、チョウのように人の目を引くような分野は、専門家といってもマニアと紙一重という世界のようである。伊那谷自然友の会という会が飯田市を拠点にして全国に広がっているが、そこで活動されているある先生には、こういう話がうわさされているという。「あの先生が赴任した学校のまわりは、しばらくするとチョウがいなくなる」。えっ、というような話であるが、真偽はわからない。
 ツマグロヒョウモンのメスは、オスと違って、ちょっと派手さはないが、オスの数に比較すると、メスの数が多い。一夫多妻だろうか。

 訂正 コメントにあるように、写真はミドリヒョウモンだと思いますので間違いないように。とすると、一夫多妻はないだろう。
コメント (5)

ツマグロヒョウモン

2005-09-18 22:14:25 | 自然から学ぶ
 秋の訪れととともに南へ渡るチョウ、アサギマダラが最近南下する途中に群舞していたりして、新聞やテレビで報じられている。数年前、土手に生やす草として何が良いか植物の先生に聞いたところ、フジバカマやオミナエシが良いと聞いた。その時、ワレモコウ、ウツボグサ、ツキミソウなどの種を、フジバカマやオミナエシの種とともにたくさんいただいて、妻の実家に蒔いた。今ではずいぶん増えたが、フジバカマは匂いが強い。そこへアサギマダラがやってくる。生まれ育った場所を離れて別の場所へ移動する昆虫として有名なアサギマダラである。マーキングといって、羽にどこで確認されたかマーキングし、その移動を確認したりすることをマーキング調査という。アサギマダラ=マーキングといわれるほどアサギマダラへマ―キングして研究している人々が多い。マーキングすることにより目立ってしまい、外的にさらされるということもあり、ある意味趣味の世界ともいえるかもしれない。アサギマダラは、春から初夏にかけて北上し、または高地へ移動し、そこで繁殖した次世代、または第三世代が秋に南下するという。越冬するには長野県では寒いため、南下する。大鹿村鳥倉林道でマーキングしたアサギマダラが、南西諸島で確認されたというのはこのあたりではよく知られたことである。千キロ以上移動するいうのだからすごい。そんな渡りチョウがいることを知らなかった。そのアサギマダラが、妻の実家のフジバカマに来ていると聞いて、草刈りに行ったついでにのぞいてみたが、きょうは見ることができなかった。
 フジバカマは匂いが強いこともあって、ほかのチョウがたくさん来ていた。写真はツマグロヒョウモンである。実は昔は長野県では珍しいチョウであったが、温暖化とともに、その生息域が北上しているチョウである。最近では長野県で越冬したという確認もされている。メスとオスはずいぶん違う。オスの方が美しい。天竜川流域で越冬できるようになると、さらに北へ分布域を拡大し、北の方で見ることがでるようになる。温暖化の影響は、このように動植物の生息域の変化で確認できる。

 訂正 ツマグロヒョウモンは雌の方が目立つという話も聞いた。するとこの写真は雌か?。
コメント (1)

人生の駆け引き

2005-09-17 19:19:32 | ひとから学ぶ
 車の運転というのは、なかなか駆け引きがあったりして、なにも考えずに運転している人と、いろいろ駆け引きしている人では、内容が違う。会社の昭和50年代生まれの女性は、ふだん個人的にはあまり運転していない。だから、免許をとって数年たっているが、まだ初心者と同じである。その彼女が、就職して会社の車を運転するようになって、ようやく運転というものが少しずつであるがわかってきている。先日踏切を渡ったが、一旦停止というよりは徐行で渡りきった。今のは止まれになってないよ、というと、本人は自覚していない。彼女にとっては一旦停止も徐行も同じなのである。
 きょうも前を走っていた車が、踏切を少しスピードを落としただけで、ほとんど突っ切っていった。踏み切りの場合、遮断機がおりていなければ、まず安全ではあって、普通の交差点よりは減速しなくても安全かもしれない。ただし、もし事故が起きたら大事である。
 昨日、長野市から県南へ会社を早退して帰った。捻挫している足を診てもらえるのは、週末しかないため、いつも金曜日の夕方、医者がまだ開いている時間に間に合うように帰る。定時で帰ると、間に合わないので早退する。この日も4時過ぎに長野市を出て、国道19号を南下した。長野市から東筑摩郡明科町まで、国道19号をずっと走るわけだが、この間やく1時間の間に、信号でストップすることは、信州新町と生坂村で1回あるかないかである。この日は、長野市から北安曇郡八坂村あたりまで、大変快調であった。ときおり、大型車の遅い車がいたりしたが、譲ってくれてつながることはなかった。前に乗用車が1台。後ろにトラックが1台いた。前の車がけっこうスピードを出す車で、ついていくと、遅い車に追いつく。すると、離して見えなくなっていた後ろのトラックが追いついてくる。このトラックもけしてスピードが遅いわけではなく、前が詰まると、けっこうわたしの車に接近して、アオルわけではないが、けっこうそれに近いくらい接近したりして、中に挟まれているわたしは、その辺を駆け引きしながら走っていた。車間が一定していれば、後ろの車をそう気にすることはなかったが、けっこう接近していたりしていたので、後ろの車にはどういう人が乗っているのだろう、なんていう感じにルームミラーで確認していたりした。トラックの大きさは2トン程度だろうか。ただし、3人乗っているのが確認できるから、けっこうワイドなトラックである。同じ服を着た3人であるから、同じ会社の人たちだろう。話しながら運転しているから、わたしの車に接近はするものの、意図的ではないとはすぐわかった。
 そうこうして八坂村を過ぎ、生坂村へ入ると、前の大型車がゆっくりで、譲ることもなかった。そのため、のろのろに近いかたちで、しばらく走ることになった。明科町境までは、後ろの車が一緒に走っていたことは覚えているが、明科町に入る手前でその車が急に後ろにいなくなった。どこかそこらへ用事があってきたのか、あるいは少し休むつもりで停車したのだろう。そのまま、明科町川西まで走り、わたしは国道19号から分かれて、明科町七貴へ裏道を走った。午後5時10分ころのことである。
 帰宅後、テレビのニュースで明科町南陸郷で事故があったことを報じていた。2人が意識不明の渋滞で、国道19号は通行止めになっているというような話であった。その時はとくに感じなかったが、きょう新聞をみていて、事故のあったのが、午後5時20分ころであったことがわかった。そして国道19号は約3時間半にわたって通行止めだったという。この日、足の捻挫もだいぶよくなってきたので、医者に行くために早退しようかどうか、仕事も忙しいので悩んでいた。それでも行けるときにいっておうこと、決して早退したわけであるが、定時に帰っていたら、おそらく、この通行止めにはまっていた。加えて、事故の時間である。2週間前には、やはり早退したが、明科町川西を午後5時20分ころ通過している。ほぼ事故と同時刻に通過しているのが、最近であった。そう思うと、自分がその事故にかなり接近していたことがわか。そして新聞を読んでいて気がついたのだか、事故にあった車のうち、3トントラックには3人が同乗していて、会社の同僚であったという。そのうちの1人がなくなっているが、わたしも国道19号はずいぶん走っているが、3人乗りのトラックを見ることはそうはない。そう考えてみると、確実ではないが、わたしの後ろに走っていたトラックが、この事故に巻き込まれたのではないかと感じた。おそらく、1回停車した後、再び走り出してすぐの出来事であったのではないだろうか。この事故では2トン車とこの3トン車が、対向車線にはみ出した乗用車のせいで衝突し、両トラックの1人ずつが亡くなった。運転の駆け引きはもちろんであるが、人生の駆け引きのようなものをそこからみてとれるような気もする出来事であった。
コメント

仏様の国

2005-09-16 08:25:04 | 民俗学
 昭和40年代生まれの女性が、ブログの盆行事のところを読んだといって質問してきた。「16日に仏様をなるべく早く送るというが、自分は今まで早く送らなければいけないということを知らなかった。どうして早く送らないといけないのか」。一般的に早くに送るということをいうところは多いが、飯山市富倉では17日を送り盆としており、どこでも16日の早いうちに送るとは限らないようである。下伊那郡阿南町新野では、15日の夕方までに仏の送る準備をしておき、夜中12時を過ぎると、家から川までタイを燈し川へ送ったという。いずれにしても、長野県内の伊那谷では、「仏様は億万土に帰るので、早く送らないとたどりつけない」、あるいは「舟に乗り遅れないように早く送る」という。ようは朝早いうちに送り出してあげないと、仏の世界に帰れないという意味である。あまり早く準備をすると、仏様を追い出すようでよくないということもあるから、なかなか難しい。
 彼女はこういう。「13日に迎えて、16日までしかいられないから、なるべく長く家にいてもらった方がいいのでは。だから遅くに送ってあげた方がよいと思っていた」。いわれてみればその通りだが、前述したように仏様の世界に帰れなくなってしまったら大変である。いっそ送らなければ、次の年の盆に迎える必要もなくなり、常に仏様は家にいてくれることになる。しかし、問題なのは常に仏様がいたら、現世に暮らす人間にとって、亡き人を忘れることができない。忘れることができないということは、常に過去を意識するようになり、前向きな暮らしはできなくなるし、そんな仏様が何人も増えていったら、家には仏様ばかり居ついてしまう。したがって、仏様になったら、なるべく早くに亡き人を忘れてあげることが、お互いのためになるのである。そういう意味で、四十九日というのは、故人への思いと、これから現世に生きる人の前向きな気持ちを整理する期間といえるかもしれない。
 さて、彼女にどこへ仏様を送るのか聞いてみたら、お墓へ送る、という。昔は長野県のように海のないところは川へ送った。川へ流すことで、川が汚れたり、衛生上よくないということがいわれるようになって、今では川へ流すということはほとんどなくなった。その処理に困るため、最近はお墓へ盆棚へ飾ったお土産を送るケースが多い。それどころか、お墓へ持っていっても衛生上よくないので、飾ったものは家で処理する。場合によっては供え物は生ゴミとして出される。仏様はお土産もなく、さびしくなぜかお墓へ送られることとなる。川へ送るということは、その先に海があり、さらに沖に送られていく。海のはるか彼方に仏様の浄土がある。海のあるところでは海に送られたというから、認識として舟に乗って帰っていくというのが仏様の行く先なのである。彼女は母親に、朝早いうちに送れば、そのついでに買い物になど用足しに行けるといわれたという。それはお墓まで車で送り、その先に用足しという行為がつながっているから彼女が必要とされるのである。ようは運転手として。「どっちが大事」、と仏様が愚痴りそうであるが、このように送る時間がほかの要因で決められるという姿に、現代を感じるわけである。
コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****