鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

深川駅前での昭和30年代の子供の時の思い出

2020年07月31日 | Weblog

さて、鷹泊への旅が始まり、まずは深川で一休止。JR深川駅から駅前通りを眺めてみる。

昭和30年代の深川は、山村鷹泊在住の子供にとってはあこがれの街だった。深名線の蒸気機関車あるいはディーゼルカーで深川駅に着くと、駅前通りの商店街のアーケードが眼に入った。左手に二軒の本屋(玉屋書店と四誠堂書店だったかな)が並んでいた。そこで子供向けの月刊雑誌を買ってもらった。映画を見に深川へ行くのも楽しみだった。映画館が3館(深川東映、深川劇場、深川座)あり、満員のため座席には座れず立ち見で見たことがなつかしい。今は深川だけではなくどこの街でも映画館がなくなってしまった。

鉄道深名線が1995年(平成7年)に廃止となり、今は深川駅発着のJR深名線バスが鉄道深名線沿線地域を走っている。

写真はJR深川駅

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

役割を終えた、鷹泊ふるさと会のこと

2020年07月29日 | Weblog

鷹泊への旅の前に。

長らく鷹泊出身者の繋がりに一役買っていた「鷹泊ふるさと会」が昨年11月16日開催の第50回をもって幕をおろしました。

この会は昭和45年(1970年)に第1回が開かれ、昭和52年以降は毎年札幌市で開催されていました。

同郷の者が年に一回集まって、心を開いて話し合い、過去を懐かしみ、親睦を図ることができれば、明日の糧ともなろうということで、会がスタートしたとのことです。

多いときは200余名の参加とのことでしたが、最終開催となった昨年は67名の参加でした。

馬場泰年会長は最後となった案内状の中で、『ふるさと鷹泊の空・山・川・街並み・学校の存在は同郷意識の上で大きな意味を持っていた。その学校が消えて久しく、里の人口が過疎化への道をたどり、更には運営委員も高齢化して、会の存続が厳しくなってきており、この会を終焉させるという苦渋の決断をせざるを得なくなってしまった。』と述べられていました。

私は当初はこの会の存在を知りませんでしたが、第30回の時に初参加し、その後何回か参加しました。

写真は第50回鷹泊ふるさと会(札幌市ANAクラウンプラザホテルにて)

鷹泊といえば鷹泊岩ということかな。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

豪雨災害で思い出す鷹泊の昭和30年に起きた洪水

2020年07月26日 | Weblog

今年7月は豪雨災害(令和2年7月豪雨)で九州を中心として大きな被害が生じている。地球温暖化で、自然災害が起きやすくなっており、最近は北海道でも蝦夷梅雨と称する雨続きの日々もあるので油断はできない。鷹泊には雨竜川が流れているが、昭和30年には雨竜川氾濫による洪水が起きている。過去のブログ参照

あのときは鷹泊市街部が広範囲に床上浸水被害を被った。過去のブログ参照

私の家は幸いにも浸水被害を受けなかったが、川が氾濫した当日は近くの2階建てのお家に避難させてもらい恐怖の一夜を過ごした。翌日もサイレンが鳴り響くことがあり、更に川があふれるとの警告でないかと怖かった記憶が残っている。

北海道開発局札幌開発建設部のウェブサイトにも、その時のことが載っている。

写真が小さくて分かりづらいが、浸水被害を受けているのは中鷹か上鷹の市街地のように思える。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Go to 鷹泊 1964年の航空写真を懐かしんで

2020年07月23日 | Weblog

令和2年7月24日は本来ならば東京オリンピック2020の開幕日のはずであったが、新型コロナウイルスの流行で延期になってしまった。感染防止のための移動自粛も解除傾向になってはいるが、まだまだ人が密集するような場所への移動がはばかられる状態である。

このようなときこそ、観光地ではなく、三密を避けるには最高の、密とは正反対のふるさと鷹泊に行ってみるのも一興かなと考えた。

何年かに1回は来ているが、少しずつ様変わりしている様子を見るのも年老いつつある者の楽しみである。

このブログは昭和30年代の鷹泊を思い起こしてということで書き始めたものであるが、その昭和30年代には1964年(昭和39年)の東京オリンピックがあった。東京オリンピック1964の時は中学生であった。あれから56年経ったことになる。光陰矢のごとしである。

写真は東京オリンピック1964の時の鷹泊小中学校校庭に描かれた「广泊」の人文字 。200人以上の児童生徒が集まっている。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする