Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

忘れられる背景

2017-09-01 23:56:37 | 農村環境

 近年は「盆を過ぎたら秋風が吹く」、そんな体感をすることはほとんどなかったが、久しぶりに「秋風」を盆のころから体感する夏だったのではないだろうか。何といっても盆の天候不順が際立った。盆だというのに雨ばかり。ご先祖様も、さぞ恨めしい里帰りだったことだろう。このところ9月に入っても真夏の日差しが疲れを増幅させたもの。しかし、すっかり夜間は涼しくなって、夕方も早い時間帯から草刈をする刈り払い機の音がするようになった。当然だろう、すでに午後6時半にもなればあたりはすっかり暗くなる。それでも真夏のような暑さが訪れていたのは不思議だ。

 台風シーズンと言われた9月も、意外に近年9月に大きな台風がやってこない。沖縄のサンゴの死滅は、台風の通り道が変わったせいだともいわれるが、わたしたちの生活がどう気候と連鎖してくのか、興味深いところ。巷ではすっかり長袖を着用する人が多くなった。混在の季節を迎えたと言って良いが、衣替えまでにはまだ1ヶ月もある。

 毎年のことながら、気がつけば9月、とばかりに仕事の進捗に頭を抱える季節だ。かんがい期間を終えるのも間近。わたしたちの業界では1年の大きな目安となる。水が流れているか、それとも流れていないか、光景は大きく変わる。先日もある改良区の理事長さんがこんなことを口にしていた。「水を止められると、畑の野菜に水がやれなくなる」と、改良区とは無関係な人たちから意見されたと。意見された方たちは、宅地内にある家庭菜園に、水路から水を汲んで掛けていたというわけだ。「水は天下のまわりもの」、そんな風に勘違いしている人もたくさんいるのだろう。とりわけ農業用水路を行政が管理している地域と、改良区が管理している地域では背景がまったく違う。このことは以前にも述べてきたことだが、行政が管理していると住民の誰もがその水を使っても異論はあげられないかもしれない。ところが改良区となると違う。多くの負担金を支払って組織は成り立ち、水路に流れている水には改良区という組織の身銭が含まれている。したがって無関係な人が、水が流れないからといって、改良区に意見するのは筋違いなのだ。それならみんな行政が管理すれば良いではないか、となるかもしれないが、農業用水路の背景はそんな単純なものではない。繰り返すが、この農業用水路という理解がない限り、農業の将来はさらに危ういものとなっていく。

 実は農業用水路だけではなく、地方にある道路にも同じような背景があった。地方にある多くの道路が同様に農林予算によって造られた。しかし道路の場合は公にしないと目的地に行けなくなるから、行政がそうしてできた道のほとんどを市町村道として扱い、以後管理してきた。造られたときは多くの道に個人の土地が無償で提供されてきたから、今新たに造られる道や、拡幅される道とは素性がまったく異なる。このあたりを認識している人は、極めて少ない。

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