鷹泊 昭和30年代

いまは超過疎地になった北海道深川市鷹泊 自然にめぐまれたその地で昭和30年代を過ごした自分がその当時を思い出してみた

鷹泊神社は夏冬ともに子供のあそび場だった。

2020年09月30日 | Weblog

子供の頃、鷹泊神社参拝には行ったことはなかった。しかし年月を経て鷹泊に来るとつい立ち寄ってしまうのは、子供の時の忘れがたい思い出が残っている場所だからである。

遠くから眺める神社が、緑の樹木に囲まれているのは昔と変わらない。しかし参道の坂道は普通の階段に変わり、境内の雰囲気も昔とは様相がだいぶ異なっている。

昔は坂の中腹にある境内までは土と砂の道、そこから上は大きな石を階段状に並べた道だった。その坂道は、わずかな降雪でもすぐスキーができる絶好の遊び場だった。

神社境内は、楽しい遊びの場所だった。祭りには多くの人が集まり、いろんな店が出て、10円とか50円とかの景品付きの子供相撲も楽しかった。

土俵は土や砂ではなく、おがくずを敷き詰めていたので裸足でも足が汚れなかった。

中段の境内には大きなミズナラの木があり、ドングリを取って遊んだ。

ともかく、昔の雰囲気が多少変わってはいるが、鷹泊神社で子供時代のなつかしい気分を味わえた。

写真は神社の境内から上に登る階段。

写真は鷹泊神社正面。

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鷹泊に1カ所だけある歩行者用の手押し信号機

2020年09月28日 | Weblog

鷹泊に1カ所だけある歩行者用の手押し信号機であるが、利用者が皆無ならさすがに無駄でないだろうか。小学生だけでなくそれより小さい幼児も通行しないというか、鷹泊にいないと思われるご時世である。高齢者はいても、この交通量なので国道を渡るのにボタンを押すのかと疑問に思っていた。

しかし、すぐに考えを改めた。神社横を通りがかったら、スピード違反で白バイに捕まっている車がいた。思い出した。数年前に幌加内峠まで行ったときのことであるが、この275号線はカーブが多いのにもかかわらずかなりのスピードで走行する車が何台もいて気になっていた。信号機はあるだけで多少なりともスピード抑制効果が期待できるのだろう。

写真は学校跡に向かう道路付近にある手押し信号機。

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上鷹地域を歩いてみて。

2020年09月26日 | Weblog

昭和30年代、駐在所と消防番屋までが中鷹で、その先は上鷹地域であった。

中森鉄工所、桜沢米穀店、表魚屋、宮部商店、大塚豆腐店、田中製材所などがあった。

今、国道沿いには住宅は見あたらない。

昭和36年のデータで上鷹だけで世帯数36戸、人口157人であった。信じられない変化である。

ほどなく学校跡への分岐点まで到着。小学校があった関係で、手押し式信号機が今も残っている。

上鷹地域は学校に近いし、近くの神社ですぐスキーができるし、子供にとってはいい所に住んでいるとうらやましく思っていた。(鷹泊駅には若干遠かったが)

今はバス停がこの地域にあり、便利にはなっている。

写真は、一般の住宅がほとんどない上鷹地域。正面北方向のはるか遠くに浅羽山が少し見える。

写真は昔の宮部商店のあたりにあるJR北海道バス 鷹泊自然公園入口バス停。もう1カ所ある鷹泊待合所と較べるとトイレもなく小さい造りである。

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エゾシカを鷹泊駐在所前で発見

2020年09月24日 | Weblog

鷹泊は過疎化で、街全体が大きく変わってしまった。郵便局も昔とは別の場所である。

しかし駐在所の位置は、昔と位置は変わっていないようだ。ミニパトカーが駐在所前に止まっていた。昔は、駐在さんも自転車で鷹泊の街を巡回していたのだったかなどと思い出しつつ歩いていた。

その時、エゾシカが国道に飛び出してきた。「駐在所とエゾシカ」という構図はなかなかだと写真に納めようとしたが、シャッターチャンスを逃し、うまく撮れなかった。残念。

昔はエゾシカなど見たこともなかったが、昭和50年(1975年)頃から全道各地でエゾシカが急増しているとのこと。農作物を食い荒らし、樹木に損害を与え、車に衝突して交通傷害の原因にもなっている。困ったものだ。

写真はミニパトカーが止まっている鷹泊駐在所と、木の陰で存在がはっきりとわからないエゾシカ(円の中)。

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中鷹地域を歩いてみた。

2020年09月22日 | Weblog

人家は少ない。家はあっても、窓が目張りされているとかで明らかに住人がいなさそうな家もある。道を歩いていても誰にも遭遇しなかった。

店はなし。鷹泊で最後まで残っていた松澤商店も自動販売機は置いてあったが、店はやめた状態。

お寺跡はずっと空地であったが、重機が入った建物が出来ていた。看板はなかったが、富岡産業のものと思われた。

写真はお寺跡の空地にできていた施設。

中鷹地域には、松澤商店、三浦鮮魚店兼自転車屋、弘田商店兼精米所、萩浦鉄工所、農協、高岩商店と今思い出しただけでも多くの店があった。消防番屋の2階に広間があったが、子どもたちにも使わせてくれたので、そこで百人一首などをしたことが思い出された。

昭和36年のデータで中鷹だけで世帯数29戸、人口140人であった。

細○さんの家の横から、堤防へ行ける道があった。堤防の向こう側にゴミ捨て場があったが、フナ、ウグイの釣れる沼もあった。第三水泳場へ行く道でもあり、この道はよく通った。今は堤防の上が工事中のようで行けなかった。

写真は中鷹の堤防へ続く道

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踏切跡を通って、山へ向かう道

2020年09月20日 | Weblog

魚を釣った沼が埋め立てられて田んぼになったが、今は畑地に変わってしまった。

このあたりの水田で農繁休暇に、田植えのアルバイトをしたことがある。

当時の6時間位の労働で300円〜700円の賃金だった。物価の違いを考慮すると、今の時代だと1800円〜4200円くらいかと思うが、小中学生には嬉しい収入だった。

この市道をまっすぐ行って、左に曲がると苗圃があった。森を育てるための木の苗を育てる場所である。苗圃はなくなり、その場所には樹々が森のように生い茂っている。

苗圃方向へは行けなくなっていたが、正面の坂道をまっすぐ登っていくと意外に広い畑地があった。昔は坂の上の方の畑地を造成中で、一時的にできていた溜池で泳いだことがある。

 冬にはスキー遊びをしたおにぎり山はこのあたりのはずだが、雪が積もった状態でなければ、山がこんもりと盛り上がっている状態がわからないこともあり場所がはっきりしなかった。(そもそもおにぎり山とかイノシシ山とか、当時の子供達の間では使われていた山の名称が、一般的に使われていたのか、よくわからない。)

踏切跡から山の方向を写した写真。中央右のほんのわずかに盛り上がった所がおにぎり山と思われる。

写真はGoogle Map。右上に向かう道の奥に結構な畑地が広がっているのが確認できる。

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床屋さんの前の道(市道鷹泊河村線)を歩いて

2020年09月17日 | Weblog

今回の旅は、鷹泊の道をテーマにしてみよう。

高橋理髪店の真向かいの道を東に向かうと、踏切に通じていた。鷹泊には踏切が2箇所あった。遮断機があるわけではなく、信号機の上がり下がりを参考に汽車が来るかを自己判断していた。この道は、下鷹と中鷹の境界にあたる道で、市道鷹泊河村線と名付けられている。

この道の、踏切に到達する少し手前に、青年団の集会場である青年会館があった。

昭和30年代の映画上映は、学校体育館が多かったが、青年会館でも時々行われていた。

その近くの浮島のあった沼では、結構ウグイやフナ等の魚がつれた。岸からも浮島からも落ちたことがないので深さはわからないが、子供だけで釣りに来ていた場所なので、危険な深さではなかったと思う。

昭和30年代はあちこちで、水田造成事業が行われ、荒れ地や野原が水田に変化していた。沼も水田に変わってしまった。

そして今は、水田よりも畑地が多くなっているように見受けられる。

写真は東方向にずっと続いている市道鷹泊河村線。

写真は青年会館と沼があったあたりの畑。正面の山はイノシシ山。

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JR北海道深名線バス鷹泊待合所で思うこと。

2020年09月15日 | Weblog

鷹泊には、JR深名線バスの停留所が2箇所あるが、そのうち鷹泊待合所が下鷹地域にある。昔、山○さんの家があった付近だ。単に路線バスが停まるだけではなく、屋根が付いた待合所が2箇所あって、鷹泊待合所にはトイレも設置されている。便数も少なくない。

しかし、なんといっても沿線の居住者が減って、バスを利用する人が少なすぎる。JR北海道バス深名線の名称は維持しているが、2002年に道北バスに管理委託し、実際の運行および管理業務は道北バスが行っている。深川-幌加内を1日10往復運行(鷹泊のバス停では、上り下り併せて7往復のよう)しているが、2年前のデータで、トータルの乗客数は1日67人と発表されている。1バスあたり3-4人という計算になる。うーん。普段の年でも、これだけ少ない乗客数だということは、今年の新型コロナで自粛が求められている今年の乗客数はどうなっているのだろうと心配になる。

バスの時刻表を見ると、鷹泊から深川までは、44分〜52分で深川に到着する。昔の鉄道と今のバスでの所要時間はほぼ同じである。

写真はJR北海道バス鷹泊待合所

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下鷹地域を歩いてみて思うこと

2020年09月13日 | Weblog

駅前通りの右手が下鷹地域である。国道沿いの並木が植えられた歩道を歩いてみる。舗装道路は立派だし、歩きやすい歩道であるが、いかんせん人がいない。数軒の人家があるだけで、○松さんの花卉栽培のビニールハウスが目立っていた。今の時期、外から見た限りでは花は咲いていなかった。

写真は○松さんの家のビニールハウス。

昨年開催された鷹泊ふるさと会の席上で、町内会長さんが、人がいなくなって「新聞配達をする人がいないのでやむなく配達業務を引き受けた」ようなお話をされていた。

昭和36年のデータで下鷹だけで世帯数33戸、人口151人であり、道路の両サイドに家がたちならんでいた。ここに大原商店(その後坂田商店)があって、牧野旅館があって、吉田薬屋さんがあってなどと昭和30年代を思い浮かべてみた。

写真右手前は鷹泊郵便局。郵便局は、位置的には中鷹に近いが、ぎりぎり下鷹に属する位置に存在している。隣に2軒ある以外は、見える範囲で右手に人家はない。左手の道は昔踏切があった方向へ向かう道

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 人が住まなくなると、道はなくなり自然に還る。

2020年09月10日 | Weblog

 駅前通りを境界線として、南鷹と下鷹に分かれていた。今も残っている農協倉庫(今はJA倉庫)の奥の方に宇佐見製材所兼製パン工場があった。倉庫横にしっかりとした車が通れる道がついていたが、さすがに数十年も経ってしまっていると(いつ廃業されたかはわからないが)、草木が生い茂り、道はなくなっている。

 当時は人の移動のほかに荷物輸送も鉄道がその多くを担っていたゆえ、駅前の右手にはマルつう(日通)があった。その場所にも家はなく草木が茂っていた。

 私の家も鷹泊の中で数回引っ越ししているが、駅前地域には4年ほど住んでいた。駅に近いことではいい場所だったが、そこもやはり草や木で覆い尽くされており、人の生活があった場所の名残はなかった。あれほど近所の子と遊び回って行き来した場所なのにと思うと感極まるものがあった。人が通らない状態が続くと、道は消滅して自然のなすがままになることを再確認させられた。

写真は昔から残っているJA倉庫であるが、建物の左手にあった道は草木に覆われている。

写真は昔住んだこともある場所の今。人家の痕跡すらない。

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