ちびめぐ日記

母(43)とムスメたち(11と8)の成長記録。

朝の風景。

2017年07月07日 | 親として思ったこと
最近めっきり、お母さんらしいお仕事をしなくなってきました。
あれこれと世話することにすっかり疲れ果てた(笑)ということもあるけど、ムスメたちに少しずつ自分のことは当たり前に自分でするようになって欲しい、という思いもあって。手を離せそうなところは、じわりじわりと手を離しています。指一本ずつ、じわりじわりと。
この1年くらい、ムスメたちには朝ごはん作っておりません。
初期(姉妹の乳幼児期)は毎朝ごはん作っていました。しかし、数年経つと姉妹の嗜好の違いがはっきりしてきて、二人に同じ朝ごはんを出しても、一人は完食、一人は残す。というのが何を出してもパターンになってきました。
中期(幼児と小学校低学年)は、残されるのがもったいないし嫌な気分になるので、姉妹にそれぞれオーダーをとっていました。メニュー表を作ったりして、お店やさんごっこのノリで私も楽しむようにしていましたが、二種類の食事を毎朝作るのが私にはかなりの負担。ムスメたちは満足していたようだったけど、私が大変だったので別のやり方を模索。
後期(小学生の姉妹)には、ムスメたちにそれぞれ食べたい物を確認し、私が作らなくてはならない物は私が、ムスメが自分で用意できる物に関しては自分でしてもらうことに。この頃、姉妹の性質の差がはっきりして笑えた朝ごはんが。「自分で作れそうもないものは手伝うから言って」と告げると、11歳の1号が「たらこのおにぎり作って♪」…あなた、ただ握るだけよ、そいつは自分で確実に作れるだろ? 8歳の2号は何も言ってこないので、適当にパンでも食べているのかと思ったら、自分で包丁でパンを切り、卵を割り、牛乳と砂糖を計って混ぜて、バターを溶かしたフライパンでフレンチトーストをジュウジュウ焼いていました。…あなた、包丁も火も使うのに、よくそれだけのことを自分でやろうと思いましたね?
できるだけ何もせずに食べる方法を考える姉と、自分が食べたいと思ったら労力を惜しまない妹。それぞれに「生きる力」をお持ちで何よりです。
そして現在。朝学校に出かけるまでの時間は、私の存在にムスメたちが甘えて揉め事に発展することが多いように感じたので、なるべく自室に待機していることにしました。朝ごはんに関しては、もはやムスメたちから「作って」というお願いはされません。基本的に朝は出かけるのが遅くなるので「テレビは見ない」というルールにしていたのだけど、私が自室に閉じこもっている間はリビングは無法地帯なので(笑)それぞれ、勝手に好きなものを食べて好きなテレビを見ている模様です。私が見ていないところで何をするかは、ご自由に…ということで。最近は、1号が髪の毛を結って欲しいという理由で私を呼び出すまで、私はムスメたちになーんにもしない。持ち物も、出かける時間も、自分たちで全て必要なことを済ませて出かけて行くムスメたち。
その後ろ姿を見送って、彼女たちの散らかしたリビングとキッチンを片付けることが唯一お母さんらしい朝のお仕事、かな。
来年の春からは、ムスメ1号はお弁当が必要になる(かもしれない)ので、この朝の風景もまた違った変化の時を迎えることになりそう。

REBECCAと15歳の夏の思い出。

2015年07月29日 | 親として思ったこと
REBECCAがこの夏、20年ぶりの再結成LIVEをする。チケット入手!行きます!REBECCA全盛期は小・中学生だったので、神奈川の田舎に住んでいた私には当時LIVEに行くなんてことは考えることもできず、ひたすらLPやレンタルCDを録音したカセットテープ(古い!でもそんな時代だった)を聴いていただけだったけど、今YouTubeで当時のLIVE映像とか見ると、NOKKOのパワフルさは圧巻。2週間後が楽しみ。
REBECCAは私にとっては自分の人格を形成する上でけっこうな比重を占めているだろう時期の象徴。聴くと色々な記憶が蘇る。
一番鮮やかに思い出すのは、15歳の夏休み。中学2年から3年にかけての一番の親友は、学年でもすごく目立つ「ワル」だった。だけど、すごく気が合って、四六時中一緒にいた。中3の夏休みの終わりの終わりに、二人で平塚の海に行った。私の白いラジカセを片手に、バスを乗り継いで行った、ほとんどひと気のない砂浜で何時間もひたすらREBECCAを聴いて過ごしたあの時間。砂がラジカセに入り込んじゃって、壊れちゃったラジカセ。何を話したか、ぜんぜん覚えてないけど、『真夏の雨』がすごく心に沁みた。彼女はワルだったけど、私のことは決して悪いことに誘わなかった。私が興味を持って悪いことに近づこうとしても「それはおまえがやることじゃない」って絶対に近づけなかった。本当に仲が良かった。
だけど、2学期が始まってから彼女の様子がだいぶ変わってしまって。もともとワルかったけど拍車がかかって行き、派手な不純異性交遊に家出、学校のトイレでシンナー吸うほどの中毒になって吐く息が臭くて言ってることの意味がわからなくって、どんどん遠ざかっていってしまった。中学卒業後、高校は進学したけど中退して水商売に就いて、二十歳になるかならないかで妊娠して結婚して出産して離婚して再婚して…という話を地元の友人から伝え聞いている。
今思えば、あの頃私は彼女から「親に反抗する」ということを相応しい時期に教えてもらっていたように思う。いわゆる「いい子ちゃん」で育っていた私、嫌なことでも結局親の言う通りにこなしていた。だけど、こちらが求めることは親からは返ってこず、わだかまりを抱えていた。彼女と仲良くすることは、周囲の大人たち(親・先生)の目からとても危険に見えていたはずで、当然母はいい顔をしなかったし、「もう付き合うな」とも言われた。ワルい言葉遣いもいっぱい身につけちゃったし、一見するとワルそうなこと(煙草吸ってるみたいに見える写真を撮って遊んだりしていたけど、実際は煙草じゃなくてチョークでした〜、みたいな)もしてたからね。だけど、本当に彼女は私を絶対に本物のワルい世界には足を踏み入れさせていなかったから、親に対して燃え盛るような怒りを感じていたね、「本当のことは何も知らない、知ろうとしないくせに!」と。母親に向かって度々「うるせえ!ふざけんな!何も悪いことしてないのに、勝手に決めつけんな!」とどなって食ってかかる…なんていう絵に描いたような反抗の仕方は、彼女に出会っていなければすることができなかっただろうな。当時の母にとっては衝撃的な出来事だったろうと思うけど、あのささやかな反抗ができていなかったら、私は母から自立することができず、大人になれなかったのではないかと思うわけです。
中3のときの担任の先生と二十歳を過ぎて呑みに行ったときに「お前は母親からの過度の期待に潰されそうになって、その重圧から逃れるために自分より弱い者(中2のときの担任の先生)をいじめて晴らそうとしていた」と言われてビックリしましたよ。母親に反抗できなかったので、代わりに担任に反抗していた、と。そのときの自分にそんなはっきりした意思があってやっていたわけもないんだけど、改めて指摘されるとまさにその通り、で。中3のときの担任は反抗不可能なほどのパワーの先生だったので、そういう担任を充てがわれたのですね、と。そして、本来反抗すべき相手、母親に食ってかかることで、私の反抗期は無事に昇華されたわけですな。

えー、反抗期…怖っ。

現在6歳と9歳のムスメたちにも、正常な成長の過程として、相応しい時期に相応しい反抗期を迎えていただかねばならないわけですが。
怖っ。

だけど、自分のことを振り返るだに、親のまったく勝手知らないところであれこれ考えて感じて学んで、そして反抗して心理的に親から巣立っていくわけだからね…親になったからには、それも覚悟せよ、ってことだね。REBECCAを聴きながら「反抗期」について思いを馳せてしまいました〜。

遠ざかっていた時間。

2015年07月22日 | 親として思ったこと
なぜ三年もの間、Blogを書いていなかったのかなぁ…と考えて思い当たることは「ムスメたちとの時間を楽しめなくなっていたから」。
私が育児Blogを書き続けていた理由のひとつに、「どんなに大変なことも、振り返れば笑える楽しい思い出になる」という思いがあり、辛かった1日であっても、夜にBlogを書くために振り返ればそれなりに笑い話にすることができていた。自分の大変だった日を“いい1日だった”としめくくれる儀式として、文章を噛みしめ吟味しながら書いていた日々。
けど。ある時から(ムスメ1号が小学校入学、ムスメ2号が幼稚園入園したあたりから)、何をどう振り返ってもBlogにあげられるような気持ちが温まる文章が書けなくなってしまったんだな。わたし。このBlogを世界に発信している限り、目に留まる人にとって「読んでよかった」と感じてもらえることを文に残したいと思って書いていたのだけど、そんな文にならない日常になってしまっていた。
「ムスメ達との葛藤の日々」、まさに毎日毎時間が闘いで、楽しい時間が激減していた(私が子育てを楽しむ、という意味での)ので、Blogが書けなくなっちゃったんだな。
今もそこから完全に抜け出せたわけではないけれど。
そこに陥ってしまっていたことに気付いたので、這い上がろうと思います。
楽しむことを忘れてしまっていたので、楽しむことを思い出したい。
そんな気持ちで。

ほめる。

2006年06月10日 | 親として思ったこと
「子どもは小さなからだで大きなプライドをたくさん持っているから怒られるのは嫌なんです」先日テレビで子育て番組を見た時に“トイレトレーニングの仕方”の中で、保育士さんが言っていた。
それって、トイレトレーニングに限らないよなあ。
家庭科教師を勤めた料理が非常に上手い母親をもちながら、私が30で自分の台所に立つまで料理下手だったのは、母親のもとで料理をすると手も口も必要以上に出されてプライドが傷つけられ、やる気を失っていたからに他ならない。幸い我が相棒が私をほめて育ててくれたので、今では一応ひとに食べてもらえる料理を作れるようになった。
子どもはおとなに劣っているわけではなく、やり方を知らなかったり経験が足りないだけで、どんなことだってできるし、その未知なる可能性はおとな以上に持っているのだ(今から私がスーパーモデルになれる可能性よりもムスメがなれる可能性の方が高いもんね)。
「プライドを損ねず、ほめて育てる」…お念仏のように唱えて子育てに挑もう。

うしろ姿。

2006年06月09日 | 親として思ったこと
ムスメは遊びながらでも叫びながらでも、自由自在にところかまわず寝返りゴロゴロで、おむつを換えるのが本当に大変な今日この頃。泣きながら回転して逃げて行くのでこちらも追いかけながら上から下から手を回してのおむつ換え。どうにか終わるとほっとして「まったくも~!」と口から出てしまうものの、それでもまだ泣きながら転がり続けるムスメを見て「かわいいヤツめ」と笑える自分がいる。誰にそうしなさいと教わったわけでもないが、私が赤ちゃんだった頃に家族や周囲の人がそうやって笑顔で関わってくれたことが身体にインプットされているのだろうと思う。「親が育てたようにしか子は育たない」だもんね。「子は親のうしろ姿を見て育つ」とも。
私もムスメに「かーちゃんみたいなひとになってね」と胸を張って言えるようなかーちゃんでいよう。

願い。

2006年06月09日 | 親として思ったこと
幼い子どもに手をかけて殺してしまった親(大人)の事件が続いている。事件の話を扱ったテレビ番組でコメントしていた方が「性欲と愛情を履き違えれば、誰だって簡単に子どもができてしまう。でも子どもを産んだから親になるのではなく、子どもを育てることで親も親になるように子どもから育てられるんだ。子どもは親の“所有物”ではないんだ」という言葉がとても印象に残っている。
そして、子どもとは、どんなにひどい仕打ちをされても、必死に母親を慕い母親に愛されようとする存在だ。それは教育の現場に関わっている時にもたくさんの事例を目の当りにした。母親、というのはそれだけ責任があるんだということを自覚して、産み育てて欲しいと願わずにいられない。
一人でも多くの子どもが「しあわせ」に育ちますように…神様からお預かりした私たちのムスメがしあわせに、しあわせでありますように…。

笑顔。

2006年06月01日 | 親として思ったこと
子育てをする中で絶対に「笑顔」でいよう、と心に決めている。というのも、私の母はいい笑顔をお持ちなのに、般若顔のことが多いのだ…私が幼少の頃から母の眉間には不愉快のしるし縦皺があり、幼い私はそれが嫌で母の眉間を指で伸ばしたり「アイロンかけて」と訴えていた。10代になる頃には私は母のその顔を見ると“ムカツク”のでケンカしたり無視するようになった。大人になった今、母のそれは純粋な気持ちで「こわくて悲しい」。30を越えた娘であっても、母親には笑顔で優しくされたい。いくつになっても母親から愛情を得たいという欲求は涸れないものなんだな、と実感している。母自身、店を切盛りしながら6人の子を戦時中育てたその母親からきっと笑顔や優しい言葉をかけてもらえたことがないのだろう。厳しい嫁姑小姑問題を乗り越えてきた傷跡かもしれない。そんな母を否定するつもりはない。ただ、般若よりも笑顔でいる方が当人も周囲の人もずっと幸せな気分になるのに…と思わずにはいられないのだ。
私には母は変えられない。でも、母となった私のムスメとの接し方は変えられる。だから私は笑顔でい続けたいと思う。ムスメの成長に伴っていつかは「苦笑い」になっちゃうこともあるのかな。
そんな母も、孫である私のムスメには常に極上の笑顔!赤ちゃんの笑顔パワーはすごいなぁ。