鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

 昭和30年台にスキーを楽しんだ永井山方向へ。

2024年04月30日 | Weblog

永井山方向とダム方向へ行った回数を比べてみると、ダムには遠足で毎年1回は訪れたが永井山へはスキーをしにいったので圧倒的に回数が多い。

写真は昔、竜水会館だあったあたりから、正面奥の永井山を撮影したもの。

私の記憶では、昭和30年台には永井山ではなくながやまといっていたはず。しかし、鷹泊小学校開校80周年記念誌には永井山と記載されているので、このブログでもそのように記載しています。

途中、竜水会館があったところを通過。10年ほど前には普通の住宅が建っていたが、今は何もない。

冬はスキーによく行った山であるが、スロープ手前には木々が生い茂り、景色は大きく変わっている。木々の生長は早い。10年単位でみるとはっきりする。

今回、雪のない時期に訪れたが、雪の時期でも木々に邪魔されてゲレンデまでは歩いてたどりつけない感じだった。スキーを担いでゲレンデまで登っていったあの時代がなつかしい。永井山スロープの左手前にあった初心者用の小山も低学年のときは利用したが、ほどなく斜面に水田が造られてスキーには適さない状態になっている。

昔、スキーをした小山。斜面には水田が造成されている。

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川向う(竜水とヌップ地区)も人が少ない。鷹泊の人口は現在36人。

2024年04月26日 | Weblog

写真は川向うから鷹泊橋を撮影

鷹泊橋を渡った。鷹泊橋を渡りきると、道は左の永井山方向と右のダム方向へ分かれる。

元の市街地同様、橋の向こうの竜水、ヌップ地区も家は少ない。どれだけの人が暮らしているのだろうか。家はあっても、人が居住しているかどうかはパット見わからない。

深川市のホームページを見ると、令和6年3月末の鷹泊の世帯数は24世帯で、人口は36人(男20人、女16人)とのこと。10年前の平成26年3月末の世帯数は39世帯で、人口は80人だった。ウーン、ここまで減ってしまったか。

ちなみに令和6年3月末の多度志地区合計で、295世帯。人口は560人とのこと。お隣の幌成は31世帯・人口72人である。

10年ほど前に、人口減のために町内会が鷹泊、竜水、ペンケの3つに統一されたとのこと。 

人口はどこまで減少するのか。この先どうなるのか予想できない。

図は、鷹泊入植120年記念誌に記載された、昭和40年頃を表わす『广泊市街案内圖』による竜水・ヌップ地区。画像が不鮮明で申し訳ありません。

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川向うのヌップ・竜水へ。その前に鷹泊橋。

2024年04月22日 | Weblog

川向うのヌップ・竜水と鷹泊市街地の間には鷹泊橋がある。

橋は昭和30年代は、おうしょうばしと呼んでいたが、いつからか鷹泊橋に名称変更されている。昭和36年と昭和46年に架け替えが行われ、橋の位置が少し上流側に移動した。

おうしょうばし(鷹沼橋)は、木造で枕木を並べたような橋だったが、橋の欄干はしっかりしていて橋らしい橋だった。川向うは昔は沼田に属していたので、鷹沼橋と名付けられていたが、鷹の字をオウと読むのはなかなか難しい。

上の写真は、橋から雨竜川の上流方向を撮影したもの。

上の写真は橋から雨竜川の下流方向を撮影したもの。

橋から雨竜川を眺める。盛夏に来ると子供の時夏休みに見た景色と同じく、川の周囲には緑色の柳が生い茂っているが、今回訪れたのは初冬の11月なので、違った風景を見ることができた。

この日は水量は少し多めかなと感じた。昭和30年頃、橋の下流に砂金採りの人を時々見かけたのを思い出す。

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鷹泊市街地を離れて、川向うのヌップ・竜水へ移動。

2024年04月19日 | Weblog

写真は国道275号線のリフレッシュプラザ鷹泊前にある、鷹泊自然公園入口と書かれたバス停の標識。奥には国道を左折した先にある鷹泊橋が写っている。

リフレッシュプラザ鷹泊前にはJR深名線バス停『鷹泊自然公園入口』がある。以前のブログにも書いたが、わかりづらいバス停の名称である。公園は4kmも離れたところにある。ここで間違って降りる客がいるとは思えないが。

まあ『鷹泊自然公園前』ではなく『入口』なので誤りというわけではない。でもリフレッシュプラザ鷹泊前がわかりやすくていいと思うが、いろいろと事情があるのであろう。

JR深名線バスは交差点を左に曲がって鷹泊自然公園方向へは行かず、国道275号線をそのまま直進して終点の幌加内に向かうことになっている。

市街地は見終わったのでいつもと同じく鷹泊ダムをめざして川向うに移動することにする。鷹泊ダムは、鷹泊へ来た時にははずせない場所だ。

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 鷹泊に来ると、神社も訪れたくなる場所である。

2024年04月15日 | Weblog

写真右手に鷹泊神社。道路まっすぐは幌加内方向、左折するとヌップ、竜水方向。

学校の隣には鷹泊神社(御岳神社)がある。周囲に人家はなくなっており、神社の存在感が際立っている。鷹泊小学校応援歌の2番、『神社の杜の山桜 咲いて匂うてうららかに♫』とあったように、その当時も学校と神社は切って離せない存在であった。

参拝にいったことはなかったが、遊びの場として重要な場所だった。神社の坂は今は階段になっているが、昔は階段がなかったので、わずかな積雪でスキー遊びができた。幼少時には雪が降るとすぐに神社へ行ってスキーを楽しんだ。 神社の裏の斜面でも木の間をぬってスキーを楽しんだこともある。

鳥居にぶつかって怪我をしたという話は聞いたことはなく、神様のご加護があったのかなと思ったりする。

境内にあった大きなナラの木はなくなっていたが、土俵があった付近はなんとなく昔の面影も残っていた。祭りの時は、多くの人が集まっていた。遊び場として、神社は思い出深い。

写真は神社境内。

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鷹泊小学校跡地は思い出がつきない。

2024年04月12日 | Weblog

ともかく学校跡地に来ると、昭和30年代の小・中学校時代がいろいろ思い起こされる。

南北に長い校舎が建っていたのはこのあたり、グラウンドはこのあたり、バックネットはこのあたり、運動会徒競走のスタート地点はこのあたり、その他諸々。

北西部には歌碑が建っている。鷹泊出身の3人の郷土俳句が書かれてあるが、そのうちの「霧消ゆや 郭公 森を移り行く」の俳句を見ると、昔の田植え時にカッコウ、カッコウの鳴き声を聞いたことを思い出す。

写真は平成10年9月12日建立とある歌碑を後ろから撮影。向こうにリフレッシュプラザ鷹泊。

 

写真は以前のブログにも載せたことがある昭和39年に撮影された航空写真。校舎と校庭、周囲との位置関係がわかりやすい。グラウンドに广泊の人文字がある。

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月日は流れ、鷹泊は大きく変化したが、今年も桜の季節がめぐってくる

2024年04月08日 | Weblog

市長さんとの丁々発止のやりとりがあって、鷹泊に千本桜が植えられたことがわかった。今回訪れたのは11月であるが、早今年も4月になった。現時点での桜の開花予想は札幌が4月26日とのことで鷹泊の開花は札幌より10日ないし14日ほど遅れるのではと思う。この千本桜もきれいな花を咲かすのだろう。

開花期ではない初冬11月の桜は感激が薄かったが、千本桜が植えられた経緯を思い浮かべると、鷹泊出身者として、千本桜が愛おしく感じられた。

 

写真は2010年5月23日撮影。桜の木もまだ小さいものが多かった。

2010年は全道的に桜の開花が遅かった。5月16日に鷹泊を訪れた時は未開花であったが(途中の多度志では開花していた。)、1週間後の5月23日に桜はきれいに咲いていた

 

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鷹泊小学校閉校跡地の千本桜には、深川の裏玄関鷹泊の思い。  河野順吉伝にかかれている市長と住民とのやりとりーその2

2024年04月05日 | Weblog

以下は河野順吉伝からの引用。前回からの続き。

鷹泊は数奇な歴史を刻んできた、と言っていい。乱高下するように大きく波打ち栄枯盛衰を繰り返す土地であった。

 ときに大資本・王子製紙の山林を有し、造林・切り出しで栄え、砂金掘りで一世を風びし、雨竜川のイカダ流しの事業でも隆盛した。そして、ダム工事……。栄華に酔い、衰にうつむく――。鷹泊はそんなときを重ねた。

栄枯盛衰を繰り返す中で、今、域内のコミュニティーの核ともいえる小学校まで……。そんな思いが鷹泊住民にはあったろうか。

「鷹泊は、深川の裏玄関だ」

 小松は河野に言った。裏玄関が寂しいのはいかん。豊かな自然環境を生かした地域振興策をやってくれ――と。河野は鷹泊の思いをすくうことを約した。「なぁー、みんなこうゆう市長だからもういいぞなー」。小松が言った。

 九七年三月三十一日、鷹泊小は校史に幕を下ろす。人が集える場所に――。思いに耳傾け、校舎のあった敷地には今、コミュニティースペース・「リフレッシュプラザ たかどまり」がある。周囲には桜の木が数百本植わる。      Page 104-106

写真は以前撮影した千本桜の看板と開花している千本桜(2010年5月23日撮影)

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鷹泊小学校閉校跡地の千本桜には、深川の裏玄関鷹泊の思い。 河野順吉伝を読んでーその1。

2024年04月01日 | Weblog

浅羽山と鷹泊神社を背景にしたリフレッシュプラザ鷹泊

開校90周年の平成4年には生徒数13人にまで減少し、深川市は多度志小学校、幌成小学校との統合合併を計画していた。しかし地域から学校がなくなることを地域住民が簡単に賛同するはずがない。当時の深川市長の河野順吉さんと、鷹泊住民とのやりとりが書かれていて、おもしろい

興味ある記事をネットで見かけた。

鷹泊小学校閉校を決定した時の深川市長河野さんの自伝河野順伝 で、北空知新聞に掲載されたものを再編して発行されたものである。ネットに公開されているので鷹泊に関係する部分を引用させてもらいます。

以下は引用文 Page 103-106。

「すでに鷹泊は了解したのか?」。河野は思わず言葉をのんだ。

思わず息をのむ、と同時に生来の土性骨がもたげた。

 九四年十一月、深川市長に就任して間もなくだった。市教委所管に市立多度志小学校校舎の設計費を新年度予算案に計上しては、と聞かれ市長・河野順吉(当時)は了承する。そのことを、市議会の代表者会議で説明したときだった。

 「すでに鷹泊は了解したのか?」。ある会派の代表者(市議)が河野に詰め寄る。息をのむ、と同時に土性骨がもたげた。

 「鷹泊に入る!」

代表者会議を終え、会議室を出た河野は鷹泊の現況を所管に聞く。

 「極めてきびしい」

児童数が減り、市立の鷹泊と幌成の両小学校を閉校し、多度志小学校を改築(建て替え)し統合する構想だった。地元に小学校がなくなる。鷹泊で反対の大合唱が渦巻いた。

 夜、鷹泊の公民館に河野は足を運んだ。代表者会議から数日後のことである。教委の問題に首長が首を突っ込むは、極めてまれだ。

 「市長、酒持って来たか!」

扉を開けるや罵声が飛んだ。一番後ろの席に胸をのけぞらせねじり鉢巻をした小松信行だった。鷹泊で農業を営み域内住民の信望の厚い男だった。

 「松澤さん、これだけの人数だから一升瓶十本ぐらい持って来てください」。どっ、と場が沸いた。ぶっ、と、風切る切っ先鋭い小松の刀身を河野はやわらかに受けとめた。一瞬の立ち合いですべてが決まった。後に小松はこのときのことを振り返り河野に言った。

 「あんたは腹のすわった男だと思ったよ」。小松は河野に任せていい、と思ったに違いない。

 酒を所望された松澤茂は鷹泊で酒屋を営んでいた。以前、別の取材でこのときのことをこう振り返っている。「河野さんが地元に足を運んで一生懸命住民と話し合いをされた。市長さん自ら何度も気を使って地元に足を運んでくれるから地域の役員たちもね……」

 

 

 

 

 

 

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