これならできる! 目標

2017年12月16日 12時22分56秒 | 医科・歯科・介護
<達成感>を積み重ねる

挫折する大きな要因の一つは<時間がないこと>です。
Petraf合同会社代表執行役員・佐藤耕一さん

目標達成のためには、やらなければならないことを再点検してみる。
その上で最終目標は何になるこか、達成する日を決める。
行動を継続できないなら、今の自分ならできる行動に絞る。
あるいは小さな目標に変更する。
他人のまねをすることもよい。
目的意識も持てずに挫折しることも多い。
では、どうすべきか。
<ほんの目先の簡単なこと>に取り組む。
まずは、目標を書いてみる。
目標の実現のためにやるべきことをリストアップする。
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ABCプランを準備

2017年12月16日 11時41分57秒 | 未来予測研究会の掲示板
<今に集中>することが重要である。
目標を達成する人は<今日何をなすべきか>が決まっている人といえるかもしれません。
作新学院大学准教授・笠原彰さん

いつも目標にあと一歩届かない人は、完全にゴールを意識してしまっていることが多い。
目標に対して8割まできていたら、<あと2割か>と思うのではなく、「まだまだこれから。たったの8割」と、自分への反論、ダメ出しをすることで、やる気の低下を防ぐことができる。
簡単に思考は変わらないが、呪文のように言い聞かせることで、3か月もあれば習慣化してくるだろう。
その際、具体的に<行動する>ことが大切。
声に出して言い聞かせる。
<まだこれから!>と書いておくのもいいかもしれない。
人は、何かを実行することで集中状態に入ることができる。
やる気のスイッチは、事前に決めておくことで、その効果を発揮する。
<これをすると集中状態に入る>といものを、実験してみる。
いくつかのパターンを持っておきたい。
形骸化したり、効果が薄くなってきたら、作り直してみる。
多くの場合、Aしか想定しておらず、失敗したら後がなくなる。
そこで、少しのミスでも動揺してしまう。
しかし、ABCプランを準備しておく。
プランAが、非常に難易度が高い場合でも、プランBを用意しておくことで、あえてプランAに挑戦することもできる。
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「現代女性論」

2017年12月16日 11時21分07秒 | 創作欄
徹の卒論は「女性論」であった。
明治文学女性論は、友人が京王線の車内に置き忘れて幻となる。
400詰原稿用紙で870枚。
その原稿の分厚さにまず、現代文学研究会の後輩の香取信介が驚嘆。
「すごい、この原稿量だと原紙に書き写せるだろうか」と言うと、「僕がやろう」と重倉達弘が応じた。
だが、その前に原稿は紛失してしまった。
徹は、「夏目漱石の文学女性論」280枚を書いており、それほど落胆しなかった。
彼自身、「駄作」とも思っていたのだ。
徹と淑子が出会ったのは、赤坂であった。
声をかけたのは淑子の方であった。
「どこかで、会ってません?」と相手が足をとめて微笑む。
女性に縁がなかった徹が戸惑いながら、「どこにも居るような男ですからね」と身が引けた。
「お茶飲む時間ありますか?」
「ええ、たいした用事もないし・・・」
「これは奇跡か、こんな美人に声をかけられるとは」徹の胸は高鳴った。
女性が案内したのが東急ホテル前の喫茶店アマンドであった。
その店を知っていたが入ったのは初めてであった。
当時、徹は音楽療法をテーマに仕事をいており、TBSミュージックの帰りであった。
「何でも、話してみて」コーヒーを一口飲むと徹を見つめる。
「初対面ですが」と言おうとしたが、言葉を飲み込む。
徹はコーヒーを一口、二口飲みながら「この人は、どんな人なのか」と思った。
「あなたは、大人しいのね」相手は微笑みながら「わたしは、ヨッタン」と言う。
「ヨッタン?」
「そう、子どものころからヨッタンと呼ばれていたの。あなたは?」
「トオル」
「そうなの、トオルさんなのね」
徹はこの人と親しくなることを予感した。
同時に「現代女性論」の題材になるかも、と想ってみた。
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ボーヴォワールに心酔した淑子

2017年12月16日 09時37分19秒 | 創作欄
その日、淑子と銀座で映画を観る予定で、渋谷の喫茶店アマンドで待ち合わせをした。
30分遅れてきた淑子はいつものようにゆったりとした足取りでやって来た。
「私、用事ができたの。コーヒーを飲む時間もない。行くね。徹ちゃん、なるべく早く変えるので、私の部屋で待っていてね」 黒い小さなハンドバックから出した鍵を渡された。
爽やかな微笑みに、徹は言葉もない。
我がままなお嬢さんであり、徹は彼女の身勝手さを呑み込んできた。
大阪の実家では社長の娘であり、社員やお手伝いさんたちから「こいさんには、誰もかなわんわ」と我がままが許される立場であった。
喫茶店を出る時、白いミニスカートが翻った。
外は5月の強い風であった。
自由が丘の淑子の部屋は6畳一間。
テーブルには赤いバラが3輪。
本棚には淑子が卒論に選んだボーヴォワールの書籍、研究書とサルトルの小説が並んでいた。
哲学書も並んでた。
日本文学書は三島由紀夫の本のみ。
徹は忙しさから徹夜で仕事をしたので、寝む気に襲われる絨毯の上に横になる。
駅前の店でラーメンを食べ部屋に入ったのは午後6時であったが、目覚めると午後11時になっていた。
しばら横になったまま、書棚を見つめていた。
「終電は何時だろう」と腕時計に目をやる。
徹は淑子を理解するために「第二の性」を読んでみた。
淑子は結局、帰って来なかった。
「私、別居結婚いたいと願っているの。徹ちゃんどう思う?」
問われたことを思い出す。
「家事が好きではない」とも淑子は言っていた。
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シモーヌ・リュシ=エルネスティーヌ=マリ=ベルトラン・ド・ボーヴォワール(Simone Lucie-Ernestine-Marie-Bertrand de Beauvoir、1908年1月9日 - 1986年4月14日)はフランスの作家、哲学者。

サルトルの事実上の妻。
サルトルの実存主義に加担するとともに、フェミニズムの立場から女性の解放を求めて闘った。
1908年1月9日に、ボーヴォワールはフランスのパリ6区にて、父ジョルジュ・ド・ボーヴォワールと母フランソワーズ・ド・ボーヴォワールの間に生まれた。
父はかなりの資産を持っており、母は富裕な銀行家の娘だった。
しかし、母方の銀行は事業に失敗し、父もいくつかの投機に失敗したため、経済的にはやや苦しい状況となっていた。
こうした中、ボーヴォワールはカトリック系の女学院に進学したのち、女性が大学に進むのが稀な時代においてパリ大学で哲学を修めた。

1929年、生涯を通じて公私ともに影響を与えることになるサルトルと知り合う。
その年のアグレガシオン(1級教員資格)(哲学)に2人とも合格(サルトルが1位、ボーヴォワールが2位)。
21歳での合格は史上最年少であり、また女性全体としてもアグレガシオンが女性を受け入れ始めてから9人目の合格者だった。
これに前後して、ポール・ニザン、レヴィ=ストロース、メルロー=ポンティとも知己を得る。

パリ6区ラスパイユ大通り136番地にあるバルザック記念像前のボーヴォワールとサルトル。
同年、サルトルと「契約結婚」を結ぶ。
この結婚は結婚関係を維持しつつお互いの自由恋愛を保障するなど前衛的なものであった。
当初は2年の契約だったが、幾度かの波乱はあったものの結果的には二人の関係はサルトルの死まで50年間続いた。

1949年、代表作となる『第二の性』を執筆。
同書の第2部「体験篇」冒頭において「On ne naît pas femme:on le devient. 人は女に生まれるのではない、女になるのだ」とし、女性らしさが社会的に作られた約束事に過ぎないことを主張。
この作品は後に「社会のタブーに挑みフェミニズム運動に革新をもたらした」と評された。
ジェンダー論の基礎を作る自伝的小説『レ・マンダラン』(1966年)は、サルトルほか若い頃からの友人たちをモデルにした作品で、ジュリア・クリステヴァの『サムライたち』のモデルともなった。

1954年にゴンクール賞、1975年にエルサレム賞、1978年にオーストリア国家賞を受賞。
1986年、パリで没。サルトルと並んで、遺体はパリのモンパルナス墓地に埋葬されている。
墓石には、上段にサルトル(1905-1980)、下段にボーヴォワール(1908-1986)の名が刻まれている。
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<積み残された戦災孤児問題>

2017年12月16日 07時12分11秒 | 社会・文化・政治・経済
毎日新聞記者の目

東京学芸部の栗原俊雄記者は、空襲被害など戦後未補償問題の取材を続けている。
1945年3月10日の東京大空襲で多くの孤児が路頭にさまよった。
国が1948年に行った調査によれば、孤児は全国で約12万人。
沖縄の孤児は調査に含まれていない。
大人も飢えていた時代。
引き取り手のない孤児たちの中には、生きるために盗みや恐喝、売春などに手を染める者もいた。
<浮浪児>と呼ばれ、警察の<刈り込み>という取り締まりにあった。
東京・台場に収容所があり、牢屋ではなく、犬のように狭いおりに入れられた。
逃げないように、裸にされていた。
国が始めた戦争の被害者である。
だが、被害の全容把握も、補償する施策もなかった。
それにつながるアカデミズムの体系的な研究も、マスメディアの報道もなかった。
背景には、当事者たちの多くが声を上げてこなかった。
身一つで社会に放り出された子どもたちは、生きていくのがやっと。
長く、補償を求めた法廷闘争や政治運動をする余裕がなかった。
その中で、作家となって、辛かった体験を表現した方のいた。
「国は弱い立場の者ほどやっかいもの扱いをした」
国は元軍人や元軍属は「国との雇用関係」を理由に戦争被害の補償を受けている。
一方、民間の空襲の被害者への補償を国は拒んできた。
一番弱い立場であった子どもたちが、70年以上国に押しつけられた負の遺産の一つ一つ歴史を記録して残すことが、メディアの役割でもある。
政治家の責務でもあるのだ。
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沼田利根の友人の中にも、戦災孤児がいて悲惨な体験を聞いている。
あまりにも、国は身勝手で理不尽である。
司法ですら国側で、あてにならないのである。
声をあげないで多くの戦災孤児たちは亡くなっていっているのだ。
両国の自宅跡地を他人に奪われた北村虎雄さんは、1945年3月10日、7歳。
疎開先から戻った時には、他人が自宅跡地にバラック住宅を建てて居座っていた。
「ここは、僕の家だった土地だよ」と抗議をしても子どもだったので、「この浮浪児、どこかえ行け」と追い返されたのだ。
「虎さん、さぞや悔しかったですね」
「悔しくて、地団太踏んだよ」
巣鴨や湯島、水道橋の居酒屋で虎さんとはよく酒を飲んだ。
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12月15日(金)のつぶやき

2017年12月16日 03時30分54秒 | 医科・歯科・介護
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