鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

ふる里鷹泊への応援歌

2020年12月31日 | Weblog

ふる里鷹泊への旅 終わりにあたって

2020年は新型コロナウイルス感染症の流行で、世の中が変わってしまった。

Go To トラベルを利用したいが、密を避けなければということで、今回のふるさと鷹泊来訪ということになった。子供の頃に過ごしたふる里鷹泊は、そこに立つだけでなつかしい当時が思い起こされるということを再確認できました。

年をとると、車の運転がしづらくなるので今度はいつこられるかはわかりませんが、機会があれば再来訪したいとは思っています。

今年の鷹泊来訪の記事はこれで終了します。ブログを見てくださった方に感謝いたします。

ふる里鷹泊をいつまでも応援するということで、最後に応援歌を載せます。

 

鷹泊小中学校応援歌

 あさばの山の 峰かすみ

 雨竜の流れ 悠々と

 巡りて絶えぬ あの意気で

 いわおに止まる 白鷹の

 名をこそ上げん 晴れの場所

 ふるえやふるえ わが健児

写真の「ふる里鷹泊」の題字は第40回ふる里鷹泊会で配布された資料(細田長知氏による)の表紙から転載したもの。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。 最終

2020年12月30日 | Weblog

豪雪地の鷹泊では、春先になると昼間の日差しで雪の表面が溶かされ、朝の氷点下の寒さでその雪面が固くなって、雪面上をどこでも歩けるようになる時期がある。

それを生かした堅雪遠足が催されたことがあった。鷹泊の西の山に堅雪遠足で登ったが、頂上からはるか留萌の海が見えたのは感激だった。

また3月には毎年、雪入れ大掃除があった。校舎内に外の雪を入れて、縄たわしで床をゴシゴシ擦って教室や廊下をきれいにしたり、教壇を窓から外に出し雪の上を滑らせて表面の汚れをきれいにしたりする行事であった。

3月にもたくさん雪が残っている豪雪地域ゆえの風物詩のような行事だった。

 

3月17日 卒業式は9学年が体育館に整列する厳かな式典であった。 

寒さのせいもあって気が張り詰めていた中での式典で、会場の体育館の真ん中に卒業生の小6、中3が縦に並び、それ以外の学年は両サイドに前から順に並んでの式だった。

現在の卒業式ではなくなったと思われる「蛍の光」、「仰げば尊し」が定番で歌われ、今の時代の方には、評価されていないようだが、あの厳粛な雰囲気は嫌いでなかった。卒業生代表が答辞として屏風のように折った式辞を読み上げる風景はあの時代までだったと思う。式辞読み上げは、偶々みた鷹泊OBブログで思い出した。

今の時代は、お別れ会的な卒業式が多くなり、昔の卒業式とは別物と伝え聞く。

写真は冬の鷹泊小中学校。 記念誌から転載。

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 鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その10 

2020年12月28日 | Weblog

豪雪地鷹泊でのスキー。

昭和30年代、鷹泊小中学校でのスキー授業がある日は、永井山へ個々に歩いて集合した。

最初の頃は「なが山」と呼んでいたはずだが、いつも間にやら「永井山」と呼ぶようになった。 昭和20年代にはおそらく学校に近いお大師山でスキー授業をしていたのでないかと思うが、昭和31年にあった中学生と列車との接触事故がきっかけで、線路を横切らなければならないお大師山を避けて、学校からの距離がある永井山でスキーを行うようになったのではないかと思う(昭和30年より前のことは知らない)。

厳寒の鷹泊では、油断すると凍傷を起こしてしまう。スキーにしても、ウエアは今とは比べ物にならない貧弱なものだったので、耳たぶ凍傷を何回か起こしてしまった。

雪の多さを生かした学校行儀として、校庭に各学年で雪像つくりをする行事もあったが、寒くて雪がうまく固まらず、まともな雪像は作れず、数年で中止になっている。

2月22日と3月14日 PTA除雪奉仕。豪雪地鷹泊では、屋根の雪下ろしをしないと家がつぶれてしまうので雪下ろしはどこの家でも行っていた。学校体育館は高さがあるゆえ雪下ろし作業を見ていても大変だった。

写真は学校近くのお大師山をGoogle地図で示す。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その9 

2020年12月26日 | Weblog

 冬休み 12月27日から1月20日

夏休みに登校日があったように、冬休みにも登校日があった。体育館で校長先生の挨拶があって、その後各学年の教室で 書き初めをした。昭和30年代前半は元旦が登校日だったが後半には元旦ではなく別の日に登校日が移動した。

新たな年の空気を感じながら、厳寒地鷹泊での寒い中での登校であった。登校日には各教室の石炭ストーブは暖かく燃えさかって生徒を迎えてくれていた。

学校が休みでも、雪で閉ざされた鷹泊では、屋外ではスキー以外することもあまりなく、屋内ではクラスの仲間と集まって、百人一首をする程度のことしか覚えていない。集まる場所として、我がクラスでは、竜水会館とか消防番屋の2階の集会所を使うことが多かった。

写真は冬の体育館。鷹泊小学校記念誌から転載。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その8 

2020年12月24日 | Weblog

学芸会は、今は学習発表会といわれている。学芸会は観客を楽しませる会で、学習発表会は学校教育の発表の場という意味合いの違いがあることからの変更のようである。学芸会は運動会と同様に、地域あげての行事だった。

11月22 日 学芸会。 前日が予行練習日で全学年が観客。

11月末はすでに寒い時期であったが、体育館にはダルマストーブが燃え盛り、満員状態で熱気にあふれていた。今思うと、小学1年から中学3年まで9学年の音楽とか劇や遊戯等のたくさんの出し物を滞りなくあの時間内でこなしていたのは毎年の行事とはいえ、すごいと言えた。学級数、生徒数が多すぎても少なすぎてもだめで、当時はちょうどよい生徒数だったのかもしれない。

下図は鷹泊小学校記念誌から引用した小学校卒業生の数。昭和20年から40年くらいまでは比較的多かったが、その後減少が著明で、平成になっての卒業生は1学年1人まで減少している。

学芸会といえば、休憩時間に行っていたPTAによるバザーを思い出す。バザーとは通常、慈善事業などの資金を得るために催す即売会などをいうようだが、あのときのバザーとはかんたんな飲み物、食べ物を手作りした模擬店のようなものであった。 

11月4 日にはミルク給食が始まった。給食代は無料だったはずだが、脱脂粉乳とコッペパンだけだったので、栄養学的にどうみても貧弱な給食だった。

しかし、現代では低脂肪牛乳が好まれていることから、皮肉な言い方をすれば健康食品のさきがけという見方もできる。

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昭和30年代に歌われていた、文部省選定の体育運動歌「栄えゆく」について 

2020年12月22日 | Weblog

前回の続き

文部省選定の体育運動歌「栄えゆく」一力よみ子作詞 東京音楽学校作曲について。

この歌が作られた経緯については、このサイトに詳しく出ています。歌詞は一番だけで、楽譜はありません。

こういうサイトもありました。歌の題名は「体育運動歌」で、海軍・陸軍で歌われていたようで歌詞は2番まで載っていました。

栄えゆく天御空の光を受けて

集える我等の心は躍る

いざ我が友我等が身と魂

鍛え磨かんいざいざ共に

皇御軍の力となるまで

 

東海に輝く日本の使命受けて

伸びゆく我等の心は躍る

いざや我が友我等が身と魂

強く正しくいざいざ共に

大和島根の誇りとなるまで

歌詞については、私が覚えていたのと若干異なっています。海軍・陸軍でも歌われていたとは思いも及びませんでした。

戦後に歌っていたので、戦前とは歌詞が若干変わったのはやむを得ないことだと思います。

例えば、皇御国(すめらみくに)あるいは皇御軍(すめらみくさ)→平和日本

この歌を昔歌ったことがあると、道外の方からコメントをいただきましたが、文部省選定の歌であれば、当時は日本全国で歌われていた可能性が高いと思います。歌詞が現代にマッチしないということで、いつの間にやら歌われなくなったのではと思います。

昭和30年代の鷹泊では、この歌はしっかり歌われていました。毎年運動会の前には音楽の時間に何回か練習していました。

鷹泊小中学校では、この歌に限らず、式歌斉唱の時には、いい姿勢のお手本になるような宮部先生のキリリとした立ち姿が思い出されます。

写真は当時の先生達。前列左端が宮部先生。

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昭和30年代の鷹泊小中学校運動会で「栄えゆく・・・」と斉唱した歌の題名は文部省選定曲の「栄えゆく」だった。

2020年12月20日 | Weblog

鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出の番外編。

当時の運動会は、校長先生、PTA会長の挨拶に続いて「♪さーかーえーゆーくー♪」と斉唱、ラジオ体操があってから競技に入るというパターンでした。

以前このブロブで運動会の時に歌った栄えゆくについて、「式歌の思い出」として2008年2月8日に書きましたが、正確な題名はなにかというコメントを2015年12月20日にいただきましたことから、図書館へ行って調べたり、ネット検索をしたりと努力はしましたが、わからず、諦めかけていましたが、苦節十二年?いや五年?ついに先日わかりました。(偶然とはいえ、今日は12月20日。5年前の12月20日にコメントをいただいたのでした。)

名古屋文理大学紀要の加賀秀雄氏の論文中で発見しました。その論文によりますと、1930年12月7日、文部省告示第244号を以て、体育運動歌「栄えゆく」〈一力よみ子作詞〉の当選が発表され、東京音楽学校で作曲のあと翌年4月公表された。とあります。

文部省選定の「体育運動歌」で、題名は結局歌詞の最初のままで「栄えゆく」でした。

栄えゆく (一力よみ子作詞 東京音楽学校作曲)    1931年公表

 栄えゆく天つ御空の光をうけて

 集へる我等の心は躍る

 いざやわが友我等が身と魂

 鍛磨かむいざいざ共に

 皇御国の力となるまで

ずいぶん昔の曲でした。戦後すぐに作られた曲かなと思っていましたが、違いました。

 

「栄えゆく」のことを書いていて、また鷹泊小中学校時代の思い出が蘇りました。

次回もこのテーマの続きを記載する予定です。

写真は昔の鷹泊小中学校のグラウンド(昭和46年)。鷹泊小学校記念誌より一部を編成して再掲。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その7 

2020年12月18日 | Weblog

10月5日-9日 農繁休暇。 例年10月には稲刈り時期に一致しての農繁休暇があった。昭和30年代の鷹泊は、まだ人の手で稲刈りをする時代であり、稲刈り、稲架掛け、脱穀、精米といった収穫作業がある中、子どもたちは稲刈り、稲架掛けあたりを手伝っていた。昭和40年代に入って、一気に稲刈りの機械化が進んだが学校の農繁休暇がいつ頃まであったかはわからない。農協横の食糧検査所には、等級判定を受けるために、米俵やカマス(米俵に変わり昭和40年代まで米袋として使われていた)を積んだ馬車が並んでいた。

昭和39年は、農繁休暇明けの10月10日(土)が東京オリンピック1964の開幕日だった。翌日の東京オリンピック開会式をテレビで見れるという期待感いっぱいで家の仕事を手伝っていたのを覚えている。オリンピック期間中、学校では体育館のステージの上にテレビを置いて、授業の一環として各学年ごとにオリンピック中継を見た。今年2020年は56年ぶりの東京オリンピックになるはずだったのに延期になったのは残念であった。

写真は今年の夏の学校跡付近から元の市街地方向を写したもの。このあたりは今も水稲が植えられていた。

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その6  

2020年12月16日 | Weblog

遠足は春と秋にあったが、行き先は鷹泊ダムがほとんどであった。小学1年から中学3年まで9学年が同じ距離の遠足というのも不思議な感じであるが、小学1年でも難なく4kmの距離を歩いて目的地へ到達した。あれから50年以上経っているが、時々訪れる鷹泊ダムの勇姿は歳月を経ても変わらない。ダムへの遠足ではいつも同じ道を往復していたが、一度だけペンケ側から鷹泊ダムへ行った遠足があった。油断すると雨竜川へ転落するような危険な傾斜地を通ってダム到達であったが、おそらく先生が予め調べておいて、転落することはないし、ある程度の冒険は必要だと判断されて選んだ道だったと思っている。

鷹泊ダム以外では、幌加内峠を超えて沼牛堰堤まで行った遠足もあった。当時は未舗装で車もほとんど通らなかった曲がりくねった道をクラス全員が歩き切ったことがなつかしい。

9月22 日には社会見学旅行というのがあった。汽車で当時砂川にあった東洋高圧という硫安を作っていた事業所(今はない)を見学に行った日帰りの行事だった。

学校畑でのじゃがいもの植え付け・収穫体験を行っていたが、9月末に収穫していた。

学校畑は、学校裏の小高いところにあった。校舎のトイレ出口を通り、坂道を上ったところがその場所であった。

写真下 今はその坂道は草が生い茂り、当時の面影はない。学校畑は指導する先生の関係で、数年間だけだったと思う。

 

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鷹泊小中学校での昭和30年代の遠い日の思い出。その5

2020年12月14日 | Weblog

昭和30年代の夏休みの思い出といえば、川遊び、ラジオ体操、炊事遠足、盆踊りなどが記憶に残っている。

プールがない時代であったが、雨竜川での水泳(川遊びと言ったほうが正しい)にはよく行った。大人の監視もない中での水泳は今ふりかえると危険であり、よく無事故でいられたということかもしれない。

また夏休みには、学年毎の炊事遠足が企画されていた。三号沢へ数回、大ヌップ川へ1回行った。集合したのが学校であったが、学校行事だったかは不明。学年ごとに日をずらして行っていた。

夏休みは今と同様に基本的に25日間だったが、夏休みの中間あたりに登校日といって宿題(なつやすみ帳)のチェックをする日があった。今どきはこんな登校日はないと思われる。

子供が多かったので、学校グラウンドで行われたこども盆踊りもにぎやかだった。踊りの輪が二重にもなっていたことを思い出す。

写真上は鷹泊小学校記念誌から転載した、二代目校舎。写真の右端にプールがあるのがわかる。時代の流れを感じさせる。

写真下はなつやすみ帳(昭和31年)

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